古縁流始末記銘板

藤兵衛 山中にて狩りをすること

1)
 古縁流第十二代継承者藤原藤兵衛は、免許皆伝の後、日本各地を放浪した。

 これといって何かがしたかったわけではない。ただ一所に落ち着くのが嫌だっただけなのだ。武者修行の名の下に全国をぶらりと旅をする。武門の生れではあったが家は長兄が継ぎ、下手に揉め事を起こされるよりはとほぼ放逐の形で外に送りだされた。藤兵衛にはこれといって贅沢をする趣味は無かったので、僅かな仕送りでも生きるには十分であった。
 どうして自分のような野放図な人間が古縁流を学んだのかと不思議に思うこともあったが、武家社会の中での出世を望まない自分にはぴったりの剣術であるとも思っていた。
 古縁流の修行は厳しかったがそれでも向いていたのか技量は進み、あろうことか参の免許皆伝まで取ってしまった。
 古縁流は初の免許皆伝で並の剣士を遥かに凌駕し、弐の免許皆伝では向かうところ敵なし、参の免許皆伝に至っては化け物の世界と言われていた。それをあっさりと得てしまったのは、藤兵衛のもって生まれた才能だったのかそれとも苦労を厭わぬその性格ゆえかは判別がつかなかった。
 日ノ本の国を悉く歩き尽くす所存と師匠に言ってみたところで、古縁流の縁起を教えられた。十二王との闘いなどはお伽噺としか思えなかったが、師匠の言葉には素直に従い、旅先で怪しげなものを見つけた場合には調べると約束した。

 ふらりふらりと諸国を彷徨うこと二年。あちらの名所で観光していたと思ったら、こちらの遊郭で居残りを続け、ある場所では任侠の徒の縄張り争いに飛び込み、また次へ流れて藩のお家騒動に巻き込まれたりもした。
 隠密の狩り出しを手伝ったこともあるし、一揆の連中に加担して一揆侍をやったこともある。城下を騒がす心中事件の謎を解いたりもしたし、隠し金山の探索もやった。
 どこに行っても気分次第で好き勝手をやった。それでも人を殺す羽目になることは滅多になく、最後は大勢の人間の笑顔に送られてその場を離れることになるという不思議な定めを背負っていた。
 そんなことを続けている内に里心が付いてしまった。そろそろ故郷に帰ろうかと思い始めたころにその噂が耳に入った。


 最初に耳に入ったのは山で人が食われたという噂であった。それも一人や二人の数ではない。山には山犬がいるわけだから人が食われることはよくある話だが、それが続くとなると話が異なる。何か人を専門に食う獣がいるということだ。
 面白そうだと思い、藤兵衛は躊躇わずにその山へと向かった。古縁流でも藤兵衛は参の免許皆伝まで到達している。それはつまり熊であろうが狼であろうが、どんな動物でも一打ちで倒せるだけの剣の腕があるということである。恐れる理由はなかった。
 だがそんな藤兵衛でもどうしても終の免許皆伝には入れなかった。参の免許皆伝までは修行の積み重ねだけで到達できるが、終の免許皆伝には心気の使い方というものが必要になるらしく、それは藤兵衛には一番苦手なものだったからだ。
 鏡水一滴とか虚空虚閃などと口訣を教えられても、それがどういう心の持ちようなのか、欠片も想像できなかった。最後には師匠も深いため息をついて藤兵衛に教えるのを投げだしたぐらいだ。
 さてそうなると藤兵衛自身も終の免許皆伝などは正直どうでもよかった。旅の道々やたらと絡んで来るような輩を完膚なきまで叩きのめせるだけの腕があればそれでよい。
 日々是ぶらりと好日。それが藤兵衛の生き方だった。



