古縁流始末記銘板

死踏

1)

 第二十八代古縁流終の皆伝伝承者本間宗一郎は座敷で男と向かい合っていた。

 正面上座に座るは恰幅の良い商人風の男である。見た目通りに本通りにある大店の主で荷運びから米の販売や両替商まで実に手広く商売をしている男である。そのため巷では黄金長者と呼ばれていた。
 その綽名の理由は蔵の中に腐るほどに積まれている千両箱の山だとも言われているし、吉原でのお大人遊びで小判をばら撒くせいだとも言われている。もちろん裏では幕府や大名にも大金を貸し付けており、その裏の権勢はゆるぎないものであった。

「先生。わざわざお越しいただいて有難うございます」
 その黄金長者が師匠へ深々と頭を下げた。老中でさえも頭を下げる側だというのに。
「護衛の件、快く引き受けて下さって感謝しております」
「わざわざこのような老いぼれを呼ばずとも、用心棒なら山ほどいるであろうに」
 師匠はそう言うと、出された茶を手に取った。口をつける前に匂いを嗅ぎ、毒が仕込まれていないか確かめる。別に黄金長者を疑っているわけではない。単にいつもの習慣だというに過ぎない。
 旨い茶であった。静岡の茶畑で新芽を朝に摘んでそのまま乾燥させて仕上げたものだ。それを鮮度が落ちぬ内に早飛脚で運ばせ、南部鉄の鉄瓶で沸かした湯で入れる。すべては師匠に飲ませるための黄金長者の気配りであった。

 確かに黄金長者のこの本邸には、周囲に用心棒たちが幾人も見張りに立っている。黄金長者の身柄を攫って金に換えようという輩や、その邸宅を襲って金銀財宝を手にいれようという者は数知れぬ。そのほとんどが黄金長者の用心棒たちに人知れず始末されて今に至っている。

「たとえ百人の用心棒を揃えようとも、先生一人には敵いません」主は断言した。
「買いかぶり過ぎだ」と、師匠はいつもの如くに愛想が無い。「それよりもそこまで大事な届け物とは何じゃ」
「これで御座います」主は懐より木札を取り出した。
「南蛮よりの密輸船との取引に使う割符でございます。これ一つで数千両の価値があります。それよりも何よりもこれには私の信用が懸っております」
「そのようなこと、儂に漏らしてもよいのか」
 その言葉に主は微笑んだ。
「先生がこのようなことを他に漏らすわけもありません」
 主は手早く割符を布で巻くと、また懐に戻した。
「実はこのところ店の周りをおかしな輩が嗅ぎまわっておるようなのです。また逃げ足も速くこちらの手が届きませぬ。関わっている物がこういったものなので、こちらから騒ぎにするわけにもいきませぬ。恐らくは今日これよりの外出を狙って襲って来るのではないかと睨んでおります」
「ふむ。それらを始末するのだな」
「護衛を大勢連れていけば奴らは恐れてまたの機会を狙われます。ですが先生お一人のみ連れて行けば必ずや襲って参ります」
「このような老人一人が護衛ならばな。確かに襲撃は容易いであろう」
「先生の恐ろしさを知る者は少ないですから」主が相槌を入れた。
「そうか」
 師匠はまた茶を啜った。黄金長者の言葉を否定はしない。
「では参ろうか」



 中通りを通り過ぎ、武家屋敷が並ぶ地域へと入る。両岸に柳の木が植わった川の辺りに差し掛かったところで男たちに囲まれた。
 周囲に人影はない。武家屋敷と言っても普段はそれほど多人数が詰めているわけでもなく、多少の騒ぎでは屋敷の外に顔を出すことはない。そもそも町人たちの問題に武家は関与しないので、通りすがりの人間を襲うには絶好の場所である。
 男たちは総勢十人。いずれも古びた着物に手入れの悪い月代をした浪人風の男たちである。その中でも一番後ろにいる男だけは洒落た着流しを着ていた。こちらは他の浪人たちとは一線を画しており小奇麗にまとめている。これが首謀者と思えた。それに対してこちらは宗一郎師匠の他には黄金長者とお付きの丁稚小僧が一人だけである。
「黄金長者さんよ。その懐の中のものをこちらに寄越してもらおうか」
 男の一人がお決まりの口上を述べた。
「大人しく出せば痛めつける気は無え、とは言わねえ。どのみちそっちの爺いと一緒に死んでもらう」
 最初から顔を隠しもしないのはそういう目論見であった。黄金長者を襲った以上、報復は免れない。だがここで皆殺しにすれば、身元がばれることはない。
「せ、先生」長者が言った。
 そう呼ばれた師匠はと言うと、のんびりと柳の木に手を伸ばして小枝を一本折り取っているところであった。
「何してやがる。爺い」
 意気込んだ男の一人が怒鳴る。
「なに、お主ら相手には刀を使うほどでも無い。この小枝で相手をしてやろうと思っての」
 涼しい顔で師匠は答えた。

 儂の剣の技を見た者はすべて殺すことになっておる。だから儂が刀を抜いたときには目を瞑りその場を動いてはならぬ。そうして儂が良いと言うまでは決して目を開けてはならぬぞ。守らねば長者殿でも殺すことになる。

