古縁流始末記銘板

三郎地獄廻り

 下禄の武士である草野三郎が修練を積む古縁流の修行には山籠もりがある。
 人の気の無い深山幽谷へと赴き、ひたすらに修行をするのだ。人の気が無いと言ってもそれは表向きの話であり、実際には人の眼がある。
 修験者たちである。
 どのような山の中にも修験者は入り込む。それこそが彼らの修行であるから。
 修験者とは基本的に覗き屋である。彼らが修する術や技の類は極端な秘密主義の下にある。だから新しい術や技は盗むことでしか得られない。
 天狗と語られる修験者たちは山の中を巡り、木々の中に溶け込み、岩と成りて気配を消し、風が吹くに合わせてその身を飛ばす。そうして他の修験者の修行を覗き見るのだ。運が良ければ他者が秘密にする技や術を手に入れることができるやもしれぬ。

 これは山に籠る剣術修行者に取っては困った問題である。奥義に達した剣術には多くの秘技がある。基本の技にほんのわずかな工夫を加えたものが実戦では初見殺しの技となる。だからこそ、技の秘密を見られるわけにはいかない。修行を覗き見られることはすなわち次の実戦での負けに繋がる。
 古縁流の流派ではこの他見を許さずの掟は非常に厳格に守られている。つまりは見た者を必ず殺すのである。
 この修験者の覗き見に対する三郎の師匠の対処は簡単なものであった。
 隠形の術をかけた修行者が隠れ潜んでいる木に近づき、無言の気合をかけた刀の峰で軽く木の幹を叩くのである。ただそれだけで、猫よりも身軽なはずの修験者が、受け身さえ取れずに木から落ちて来る。
 こうして面子を潰された修験者たちは師匠が修行に入った山には近づかなくなり、それから本格的な修行が始まることになる。

 山駆けは修行の基本である。朝に走り、昼に走り、夜に走る。ただし道の上を走るのではない。森の中、岩場、沼地、崖、そのすべてを道があろうが無かろうがお構いなしに駆け抜けるのである。
 もちろん平らな地面などどこにもない。岩の頭を蹴り、木の根をそのまま踏む。場合によっては木の幹から木の幹へと飛び移り、崖は指先の力だけでよじ登る。降りるときは受け身を取りながら転がり落ちるのである。
 立ち止まりでもしようものなら師匠に小枝でパシリとやられて、死ぬよりもひどいその痛みに地面を転げまわることになる。

 続いて手裏剣投げの術を鍛える。手裏剣を一本投げ、次は二本投げ、最後は八本を同時に投げる。さらにはどれも違う速度で投げ、続いて二本を重ねて投げ、最後には存在しない手裏剣を投げて相手を打ち抜く気走りの境地へと至る。
 もちろんこれも容易ではない。あまりの酷使に両腕は腫れあがり、高熱が出る。それを薬活で抑えながらまた修行を続けるのである。

 剣戟の修行もまた厳しい。古縁流では稽古に木刀ではなく鉄刀を使う。刀とは名がついているが要は単なる鉄の棒である。真剣よりも遥かに重いこの鉄刀を持って、一抱えもある大木を削り落とすのである。一本の大木を削り折るまでに最初は一週間を要したものが、最後は半刻も経たないうちに切り倒せるようになる。それでも師匠の技には遥かに及ぶものではない。

 滝行を終えた後は座禅を組まされる。気を抜くと、師匠の持つ警策代わりの小枝が飛んでくる。そのただの小枝が与えるほどの酷い痛みを三郎は他には知らぬ。一打ちされただけで全身を痛みが駆け回り地面を転がりのたうち回る。それでいて、アザの一つもできぬのであるから実に不思議である。

 山籠もりが半ばまで進んだ段階で最後の修行が用意された。
 それが独り籠りである。

「よく聞け、三郎」師匠は言った。
「これよりおヌシは一か月の独り籠りの修行に入る。内容は簡単だ。お主独りで更なる山奥に入り、そこで誰にも会わずに修行を続けるのだ」
「お師さま。この修行の意味は何でござりましょうや」
 三郎にはこの修行は余りにも簡単に思えた。
「古事に言う。仏に逢っては仏を斬り、鬼に逢っては鬼を斬る。それこそが修行者の心得。古縁の流派ではさらにこう続ける。友に逢っては友を斬り、師に逢っては師を斬る、とな。
 仲間がいるからと頼る心、友がいるからと頼る心。これらすべてが隙となる。
 剣の道を究めんとするならば、己以外はすべて敵と思え。己れただ一人の修羅となれ。そうでなくては道は成らぬ。その極意を掴むのがこの独り籠りなのだ」
 師匠の言葉が判らぬながらも、師匠の命ずるまま、更なる深山へと三郎は独り籠りに送り出された。



