古縁流始末記銘板

剣聖

1)

 古縁流は強さのみを求める剣術である。そのためにこの太平の世では出世の役には立たないどころか、むしろ妨げになるという悲しい宿命を負っている。その技を表に出せば間違いなく卑怯な剣術と呼ばれることになる。またその実態も徹底した秘密主義で、使う剣技すら誰も見たことのないものばかりである。

 これはつまりは古縁流では門弟を集めることができないことを意味している。
 生活を成り立たせるために、古縁流に属するものは剣術のほかに何らかの収入源を必要とする。
 例えば草野三郎は微禄とは言え、一応は武家の跡継ぎである。本間師匠はときどきだが知り合いの商家の用心棒をやっているし、さらには弟子にも言わない秘密の仕事を抱えているようでもある。

 では三郎の兄弟子にあたる加藤兵庫之介はと言えばどうだろうか。
 加藤家はすでにきちんと嫡男が継いでおりそれも微禄であったがゆえ、次男坊である兵庫之介は無駄飯食いにさえなれなかった。武士ではあるが武士ではないのである。
 飢え死にしたくなければ、何か働き口を見つけるしかない。武士を辞めて町人になるのだ。
 ところが兵庫之介はその性格ゆえ、町人になることはできなかった。どこの職人に弟子入りしても、三日ともたず喧嘩をして、最後には大勢の怪我人を出して終わることになる。とうとう口入屋も呆れ果て、兵庫之介を門前払いするようになってしまった。そうなれば裏の世界で生きるしかないのが実情である。
 そうして悪い連中の仲間になって、盗みから始まり恐喝強盗などを行った。多少は剣術の腕もあったので仲間内では重宝されたのだが、その内にある儲け話が転がり込んできた。
 なんと賭場荒らしである。寺院の中で密かに開かれていた隠れ賭場を襲ったのである。丁半と賽子を転がしているところに飛び込んで、中の全員を木刀で叩きのめし、帳場の金を盗って逃げるのである。
 これはうまくいったが、問題はそれが他の組による嫌がらせという裏があったことである。
 両方の親分さんたちが手打ちをした際に、賭場荒らしの実行犯を見せしめに殺そうという話になり、下手人の身元がばらされたのである。
 大騒動の挙句、兵庫之介は捕まり、さんざん殴られた挙句に厳重にす巻きにされて川に投げ込まれかけたところで、師匠に救われたのである。
 実は師匠はその筋の人間には鬼のように恐れられている。今までさんざ揉めて、その度に組の全員が両手両足を折られて終わったり、親分が師匠に攫われて脅されたり、組の建物が丸ごとぶった切られたりと恐ろしいことになっていたからである。少なくとも兵庫之介はそう聞いたし、師匠も別に否定はしなかった。
 それ以来、兵庫之介は師匠には頭が上がらなくなっている。古縁流を抜ければその瞬間から、兵庫之介は師匠の庇護の下から離れることになる。それはつまり関東を治める親分衆が兵庫之介を再び狙うということである。

 そして話は今に至る。

 古縁流に入って強くなった後に、兵庫之介が見つけた稼ぎ口は道場破りであった。
 城下町には剣術道場が多数存在する。武士の子弟を受け持つ道場もあれば、町人にも教える道場もある。町人にとっては剣術は一種の武士を気取るための遊びであり、遊民たる武士に取ってはただの暇つぶしであった。
 この時代、本気で剣を極めようとする道場はわずかだ。
 そこが兵庫之介の付け目だ。
 門弟の多そうな剣術道場を見つけるとその門戸を叩く。武者修行中の浪人にござる、一手御指南をと申し込む。

 最初は門弟数人と腕比べをして、次に師範代を倒す。その辺りで道場主がこれは見事なお点前、それがしとの立ち合いの前に粗茶でも一服馳走しましょうと奥に呼び、そっと袖の下を渡す。それから再び道場に舞い戻り、道場主との立ち合いで見事に負けてみせる。これは参った何たるお点前、とてもとてもそれがしの及ぶところにござらぬ。とまあこれで一件落着。痣かたん瘤一つと引き換えに、懐の中には金子がたんまりという仕組みである。