 里山を抜けてさらなる奥へと踏み込んだ頃、一目で猟犬と分かる犬たちに囲まれた。続いて鉄砲を抱えた集団が集まって来た。蓑を背負って頭に布を被っている。いずれも鉄砲の他に円筒を切り落としたような独特の形状をした熊槍を携えている。
「お侍さまあ、見かけぬ顔だあね。どこから来なさった」
 彼らは山の猟師であるマタギの集団だ。その中の一人に話しかけられた。
 気さくな物言いだが山に入り込んだ余所者を警戒しているのは明らかだ。もっともどこに行ってもそういった態度は当たり前なので藤兵衛はまったく気にしない。
 にかにかと笑顔を見せて藤兵衛は答えた。
「武者修行にて諸国を巡り歩いておる藤兵衛と申す。そなたたちは何ゆえ? 巻き狩りか何かか?」
 近づいてきた藤兵衛はマタギたちより頭一つ分背が高いし、厚みがある。ちょっとばかり気おされてマタギは答えた。
「んだあ。おらたちは熊退治だあ。近頃この辺りに人喰いが出るでなあ」
「いや、おら、猪だと思うぞ。途中の村の畑が荒らされておったでな」
「どっちにしてもお侍さまあ、山には入らぬ方がよいだ。熊に間違えられておらたちに撃たれてもつまらねえだ」
 藤兵衛は少し躊躇った。一人の方が自由でよいが、別に人喰い熊やら猪やらとの一騎打ちがしたいわけでもない。藤兵衛はただ単に面白いものが見られれば良いのだ。
 ここしばらくは様子見と行こう。どのみちマタギの集団に殺される程度の獲物ならばそれほど楽しめそうにない。
「一緒についていってよいか? それならばそなたたちに撃たれることもあるまい」
「そりゃ構わんが、おらたちは山歩きに慣れているだ。ついてこれねばそこに置いていくことになるべ」
「委細承知。その場合は捨てて行って構わぬ」
 そういうことになった。

 藤兵衛は人好きのする男だ。
 今までに日本全国あちらこちらを廻った話や、遊郭で女房に殴りこまれた男の話、それに簀巻きにされて川を流されていた賭場荒らしを助けた話など、面白おかしく話している内に、マタギたちとたちまちに打ち解けてしまった。
「お侍さまあ、てえげえな法螺吹きだな」
 そうマタギの一人が言うと、藤兵衛は頭を掻いた。
「違いない」
 どっと笑い声が上がった。藤兵衛は怒るでもなくニコニコしている。体は大きいし風体は怪しいが人の良さが全体からにじみ出ている。
 お蔭でマタギたちからも色々と話が聞けた。

 山に入った人間が帰って来ないことが続き、村の男たちが総出で山狩りをした結果、無残にも半分食われた死体が見つかったのが始まりだった。じきに被害者が増え、あるマタギが呼ばれた。一人での熊狩りが得意な男で、ついた通り名が熊取五郎であった。
「今日から山に入る。十日は入りっぱなしになるでその間は誰も山に入れるな」
 そう言い残して一匹の熊犬と共に山に入った。
 十日が経っても五郎が帰ってこないので他のマタギが恐る恐る山に入ってみると、ほどなく五郎と犬の腐乱した死体が見つかった。少なくともその残骸が。ハラワタは綺麗に食われていた。
 この時点で、周辺を囲む村々すべてのマタギに召集がかかった。集まったマタギたちに数カ村が合同で依頼を出し、今回の大規模な山狩りが決まったのだ。

 マタギたちは藤兵衛をお侍さまと呼んだが、マタギたちの身分も一応は武士である。もっとも名ばかりの武士でその地位に旨味があるわけではない。あくまでも幕府が鉄砲の所持を認める上での方便である。
 ただしこの場にいる誰も身分の差など気にはしていなかったが。