 修業に良さそうな場所を見つけるのに半日、急ごしらえの寝場所を作り、道々捕まえておいたウサギを捌いて炙る。
 匂いにつられて熊でも出てはくれぬかと期待したが、それは出なかった。熊の一匹も出てくれればしばらくは食料の心配をしなくて済むものを。そう三郎は舌打ちした。
 もっとも古縁流の修行が行われている場所には熊は出ぬ。熊は賢いため、早々に逃げ出してしまうのである。

 翌日からは真面目に修行に取り組んだ。山駆けから始まって同じ修行を繰り返す。最初は楽に思えた。むしろ座禅の時に師匠の警策が飛んでこないだけマシとも考えた。あの痛みは人の心を壊す痛みだ。三郎はそう思っていた。
 だが、夜の独り寝は寂しかった。粗末な寝床の中で星を見つめながら眠りにつくとき、どうしても人の言葉を求めている自分に気が付いた。

 一週間が過ぎると、山の中から自分を呼んでいる声が聞こえてくるような気がし始めた。これに耐えるのが独り籠りの修行かと一人で合点した。
 三郎には暗闇に対する恐れはなかった。いや、暗闇どころか大概のものに恐れを抱くことがなかった。もしかしたら俺は頭の中の何か大事なものが欠けているのかもしれんと、常々三郎は思っていた。

 二週間目になると本物の人の声が聞きたくて聞きたくて堪らなくなった。このまま山を降りることも考えた。もちろん師匠には怒られるだろうが、今はその怒鳴り声でさえも聞きたいと思った。

 そんなとき、三郎の寝床に一匹のネズミが棲みついた。自分の食い残しに集まって来たのかと思った。
 ネズミは人を恐れるものだと思っていたがそうでもないらしい。それとも山に棲むネズミはこういうものなのだろうか。三郎には判別がつかなかった。
 山の中を駆けるついでに、ネズミが好みそうな木の実を取ってきた。人が食える木の実ならネズミも食べられるはずとの考えである。三郎が与えた木の実を警戒したのかネズミは食べようとはしなかったが、小さな手で木の実を転がす仕草は可愛らしかった。
 このネズミが三郎は好きになった。毎夜修行の後にネズミに話しかけるのが日課となり、これなら少しは寂しさも紛れるなと三郎は思った。久々に人語を喋って、自分が人の言葉を話しづらくなっていることに驚いた。
「そうだな。お前に名前をつけてやろう」
 木の葉を敷き詰めた寝床に転がりながら三郎が言った。
「俺の名から一文字取ってコサブではどうか?」
 もちろんネズミは三郎の言葉に答えなかったがそう決まった。
 やがてネズミは修行中の三郎の傍に常にいるようになった。挙句の果てには鉄刀を振るう三郎の頭の上に乗りまでした。鍛錬を積んだ武芸者の頭というものはどのような動きをしようがまっすぐに揺るぐことはない。ネズミがしがみつくには良い足がかりなのだ。

 そのうち三郎のネズミ好きは度を越し始めた。コサブが少しでも姿を消すと、修行を中断までして慌てて周囲を探すほどになった。山ほどの木の実に囲まれてコサブは幸せそうに見えた。
 いつの間にか夜毎に聞こえてきていた人間の声は聞こえなくなっていた。
 そうこうしている内に、残りの二週間はあっという間に過ぎ去り、下山の日となった。これで独り籠りの修行は終わりだ。