 長者はいつもそう言い聞かされていた。だがいま師匠が手にしているのは刀ではなくただの柳の小枝だ。目を瞑るべきかどうか、長者は迷った。
「目は瞑らなくてもよいぞ。これから見せるのはただの児戯だ」
 師匠は長者に声をかけると、手にした柳の小枝をひらひらさせる。
「なに、ほんの少しだけ、これで撫でてやるだけだ」
 師匠の言葉を聞いて男たちから殺気が噴き上がった。
「馬鹿にしやがって!」
 男の一人が刀を抜いて師匠に斬りかかった。本来は男の手にした刀の間合いである。ところがいつの間にか師匠の体が前に出ていてその間合いは無くなっていた。刀の間合いの内側に入られてしまえばこれを斬ることはできない。慌てて後ろに跳んだ男の体を、師匠が手にした小枝が優しいとさえ言える動きで撫でる。
 小枝が触れた場所から激痛が走った。それも男がこれまでの人生で味わったことがないほどの痛みだ。そしてそれはこれからの人生でもおそらく二度と味わうことがないほどの痛みであった。もしまた同じ苦痛を味わうと知ったら、躊躇わずに自害するほどの、それは意識の中で強烈に輝く苦痛であった。
 苦痛というものには皮を裂く苦痛と肉を断つ苦痛と骨を砕く苦痛の三つがある。だが、いま、男の体を駆け巡っている苦痛はそれらどれとも異なる、魂をすり潰す苦痛であった。
 あまりの痛みに刀を放り投げて地面を転がったが、その痛みは決して和らぐことなく全身を駆け巡った。涙と鼻水と涎が滝のように溢れ出るが、悲鳴だけは声にすらなれず、全身が痛みに硬直してただただ痙攣することしかできなかった。大小便が止めようもなく漏れ、袴の後ろが湯気を立てながらこんもりと盛り上がる。
 その場にいた全員がその惨状から目を反らした。
「なんと情けない。三郎や兵庫之介は少なくとも漏らしはしなかったぞ」師匠が指摘する。「今時の侍というものはここまで腑抜けなのか」
「こいつ何をしやがった」別の男が叫んだ。
「まったくだらしねえ野郎だぜ。爺いに小枝で叩かれたぐらいで漏らしやがって」
 何も理解していない浪人たちが地面に転がる仲間へ嘲りの言葉を吐いた。今や全員が刀を抜いている。
「まあ、そう責めてやるな。お主らもじきに分かる」
 その言葉と共に師匠が動いた。まるで地面の上を滑るかのような動きで、振り回される白刃の下をすり抜ける。
 ひぃ。
 あう。
 うぇ。
 小さな声。それから言葉にならない悲鳴。たちまちにして地面は身もだえする糞尿の塊が九つほど転がるばかりとなった。
 いつものことながら目の前に広がる光景に黄金長者が目を剥く。その裾に腰を抜かしかけている丁稚小僧がしがみつく。黄金長者の腕が上がり、丁稚小僧を安心させるかのように頭を撫でた。

 ただ一人残った着流しの男は刀を構えた。何か眼前で理解できないことが進行していることにようやく気が付いた。
「まあこやつらは一刻も経てば動けるようになるじゃろ。そうなったらお家にお帰り。二度と悪さをするんじゃないよ」
 師匠はここで一度言葉を切ってから、着流しの男を柳の小枝で指さした。
「だがお前は駄目じゃ。お前からは血の匂いがする。うむ。男が十人ばかりほど。それに女も二人ほど殺しておるな」
「なんだお前は」
 ずばりと言い当てられて着流しの男が慌てた。
「ただの爺いじゃよ」
「ただの爺いがこんなことができるものか。おのれ妖怪め。いったいどこの地獄の片隅から涌いてでおった。
 だが、俺の相手としては申し分ない。俺は申未流海山銅・・」
「名乗らずともよい。どうせ聞く気はない」
 師匠が前に出た。気合と共に着流しの男が剣を振る。それを師匠の柳の小枝が迎え撃つ。
 硬い音がした。着流しの男の刀が途中から真っ二つに折れる。一方、師匠の柳の小枝は葉っぱ一つ抜け落ちていない。
「馬鹿な。名刀兼光だぞ。爺い、いったい何をした」
「何もしとらんよ。ただ剣の理に従ったまで」
 師匠はどこまでも不愛想だ。にこりともしない。
「名刀などそなたには宝の持ち腐れよの」
 そう言うなり、師匠は柳の小枝で男の肩を叩いた。撫でたわけではないので今度はさすがにぴしりと小さな音がした。
 もう一つ、今度は着流しを着た悶える糞尿の塊が地面に転がった。小枝で打たれた肩が大きくへこんでいる。その下では骨も肉も細かく砕けてしまっていた。
「お主が死ぬまでに二刻はかかる。それまでは存分に苦しむがよい。さて」
 師匠は背後で目を剝いている黄金長者と丁稚の方へ向き直った。
「行こうかの」

 しばらく歩いて何かを思い出したかのように師匠が柳の小枝を捨てて初めて、黄金長者と丁稚の二人は張り詰めていた息を吐き出すことができた。


2)

「いつもながらお見事なお手並み。この黄金長者。ほとほと感服しました」
 再び元の座敷に戻ってのひと時、またもや師匠は茶を啜っている。目の前にはさまざまな山海の珍味を盛った皿がところ狭しと並べられているが師匠はいつものように手をつけない。
「これは些少ながら」主は切餅を二つほど差し出した。
 切餅一つには小判が二十五枚包んであるので、合わせて五十両である。師匠は悪びれるでもなくそれを取り上げると懐に収めた。
 師匠は金遣いが荒い方ではない、と言うより金を使う生活をしていないし、有体に言えば金自体に興味が無い。こうやって稼いだ金はどこかに適当に貯めておいて、たまに孤児たちの救済金へと流用したりしている。

「それよりも、長者殿。例の話はどうなっておる」
「おお、それです。それ」長者は手を叩いた。
 奥座敷から手代の一人が何かの書面を持って来る。
「飛騨にあるうちの店からの報告です。先生より言い使った件に合致しております」
「ものは何じゃ」
「蛇でございます。大蛇が出て人を喰うておるとの話でございます」
「ほう?」
 師匠は指折り数える。古縁流の古伝には今までに退治された十二王が記録されている。確かに『巳』はまだ退治されていない。
「詳しい話はここに」
 主は書面を差し出した。
「かたじけない。恩に着るぞ」
「恩などとはとんでもない。恩があるのはこちらにございます」
 それには師匠は答えなかった。
「ではすぐに旅立つことにしようかの」師匠は立ち上がった。
「その前にどうか一献お受けください」
 長者は並べられたご馳走を示した。
「この老いの身に馳走など不要よ。それは丁稚たちに分けておあげ。子供というものはいくら食べても足らぬというもの」
 いつもの師匠である。このために師匠が店を訪れると丁稚たちの顔が輝く。
 このお人は昔から少しも変わらぬな。そう黄金長者は思った。



 旅先では黄金長者の店の者が歓待してくれた。黄金長者から決して粗雑に扱ってはならぬと厳命が出ていたために、この粗末な身なりをした老人に立派な駕籠まで用意する歓迎ぶりである。
 師匠がそれを断ると、では案内だけでもと地方の支店から問題が起きている村まで案内人をつけてくれた。途中までは有難く頼んだが、問題の村にかかる前に色々と理由をつけて帰す。道の端に兎の耳が見え隠れしていたためだ。