 もちろん、これができるためにはそもそも相当な剣の腕前がなくてはならぬ。
 特にたんまりと金を持っていそうな大きな剣術道場ではいずれ劣らぬ腕の剣士がずらりと控えている。だから下手な腕前で道場破りをやろうものなら、忽ちにして道場の床に打ち据えられ、手足の一本二本は折られて終わることになる。
 さらには道場によっては道場破りどころか、余所者と見るや最初から道場門下生総出で袋叩きにかけるところもある。合言葉は、生かして帰すな、である。
 その時道場に詰めている人数や見物人の有無、道場の格式や背後関係までを考慮せねばうまく行かないのが道場破りというものである。
 その点、兵庫之介の才覚と腕前ならば十分であった。実のところ、今まで道場破りに失敗したことはない。兵庫之介はこの点で勘の良い男であった。
 兵庫之介は道場破りの際に敢えて古縁流とは名乗らない。下手に流派を名乗ってそれが廻り廻って師匠の耳にでも入ろうものならば、どんな恐ろしいことが起きるやもしれぬ。それだけは御免被りたいと兵庫之介は思っていた。

 もし古縁流と知れてその技はこうだよとでも噂に上ろうものなら、あの師匠のことだ。技の秘密を守るために兵庫之介が今まで訪れた道場を廻って出会った人間をすべて口封じしかねない。兵庫之介はそう睨んでいた。
 師匠は決して自ら暴力を選ぶような人間ではない。親分衆とのか確執もすべて親分衆からのちょっかいから始まっている。だがそれでも、古縁流のためならば何事も躊躇うことがないという恐ろしい面を持っている。古縁流を守ること。それが師匠の信念であり、また師匠はそれができるだけの十分な力を持っている。
 座禅行の際に師匠が警策代わりに持つあの柳の小枝。以前に師匠があれを土塀に向けて当てたのを見たことがある。小枝が触れたところから土塀は崩れ、中の竹の骨まで悉く砕けていた。それでいて柳の小枝についている葉っぱは一枚たりとも傷ついてはいなかった。いったいどうやればあんなことができるのか、兵庫之介には見当すらつかなかった。
 あれで師匠が戦国大太刀を持って戦えばどうなるだろう。それは見てみたいような気もするし、決して見るべきではないとも感じていた。見れば兵庫之介が持っているあらゆる常識が一からひっくり返ってしまうだろう。

 道場破りの際に兵庫之介が名乗る流派の名前は適当にでっち上げたものだし、古縁流と分かる技も使わない。手裏剣は封印し、斬撃も工夫のない単純なものだけを使うようにしていた。
 それでも兵庫之介の道場破りは圧倒的に強かった。
 使うのは手裏剣術の気走り。心の中で想った手裏剣を実際に投げたのと同じように投げる。すると凝った気の塊が本物の手裏剣の代わりに飛ぶ。これが額に当たると、普通の人間ならば一瞬だけ意識が刈り込まれる。その隙をついて切り込むのである。
 兵庫之介が今までに破った道場では、この気走りに大概の剣士はころりとかかった。傍から見ていると兵庫之介がするすると近づいてポンと木刀で相手を叩いているようにしか見えない。実際に対面している相手には兵庫之介が瞬時にして距離を詰め、打ち込んできているように見える。気づいたときはすでに一本取られているのだ。
 古縁流では気走りは手裏剣修行が境涯を越えた印とは考えられていたが、実戦では役に立たない児戯であると教えていた。
 なぜなら気走りは、張り詰めた気を持つ者、つまりは死を見据えて戦う人間にはまったく効かぬからだ。体の周りに吹き出る鬼気により実体の無い気の塊りは簡単に弾かれてしまう。
 つまるところ、この剣術道場の剣士たちは自分の死すら覚悟せずに試合に臨んでいるのだ。兵庫之介はそう断じていた。
 どうしてこういった腑抜けどもが大事に用いられ、俺のような強者が寄る辺なき生き様となるのか。その不満は兵庫之介に重くのしかかっていた。
 剣をとれば、師匠以外に俺より強い者はこの世にいないのだ。その自負だけが兵庫之介の支えであった。
 この太平の世の中で本物の武士は師匠とその弟子である俺と三郎だけだとそう信じているのだ。