 少ない荷物をまとめると三郎は立ち上がった。コサブをつまみ上げると肩の上に乗せる。頭の上のほうが足場としては安定しているが、さすがに頭の上にネズミを乗せている姿を人には見られたくない。
 山のネズミが町で生きられるかは知らなかったが、何とかなるだろうと考えていた。
「さあ、帰るぞ」
 一言言うなり三郎は走り始めた。鍛え上げた足だけあってまるで飛鳥のような勢いだ。誰も足を踏み入れられぬ獣道をまるで平地のように駆け抜ける。
 しばらく走ってからふと気が付いた。肩の上に乗せていたはずのコサブがいない。慌てて来た道を戻ると、コサブはすぐに見つかった。道傍の岩の上にちょこんと載っている。
 コサブは三郎を見ると、岩の陰に走り込んだ。
「こら、どこへ行く」
 三郎が追いかけるとコサブはさらに奥へと走り込み、藪の中へと消えた。三郎が追う、コサブが逃げる。その繰り返しで気づいたときには三郎は大きな洞窟の前についていた。
「コサブ! コサブ!」三郎は呼ばわった。
 もちろん返事はない。洞窟の奥にちらりとネズミの尾が見えたような気がした。三郎は手持ちの道具を使って手早く即席のタイマツを作り上げると、意を決して洞窟へと飛び込んだ。
 少しだけ中に入ろう、駄目そうならコサブは諦めて引き返そう。そう思ったのは甘かった。逃げ回るコサブを捕まえて拾い上げたときにはすでに帰る道を見失っていた。
 しまったと思った。山に入る前に師匠に硬く言い含められていたことを今更ながらに思い出したのだ。この山の奥には黄泉へと通じる地獄穴と呼ばれる洞窟がある。その中は複雑に入り組んでおり入った者は二度と出てこれない。

 これがその地獄穴だ。


2)

 三郎は周囲を見渡した。
 どこも似たような岩穴のつながりで、どちらに行けばいいのかもわからない。
「さて、これは困ったぞ。コサブ。どちらに行けばいいのやら」
 それに応えてコサブは小さく鳴いた。三郎はあてどなく洞窟の中を歩き始めた。
 やがて前方にほの暗い青の光が見えてきた。行きついてみるとそれは大きな洞窟であった。天井を覆った何かがほの暗い青の光を放っている。洞窟の中には無数の背を丸めた人影があった。
 三郎のタイマツに照らされてその姿が明確になる。
 骨が浮き出るほどに痩せた体に丸く膨らんだ腹。ざんばらの髪にこけた頬。落ち窪んだ眼窩の中できょろきょろと動く突き出た目玉。
 餓鬼だ。
 三郎は鉄刀を抜き出した。餓鬼など絵草子の中でしか見たことがないが、確信があった。自分は今、いったいどこにいるのかと三郎は訝しんだ。
 三郎の動きに応じるかのように、地面にしがみついて石を齧っていた餓鬼たちが一斉に顔を上げ三郎を見つめた。

 一瞬の間があった。

 餓鬼たちは一斉に歌い始めた。

  お腹が空き候。
  お腹が好き候。
  何か食わしてくだされ。
  何か食わしてくだされ。

 餓鬼たちが群がって来た。
 三郎は荷物の中に手を入れて、木の実を一握り取り出した。コサブに食べさせようと取り貯めておいたものだ。それを思いっきり遠くへ放り投げる。わっと声をあげて、餓鬼たちが投げられた木の実に貪りつく。
 硬いものを噛む咀嚼音が周囲を満たす。だがそれもすぐに尽きた。
 またもや餓鬼たちが三郎を見つめる。その瞳が三郎の肩の上に載っているコサブに向けられる。その意図は明確だ。
「それが全部だ。コサブは食わせないぞ。俺の友だ」
 ふたたび餓鬼たちが歌い始めた。

  お腹が空き候。
  お腹が空き候。
  匂うぞ。匂う。食い物じゃ。
  匂うぞ。匂う。食い物じゃ。

 三郎はずた袋の底を攫った。以前に作っておいたウサギの干し肉が二枚出てきた。
 三郎が投げた肉に餓鬼たちが飛びつく。わずかな肉の断片を求めて、お互いの体を毟り合い、噛みつき合った。相手の口の中に手を突っ込み、食べかけの肉を引きずりだして自分が貪り食う。その繰り返し。
 やがて騒ぎが納まると餓鬼たちは三郎の方を向いた。

  お腹が空き候。
  お腹が空き候。
  この際、人の肉でもよか候。
  この際、人の肉でもよか候。

 餓鬼たちの包囲の輪がじりじりと狭まった。赤い口が開き、乱食い歯が剥き出しになる。
 ここに来て、三郎は鉄刀を大上段に振りかぶった。その体から強烈な気迫の炎が噴き出す。
「古縁流草野三郎。餓鬼の道には落ちぬ。我が進むは修羅の道なり」
 気合とともに斬撃を発し、餓鬼の群れに切り込んだ。
 悲鳴をあげて餓鬼の群れが一斉に逃げ出す。あっと言う間に洞窟は空っぽになった。
 荒い息をつきながら三郎は鉄刀を下した。その瞬間、コサブは三郎の肩から飛び降りると、別の洞窟に通じる穴へと飛び込んだ。