 師匠が一人きりになると、大きな兎が叢から這い出してきた。
「長耳殿。ここで雌雄を決しようというのか」とは師匠。
「まさか」長耳兎は言った。「お主と話をしたくてな。この度の狙いは陶蛇か」
「陶蛇?」
「巳の王の名前だ。最近ではこの辺りで悪さをしているようだからな」
「やはりそうか。そうだ、狙いは陶蛇だ」
「止めておけ。死ぬぞ」
 それに対して師匠は沈黙を返した。黙々と歩く。長耳兎はその後を跳ねながらついていく。
「お主は辰の王である閃火を殺しているが、陶蛇は殺せないぞ」
 これに対しても師匠は沈黙を貫く。その心の中で何を考えているのかは外からでは伺えない。
「正面から戦えば閃火は最強だったが、乱戦となると陶蛇が強い。実のところ古縁流の伝承者を一番多く殺しているのは他でもない陶蛇なのだぞ」
 それを聞いて師匠はようやく急ぐ足を止めた。
「それは初耳だ。長耳殿。だがそうだからと言って儂が引くと思うのか」
「思わないな」長耳兎は断言した。「お主は頑固だ」
「その通り」師匠は否定しない。
「愚かなことだ」
「儂はの。長耳殿。この古縁流の因縁の戦いを弟子たちに引き継ぎたくはないのだ。儂が生きている間にすべての片をつけておきたいのだよ」
「それは叶わぬであろう。いかに古縁流最強の伝承者と言えど陶蛇とやりあうならば必ず死ぬ」
「その蛇はいかなる神通力を持つ?」
「それは言えぬ。ワシはどちらの側にも与しないことにしておるからの。蛇の秘密を教えてお前たちの争いの渦に巻き込まれることはせぬ」
「役に立たぬことよ」と師匠が言葉で責める。
「無用のものであることは善いことだぞ。この世に自ら関わる必要があるほどの重要なことは何もない」長耳兎は悪びれずに答えた。
「そうは思わぬ」師匠は一言の下に否定した。
「やれやれ。お主とワシはどこまで言っても分かり合えぬのう」
 長耳兎は深いため息をつき、後ろ足で地面を叩くと、神通力である縮地を発動して遥か遠くの地へと跳んで消えた。
 兎の消えた後を師匠はじっと見つめていた。


3)

 目的の村について、その人気の無い様に師匠は戸惑った。寂れている、だが無人というわけではない。家々の中で息を潜めている人間の気配がわずかながらする。田畑は放置され荒れ果てている。このままでは実りの秋が悲惨なことになるだろう。
 一番大きな家を庄屋の家と見て、師匠は門を潜った。大声で家人を呼ぶ。
 やがて一人の男が出てきたので、黄金長者の名を出して、蛇退治という自分の目的だけを明かした。
「話は聞いておりますだ。やっと来てくださったか。わしはこの庄家の下働きをしておる左之助と言いますだ」
「他の者は?」
「すべて逃げ出しましたじゃ。どうぞ奥へとお上がりくださいませ」
 座敷で師匠は出された茶を啜りながら、左之助の語りを聞いた。
 百姓に茶を飲む習慣はなく、本来なら白湯が出るところだが、さすがに庄屋の家は違う。主不在の家の中で、左之助はこっそりと庄屋の茶を盗んで飲んでいた。これで師匠も共犯である。

 村での最初の犠牲者は正太郎という男だった。野良仕事の最中に小さな蛇が一匹足の指に噛みついたのが事の発端である。毒蛇では無さそうだったのでそのまま皆の前で話題にした。小さな蛇が必死で小指を呑み込もうとしているのが可愛らしく見えたのだ。ところが村の皆に見せている間に、蛇はとうとう正太郎の足首まで呑み込んでしまった。

「小指に噛みつくのがせいぜいの小蛇が足首を?」と師匠。
「足を呑み込むたびに蛇は大きくなっていったのですじゃ」
 左之助は心底恐ろしそうに語った。

 村が大騒ぎになった頃には正太郎の足は股の付け根まで呑まれていた。もはや呑んでいるのは見たこともない大蛇になっている。
 そこから先は恐ろしい光景だった。蛇が呑み込むに連れてそれまで呑み込まれていなかった方の足は体の横に折りたたまれていった。無理やり折りたたまれた足は太い音を立てながら付け根から折れた。魂消るような悲鳴を上げ続ける正太郎の残りの部分もゆっくりと、だが確実に呑み込まれていった。
 もちろん村人の中でも勇気のある者は手に手に得物を持って大蛇を叩いたり切りつけたりしたが蛇はまったく意に介さない。最後に正太郎の頭までが呑み込まれてようやく悲鳴は止まった。今や大蛇と変じたそいつは恐怖に囚われている村人の見つめる中で悠々と姿を消した。

 だが話はそれで終わりではなかった。二日後、別の村人が襲われた。野良仕事の最中に大蛇に追われて村中を逃げ回った挙句に、最後は丸ごと頭から呑み込まれた。
 その次の犠牲者はさらに三日後。今度は村人総出で蛇を棒で叩いたがそれを無視して犠牲者をすべて呑み込むと蛇は消えた。
 都合十人がそうやって次々に呑まれていった。

「あやつはわざと他人が見ているときに襲ってきますのじゃ。狙いをつけた相手を脅していたぶって楽しんでから殺しますのじゃ」
「さもあろう。化け物とはそういうものだ」師匠は相槌を打った。

 ここまで来てようやく何度にもわたる請願が通り、藩から侍たちが送り込まれてきた。その数は十八人。それぞれが鉄砲、槍、刀を携えて山狩りが始まった。
 その日、山から降りて来たとき侍たちの人数は十六人となっていた。知らぬ間に二人消えたと今更ながらに大騒ぎになった。
 次の日、居なくなった二人を探して一行は再び山に入り、そして結局は十四人になって降りて来た。誰も何も不思議なものは見ておらず怪しい音すら聞いていなかった。
 藩の上役と相談してくる。そう言い残して、青い顔をした侍たちは慌てて村から引き揚げた。
 その侍たちの頼りない姿に絶望した村人たちは我先にと村から逃げ出した。農民が村を勝手に離れた場合は死罪の掟があるが、もはやそんなことを気にしていられる場合ではなかった。