 その日、行き会った剣術道場は街道から離れたところにある寂れた道場であった。ここを破ってもいくらの金にもなるまいと見てとったが、物は試しである。何よりも昨夜の賭場での散財で懐には冷たい風が吹き込んでいる。ここで小遣い銭でも稼いで、酒を買って神社の裏手でこっそり飲むか。そんな算段であった。
 途中までは良かったんだ。途中までは。兵庫之介は昨夜の光景を思い浮かべた。思わぬツキに恵まれて、賭け札は膨れ上がった。それをここぞとばかりに大きく賭けて、すべて失ってしまった。
 丁が出るべきところに半が出てしまったときの、あの絶望感。
 負けた瞬間、ここで剣を奮って賭場の全員を切り殺し、金を奪って逃げようかとも考えたが、それを実行するほど無謀ではなく危ういところで自分を抑えたのだ。
 腕の問題ではない。今の兵庫之介に取っては賭場の用心棒含めてすべて切り殺すのは容易いだろう。だがそれをやれば、すぐに身元が割れる。そうなれば師匠や三郎ともお別れになる。
 いや、きっと、そんなことをすれば師匠が兵庫之介を殺すだろう。古縁流を辱めた者は生きてはいられない。
 ああ、くわばらくわばら。そうつぶやきながら、兵庫之介は道場の門を潜った。

「頼もう」勢いよく声をかけた。
 中に入ってみると意外に綺麗に片付いた道場であった。壁に数枚の弟子の名札がかかっていた。道場の上座には一人の着物姿の男が座っている。頭に何かの頭巾を被っていて、その陰となり顔が見えにくかった。
 疱瘡掻きが顔を隠すのは別に不思議ではないので、兵庫之介は気にしなかった。
「拙者、武者修行にて全国行脚しております。どうか一手御指南いただきたく」
 いつもの口上をすらすらと述べる。だが遣りにくい。道場主しか居らぬのだ。他に口上を聞く人間がいないと何だか気恥ずかしい。
「わかり申した」道場主がよく通る大声で答えた。「されど当道場の決まりにて、まず師範代との勝負を受けてもらうことになり申す」
「望むところです。では木剣にてお相手いたす」
「よしや」道場主は手を叩いた。
「悟空。悟空はいずこ」
 道場の裏手に通ずる扉から悟空と呼ばれたものが出てきた。
「さ、猿!?」
 思わず兵庫之介の口から言葉が漏れた。
 それは木刀を持った一匹の猿であった。人間の子供ほどの大きさで、手にした木刀が不釣り合いに大きく見える。
「これは何かの冗談か!」兵庫之介は怒鳴った。
 それに対する道場主の返事は落ち着いたものであった。
「冗談ではござらぬ。当道場の決まりにござる」
 猿は木刀を床に置くと、両手をついてペコリとお辞儀をした。

 うぬ。兵庫之介の全身に怒りが漲った。道場破りをするときには、色々な対応をされる。その中にはまた痩せ浪人が集りに来たぞという侮蔑の目を向けるところも少なくはない。だが猿をあてがわれたのは兵庫之介にしても初めての経験であった。
 ならば。兵庫之介は道場の壁にかけてあった木刀を握りしめた。この猿と望み通りに試合い、ズタボロの肉の塊に変えて道場主の眼前に突き付けてやろう。