 しばらく躊躇った後に三郎はその穴へと進んだ。どのみち出口がどれか判らないなら、コサブに任せてみようと思ったのだ。



 何かでぬるぬるする洞穴を進んだ後、今度は河原らしき場所に出た。上空は薄ぼんやりした灯りがあり、洞窟にも関わらずに川が流れている。緑の草は一本も生えていない。
 地下に川か。三郎は訝しんだ。河原のあちらこちらに小さな姿がうずくまっている。またもや餓鬼かと身構えた三郎だったが、じきにそれが普通の子供たちだと気が付いた。
 自分が賽の河原と呼ばれる場所に居ることが判った。子供たちはひたすらに石を積んでいるのだ。
「おじさん、だれ?」子供の一人が石積みを中断して尋ねてきた。
「草野という。武士だ」
「鬼じゃないの?」
 子供は三郎の頭を見て言った。
「鬼じゃないよ」三郎は微笑んだ。「だから怖くない」
 だが本当にそうなのだろうか、とも心の内では思った。
 本当に俺は鬼ではないのか?
「石を積む遊びなのか?」三郎は尋ねた。どの子も同じことをしている。
「ううん。石を自分の頭よりも高く積み上げたらお家に帰れるの」
「そりゃいいな。おじさんも石を積んだらお家に帰れるかな」
「でも出来ないの。壊されるから。ほら、そろそろ来るよ」
「来るって何が?」
 そう三郎が問いかけたときだ、ざわりと遠くで何かが起きた。子供たちの悲鳴が広がる。
「鬼が来た!」

 現れたのは巨大な鬼であった。身の丈は普通の大人の倍はある。筋肉が盛り上がる裸の胸も顔もどれも赤い。頭の上に角が二本生えている。手にはお定まりの金棒を持っている。これも絵草子に出て来る鬼だ。ただしいわゆる褌だけは、虎の皮ではないただの布だった。
 鬼はその金棒で子供たちが積んだ石積みを崩し始めた。そのたびに子供たちの泣き声が大きくなる。
 中には自分の石積みを崩されまいと鬼に飛びつく子供もいたが、子供が大きな鬼に敵うわけもなく跳ね飛ばされた。地面に叩きつけられた子供が動かなくなるのを見て、三郎の体がかあっと熱くなった。
「許せん」
 三郎の体が怒りで膨らむ。鉄刀を振りかぶると鬼目掛けて突進した。
 金棒に鉄刀が激突すると、凄まじい火花が散った。ガンと伝わってきた強烈な衝撃に三郎の手がじんと痺れたが、無視した。
 いきなり攻撃されて赤鬼の側も慌てた。
「待て! 待て! 待て! どうして生者がここに居る」
「我にも判らぬ」
「これはお役目なのだ。邪魔をするな」
「子供が泣いておるならば、見捨ててはおかれぬ」
「親より先に死んだ子よ。罰を与えねばならぬ」
「子供とて好きで死んだわけではあるまい。事故で、病気で、飢えで死んだのであろう。子供に何の罪科がある?」
「聞き分けのない奴だ。それ以上お役目を邪魔するならこの金棒の錆にしてくれるぞ」
 赤鬼は怒鳴った。
 もちろん三郎は聞き分けるつもりなどなかった。そんなに聞き分けが良かったならば、そもそも古縁流などには入らない。強さを求めるということは、すなわち自分の意思を何が何でも押し通すということ。
「古縁流草野三郎。堂々と参る」
 三郎は鉄刀を振り上げた。それに合わせるかのように赤鬼も鉄棒を振り上げた。その瞬間、手裏剣が二本、鬼の眼へと飛んだ。古縁流、吊り飛鳥。こちらの刀の動きに釣られて相手の刀が動く隙に近距離から手裏剣が目を襲う。
 赤鬼には頭を振って避ける間もなかった。両目に手裏剣を突き立てて赤鬼が叫ぶ。
 その肩口から三郎の第二の斬撃が打ち込まれた。巨大な体が斜めに切り裂かれ、激しい血しぶきが飛ぶ。皮膚も筋肉も骨も内臓もすべてひとつにまとめて区別なく切断された。
 古縁流斬撃一の太刀、技の名前は断命。必殺の一撃であった。
 本来、鉄刀というものは木の刀を鉄の素材で作ったもの。もとから刃などついていない湾曲した鉄の棒でしかない。それでも古縁流の技の驚くべき速さで振られるとまるで刃物のように切れる。