「そういうわけで今は庄屋様の一家も湯治と理由をつけてここを離れていますのじゃ」
 左之助は話を結んだ。
「蛇はまだ出ておるのか」と師匠。
「出ております。ときどき立て籠もった村の家の中から悲鳴が聞こえますのじゃ。前に出たのは二日前ですから、そろそろではないかと思いますじゃ」
「ふむ、そうか。ではここで暫しの間待たせてもらおうぞ」
「へえへえ、では粥なりとお作りいたしましょう」
「世話は一切いらぬ」
 それきり師匠は大太刀の鞘を抱えたまま静かになった。

 この枯れ木のような老人があの大蛇に立ち向かえるのか、左之助は疑問に思っていたが、師匠がまったく動揺することなく落ち着いているのを見て考えを改めた。もしやこの人物は凄い人物ではないかと思いなおしたのだ。それだけの威厳が師匠にはあった。
 さてその師匠はと言うと、ひたすらに考えていた。十二の王はそれぞれ神通力を持つ。この陶蛇という蛇の王は、少なくとも体の大きさを自由に変えることができる。問題はそれをどこまで大きくできるのかということだ。体が大きいということは皮膚も硬くなるし力もそれだけ大きくなる。さらには急所が深い位置にあることになるので剣で致命傷を負わすのが難しくなる。
 長耳兎の忠告らしきものも無視はできない。古縁流の伝承者を一番多く殺しているのが陶蛇というのが本当ならば、決して油断できる相手ではない。それら伝承者の中には師匠と同じ終の免許皆伝者もいたはずだからだ。終の免許皆伝者の斬撃は大木を寸断し、大岩を両断する。それが敗北を喫したとすれば、単純に体が大きいだけではない、何か他のものがあるということになる。
 強さの上にはさらなる強さがある。現に自分はどうやっても長耳兎の神通力には届かなかった。長耳兎がその気ならばとうの昔に師匠は死んでいたはず。それは紛れもない真実であった。

 ではこの陶蛇王はどうか?
 師匠より遥かに強いのではないのか?

 師匠の夢想は外より聞こえて来た微かな悲鳴により破られた。粥を持った左之助が戻って来たときにはすでに師匠はおらず、抜き放たれた大太刀の鞘だけが床に転がっていた。
 村の中を飛鳥の如くに駆け抜けた師匠は、悲鳴が上がっている家の戸を蹴り破った。
「うぬ」思わず声が漏れた。
 巨大な斑模様の蛇が部屋の中央にとぐろを巻いていた。伸びた首の先には下半身を丸ごと呑まれた男が悲鳴を上げている。
 鋭い斬撃が飛んだ。余りの速さに刃自体は見えなかった。だが家の中の薄暗がりの中で刃に沿って走った光が弧の跡を残す。それはさも当然のように蛇を前後真っ二つに切り離した。切断された蛇の血管から真っ赤な血が噴き出し、骨と筋肉が断面から覗く。
「む」師匠は唸った。大太刀の先を使い足下の大蛇の体を持ち上げる。
 驚くほど軽い。
 そこにあったのは真っ二つになった蛇の抜け殻だけだった。未だ村人の体に食いついているのも抜け殻だけだ。
 脱皮。しかし確かに手ごたえはあった。胴体を切断したはず。だが中身はどこへ?
 師匠はまだ悲鳴を上げ続ける村人に向けて言った。
「黙れ」
 村人は黙らなかった。
 さもありなん。師匠の刀が軽く村人の肩に触れると悲鳴が止まった。師匠が何をやったのか村人はあっさりと気絶している。
 大太刀の先を地面に突き立てた。刀の束に額を当てて、師匠は心を集中した。

 周囲が暗転する。
 刀を媒介にして地面の振動を捉えているとは誰知ろう。刀が刺さった地面を中心にして師匠の聴覚が広がり、周囲のあらゆる音を立てているものがその心眼に映る。
 古縁流秘術、観音法。
 さまざまな音が意識を横切っていく。水車の回る音、息を潜めて恐怖に耐えている他の村人の呼吸音、川の中を泳ぐ魚。風にそよぐ木の葉、囀る鳥、この家から必死で離れようとしている小さな小さな蛇。
 見つけた。
 家から飛び出すと一跳びで屋根へと上がった。その手から常人には見えない速さの手裏剣が今しがた見つけた蛇へと飛ぶ。師匠が使っているのは苦無と呼ばれる鍔無し短剣を思わせる小さな手裏剣だ。それは驚くべき距離を一気に飛ぶと、小蛇の体を正確に地面に刺し貫いた。
 急いで駆け寄った。
 地面に深く刺さった手裏剣を抜くと、その先にぶら下がっているのは。
「またしても抜け殻か」
 どういうことだ。これは。師匠は考え込んだ。

 その日は庄屋の家に泊まった。この地に残っていた村人たちが恐る恐るという感じで顔を出す。中には師匠を拝む者まで現れる始末だ。蛇の恐怖から解放されたからか誰もが快活になり、やがて酒を持ち込む者まで現れて宴会が始まった。
 それらには一切関わらずに、師匠は静かに夜を過ごしていた。考えるのはただ一つ、巳の王のことのみ。

 この蛇は体の大きさを変えられる。
 この蛇は深い傷を負っても脱皮することで死を逃れることができる。

 どういうことだ、これは。師匠は考えた末に一つの結論にたどり着いた。
 十二の王はそれぞれ神通力を持つ。それらは大概一つに限定されている。だがこの陶蛇という奴は、いくつもの神通力を持っている。
 そうに違いない。
 今までに確認された神通力は伸縮自在。そして不滅の再生とでも言うべきもの。これだけでも厄介だが、他にも神通力を持っている可能性がある。
 なるほどと頷いた。これでは古縁流の伝承者が次々と殺されるわけだ。空を飛び雷を落とすような龍王の神通力ほど圧倒的ではないが、いくつもの神通力を使い分けられると闘いの幅は各段に広がる。
 そう考えると陶蛇は今までに出逢ったことのないほどの強敵なのだ。
 明日は陶蛇を追って山に登ろう。きっと厳しい一日になるに違いない。
 しかし陶蛇の奴、儂が来ていることを知らなかった。長耳兎のどちらにも与せぬという言葉は本当だったのだなと改めて師匠は感心した。あれもまた頑固者だ。


4)