 尾根に出た所でマタギたちは集まって相談を始めた。
「五郎さんのオロクが見つかったのは確か韮沢の方だったの」
「上がりの尾根の方がよかないか」
「いや、こいつは人の肉の味を覚えているから、まだ同じところにいるかもしれん」
 目端の利く何人かが先行し、残った全員で素早く尾根を駆け降りる。犬たちも特に吠えるわけでもなく追従する。よく躾けられているなと藤兵衛は感心した。
 沢に出たところで全員が一斉に休憩に入った。
「お武家さあ、どうせ付いてこれまいと思ったらきちんとついてきただなあ」
「日頃から山歩きは嗜んでおるからの」藤兵衛は答えた。
 実のところ山駆けは古縁流の修行の基礎だ。山から山へと鬼人の如くに駆け巡る。その気になればここにいる誰にも追いつけぬほどの速さで山肌を駆けることはできるが、それをやると化け物扱いされて撃たれるのが関の山なので止めておいた。
 マタギたちはそれぞれに弁当として持ってきた握り飯を食い始める。藤兵衛は何も無しだ。
 古縁流では基本的に山に入るのに食料は持たない。その手裏剣の技と草木に関する知識を持ってすれば食料は容易く手に入るからだ。山を舐めていると言えば確かにそうだが、それで別に困るということがないので藤兵衛には改める気はさらさらない。
 藤兵衛が何も持っていないのを見て、マタギたちは自分たちの分を分けてくれた。
「や、これはかたじけない」
 藤兵衛は礼を言うと有難く馳走になる。にこにこしながら握り飯にかぶりつく。
「ほう、これは旨い。飯の握り具合が丁度よい」藤兵衛が感想を漏らす。
「わかりますかあ。おらの女房は握り飯だけは上手ですらい」
「何言ってやがる次郎左のところのかかあは他にも得意があるだろうに。毎日次郎左はお天道さまが黄色いと文句を言っているじゃねえか」
 全員でどっと笑った。その中で一番大きな声で笑ったのは藤兵衛であった。

「権爺。ちょっと相談があるだ」
 犬を引きずってきた一人がマタギ衆の頭に話しかけてきた。
「犬たちの様子が変だ。怯えているように見える」
「馬鹿こくでねえ。こいつらは熊にでも平気で向かっていくマタギ犬だぞ。怯えるなんてこたあ、あるもんじゃねえ」
 だが確かに犬たちは怯えていた。尻尾を股の間に挟み込んで仲間の犬たちの間に潜り込んでいる。ボス犬はしきりに空中の匂いを嗅いでいた。
 藤兵衛も同じように風の臭いを嗅いでいた。何かが変だ。それは今まで感じたことのない臭いの無い臭いであった。特に意識には上らないのに、それでも研ぎ澄まされた感覚の中に何かが引っ掛かる。
「権爺。ちょっと来てくれ。大変なものを見つけた」
 偵察に出ていたマタギが息せききって駆けつけて来た。その尋常ではない様子に休憩していた全員が弾かれるように立ち上がる。
 連れていかれた先にあったのは熊の死骸だった。それも普通の熊の三倍はある大きなものだ。その大熊の腹が裂かれた上で、腸が大きくえぐり取られ、食い散らかされている。
 誰もがこの光景に無言であった。
「こりゃ、猪にやられた傷だ」権爺が断言した。「だけど普通の傷じゃねえ。どうみてもこの猪、小山のようにでかいぞ」
「熊も熊だ、こいつは化け物熊だ。その熊を突き殺して食っちまうような猪だって。冗談じゃねえぞ」マタギの一人が震える声で言った。
 どうするどうすると言い合っている内に、山の天気が変わり始めた。霧がどこからともなく湧いて来ると周囲を取り囲み始めたのだ。
「こりゃいけねえ。霧が出て来たぞ」
「まずいな。今この猪に襲われたらどうにもなんねえぞ」
「見えなきゃ鉄砲は役立たずだべ」
 死体を見分していた権爺が立ち上がった。
「仕方ねえ、皆、円陣を組むだ。それぞれ円陣の外に向いて熊槍と鉄砲を構えておけ。霧が晴れるまでそれでしのぐぞ」
 素早く命令を出した。
 さすがに百戦錬磨のマタギたちだ。異議を挟む者など一人もおらず、手早く円陣を組み始めた。火縄を振って火のつきを確かめると続いて火縄銃の様子を確認した。熊槍の根を地面に差し込み、外から突進してくるものが串刺しになるように穂先を外側に向ける。

「お侍さまは陣の中央にいてくだせえ。そこなら間違っても鉄砲の弾には当たんねえ」
「承知」
 藤兵衛は背負っていた戦国大太刀を下すと、鞘から抜き放った。普通の刀よりも長い見るからにごつい刀身が霧の中でもぎらりと光る。藤兵衛はそれを持ち、円陣の中央に何を恐れるでもなくすらりと立つ。一見朴訥に見えるこの男が恐ろしい大太刀を持つと、今までよりもさらに大きく見えることに全員が気がつく。
 このお侍、只者じゃねえ。今更ながらに皆が悟った。
 いつの間にか藤兵衛の周りにマタギ犬たちが集まり、その足元に伏せた。ここなら安全とでも言うかのように。
 霧はますます濃くなってくる。頭上の青空は見えるのに、横の視界は完全に閉ざされてしまった。
「来るぞ」藤兵衛が言うのと、犬たちが吠え始めるのがほぼ同時だった。


