渡る世間は銘板

渡る世間は 真夜中の訪問者

 一流企業の寮は綺麗で広いと勘違いしている向きの方もいるが、歴史のある古い企業ほど、幽霊が出てもおかしくないようなボロボロの寮をたくさん抱えているものである。表向きは一流企業、その実態は極め付きのブラックともなると、平社員を人間としては見ていない。会社の社員寮もその見方に見合ったものとなる。

 緑ヶ丘の寮もその一つで、一連の長い廊下にうなぎの寝床を思わせる部屋のドアがずらりと並んでいる。その狭い一部屋に二人の人間が割り付けられる。まさに寝るためだけの部屋である。
 これでもまだ増しな方で、会社によっては一部屋に二段ベッドを二つ入れて四人部屋にしているところもある。社員をただの働きバチにしか思っていない証拠である。どれも名前を聞けばだれでも知っている大企業での話である。
 緑ヶ丘の寮は築年数は新しい方だったので、隙間風が入るとか、冬に暖房がないとか、備えている洗濯機がビリビリと放電しているとか、深夜残業して帰ると冬でも水のシャワーしかないとかは無かったと記憶している。だが問題が一つあった。部屋の狭さに加えて安眠を妨害するもう一つの要因があったことである。

 夜二時頃、深夜残業を終えた社員がようやく眠りにつき始める時間、いきなりドアが激しく叩かれる。
 こんな夜更けにどこのバカたれじゃ、ドタマにでっかい拳骨ばかましたる!
 激怒しながら布団から飛び出てドアを叩きつけるように開くと、そこには誰もいない。
 もちろん生きている人間の仕業なら、薄い壁を通して廊下を走る足音ぐらいは聞こえるから、何か別のものの仕業だとはすぐ判る。

「おかげで眠れやしねえ。幽霊が出るのはいいが、もうちょっと静かにしてくれんかな」
 別の寮の部屋で車座になって話をしていた男が愚痴をこぼす。
「それ、まだいい方だぞ」と話を聞いていた友人。「うちはもっと怖いのが出る」

 別の寮での話。これも深夜の頃、ドアがどんどんと大きく音を立てて叩かれる。
 こんな夜更けにいったい誰だ。ぶち殺してくれるわ!
 そう思いながらドアを開けると、隣の部屋に住んでいる男が酒臭い息をしながら立っている。
「すまん。オレの部屋の奴、もう寝ているらしくて、カギ開けてくんない。ちょっと通してくれよ」
 そう言うと、酔っぱらった足取りでずかずかと部屋に入って来た。奥の側で寝ている別の人間を大股にまたぐと、がらりと窓を開け放った。
「おい! 何をする! ここ四階だぞ!」慌てて止めた。
「知ってるよん。あいつ、夜は窓にカギかけないからな」
 酔っ払いには話が通じていない。
 窓とは言っても、ベランダがあるわけではない。窓の外はわずか十センチのコンクリの仕切りが飛び出ているだけだ。後はただの垂直の壁である。
「止めてくれ、お前が落ちて死んだら俺が始末書ものだ」
 必死に止めたが無駄だった。大丈夫大丈夫と言いながら、酔っ払いは窓の外に消えた。ふらふらしながらも壁にしがみつき、わずかな足場の上をカニ歩きで隣の窓まで進む。がらりと音を立てて窓を開けるとずりずりという感じで中に消えた。

「それ以来、毎週金曜の夜になると、うちの部屋を通るんだ。あいつ、次の週末には死ぬぞ」
 怖いな~、と皆でため息をついた。
「そう言えば、この階の廊下の奥の部屋、誰も住んでいないだろう。あれ、出るからだぞ」
 最後の一人が話を始めた。
「出る? 聞いたことないぞ」
「そりゃ、総務部の秘密だからな」

 ある夏の暑い日から、それは出始めた。中に住んでいた人間が逃げ出すまでにそうそう時間はかからなかった。寮の管理を行う部門はそれなりに手は打った。専門の業者に依頼もしたのだ。だが結局効果は表れず、ついにはその部屋に居住者を割り当てることを諦めることになった。
 総務部の一人が姑息な名案を思い付いた。地方から出張に来る人の短期宿泊場所にしてしまえば良い。出張者には悪いが出張費を削る役にも立つ。
 かくして密かにだが、大勢の犠牲者が出ることになった。その部屋に泊まった者は、次の日の朝に眠れぬ腫れぼったい目をして現れる。
 ダニである。
 あらゆる殺虫剤の攻撃をかい潜り、大発生したダニは宿泊者の全身を噛み、悲惨な結果を残した。

「幽霊と酔っ払いとダニの三つの内どれかを選ぶとしたらどれを選ぶ?」
 答の出ない問いだけが残った。