母の友人の息子さんが死にかけた。
脳の血管の病気である。余命一か月。医者は匙を投げた。
医者が何を投げようとも、母親というものは決して息子を見捨てはしないものである。
万に一つの奇跡を願って毎日甲斐甲斐しく世話をした。
スッポンのスープが良いと聞けば毎日スッポンのスープを作って病院に通った。
だがしかし、何の成果も無いままに日は過ぎた。息子は集中治療室に入れられ、医者は覚悟してくださいとその友人に告げた。
避けられない死の宣告。
その頃、教団で流行っていたのが「延命陀羅尼呪」である。このお経を唱えると、その人物が持っている徳に従い、三日三か月三年の内のどれかだけ寿命が延びる。そういう触れ込みであった。
母はこれを友人のために貰って来た。もともと母の友人は熱心な仏教徒だ。こういうことに抵抗は無かった。
毎日熱心に陀羅尼呪を読み、祈った。
驚くべきことに、これが効いた。どうやら人の死というものは簡単に延びるものらしい。
医者の面目を丸つぶれにしながら集中治療室から出て来た息子は、二週間後には退院できるまでに回復した。
この回復は医者にこう言わしめた。「奇跡だ」
退院し、平穏に戻る生活。親の願いは天に通じたのだ。
そしてぴったり三か月後、夕食の最中に息子は倒れた。ただちに病院に運ばれたが、脳の血管という血管から出血しており、医者には打つ手が無かった。
たかだか三か月の延命は、重いのか軽いのか?
だがその三か月で親子は別れの覚悟を持つことができた。それは価値のあることだったのではないかと、私はそう信じている。