2)

 じきに地響きが聞こえてきた。犬たちが狂ったように吠える。吠えるというよりむしろそれは悲鳴に近かった。
「誰か見えるか」
「分かんねえ」
 マタギたちが焦りの籠った声でつぶやきあう。
「こちらの方角だ」
 言うなり藤兵衛は刀を頭上に横向きに構えた。古縁流参の斬撃の型炎弧の発動体勢。本来、古縁流の技は他見無用だが、この際だ、気にすまい。藤兵衛は断じた。
 炎弧は横なぎの技。これならばマタギたちの頭越しに攻撃ができる。
 無数の銃口が藤兵衛が示した方向に向く。次の瞬間、牛よりも巨大な猪が霧の中から飛び出した。そのままマタギたちのただ中へ恐れげもなく突進してくる。恐怖に狂った一匹の犬が円陣から飛び出た。そのまま狂ったように大猪に突撃すると、その牙の一撃で弾き飛ばされた。周囲の霧を赤く染めて犬の内臓がまき散らされる。そのついでに進路に現れた太い木も牙で引き裂くと、大猪は向きを変えてまたマタギたちへの突進を再開した。
 無数の火縄銃が次々に火を噴いた。大猪はそれを一切気にせずに突っ込んで来る。その体に弾かれた弾丸が火花を放ちながら周囲に散らばるのが感じ取れた。
 マタギの銃は単発銃だ。一度に撃てるのはただ一発のみ。たちまちにしてすべての火縄銃が空になる。こうなると後は地面に植えた熊槍だけが頼りだ。
 形勢を見て取った藤兵衛はマタギたちの頭上を飛び越えた。飛び越えざま手裏剣を二本放つ。それは狙い過たず大猪の目に命中すると敢え無く弾かれた。
 目ですら刺さらぬか。藤兵衛は舌打ちした。
 地面に足が着くと共に技を切り替える。
 参の皆伝技ススキ刈り。大太刀による水平斬り。だがその刀身の先には全身のすべての力が収束し、大木でも薙ぎ払えるほどにその斬撃は重い。
 むん。藤兵衛は無言の呼気の爆発に合わせて大太刀を振るった。
 全てを寸断する鋼の刃が綺麗な水面を描いて霧を切り裂く。硬い音がして大猪の首の辺りで激しい火花が散った。ぎゃりぎゃりと耳を覆いたくなるような不快な音を立てて、火花を散らす鋼の刃がその体の上を滑る。
 予想外の強烈な衝撃に大猪が突進を中止し、素早く方向転換すると霧の中へと逃げ込んだ。
「むう。何という硬さ」
 藤兵衛はつぶやいた。大木を一撃で切り飛ばすはずの参の斬撃が、まったく通用しなかったのだ。今のは肉の硬さではない。岩、いや鉄の硬さだ。その目玉ですら手裏剣を弾くとはあまりにも常軌を逸した化け物だ。
 古縁流に伝わる十二王の言い伝え。まったくの嘘というわけでは無かったのか。
 自分が亥の王に出逢ったことを初めて藤兵衛は知った。

 十二王は人間よりも長く生き、それぞれが違う神通力を持っている。亥の王の神通力はあの鉄もかくやと思わせる硬さか。藤兵衛は考えた。どうやればあんな化け物を倒せるというのか。