 鬼が両断されると、それを見ていた子供たちが泣きながら三郎から逃げ出した。子供の目には三郎が鬼より恐ろしい存在に見えたのだ。

 修羅なれば。
 三郎は自分に言い聞かせた。元より感謝の言葉など期待はしていない。
 鬼の死体を越えてコサブが走った。たったいま鬼が来たばかりの洞窟へと駆け込む。
「出口はそこか」
 一声唸ると三郎はコサブの後を追った。



 今度辿り着いた洞窟は今までのものに比べると小さかった。いくつかの洞穴が繋がった分岐点のようにも見えた。ただこの洞窟にはひねこびた草が生えていた。草が生えているだけでも今までの場所よりマシに見えてしまう。
 驚いたことにその洞窟の中央には小さな茶屋が建っていた。
 茶屋の中を覗いてみる。見た目はまるで普通の町の茶屋だ。
 三郎に気づいて茶屋の中から一人の老婆が出て来た。頭の上に小さな角が突き出ていることからこれもまた鬼と思えた。
「おや、珍しい。お客さんかえ」
「ここは?」三郎は思わず尋ねてしまった。
「見ての通り茶屋じゃよ。ここを先に進めば焦熱。右に行けば衆合。左が等活へ繋がりますじゃ。皆ここで一息つきますでな。お前様、見たところ亡者でもなさそうじゃな。常無常かえ。まあ茶でも飲んでいきなされ」
「誠に申し訳ない。ただいま手元不如意にて」
「そうか、では久しぶりのお客ゆえ、ただで飲ませてやろうぞえ」
 止める間もなく、老婆は茶の注がれた茶碗とお茶菓子を持ち出してきた。
 茶は冷えていた。この世界には熱い茶というものがそもないのかもしれない。そう思いながら三郎は一つ礼を述べると、お茶菓子に手を伸ばした。それは何かの餅のように思えた。一部をちぎり取り、コサブに差し出す。
「ほら、コサブ、お食べ」
 コサブは食べなかった。匂いを嗅ぐ様子は見せるが決して口をつけようとはしない。コサブに食べさせるために集めた木の実も餓鬼たちにやってしまったから、三郎は他に何も持っていない。
 そこで三郎ははっとした。
「どうしたえ? 口に合わないかえ?」
 いつの間にか横に来ていた老婆が言う。
「ヨモツヘグイ」三郎は言った。
 老婆の顔が歪んだ。口の端から牙が覗く。

 ヨモツヘグイ、黄泉戸喫とは黄泉の国の食物のことである。それを口にした者は二度と現世には戻れなくなる。

「うるさい。あんたは黙ってそれを食えばいいんだよ」
 老婆の手の爪が長く伸びた。髪が逆立ち、目がぎょろりと大きく開く。
「断る」
 三郎は鉄刀を振り上げた。
 気合と共にそれを振り下ろす。

 風が吹いた。

 三郎は洞窟の中にただ一人、立ちすくんでいた。茶屋も老婆の姿も影も形もない。足元には何かの動物の糞が転がっていた。その周囲にぷんと臭う尿がまき散らされている。これがお茶とお茶菓子の正体か。

 そうか、地獄は獲物を逃がす気はないのだ、と三郎は理解した。

 その後も、当て所もなく三郎は洞窟から洞窟へと渡り歩いた。
 燃え盛る炎が見渡す限りの洞窟を満たしている場所は余りの熱さに近づくこともできなかった。その炎の山の先に終わりがあるのかどうかも分からなかった。
 凍り付いた氷がすべてを覆っている場所は洞窟の入口で引き返した。その中で凍り付けば逃れること叶わぬと直感が告げていた。
 多くの鬼が何やら忙しく働いている場所もあった。磔にされた人間に何かをしているのだと知って、これも慌てて来た道を戻った。
 困ったことに三郎は空腹を覚えて来た。例え本物の食べ物を見つけたにしても、地獄の食べ物は食べることができない。ヨモツヘグイを食べれば現世に帰れなくなる。
 だがこのままでは三郎は空腹と疲労で倒れてしまうだろう。
 まさかコサブを食べるわけにはいかないし、これは困ったことになったぞ。三郎は焦った。