「あいや、待たれい」道場主の声が飛んだ。
「武道とは礼に始まり礼に終わる。そなたまだ礼をしておらぬぞ。それとも何か?
 近頃の侍は相手に対する礼儀も知らぬのか」
 兵庫之介はさらにかあっとなった。理は確かに向こうにある。だが『その通りだから余計に腹が立ち』という川柳通りに怒りで目が眩んだ。だがそのまま相手に打ち掛かるのも恥ずかしいことなので、兵庫之介は一歩後ろに下がると答礼をした。
「参る」
 言うが早いか気を飛ばした。気走りである。兵庫之介の左手より傍目には見えない気の塊が猿の眉間に飛ぶ。同時に兵庫之介は手にした木刀で打ち掛かった。
 猿はその打撃をひらりと躱す。
 馬鹿な。兵庫之介はおもわずつぶやきかけ、それを慌てて飲み込んだ。
 気走りが効かない。それはつまりこの猿は死に臨む気概でこの勝負に対峙しているということ。
 むう。兵庫之介は木刀を握り直した。と、そこへ何かが飛来し、兵庫之介の額を打った。一瞬気が遠くなりかけたのを必死で堪える。
「馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な」今度は口に出してしまった。
 いま、相手の猿が使ったのは兵庫之介同様の気走りだ。それも兵庫之介のものよりも遥かに鋭い一投であった。

 揶揄われたのだ。
 この俺が。同じ技、それもより鋭い技で返された。お前の力などこの程度のものよと、猿に笑われたのだ。
 兵庫之介の目の前がさらなる怒りで真っ赤に染まった。
 殺す。絶対に殺す。全身をバラバラにして殺す。頭も体も見分けがつかないほど叩いて殺す。
 叫び声とともに兵庫之介は猿に飛び掛かった。


2)

 誰もいない古寺で兵庫之介は剣を振るっていた。

 頭には水に濡らした布を巻いてある。その布の下には大きなたん瘤ができていた。
 あの後、猿と打ち合うこと十数合。いや、打ち合いというのはおこがましい。兵庫之介の木刀は猿に掠りもしなかった。さんさん揶揄った後に、猿は手加減した一撃を兵庫之介の頭にお見舞いした。
 気を失う寸前の兵庫之介は這う這うの体で逃げてきたのだ。

 負けるぐらいなら逃げろとは師匠の言だった。
 常在戦場を唱える古縁流では逃げることは恥ではない。むしろ強敵を相手に踏みとどまって命を失うことを許さない。生き延びて、その後、再び敵に挑めばいいのだ。

 だが、これはあまりにも酷い。この大きなたん瘤が治まるまでにどう見ても三日はかかるだろう。その間は間違っても師匠のところには顔を出せない。
 師匠に今回の仕儀が知られたらいったいどんな目に合わされるか、それが兵庫之介には怖かった。人間が相手ならまだしも、猿に負けてしまったのだ。
 師匠に殺されるならまだ良い方だ。もしあの柳の小枝の警策で全身隈なく叩かれでもしたら激痛で気が狂ってしまう。
 このまま猿に負けたことは隠しておくという手もある。すべてを忘れて何食わぬ顔で生きていくのだ。幸いにして流派も名乗っておらねば、名前も名乗っていない。あの道場の近くに行きさえしなければ後はどうとでもなる。

 だが、心の内に燃え盛る炎だけは誤魔化せなかった。

 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 死ぬほどに悔しい。

 傷の痛みと相まって、昨夜は眠ることができなかった。自分より遥かに小さい猿に手玉に取られたことが悔しくて、自分の手足にでも食らいつきたい気分だった。
 一日経って、気持ちの整理がついた。
 何としてもあの猿を叩きのめさなくては、自分はこのまま駄目になる。
 遠く身分が届かないお偉い武士を見ても、あるいは想像もつかないような贅沢な生活をしている商人を見ても、兵庫之介が気おくれしないのは、いざ戦いになればどの人間も兵庫之介には敵わないという自負であった。
 その自負が今や根底から崩れ去ろうとしている。ひとたびこの自負が崩れれば、自分は自分でいられなくなる。いつも暗く俯いて地面を見つめているだけのそんな生き物に変じてしまうのだと直感が告げていた。
 ここが自分の人生の分岐点なのだと兵庫之介は理解していた。
 だが普通の技ではあの猿には遠く及ぼない。いったいどうのようにして仕込まれたのであろうか。あの猿の身のこなしは素早くそして恐ろしく正確だった。
 師匠には遠く及ばないとしても、兵庫之介の剣技は達人の域に達しているはずだった。その振るう剣は雲耀、つまりは稲光と競う速さである。対峙した相手が瞬きをしている間にその体を切り裂くことができる。それなのにあの猿はその剣を髪の毛一筋で躱す。それも軽やかに、まるで踊りでも踊っているかのように。
 さらにはあの猿の跳躍力は人間の比ではない。兵庫之介の頭の高さを軽々と飛び越えていた。木刀は片腕で操ってはいたが、その運針は一部の隙もないものだった。