 マタギたちは巻き狩りを諦め、帰り支度をし始めた。
 鉄砲の弾すら通用しない怪物を目の当たりにしたのだから無理もない。このまま山に残れば全滅は必至である。
「犬は一匹やられちまったが、お侍さまのお蔭で人死にが出ねえですんだ。おらたちゃ山を降りるでよ。お侍さまはどうしやす?」
「それがしは今しばしあれを追ってみようと思う。ついては頼みがある。その熊槍を一本もらえぬか」
「そりゃあかまわねえだ。おらのを使ってくれ」
 マタギ頭は自分の熊槍を差し出した。マタギは自分の熊槍を大事にする。これはマタギ頭の精いっぱいの好意だと藤兵衛は理解した。
 熊槍は先端が丸い円筒を斜めに切ったようになった独特の穂先を持つ。これが刺さった傷は血が止まらず獲物は失血死に至る。
「しかしお侍さまあ、どえらい根性だなあ。おらたちゃもう駄目だ。あれを見たらもう戦えねえ。あんな化け物がこの世にいるなんてこの目で見た今でも信じられねえよ」
「うむ。ちょっとな。あの怪物は先祖代々からの宿敵かも知れぬ。縁があるなら見ぬ振りはできぬでな」

 彼らに別れを告げその姿が見えなくなると、藤兵衛は本来の山駆けの速さに戻って走り始めた。尾根を駆け抜け、崩れた崖を跳び越え、木の葉を揺らすことすらなく藪を走り抜ける。元が忍術に源流を持つ古縁流の体術は山岳修行者でさえ舌を巻く。
 先ほど感じた微かな気配を求めて山々を駆け巡った。あの大猪は今までにない反撃を受けて慌てて逃げた。だが受けた傷はどう見てもかすり傷だ。戦意が無くなるほどではない。かならずや受けた傷の復讐に来るに違いない。藤兵衛はそう思った。
 猪は鼻が良い。その犬よりも鋭い鼻で何でも嗅ぎ分ける。こうして自分の匂いを振りまけば、後は相手が見つけてくれる。
 駆け抜ける速度は落とさずに、途中で兎を捕まえ木の実を拾う。ついでに枯れ木の枝も集める。良さそうな場所を見つけて即席の庵と竈を作り、素早く腹拵えをした。
 後は待つだけだ。藤兵衛は倒木の上に腰を据えると座ったままですぐに眠りについた。命が危険に晒されている中でも平然と眠りにつける藤兵衛は恐ろしく肝が据わった男である。

 夢を見た。街の遊郭で居残りをしていたときの夢だ。遊ぶだけ遊んだ後に、懐にあったはずの金袋が無くっていることに気づいたときのだ。
 盗んだのは女郎の一人に違いないと思ったが、それを言えば店の信用に関わるから遊郭は徹底的に女郎たちを調べる。そして犯人が見つかればひどい折檻が行われる。
 だから藤兵衛は自分が文無しで居座ったと認めて、その後しばらく店の下働きをすることになった。
 店で暴れる嫌な客を取り押さえて以来は店の用心棒に昇格した。遊郭の男手である忘八という職には誘われなかったが、最後は店中の女郎たちに好かれ、惚れたはれたの取り合い合戦になったところで店主に頼まれるようにして追い出された。
 あれは楽しかったな、と思ったところで夢は終わった。何か異変が起きたのだ。
 目が覚めたのは、湿った風を感じたからだ。
 霧だ。これから周囲を満たすであろう濃い霧の前触れだ。この霧は亥の王である大猪の存在とは切り離せないものらしい。
 熊槍を手に取って重さを測る。本来古縁流の技は戦国大太刀で行う。だがこれからやる技は槍の方が状況に合っている。
 来るとしたら正面だ。奴は今まで無敵だったはず。だからこそ、傷を受けて逃げ出したという恥辱を振り払うには正面から来る。これは人間の考え方だが、妖物とてあながち違ってはいないのではないかと藤兵衛は読んでいた。