 朝になった。
 塩と米を一掴みだけ貰うと、師匠は山へと足を踏み込んだ。ここは敵の本拠地であり、一瞬とて油断はできぬ。そう覚悟して恐ろしい勢いで山を駆け上がる。
 その様を見た者がいれば、天狗を見たのだと思っただろう。地面に足がついていないと思わせるほどに師匠の早駆けは速かった。やせ細った老人がこれだけの動きをみせる。それは一種異様な光景であった。
 駆けながらも見つけた木の実や薬草の類をむしり取り口に放り込む。その間も一瞬とて足を緩めることはない。まさに師匠は老いたる怪物であった。
 頃合いやよしと見ると、大太刀を鞘ごと下して地面につけて集中した。周囲の世界が暗転し、その中に生物の姿が浮き上がる。探しているのは長物だ。大小さまざまな蛇の姿が瞼の裏に浮かぶ。だが山々に潜むすべての蛇を切って回るのは問題外だ。他の蛇と変わった挙動をしている蛇だけを見つけるのだ。
 地面を這う蛇は師匠と同じく地面の振動で周囲を感知することができる。当然ながら師匠がここに来ていることはすでに知っているとなれば、何等かの反応はあるはずだ。
 蛇との術比べ。自分がいかに人外な行いをしているかには気づかず、師匠は周囲を探り続けた。
 ここにはいない。そう判断して次の山に向かう。そこにもいない。十ほど山を廻った。剣気を巡らしさらに周囲を探る。ここにもいない。
 もしやすでに蛇めは他のところへ逃げてしまったかと考えたときにそれを見つけた。
 地面にうず高く積もった骨の山だ。
 蛇は獲物を飲み込んでも滅多に吐き出さないが、陶蛇は違う。陶蛇の力からすればエサは取り放題なのだ。骨を吐き出して、次の獲物を見つけに行くのが習慣になっているのだろう。どの骨も腹に入っている間に砕かれたらしく砕片になっている。
 その中に修験者が使う錫杖が混ざっているのに師匠は気が付いた。丸く磨かれた石も混ざっている。こちらは石作りの数珠の成れの果てだ。錫杖の柄を引き抜くと半分錆びかけた隠し刃が現れた。その先端が欠けている。
 刃物を持っていながら蛇の腹から抜け出せなんだとは、あの蛇の腹の中はさぞや硬いのであろう。そう師匠は断じた。何もかも普通の蛇と同じではない。神通力を持つ蛇の王は原則として化け物なのだ。いや、ここまでくると怪物と呼んで差し支えない。

 どうやら陶蛇はこの辺りを縄張りと決めて狩りをしている。ならばまだここらに居るだろう。だが見つからない。隠形法でも使っているのか。それともこれも陶蛇の神通力の一つか。
 これはやり方を変えるしかないかと思った。こうなれば長期戦を覚悟するしかない。長い年月探し続けてようやく見つけだしたのだ。陶蛇を倒すまでは山から降りることはできない。
 倒木に腰を下ろし、貰って来た米を炊くことにした。道々集めた木の実を混ぜ、山に入るときにはいつも持ち歩く小さな鍋に放り込むと火を起こす。この小鍋は食事を作るだけではなく薬草を煮るのにも重宝する。細工物を得意とした古縁流第二代伝承者が工夫の末に作り上げた持ち運びの容易い小鍋である。
 鍋の米の煮え具合を確かめた後、ふと気配を感じて顔を上げた。そうして静かに正面に近づいていた大蛇の顔と真っ向から睨みあった。尻の下の倒木がずるりと動いたその時には、抜き放たれた戦国大太刀が大蛇の頭を縦に両断していた。
「弐の斬撃、滝流し」
 技名を宣言する。村では人目があったので古縁流の技は使えなかった。だが今は違う。
 刀の下で蛇の抜け殻だけが形を失って落ちる。
「縦に切っても駄目か」
 師匠は呆れた。どのような形で蛇を切ろうが次の瞬間には逃げ去っている。このような存在をどうやって倒せばよいのか。
 ざざと音がした。逃げ出した蛇が大木の裏へと這いあがる。師匠の頭の上で大太刀が弧を描き、大木がいくつもの輪切りに切断される。
「参の斬撃、炎弧」
 倒れゆく大木を避けて走り、その先の大木へと迫る。
 師匠の腕が目にも止まらぬ速さで動き、大木に突きを入れる。何の抵抗も見せずに刀身は大木を貫き、その向こうを這っていた蛇も同時に貫いた。
「終の突き技、滴抜」
 すらりと大木から刀を引き抜く。どういう仕組みなのか木には刀が通った穴すら残っていない。
 大木の裏に回ると、足元に蛇の抜け殻が落ちていた。
「貫いても駄目と」
 ややウンザリした口調で師匠は言った。

 飯を腹に収めた後にまたもや全山を駆け廻った。今度は毒草を集めることに集中する。その夜、あらゆる毒草を煮詰めてひどい臭いのする液体を作ると手裏剣に刻まれている溝の中に塗り込んだ。
 毒ならばあるいは。そう考えたのだ。
 さらに木を切り倒し太めの木刀を一本削りだす。その昔、ちょっとしたことで巻き込まれた別の妖怪との争いで、呪禁という術を見たことがある。もしかしたら今回もその術が使われていて、五行の内の金克木の理が禁じられているのかもしれない。その場合は金属の刀では切れず、木刀ならば倒せる理となる。
 すべての準備が整った後にはゆっくりと山を歩き始める。
 陶蛇は決して逃げ出してはいない。恐らくはこの山のどこかで自分を狙っている。
 そもそもが不死なのだ。ならばいかに相手が強かろうが逃げる必要はないというもの。
 倒木には気をつけた。犬よりも鋭い師匠の感覚を欺くほどの擬態を陶蛇は見せる。蛇が攻撃する直前までその存在が分からないのは厄介だ。
 これもまた神通力の一つか。蛇の王は他にいくつの神通力を持っているのやら。
「やれやれ」
 師匠は大太刀を下すと木刀を撫でた。
 さすがに歳を取ると若い頃のようには体は動かない。最近では僅か二貫目しかない大太刀が重く感じることもある。我が体なれど実に情けない。少し気弱になってしまった。師匠は大木に寄りかかり、一度里に下りるべきかと考える。