 あの猿には普通の剣技では届かぬ。では古縁流の剣技ではどうか。兵庫之介はそう考えた。
 古縁流の剣技には初見殺しの技が多くある。初めて古縁流と戦う者にはまず勝ち目が無い所以である。
 兵庫之介はまだ免許皆伝を受けていないので、教えてもらった技はわずかだ。それらは皆伝お試し技という位置づけで、これらの技を問題なく習得できて初めて免許皆伝へと進むことができる。そういう話であった。
 実際には古縁流には四つの皆伝が存在する。初の皆伝、弐の皆伝、参の皆伝、終の皆伝である。皆伝を進むたびに技の威力は上がり、終の皆伝に至って幽玄の境地へと入る。兵庫之介はまだ未皆伝なのでこの辺りは説明されていない。皆伝前ならば古縁流を抜けることが許されているため、秘密のすべては開示されていないのだ。

 兵庫之介は上段から刀を振り下ろし、地につく寸前に刃を返して振り上げた。古縁流第三の太刀。
「紅蓮飛沫」
 兵庫之介は技の名を口にした。敵を絶命させた場合は死の旅に出る相手に敬意を表し、技名を告げよと師匠には教えられていた。その癖だ。
 紅蓮飛沫は振り下ろした太刀を地面に差し込み、振り上げることで砂や土を相手の顔にぶつける。戦国時代の剛刀を使う古縁流でのみ使える荒業だ。今の時代の薄くて軽い居合刀ならば接地した衝撃で刀が折れてしまう。誰かに見られれば卑怯とののしられること間違いない技だ。
 もちろん技の威力も絶大で、鍛え上げた膂力に任せて摺り上げる刃はうまくいなさねば人間の下半身を両断する。例えその斬撃を止めることができたとして、砂を浴びた目ではその後が続かぬ。
 だが紅蓮飛沫は足元が板張りの道場では使えぬ技だ。

 では「忍び食み」ではどうか。あの技ならば猿のような見切りのうまい剣士には絶大な効果がある。兵庫之介は考えた。
 だが一つ問題がある。古縁流の技を使う以上は、それを見た者はすべて絶命させる必要がある。猿はもとより、あの道場主も殺害しなくてはならない。
 でなければ師匠が代わりに皆殺しにするだろう。もちろん技の秘密を漏らした兵庫之介も一緒に始末される。

 大概の悪事をやってきた兵庫之介ではあるが、まだ殺人は行ったことがなかった。いまそれを覚悟しなくてはいけない。
 剣を振りながらも兵庫之介の心は揺れ動いていた。



 殺しの覚悟が決まるまでに一週間を要した。
 懐に手裏剣を隠して兵庫之介はふたたびあの道場を訪れた。ちらりと道場を覗き込んで道場主一人であることを確認する。道場主は相も変わらず道場の奥で律儀に姿勢を崩さずに座っている。他に誰もいないのは都合がよい。
 目撃者が増えれば増えた分だけ殺さないといけない人間が増える。