 困り切ったときに、三郎の眼前に小さな人影が現れた。
 錫杖を持った坊主頭の人間だ。この地獄に似つかわしくない微笑みを浮かべている。
「其方や」人影は話しかけて来た。
「あなたは誰です」
「地蔵菩薩と人は呼びます」
 意識することもなく、三郎の膝が崩れ落ちた。地蔵菩薩の前に正座してしまう。三郎にしても初めての経験であった。
 地蔵菩薩は仏の中で唯一地獄を歩くことができる仏だ。
 コサブはどこかに消えてしまった。
「子供たちに頼まれて、其方を探していたのです。鬼を斬りましたね」
 その言葉に三郎は深々と頭を下げてしまった。
「子供たちが苦しむ様を見ていられなかったのです」
「それはまた優しいことです」
「それがし、侍としては失格だと思っています」
 三郎は地蔵菩薩の前に姿勢を正した。
「地蔵菩薩さまに申し上げます」
「何事でしょう?」
「あの子供たちを極楽へ連れて行っていただけないでしょうか」
 しばし沈黙を挟んだ後に、地蔵菩薩は答えた。
「そうしたいところですがそれは出来ないのです。彼らはそれなりの理由があって罰を受けているのです」
「親より先に死んだことに罰があるというのですか」
「聞きなさい。草野三郎」
 地蔵菩薩の声が厳しくなった。
「人は古の縁により、今を生きます。そして今を生きることにより先の世の縁を作ります。あれは罰であって、また同時に罰ではないのですよ。信じてください。あの子たちが必ず幸せになるように我々は考えているのです」
 地蔵菩薩は優しい笑みをさらに深くした。
「良い心がけです。三郎。これより私の言うことをよく聞きなさい。そうすれば現世に戻ることができましょう」
「出られるのですか!?」
 三郎の声に希望が籠った。
「確実ではありません。其方は修羅の道を歩むにより、この地獄を見せられることになったのです。ここはまだ地獄の入口。其方が今まで見てきたのはいわば地獄の表に浮かんだ灰汁のようなもの。この先にはもっと深い地獄が待っています」
「それがし、ただ現世に帰りたいだけです」
「聞きなさい。あそこに見えるあの洞窟。分かりますか?」
 地蔵菩薩が示したのは目立たない暗い洞穴だった。
「あの先へ行きなさい。そこで貴方は裁きを受けるのです。それで決着がつけば現世に帰ることができるでしょう」
「まことですか! 何とお礼を申し上げればよいのやら」三郎は頭を下げた。
「まだ助かったわけではありません。そこでそなたはあるものを失うことになります。それが助かるための条件です。私が言えるのはここまでです。さあお行きなさい」
 三郎が頭を上げたときには地蔵菩薩の姿は消えていた。どこかで錫杖の鳴る音が微かに聞こえる。
 コサブが走り寄って来た。三郎はコサブを持ち上げて肩に載せると、示された洞穴へと足を踏み入れた。


3)

 今度の洞穴は長かった。警戒しつつも三郎は歩き続けた。やがて前方に光が見えてきた。明るい光だ。何やら人の声まで聞こえてきた。今度こそ外だ。
 心の中に喜びが溢れるにつれ、三郎の足が早まる。

 光の中に飛び出て三郎は目が眩んだ。
 そこは大きな建物の中だった。巨大な文机が置かれ、いくつもおかれた灯りにより部屋全体が照らされている。書類が山積みされた文机の前に座っているのは髭面の大男であった。その周囲を幾人かの人間と、先に見たものより大きな赤鬼が固め、さらに武装した青や黒の鬼まで並んでいた。
 それら全員が突然踏み込んできた三郎を睨みつけた。