 藤兵衛が使う参の皆伝には二種の突き技がある。今必要な技は尖り蝗。その突きは大木に大穴を開ける威力がある。槍を正眼に構えて藤兵衛は待った。
 忍び寄る躊躇いがちなしめやかな足音。やがてそれは地響きに代わり霧の中から大猪の姿が出現した。それに応じて藤兵衛の体が前へかがむと、体が伸び、腕が伸び、さらに地面を蹴った。全ての力が一瞬にして剣先に収束され稲妻もかくやとばかりの突きが繰り出さる。
 強烈な衝撃が熊槍から腕を伝わり、その反動を殺さずに藤兵衛は回転しながら宙に跳んだ。その体の下を大猪の体が凄い勢いで通り抜ける。
 突き技というものはどれも必殺であるが、突きを放った直後に完全に無防備な状態に陥るという欠点がある。特に強烈な突き技であればあるほどそれは顕著になる。
 尖り蝗は突きの反動を使って跳ぶ技であり、攻撃に続く回避までの一連をまとめた技である。古縁流の突きの威力ならば反撃できる敵などいようはずもないのに、その後の跳躍がどうして必要なのかと常々藤兵衛は思っていた。だが今やその意味が理解できた。
 古縁流の技はいま目の前にいる人知を越えた怪物と戦うための技なのだ。

 空中で猫のように体を捻り着地するとともに手の中の折れた熊槍を投げ捨てる。置いておいた大太刀へと走ったが、そのときにはもう大猪は消えていた。
 霧が消え始める。地面に点々とついた血の跡を追って藤兵衛は走った。途中で引き抜かれた熊槍の穂先を見つける。その鋼の先端が無残にも潰れているのを見て、藤兵衛は舌を巻いた。参の皆伝の突き技でもかすり傷しかつけられないのか。
 近い。藤兵衛は警戒した。視界に出て来た大岩を飛び越え、その先の藪を抜ける。そこで痕跡は途絶えていた。
「うぬ。猪め。どこへ行った」
 お日様に照らされた大岩の上に乗ってしばし考える。藪の向こうに大猪が通り抜けた痕跡を探す。あの巨体が通ればそれなりの跡は残るはずだがそんなものはどこにもなかった。
 藤兵衛は大岩から飛び降りるとさらにその先を探った。さんざに探したが何も見つからず、藤兵衛は諦めるしかなかった。
 来た道を辿って元のところに戻る。

 何かが変だった。そしてすぐに気が付いた。途中で乗った大岩が無い。大岩があった場所の地面を探ると草が大きな範囲で押しつぶされている。
 どういうことだ。疑問が湧いた。
 まさか。いや、しかし、そうではないか。

 十二王はどれも神通力を持っている。亥の王の神通力は体を岩のように硬くすることだと思っていたが違ったようだ。岩のように硬くするのではなく。岩そのものに変ずる神通力なのだ。
 相手を襲うときは猪に変じ、傷を受けたときは岩に変じてやり過ごす。

 これは厄介だ。藤兵衛は腕を組んで考えた。相手が攻撃する一瞬だけがこちらの攻撃が通じる瞬間だ。そのときに放つ一撃だけで大猪を殺さない限りは岩に変じて逃げられる。だがあの大きさの猪を即死させるのは恐ろしく難しい。
 古縁流の参の皆伝の技は人知を越えた技だ。だがそれなのに、この怪物には通じない。今までの攻撃はいずれも掠り傷を負わすだけに終わっている。
 大きくて、硬くて、その上に丈夫。なんと厄介な三拍子。
 この怪物を倒せるのは自分の師匠ですら到達できなかった終の免許皆伝者のみではないか。
 自分が放浪生活を楽しんでいる間に、もしや師匠の下では終の免許皆伝者が生まれているやも知れぬ。だがもしそうであってもその者を連れて来たときには猪の王はどこかに立ち去っているであろう。この時を逃せば二度と再び亥の王に見えることはなかろう。

 だがそれ以上に、藤兵衛は自分の手でこれらすべての片をつけたかった。


3)