「頼もう」我知らず大声になってしまった。
「ほう。誰かと思えば、この間の武者修行者ではないか。もう打たれた傷は治ったのか」
「本日は、新しい一手を考えて参りました。なにとぞお手合わせを」
 兵庫之介はそう言いながら深々とお辞儀をしてみせた。その内心は殺意に満ちている。
「良き心がけかな。これ、悟空」道場主が手を叩く。
 その声に応えて、木刀を掲げた猿が奥から出てくると、ぺこりとお辞儀をしてから木刀を構えた。
 兵庫之介ももう一度礼をしてから立ち上がる。右手に持つは木刀、左手に持つは手裏剣。
「古縁流門下加藤兵庫之介。参る」
 一切の偽りなく名乗りを上げた。もう身元がばれても問題はないのだ。
 一見木刀に見える右手の刀は、漆を重ね塗りした鉄の刀だ。本来は腕力を鍛えるための古縁流の稽古刀だが、そのままでも恐るべき凶器となる。並みの刀でこの鉄刀を受けようものなら、そのまま刀は折れ、余す力で頭を割られる。
 左手の手裏剣もただの手裏剣ではない。秘技「忍び食み」が仕込んである。
「いざや」
 ずいと兵庫之介が前に出る。素早い足さばきで猿が後退した。兵庫之介との距離は縮んでいるようで縮んでいない。兵庫之介の鉄刀が脅すかのように突き出されるが、猿は動じない。
 気合と共に兵庫之介の鉄刀が打ち下ろされる。猿は横に体を開く。そこに返す刀が横に薙ぎ払われた。素早く猿が地面に体を伏せ、木刀を横に寝かして避ける。
 見事な見切り。最小の動きですべての攻撃を避ける。
 今だ!
 気合と共に兵庫之介の手から手裏剣が三本同時に飛んだ。初めて見せる手裏剣技である。

 繭を作る寸前の山蛾の幼虫を千切って酢に通すと透明で丈夫な糸になる。古縁流が代々養殖している特別な山蛾と特別な酢を使えば、細くてしかも丈夫な糸ができる。その糸は一本で大の大人の体重を優に支えることができる。
 その糸に小さな錘をつけて数本まとめて手裏剣の根本に結び付け、これを相手が躱せるぎりぎりのところに回転をつけて投げる。手裏剣が相手に近づくにつれて周囲に螺旋状に糸が広がる。
 相手は手裏剣を避けたと思った瞬間に、気づくと全身を糸に巻かれて動きを封じられる。そこを刀で好き放題に叩きのめすのだ。
 見切りが上手ければ上手いほど、この技にかかる。
 初見殺し「忍び食み」。古縁流の初の皆伝技は剣士というよりは忍者の技に近い。かかれば確実に死ぬ。

 気合と共に兵庫之介は突進したが、その途中で目を見張った。
 目の前に居たはずの猿がいない。
 手裏剣は空を切り、何もない空間に糸をまき散らして壁に突き刺さる。
 いつもはぎりぎりで見切るはずの猿が、今度ばかりは大きく跳んで兵庫之介の横に回っていた。
 その木刀が避けようもなく兵庫之介の頭を叩く。兵庫之介の目が衝撃に眩み、鼻の奥が鉄の臭いで満ちた。
「それまで」道場主の声が届くよりも先に兵庫之介は道場から逃げ出していた。



 さすがに今度ばかりは丈夫な兵庫之介も寝込んだ。
 古寺の隙間風の入る部屋の中でボロ布団に包まれながら、高熱を出して倒れ伏しているのだ。
 様子を見に来た弟弟子の三郎には、布団の中に潜り込んで顔も合わせなかった。質の悪い風邪を引き動けぬのだとだけ言って、三郎は追い返した。病になどなるは己の身の不徳と称して、一切の看病も断った。三郎が食い物を置いていったことには感謝したが、絶対にこの度の仕儀だけは師匠の耳に入れるわけにはいかなかった。
 だが三郎は素直で正直だ。口留めをした以上、師匠に余計なことは言わないだろう。そうも思っていた。師匠は無口な男だ。三郎から風邪だと一言だけ聞けばそれ以上は追及はしまい。
 弟弟子の三郎はまるでじゃれつく子犬のようだと兵庫之介は感じていた。素直なのは良いが、もっと邪気がないとこの世知辛い世間を渡ることはできまいと感じていた。その点はおいおい自分が教えてやるつもりだった。
 とりあえず師匠の問題はこれで済む。後はあの猿をどうやって倒すかだ。
 すでに道場破りや金の問題ではない。古縁流の技を見られてしまったのだ。口封じをしなければ兵庫之介の命が危ない。

 熱にうなされながらも、兵庫之介は考えていた。
 どうやってあの猿は『忍び食み』の技を見抜いたのだろう。修行の足らぬ者には目で見ることもできはしない速さの手裏剣、それについた透明な糸の動きに気付いたのか。いや、そうではない。それを見てから跳んだとしても避けることはできない。
 だとすると予め技を察知していたのか。だが古縁流の技は今まで外には漏れたことがない。万一漏れていたら、その技は古縁流の教えからは消えている。技が漏れるということは今回の兵庫之介のような負けを生み出すからだ。

 ではどうやって?