 頭上で動きがあった。大きく顎を開けた蛇の首が落ちてくる。
「立ち木にも化けるか」
 その瞬間跳びあがった師匠の手にした木刀が蛇の頭に打ちおろされ、大蛇が叩き落される。同時に飛んだ手裏剣がその腹に刺さる。たっぷりと毒を塗り込んでおいたやつだ。
 そのまま木の肌を蹴り他の大木に跳び移ると、次の手裏剣を打つ。さらにその木を蹴ってすれ違いざまに蛇の背中に木刀でもう一撃を加える。
「参の斬撃技、打鼓天」
 技名を名乗りながら、そのまま木々の間を跳躍しながら大蛇の体を滅多打ちにする。その間ただの一度も地面に足がつかない。まさに天狗もかくやの動きであった。
 大蛇の骨が砕け、皮の下で肉が弾ける。打鼓天は斬撃ではあるが切断よりは衝撃を作りだすという変わり種の技だ。皮には毛ほどの傷もつけずに、その下はすべて叩き潰される。
 こうなるとどちらが化け物なのか分からない。その動きはすでに人間ができる範疇を越えている。もし兵庫之介がここにいたならば、何が歳を取っただあの爺いとつぶやいていたことだろう。
 師匠が跳躍を止めて地面に降り立つと、その後を追うかのように蛇の抜け殻が地面に落ちてきた。
「叩くのも駄目か。果たして毒は効いたかどうか」
 素早く地面に大太刀を突き刺し周囲を探る。いた。蛇が一匹、必死で遠くへ逃げ去ろうとしている。木に化けているときは分からないが、蛇の姿のまま動いていれば見つけることは容易い。
 再び飛鳥のように木々の肌を蹴りながら跳んで、師匠はその蛇の前に降り立った。
「陶蛇。逃がしはせぬぞ」
 蛇は一瞬で巨大化した。師匠が手裏剣を投げると、その蛇の体の動きが止まった。幾本もの手裏剣は空中に複雑な軌道を描きながら巨大な蛇の周囲を木から木へと廻った。
 糸だ。周囲の木を廻るように張られた透明な糸が蛇の体に幾重にも巻き付いている。古縁流の秘術で作る山蛾の糸。何本も使えば巨大蛇の動きすら止める。
「ふむ。打ち込んだ毒はやはり効いておらぬな」
 師匠が感想を漏らした。
「撲殺も駄目なら、次は絞殺と行こう」
 ぎりぎりと糸が締まり始める。単に糸を絡めただけではない。大蛇の自重で首が締まるように巻いたのだ。古縁流の技は一見して単純な動きだが、そのすべてに繊細で慎重な理が潜んでいる。
 大蛇は糸に動きを封じられながらももがいた。自由になる尻尾を周囲の大木に打ち付ける。その衝撃で地面がかすかに揺れた。
 いきなり大蛇の体が萎み始めた。ついには糸に吊られた蛇の抜け殻だけに成り下がる。
「締め技も駄目か」師匠はため息をついた。
 それでも大蛇の抜け殻を調べる。目立つ傷はどこにもなかったが大木にぶつけた衝撃で尻尾の先が少し破けている。
「なるほど、皮に傷がついた部分から中身が抜け出るのだな」
 神通力とは言え、それなりの規則には従っている。蛇の王の不死の規則の一つが分かったわけだ。そこにつけいる隙があるやも知れぬ。

 沢を見下ろす大岩の上に座ると師匠は座禅を組んだ。ここならば不意打ちはできない。そのまま、今の状況を俯瞰する。
 自分の攻撃は一応は蛇の王に通る。だが、その場で復活されるのではまったく意味がない。一方で、蛇の王の攻撃は自分には通用しない。自分の隙をつくのは至難の技だ。蛇の攻撃はすべて避けることができる。
 その結果は千日手だ。
 蛇の王は殺せない。斬撃も、殴打も、締め技も、毒も効きはしない。どんなに深く傷つけても脱皮すれば元通りだ。
 なんという神通力。
 師匠のさらに師匠筋に当たる又造師匠ならばどうするであろうか?
 あの人は初の免許皆伝までしか行けなかった人だったが、工夫に工夫を重ねて最強と歌われた辰の王である閃火を倒している。
 今必要なのは剣の腕でも技でもない。状況を正しく解釈し、正しく対応することだ。

 又造師匠なら何という?
 すぐに想像がついた。たった一つの答えに囚われるな、だ。
 その通り。陶蛇を殺すことができないならば、代わりに封じてしまえばいい。
 例えば硬そうな岩を二つに割り、その中に空洞を作る。その空洞に蛇を追い込み、その岩をぴったりと密着させたらどうなる。陶蛇は体の大きさを自由に変えられるが、その体の大きさにより出せる肉体的な力は制限されている。
 小蛇のときは小蛇の力しか出せない。だから陶蛇が小さくなっているときにそうやって岩に封じてしまえば、外に出てくることはできなくなる理屈だ。陶蛇がその小さな穴の中で何度脱皮しようが問題はない。脱皮だけでは最後まで穴からは出られまい。
 後は深い海の底や溶岩の中に蛇ごとその岩を埋めてしまえば実質的に陶蛇を退治したのと同じことになる。

 答えが見えた。師匠は座を解いた。


5)

 できるだけ丈夫で硬そうな岩を探し出した。岩でも木でも水のように切り裂く古縁流終の斬撃を使い、岩を一つ四角く切り出した。同じく終の突き技である滴抜で小柄を使うと、岩に面白いように刃が通る。それを利用して岩の中身を綺麗に刳り抜いた。
 開祖様も終の皆伝技がこのようなことに使われるとは思いもしなかったろうなと師匠は苦笑した。人前では決して笑顔を見せぬ不愛想な男ではあったが、決して笑わぬわけではないとは誰知ろう。
 その笑顔を見た者はたいがい腰を抜かすのだが。

 その師匠の行動を遠くからじっと見つめるものがいた。言わずとしれた陶蛇である。木の上で昼寝をしている蛇の振りをしながら、師匠の行動を冷静に見ていた。陶蛇は蛇だが長く生きて化け物と変じている。本来蛇の視覚は熱を見るためのもので目玉は飾りのようなものであるが、陶蛇は違った。この距離からでも師匠の行動をつぶさに見ることができる。
 蛇の王の誇り故に人語は喋らぬが、千年以上生きているだけあって、その知性は普通の人間を越える。師匠が作っているのが自分を封印する道具だとはすぐに分かった。そしてひとたびその中に封じられれば自分が持つ数多の神通力でもどうにもならないことにも気づいた。
 あの岩の中でさらに数千年の蛇人生を送るのかと思うと、さすがに心胆寒からしめるものがあった。
 何としてもここで奴を殺さねばならない。陶蛇はそう思った。