 考えた通りの場所を見つけ出すのに三日もかかった。
 硬そうな木を切り倒し、大振りのこん棒を作りだす。
 それから尾根を廻り歩き、先々で大声で宣言した。
「古縁流第十二代継承者藤原藤兵衛。亥の王に堂々の勝負を願う。来なければ卑怯者ぞ。日本全国に亥の王は臆病者と喧伝してくれよう」
 果たしてあの猪の妖物が人語を解するかどうかは謎だったが、恐らくは解るのではないかと思った。化け物とはそういうものだ。藤兵衛は呑気にそう信じていた。
 果たして翌日、藤兵衛が待ち構えているところに霧が湧いて来た。
 用意しておいたこん棒を手にして待つ。やがて霧が濃くなると地響きが近づいて来た。ここは一本道であり、左右は巨岩が塞いでいる。襲ってくるなら一方向からだ。
 呼吸を整え、神経を研ぎ澄ませる。
 今だ!
 心の命ずるままにこん棒を振り下ろす。それと同時に濃い霧が形を無し大猪へと変ずる。飛び出してきたその頭に狙いを過たずにこん棒が命中した。鈍い音を立てて大振りのこん棒が途中からへし折れる。
 だが、さしもの大猪もたたらを踏み、一瞬自分の位置を見失った。ふらつく頭を左右に振り、正面に立つ藤兵衛をきっと睨みつける。
「しまった!」
 大声で叫ぶと藤兵衛は折れたこん棒を捨てて逃げ出した。
 その後を一呼吸遅れて衝撃から立ち直った大猪が追う。山駆けで鍛えた藤兵衛の足と、元々が四つ足で人間よりも速く走れる大猪。両者とも恐ろしい速さだったがわずかに大猪の方が速い。最初に生まれた両者の間の距離がじりじりと縮まり始める。
 藤兵衛も命がけだ。大猪の牙にかかればいかに大男の藤兵衛とて真っ二つに引き裂かれるは必定。
 全力で走る藤兵衛だが大猪を振り切れない。その上体が一瞬だけかがみ地面から赤い布が巻き付けてある小枝を拾い上げる。その隙をついて大猪が藤兵衛のすぐ後ろにまで迫った。顎から生えている鋭い牙が揺れる。それは人間でも木でも岩でも平気で引き裂く死の使いだ。
 藤兵衛が跳んだ。大猪が牙を剥く。必死の遁走劇の最中の一人と一匹の足の下から大地が消えた。
 次の瞬間、両者は空中にあった。背後に立った今越えたばかりの崖の縁がある。罠にかかったことを知り、大猪が吠えた。
 大猪は落下した。しかし藤兵衛だけは空中でとどまり、大きく弧を描いて崖の腹に足をついて留まった。その手には小枝と、それに結び付けた山蛾の糸がある。
 古縁流の秘術で作る山蛾の糸。その糸は、細いが大の大人の体重にもよく耐える。半透明の糸はこの霧の中では見ることは叶わぬ。その糸の先は予め崖の上の岩に結び付けておいた。
 足元に広がる深い霧の底の底で何か大きくて重いものが大地に激突する音がした。
 いかに神通力で硬くなっている大猪と言えど限度はある。この高さなら死なぬまでも深い傷を負ったはず。藤兵衛は山蛾の糸をその指の力だけで辿り体を引き上げる。そうやって素早く崖を登ると、予め調べておいた道を辿って崖下へと降りた。
 霧が薄れてきている。
 崖下は岩盤が露出した岩棚だ。その中央に大きな岩が一つ鎮座していた。下調べのときには無かったものだ。藤兵衛は恐れることなくその岩に手を当てた。
「む。温かい。やはりそうか」
 日の射さぬこの崖下で岩が暖まるなどあり得ない。これこそこの大岩が先ほどの大猪であった証である。
 藤兵衛は素早く大岩の周りを廻った。岩棚には亀裂が走っていたが、この大岩自体にはヒビ一つついていない。藤兵衛は頭上の崖を見上げた。
「あそこから落ちても傷がつかないとは何たる硬さ。だがそれでも効くことは効いたようだな」
 しかしこれは。藤兵衛は温かい大岩を撫でながら考えた。
 岩が本体でそれが猪に変じるのか、それとも猪が本体で岩に変じるのか。どちらにせよ、殺せば正体がわかるというものぞ。
 藤兵衛は背中の戦国大太刀を下すと刀身を鞘から引き抜いた。それを頭上高く大上段に持ち上げる。狙いは大岩を猪と見立てた場合の首に当たる部分。
「古縁流参の斬撃。落葉」
 大木すら一刀両断する参の免許皆伝の斬撃技である。技名を言うなり刀を静かに振り下ろした。まるで木の葉がゆっくりと舞い落ちるかのような優しく静かな剣。だがこの斬撃に切れぬものはない。その刃には恐るべき膂力が込められている。
 だが事は藤兵衛の予想を裏切った。大岩の表面で派手に火花が散り、刃が弾かれる。返って来た衝撃で手がじんと痺れた。
 藤兵衛は舌を巻いた。これは鉄の硬さなんてものではない。正しくは鋼鉄の硬さだ。いかな落葉の斬撃でも鋼鉄までは切れぬ。