 傷が癒えるまでの時間のすべてを兵庫之介は前回今回で見た猿との闘いを思い出すのに費やした。憎い相手を目の前に浮かべるのは簡単だ。むしろ忘れようとしても忘れられるものではない。

 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 死ぬほど悔しい。
 狂おしいほど殺したい。
 叩き潰した相手の血肉の上で踊り狂いたい。

 あの猿の頭を打ち砕くまで、俺のこの苦しみは消えぬのだ。
 固く瞑った瞼の奥で光景は繰り返された。木刀が走る。猿が躱す。木刀が空を切り裂く。猿の木刀が受け流す。手裏剣が飛ぶ。猿がそれより早く大きく跳躍する。
 何度も、何度も、思い返した。
 どうしてあの猿はこれを避けられる?
 そのうち、一つの考えが頭をもたげた。あまりにも馬鹿馬鹿しい考えがだ。だが一度取りつかれると、その考えは頭を支配した。
 もう一度、猿の動きを思い返す。手裏剣がこう。木刀がこう。猿の目が、指の動きが、足の運びがこう。
 たしかにそうだ。間違いない。
 だがそんなことがあるものか。
 だがそれ以外にあり得ない。
 しかし余りにも馬鹿げている。

 だがそれ以外に答えは無かった。

 『覚』。深山幽谷に棲むという猿の化け物。その力は人の心を読む。


3)

 いかにしてこちらの心の中を読む怪物を倒すのか。
 これほどの難題に兵庫之介は初めて遭った。
 古縁流のどの技も予め読まれては威力は半減だ。特に初見殺しの技は全滅だ。剣の軌道も手裏剣の軌道も全て読まれる。あらかじめ仕込みが分かれば対処するのは難しくない。それに加えてあの猿の素早さを考え合わせるとほぼ無敵だ。
 もしや師匠ならば難なくあの猿を倒せるやもしれぬ。しかしここまでの醜態を晒してしまっては、今更師匠に相談できるわけもない。
 古い話の中では、山中で『覚』に出会った木こりは焚火を行い、その焚火の爆ぜた火が一つ、覚の目に飛び込んで難を逃れる。人間とは何をするのかわからないと言って覚は逃げる。
 ではその故事に倣って、相手の道場で焚火でもするか。道場の真ん中で焚火を始める自分の姿を頭に浮かべて、この状況下でも兵庫之介は笑ってしまった。あまりにも馬鹿らしい。
 では、あの道場に火をかけるというのはどうだろう。動物は火を恐れるというし、周囲がすべて猛火に包まれればあの猿にも隙ができるかもしれない。いや、無駄だ。猿はあっさりと逃げて、城下への放火犯として自分が訴えられるだけだ。そんなことになれば、放火の罪で死罪になるまでもない。古縁流の名を汚したとして、自分は師匠に殺されるだろう。
 鉄砲を使える人間を雇って、道場の外、どこか遠く離れた所から猿を撃ち殺してもらうというのはどうだ。いや、さすがにそれではもはや剣術の世界ではない。

 何か猿の弱点はないものか。
 兵庫之介は考え続けた。



「頼もう」やはり今度も大声になってしまった。
 そしてやはり道場の奥で微動だにもせずに道場主が答えた。
「またお主か。今度はずいぶん長くかかったな。よい一手が思い浮かんだか」
「此度はいささか自信がござる」
 兵庫之介は道場主の前にて深々とお辞儀をした。
「まあ、良かろう。だが今度でお主の挑戦は三度目になる。当方としてもいささか飽いてござる。此度負ければ命をもらうこととするが如何に?」
 兵庫之介に躊躇う理由はなかった。
「異存はありませぬ」
「良き心がけ。これ、悟空」
 その呼び声に応えて、奥から木刀を抱えた猿が出てきた。
 猿は兵庫之介の顔を見て、はっとなった。
「やはり心を読んでおったか」兵庫之介は立ち上がった。「古縁流一の弟子加藤兵庫之介。いざや化け物退治に参った」
 叫ぶなり、高く高く口笛を吹いた。それに応えて、吠え声と共に五匹の犬が駆け込んで来ると、猿を取り囲んだ。