 長耳兎はその陶蛇をさらに遠くから見ていた。見るというよりその何物をも聞き逃さない耳で「観音」しているのだが。
 愚かな。心底そう思った。
 人間の命が短いことを陶蛇は忘れている。闘いより逃げて百年も待てばあの恐ろしい男も歳を取って死んでしまうだろうに。なぜにわざわざ戦いへと進むのか。この辺りは兎である自分には決して理解できないのだろうな。そうも思った。
 それにしても終の伝承者本間宗一郎、陶蛇とここまで戦って死んでいない、というよりは陶蛇をここまで追いつめてしまった。古縁流最強の男は何と恐ろしい男なのだろう。人間の身であれほどの化け物になれるとは実に不思議なことだ。あれよりも強い男と言えば、五百年も前にそもそもの縁起を開いた古縁流の開祖ぐらいのものだ。
 自分の神通力である『縮地』ならば相手がどれほど強かろうが敵ではないが、その自分は他者を殺すことが大嫌いと来ている。十二王最強の存在である自分がもっとも臆病な者であるとは、世の中とは何と皮肉なことか。
 長耳兎は嘆息した。

 日が暮れていく。戦いは明日だ。今は三者三様の夜が訪れるだけ。



 朝日が昇ると共に師匠は陶蛇の探索を開始した。
 三つ目の山で師匠の聞き耳に怪しい蛇が引っかかった。
 心の中に作りだされた暗転した視界の中に、師匠を見つめている小さな蛇がいた。それは師匠に気づかれたと知るや、慌てて向きを変えて藪の中を逃げ始めた。

 命がけの鬼ごっこが始まった。
 何度も手裏剣に刺し貫かれる度に脱皮を繰り返し、陶蛇は逃げ続けた。とうとう最後に師匠が追いつきそうになると、蛇は山肌に口を開けた洞窟の中へと這い込んだ。

「ここが奴の巣か」
 師匠は洞窟の中を覗き込んだ。洞窟と言うより鍾乳洞だ。白っぽい岩肌に水が垂れている。足元には生臭い臭いがする水が溜まり、生暖かい風が中から吹き上げて来る。当然ながら奥は真の暗闇だ。
 だがここで追跡を止めることはできない。
 すばやく手近の木の枝を切り落とすと、首に巻いていた手ぬぐいを巻いて即席の松明とした。燃やすための油は少量ながらいつも持ち歩いている。この点、古縁流の剣士の装備は侍というよりは忍者に近いものがある。
 松明を掲げて洞窟の中へと踏み込んだ。湿った嫌な臭いのする洞窟であったが敢えて気にせず奥へと進む。しばらく行くと前方の角で小蛇が隠れるのが見えた。松明が落とす不安定な光の中でその小さな鱗が煌めく。
 師匠が動く姿は見えなかった。足下の水面上にわずかに波紋の輪がいくつか生まれたと見たときには、すでに師匠は小蛇の位置にいた。すばやく師匠の手が動き、手にした石の箱の中に小蛇を掬い取ると蓋をし、その上を山蛾の糸で何重にも縛りつける。もしや蛇が巨大化して石の箱を壊すかとも思ったがその恐れはないようだった。
 箱を振る。中で何かが動く音が微かにする。開けて中身を確かめたい気もするが、開けてしまえば何もかも元の木阿弥だ。
 これで陶蛇は封印できる。我が責務の一つが終わった。師匠はここでやっと安堵した。

 洞窟を戻り始めて、はたと困った。帰り道が見つからないのだ。洞窟は来た時とは様相が変わっていた。道はうねうねと曲がりくねっている。一本道のはずなのにどこまで行っても出口が見えない。
「うむ。これも神通力か」
 師匠は独り言をつぶやいた。箱の中に閉じ込められていても神通力は使えるのか。これは油断できぬぞとも思った。
 しばらく彷徨っている内に異変に気がついた。
 何かが手の上に落ちてきたのだ。それをよく見ると、髪の束である。自分の頭に手をやり引いてみるとごっそりと髪が抜け落ちる。それは白髪であり、自分のもの以外にはあり得なかった。
 体全体が奇妙にぬるぬるする。自分の肌を舐めてみて理由がわかった。
 血肉の味がした。

 体が溶かされ始めている。そう判断した。

 どういうことだこれは。大太刀の束を握りそれも同じ有様であることが分かった。刀の束には握りやすいように絹糸が何重にも巻いてある。それも悉く溶けかけている。
 この洞窟全体を覆っている生臭い水のせいか。初めて状況を理解した。
 大太刀を地面に立て、観音の感覚を伸ばす。暗闇しか見えない。生き物の一切いない黒の領域。だが何かの息吹がある。そこかしこに。自分の周りすべてが。さらに感覚を広げる。やがてその全貌が見えてきた。

 小山と見まがうばかりの巨大な巨大な蛇。
 その腹の中に自分はいる。自分が入ったのは鍾乳洞ではない。洞窟に見せかけた大きく開けた蛇の口だったのだ。

 手の中の箱を落とし、山蛾の糸を切った。這い出して来た小蛇を刀で貫く。それは抜け殻にはならず、ただ地面に落ちて蠢いた。
「偽物。囮か」
 手を伸ばし壁に触れる。岩の感触。これだけではここが蛇の腹の中だとはとても思えない。
「だが、無駄よ」
 師匠の目に炎が灯った。喉から気合がほとぼしる。大太刀を抜きざま、振るった。
「終の刀身乱撃、春霞」誰聞かせるわけでもないが名乗った。
 目には見えない速さで振りまわされる白刃が周囲の壁を切り刻んで行く。大太刀の刃は硬い岩など気にせずに通り抜け、進路にあるあらゆる物を切り裂いた。
 だが岩はどこまで切っても先が見えなかった。
「むう。ならば」
 剣を上段に構えた。その体から剣気が噴き出す。
「終の斬撃。迷い星」
 頭上に振り上げた刀の先がふらりと迷った。そして一点、その様を決めた瞬間、弧を描いた。

 虚空虚閃。
 存在しない刃が存在しない空を切る。凝縮された精神の奥底でそれは切るという行為一つに全てを集約して、それ以外の全てが虚ろへと変ずる。
 この技に抗し得るもの無し。