「我が法廷を乱すこの者は何者か」髭面の大男、閻魔大王が責めた。
「古縁流草野三郎」間髪を入れずに三郎は答えた。
 閻魔大王から放たれた怒気に反応して、思わず鉄刀を晴眼に構えてしまった。
「ここを閻魔の法廷と知っての狼藉か」
「知らぬ。ここに来たのも偶然ならば、どこに行くべきかも知らぬ。されど」
「されど?」
「仏に逢っては仏を斬り、鬼に逢っては鬼を斬る。そう教えられた」
「修羅の道者か。待て。流派名は何だと言った?」
 閻魔大王が椅子から腰を浮かした。
「いにしえ・えにし」
「待て。待て。待て」
 閻魔大王が片手を広げて突き出した。まるで三郎との間に何かを置きたがるかのように。
「まさか、まさか、まさか。おぬしの師匠は本間と言わないか」
「お師さまは古縁流第二十八代本間宗一郎と申す」
 さあっと閻魔大王の顔が青くなった。
「な、な、な。ワシは約束は守っておるぞ。牛頭も馬頭も勝手なことはさせておらぬ」
 閻魔大王は隣に控えていた細身黒衣の文官鬼に向かうと言った。
「ただちに牛頭と馬頭をここに呼べ」
「牛頭様は叫喚に出かけております。馬頭様は餓鬼総所におられるはずです」
「呼んで来い!」
 目の前で行われるこの大騒ぎに三郎は呆気に取られていた。
 この閻魔大王はお師さまの知り合いなのか?
 三郎は尋ねてみようとしたが、その度に閻魔大王はいましばしお待ちくだされと言って三郎の言葉を遮った。
 じきにドタドタと足音がして頭が馬のこれも大鬼が部屋に飛び込んできた。
「おう。馬頭来たか。一つ聞く。最近現世に出かけたか?」
「出ておりませぬが」馬頭と呼ばれた大鬼が答えた。
「牛頭は分からぬが、馬頭は何もしておりませぬ」閻魔大王が三郎に言った。
「何か勘違いしておりませぬか。それがし、たまたまここに迷いこんだだけで」
「なに!」閻魔大王の目が見開かれた。
「帰る方法さえ分かればただちに引き上げます」
「ええい。ワシの勘違いか」閻魔大王が自分の髭を搔きむしった。
 そこで馬頭が割って入った。
「この者は何者?」
「古縁流の草野というものだ」
「なに! いにしえ・えにしだと!」今度は馬頭が目を剥いた。
「ええい。事をややこしくするな。三郎とやら、現世への出口はそちらだ。さっさと去るがよい」
 閻魔大王が示した先には三つの扉があった。
「なりませぬ」慌てて馬頭が止めた。「ここに来た者を簡単に帰しては冥界の掟が軽んじられることになります」
「えい、馬頭。何を言っている。ではどうしろと言うのだ」
 閻魔大王はぶるっと体を震わせた。地獄の判官がいったい何に怯えているのかと三郎は不思議に思った。
 馬頭はじっと三郎を見つめた。その目が三郎の肩の上のコサブに留まると微かに目を細めてつぶやいた。
「ネズミか」
 閻魔大王の制止の言葉を無視して馬頭は続けた。
「草野とやら、その扉の内、一つを選ぶがよい。
 一つは地獄へ、一つは現世へ、そしてもう一つは極楽へと通ずる。ただし修羅道を行くお前には極楽への扉は開かれぬ。
 選ぶがよい。現世への扉を開けばお前は地上に戻れるだろう。もし地獄への扉を開いたならばそれもお主の定め」
 これには閻魔大王も押し黙った。恐らくは地獄の理法に適った申し出なのだろう。
 しばし躊躇った後、三郎は扉へと歩み寄った。
 閻魔大王の横に置いてある姿見にちらりと何かが映り、その瞬間、恐れを知らぬ三郎でさえ、後ろに飛び退いた。
「何を驚いておる? それは浄玻璃の鏡。今映ったのは修羅となったお主の本性ぞ。自分の本当の姿を見て驚くものがあるか」馬頭が指摘した。
「今のが俺の本性」三郎は愕然とした。
「そうだ、お前の真の姿だ。いまちらりと映ったぞ。なんとお主、我が配下の鬼を斬りおったな。いずれその責は受けることとなろう。だが今は、さあ、そのネズミを連れて、さっさと行け。我らは忙しい」
 馬頭が促した。
 三郎は目を瞑って、鏡の前は走り抜けた。だが扉の前にて三郎は迷った。扉はどれも同じに見える。
 ネズミのコサブが三郎の前に出ると、一番左の扉の前でちゅうと鳴いた。
「その扉だと言うのか。コサブ」
 三郎は扉に手をかけた。そして一瞬躊躇った。コサブがもし間違えていたら自分はこのまま地獄に住まうことになる。
 それは御免被りたかった。
 だがコサブが言うのだ。信じるほかないだろう。なにせコサブはここまで自分を導いて来てくれたのだ。

 その判断に疑う理由はない・・?

 何かがおかしい。三郎は固まった。
 先ほどちらりと見えた鏡の中に映った己の姿、一つはたしかに三郎だ。手に血まみれの鉄刀を持っていた。だがもう一つ映っていたのは何の姿だ。三郎より小さいが、やはり禍々しいその姿。あの殺した赤鬼がここまで憑いてきたのだろうか。

 そもそもこの怪奇の発端は何だ?
 三郎は記憶を探った。山を降りるまでは何ともなかった。
 帰る途中、地獄穴に入る羽目になった原因は?