 これでは手も足も出ぬ。そのうち藤兵衛がいない隙にまた霧を湧かして大猪はここより逃げ去るであろう。そうなればもはや二度と藤兵衛の誘いには乗るまい。
 ここでいま確実に仕留めるしかないのだ。だが藤兵衛の持つ参の免許皆伝技ではどれも歯が立たない。
 終の技が要る。だが藤兵衛は終の技にはただの一度も成功していない。
 藤兵衛は覚悟を決めた。この場で終の技に到達する。それしかない。
 師匠は何度も藤兵衛に教え諭していた。
 弐の皆伝、参の皆伝までは肉体の修練が主たる要因である。だが終の皆伝は心の使いようだと言われている。剣の技がその真価を発揮するためには心の置きようが大事なのだと。そのために古縁流は藤兵衛がもっとも苦手な座禅を修行に取り入れているぐらいだ。
 未だ藤兵衛は終の技には達していない。さらに言うならば、藤兵衛の師匠ですら終の技には今一つ届いていない。そして今ここで必要なのは終の技なのだ。

 終の突き技、滴抜。
 片腕に沿わせた刃を上に向けて、大岩に当てる。もしこれが猪ならば、この刃の先に心臓があるはず。型の発動の体勢を取り、切っ先のさらに先にあるはずの大猪の心臓を心の中に思い浮かべる。
 型はこれで良い。この技の発動に必要なのは鏡水一滴の心。心の中に教えられた極意を思い浮かべる。

 藤兵衛は集中した。
 集中した。
 集中して集中して集中した。
 刀の切っ先に集中した。
 大岩の中にあるはずの相手の心臓に集中した。
 それを貫くことに集中した。
 刀そのものが藤兵衛になり、藤兵衛そのものが刀になった。
 やがて周囲の音が消え始めた。続いて周囲の光景も消え去る。敵前にも関わらず、藤兵衛は静寂の中、無限に広がる水の上にいた。目の前には大岩。そして刀を構えた自分だけしかいない。
 これは岩に非ず、猪なり。
 藤兵衛はつぶやいた。岩に当てた手の下で未だにそれは岩の感触を保っている。
 これは岩に非ず、猪なり。
 またもやつぶやいた。
 これは岩に非ず、猪なり。いまここにて我はこの猪を屠る。

 そのとき、天啓が生じた。

 天から一滴の水滴が落ちて来た。それは水面にぶつかり、波紋を広げた。落ちた場所を中心にして完全なる円が広がる。
 これは岩に非ず、猪なり。
 手の下にある岩の硬い感触が一瞬だけ柔らかく感じた。
 波紋が周囲から戻って来る。それが一点にまとまる瞬間、藤兵衛の手が己の意思あるものかのように動いた。何の抵抗も見せずに刀の切っ先は大岩に沈み込み、鍔まで深く貫いた。

 貫かれた瞬間、大岩はびくりと動き、そしてただの岩へと変じた。その体を大太刀は見事に貫き、先端は向こうにまで突き出ている。
 これが剣の極みというものなのか。藤兵衛は深く感動した。その瞬間は素早く過ぎ去り、藤兵衛は崖の下にいる自分に気が付いた。

 刀を抜こうとしたが、今度はいくら力を込めてもびくともしない。鏡水一滴の心に再び戻ろうとしたがどうしても出来なかった。
「わずかひと時だけの終の心地か。刀は諦めるしかないな」
 藤兵衛はため息をついた。手を伸ばして冷えゆく大岩を撫でる。
「楽しかったな。おい」
 当然ながら返事はない。
「なんだ、やはりただの岩か」
 ボリボリと頭を掻き、刀が刺さったままの大岩を睨んだ。
「やれやれ、大事な刀を取られてその上に猪鍋はお預けとは、これでは割りに合わぬのう」
 誰に聞かせるでもなく藤兵衛はそう言い捨てると、一人山を降りた。