 岩が切り裂かれた。岩の奥の岩も、そのまた奥の岩もすべてが切り裂かれた。ただその一閃を境にして、世界は二つに分断された。
 切り裂かれた岩の隙間から大量の血が噴き出す。やがて壁は左右に分かれ始め、切断された壁の断片から筋肉や骨が見えた。
 地面が揺れた。暗い洞窟の壁が割れた。青空が頭上に再び戻る。
 地に倒れ伏した巨大蛇の裂かれた腹から、師匠が飛び出した。
 大地に足をつけた次の瞬間には再び宙に跳びあがり、そこにあった山大蛇の頭の上へと駆け上がった。
「終の砕撃、攫い・・」
 そこまでで言葉は切れた。地響きと共に巨大な蛇が倒れる。ひどい腐臭を放つ血と内臓が留まるところを知らずに溢れ出す。
 師匠は待ったが、蛇の体は抜け殻に変わらない。驚くばかりの大量の内臓を振りまきながら依然としてそこにあった。
「むう。体の内側からの攻撃は神通力では防げぬのか」
 腹の中から大太刀の鞘を見つけ出し、刃を収める。
「古縁流第二十八代免許皆伝。本間宗一郎。十二王の一つ、巳の王の陶蛇。ここに討取ったり」
 誰聞く者とていなかったが口上を述べた。
 それから川に下り、全身を洗い流した。
 髪の半分が溶けている。耳たぶも心なしか薄くなっているように感じた。洗い流した後になって初めて全身の肌が痛み始めた。恐らくは消化されている間は獲物が暴れぬように痛みを感じないようにしているのであろう。そう思った。
 あのまま気づかずにいれば、最後はわけもわからぬまま骨にされていたであろう。
 陶蛇。確かに恐ろしい敵であった。
 もう一度、山大蛇が死んだところに行き、死骸が残っていることを確認してから山を降りた。

 飛ぶように駆ける。山の木々の様が変わり、深山から里山へと相を変えて行く。村についたら村人たちに恐怖は終わったことを告げよう。
 それと左之助に茶を一杯所望しよう。
 さすがに喉が渇いた。師匠はそう独り言ちた。
 だが何かの異変に気が付き、足を止めた。
 周囲の光景を見つめる。どうしてあの木は揺れているのか。そう思ったときには師匠の足元がふらついていた。
 直感的にその理由に気が付いた。
「これは毒か」
 その声を聴いて、がさりと音を立てて長い耳をした大きな兎が叢の中から姿を現した。長耳兎だ。
「だから言うたではないか。本間宗一郎。陶蛇とやりあった者は必ず死ぬと。陶蛇の最後の神通力はその体内に飲み込んだ者を必ず殺す呪いよ。効き目はゆっくりだがいかなる薬石も効を奏さぬ」
「そうか。ならば覚悟せねばならぬのう」
 あっさりと言い放つと、師匠は道端に腰を下ろした。長耳兎が嘘を言っているとは思わない。現にあらゆる毒に耐性を持つように訓練してある自分の体がこの有様になっているのだ。疑う理由は無かった。
 自分は確実に死ぬことになると理解している。だが、そのことに今更慌てる気は無かった。この流派に入ったときからいつ死んでもおかしくはなく、そして闘いの中に死ぬは本望であった。
 侍とは白刃の下にて死を賭けて踊り狂う者なり。
 これこそが本間宗一郎という男であった。

「お主がこのようなことになってワシも残念じゃ」
 長耳兎は嘆息した。その仕草は奇妙にも人間そっくりであった。
「陶蛇も無謀な賭けに出たものじゃ。お主が自分を封印するだろうと見てとり、自分の最強の武器でもあり最大の弱点でもある腹の中で雌雄を決しようとしたのだな。
 神通力を複数持つことはできるが、同時に使える神通力は一つのみ。神通力『昏き洞窟』を使うなら、神通力『脱皮』は諦めねばならぬ理屈。
 捨て身の策とはあやつらしくもないが、それだけ追い込まれていたということか」
「今まで戦ったうちで一番厄介な敵だったよ」
 そこまで言ってから師匠は言葉を変えた。
「のう。長耳殿。死に行く儂への手向けに一つ頼み事を聞いてはくれまいか」
「何じゃ。言うてみい」長耳兎は耳を動かせてみせた。
「儂の弟子たちのことじゃ。あれらはまだまだ危うい。儂が死んだらそれとなく見守ってやってはくれぬか」
 長耳兎の動きが凍り付いた。
「馬鹿もん。ワシは十二王の一人じゃぞ。古縁流の門弟の世話などできるものか」
「儂はあの者たちに古縁流の縁起を伝える気はない。この不毛な戦いは儂の代で終わらせるべきなのだ」
「ワシもそれには賛成だよ。だが果たしてそううまく行くものかどうか」
「試さねば分からないだろう」師匠が指摘した。
「それは確かに」
「それにどのみち、長耳兎殿はこれから先も古縁流の者たちを見張り続けるのだろう」
「それはまあその通りだ。それがワシの役目だからな。戦わないならせめて見張れとは他の十二王たちの意見よ。もっとも見張るだけで何かを伝えるわけではないが」
「丁度よいではないか」
「何が丁度よい」
「だからのう。あれらが人生という道に迷っておったらそれとなく導いてやって欲しいのだ」
「ワシがか!?」
「のう。長耳殿。お子はいるのか?」
 突然の話題の転換にまたもや長耳兎の動きが止まった。しばらくしてから長耳兎は答えた。
「昔はいた。もう何百年も前のことじゃ。みなとうの昔に死んでしまった。どれもわしのようには長生きできなかった。今や生き残っているのはワシだけじゃ」
「ではまた新たに子を得ると考えてはくれぬか。弟子というのは師匠にとって子も同然。これはつまり儂の子をそなたに譲ると考えてくれ。新たな子ができたと思ってくれ」
「本当に人間というのは奇妙な考え方をする。だがまあいい、お主の提案は考えてはおこう」
「かたじけない。恩に着る」師匠は頭を下げた。
「まだ引き受けると言うたわけではない」
 長耳兎は立ち上がった。
「毒が完全に回って死ぬまでに月の廻りが三回と言うところか。さらばぞ本間宗一郎。お主は確かに強い男であった」
 後ろ足で地面を二度ほど叩くと兎は消えた。
 師匠は満足そうに微笑んだ。
「ふむ。では三郎達の修行を厳しくせねばな。儂が死ぬまでにせめて免許皆伝ぐらいは与えてやりたいものだ」


 その直後より、師匠の修行がより厳しくなった理由を三郎達はまだ知らない。