 このために兵庫之介は野良犬を集めて調教したのだ。マタギに教わりながら、見込みのありそうな犬を訓練した。見込みのなさそうな犬は叩き殺して食い、残った犬は死ぬほど鍛えこんだ。本物の猿を使ってエサとなし、猿とみれば問答無用で噛み殺すように教えこんだ。
 剣士を殺すように特別に調教した。あらゆる剣さばきに対する対処を教え込み、剣士の動きの弱点を叩きこんだ。最後には兵庫之介でさえも手こずる狂犬の群れと化した。

「猿退治には犬と相場が決まっておる」叫ぶなり、兵庫之介は打ち掛かった。
 猿がそれを躱して飛ぶと、犬の一匹が飛びついた。空中で牙がかみ合わさり、あやうく猿が逃れる。その手の木刀が上がり一匹の犬に狙いを定めると、その姿勢のままに猿は後ろに飛んだ。今まで猿がいた空間を兵庫之介の手裏剣が薙ぐ。
「そう簡単にはやらせぬぞ」
「うぬ。卑怯なり」猿がつぶやいた。
「なんと言葉を使うのか。さすがは覚。化け物よ」
「化け物は貴様だ」猿が断じた。「剣士としての誇りなく、人としての矜持もない。ただ噛みつくばかりの狂犬が人の形を成しておる。これからは四つん這いで歩くがよい。それが貴様にはお似合いだ」
「ひどいことを言う」
 にやりと笑った兵庫之介が再び切り込んだ。
 左右に回り込んだ犬が猿の退路を断ったので、兵庫之介の鉄刀を猿はまともに木刀で受けてしまった。木刀が敢え無くへし折れる。手の中に残ったのは木刀の半分だけだ。
「さあ次の一撃をどう受ける?」兵庫之介が畳みかけた。
 この猿の危機にも道場主はぴくりとも動かなかった。
 じりじりと兵庫之介が猿との距離を詰める。猿も後ずさりするが背後の犬が吠えかかったのでその足が止まった。
 兵庫之介が短く口笛を吹くと、左右に二匹の犬が並んだ。
「さあお前たち、一斉にかかるぞ」
 鉄刀を大上段に構えた兵庫之介がとんと足を踏むと、一人と二匹が猿目掛けて踏み込んだ。
 空を切って必殺の鉄刀が振り下ろされる。猿がそれを避けて跳ぶ。だが今度は二匹の犬も教えられた通りに同時に襲い掛かっている。
 猿は身を躱そうとしたが、右足に犬の牙が食い込んだ。
「これで終わりよ」
 再び兵庫之介の斬撃が振り下ろされる。猿は斜めに身を躱すと、右足に食いついていた犬の頭を先の折れた木刀で叩き割って宙に跳んだ。そこに下から戻ってきた兵庫之介の鉄刀が食い込んだ。それをその身にまともに受けて、猿の体が真っ二つに千切れて飛ぶ。驚愕の表情を浮かべたまま猿は絶命した。

 兵庫之介の口から声が出た。
「秘剣紅蓮飛沫」
 犬たちが一斉に猿の死体に群がるとがつがつと食い始めた。
「これにて勝負はそれがしの勝ちにござる」
 背後で騒がしくしている犬たちのことは無視して、兵庫之介は道場主の前に正座した。
「では、今度こそ、それがしに一手ご教授を」
 相も変わらず道場主は微動だにしないし、今度は声も発さなかった。しばらく待った後、兵庫之介は立ち上がった。
「これ、主どの」
 道場主の肩に手をかけた。道場主の体が崩れ落ち、被り物が取れた。
「人形か」
 兵庫之介はそれだけ言うと、鉄刀を振るって人形を打ち砕き、この道場を後にした。