「何をぐずぐずしておる」閻魔大王の叱責が飛んだ。
「仏に逢っては仏を斬り、鬼に逢っては鬼を斬る」三郎はつぶやいた。
 独り籠り。一人にて修行せねば分からぬことがある。
 例えば、仲間への依存心。それがどれほど剣士を弱くするのか。師匠に教えられたことがある。
 例えば、情に流され真実を見失うこと。

 では今の自分は何だ?
 ネズミの判断に自分の運命を任せて疑いもしない自分は?

 だが、コサブは友だ。ただのネズミではあるが大事な友だ。手のひら一杯の木の実を取ってやった。
 自分の肩の上で遊ぶコサブ。
 自分の寝ている回りで遊ぶコサブ。
 木の実を転がして遊ぶコサブ。
 いつまでも自分の話をおとなしく聞いていたコサブ。

 何かが引っかかった。もう一度コサブとの記憶を浚う。やがてその違和感の正体が見えて来た。

 おかしい。
 まさか。
 いや、違う。
 だが。
 もしや。
 そうか。
 しかし。
 嘘だ!

 様々な考えが頭の中を廻った。だが最後に一つの事実だけが残った。
 三郎の心に理解の光が訪れた。一瞬の迷いも、耐え難い悲しさも、一陣の剣の心の前に吹き飛んだ。
 湧き出たのは怪鳥の叫びであった。気合一閃、鉄刀が空を裂き、コサブを打ち抜いた。その体が真っ二つになり、宙を舞う。床に落ちたネズミの断片は乾いた音を立てて床に転がった。
「友に逢っては友を斬る」三郎は言葉を完成させた。その言葉と共に一滴の涙が頬から零れ落ちる。
「許せ。コサブ。すべてはお前が来て以来始まった」
 それに・・と続けた。
「それがしはただの一度もコサブが何かを食べている姿を見たことがない」
 二週間の間、有り余る木の実に囲まれていて、ただの一度も。
 本当にただのネズミならばそれだけの間ずっと飯を食わぬなどあり得ない。

 三郎は床からコサブの断片を拾い上げた。手の中にあるのは肉の感触ではない。それは二つに割れた木彫りのネズミであった。表面に何かの文字が書き込まれている。
「やはり怪しの物であったか」
 三郎はコサブが示した扉を無視して、真ん中の扉へと進んだ。その扉は静かに開き、その先にある底知れぬ闇を見せた。

 三郎は躊躇うことなく、その闇の中へと歩みを進めた。
 もしコサブが選んだ扉が正しく現世の扉だとして、こちらが地獄への扉だとしても、友を殺した自分には相応しいと思った。


4)

「というようなことがありました」三郎は言葉を終わらせた。
 今まで静かに目を閉じて三郎の話を聞いていた師匠に初めて動きがあった。手を伸ばして茶碗をとると、すっかりと冷えた茶を啜る。
「そのネズミの木彫りは今持っておるのか?」
「ここに」三郎は割れた木彫りを差し出した。
 師匠は三郎から受け取った木彫りをちらりと見てから、それを囲炉裏の火にくべた。毛が焼ける臭いが立ち上った。
「呪物じゃ。マジモノじゃ。三郎、そなた、修験者どもに揶揄われたのだよ。いつもワシに木立から落とされるので、仕返しのつもりだったのだろう」
「お師さま。それがしが廻って来た地獄、あれは幻だったのでしょうか?」
「夢と思えば夢、現と思えば現」それだけを師匠は言った。
「にしても修験者ども。イタズラにしては程を知らぬ」三郎は憤った。
 あやうく地獄へ落とされるところだったのだ。たとえそれが幻であったにしても、苦痛だけは本物に違いない。あのまま地獄への扉を開いていたら、今頃どうなっていたことか。心を失い、生涯を腑抜けとして生きることになっていたやも知れぬ。

「捨ておけ。このような形で術が破られた上に、巻き添えを食らって地獄の鬼まで殺されておるのだ。術をかけた者もただでは済まされぬ」
 師匠はもう一口茶を啜った。
「それよりも、三郎。良い修行になったな。己の信じるままに、躊躇うことなく剣を振る。それこそが独り籠りの極意なのだ。
 仏が邪魔をするならば仏を斬り、鬼が邪魔をするならば鬼を斬る。友が邪魔をするならば友を斬る。そして師が邪魔をするならば師を斬る。
 何があろうとも、決して己の信念だけは曲げてはならぬ。それこそが古縁流」
「相手がお師さまでも斬るのですか」
「相手がワシであってもだ」

 しばし、三郎、黙して語らずであった。