強い生物にはその種族に擬態する生物が必ずいる。
例えばアリがそうである。アリは昆虫の世界では王様である。数が多く、攻撃的で、強い顎と針そして他の昆虫には致命的なギ酸放射ができる。
そしてアリの群れの中には多くの擬態生物が棲んでいる。アリそのものに擬態する蜘蛛であるアリグモというものもあれば、アリの幼虫のような匂いを振りまくことでアリの群れの中でも襲われない蛾の幼虫などもいる。中には獲物を運ぶアリの姿に偽装する蜘蛛などという手のこんだものもいる。この場合、獲物に見えるのが蜘蛛の胴体で、運んでいるアリに見えるものが蜘蛛の足である。
蛇に擬態する蛾などもいる。羽の模様が蛇の頭に見えるのである。これなら間違っても鳥には襲われない。
毒虫に擬態する無毒の虫というのも数多く存在する。毒虫が持つ警戒色という派手な色と模様に似せて擬態するのである。
長いものには巻かれろ。まさにその言葉通りの世界である。
振り返ってみれば人間はどうなのだろう。この地球の最上位支配種族である人間にはそのようなものはいないのだろうか?
すなわち人間モドキが。
生物の感覚器官はカメラとは異なり、相当いい加減な神経組織を実に適当に組み合わせて構成されている。そのため、エサやパートナーの捕捉以外の点では実に頼りないことが多い。つまりは錯覚の塊なのである。
一例を挙げよう。
郭公(かっこう)は他の鳥に自分のヒナを育てさせる托卵を生存の基本戦術としている鳥だが、目的とする相手の鳥を一種類に絞ることは知られていない。托卵のし過ぎで相手の種が根絶しかけると托卵可能な別の鳥を探すのだ。
過去に郭公にある鳥が狙われたことがあった。その鳥は卵の模様を変えることで郭公のターゲットから外れようとした。すなわち自分の卵と郭公の卵を見分けられるようにしたのである。そうなると郭公も黙ってはいない。同じ模様を卵の殻に付け始める。こうして郭公とその鳥の間での熾烈な生存競争が始まった。
進化を繰り返すうちにその鳥の卵は最終的にはスイカそっくりの模様を獲得した。緑の地色に黄色の縞模様がついた冗談のような卵である。そこまで変異が進んで初めて郭公はその鳥をターゲットから外した。
このケースの場合は、人間が見れば郭公の卵の方が倍以上に大きいのですぐに分かるのだが、これが鳥には分からない。卵が大きいからといって育児放棄していては種族が絶えてしまうので、卵の大きさは判断基準に入れてはならないのだ。
このように各生物の事情に合わせて作られている感覚器官というものは実に信用がならないものなのだ。
この事情は人間も同じで、人間の感覚器官も実に穴だらけの働きをする。例えば蛍光灯は一秒間に五十回程度の点滅を繰り返すが、人間の眼では連続して点灯しているように見える。紫外線も赤外線も人間の眼では感知できない。
そこが人間モドキに取っては付け目だ。
足が無数に生えていようが、皮膚が緑色をしていようが、人間の眼の特性に合わせていれば検出できないのだ。
なぜこんなことを説明しているのかと言えば、実話怪談の中に結構この手の話が出てくることに起因する。
美女が横を歩いている。それを横目で見るとスカートの下から余分な足が覗いているという話だ。また角度によっては顔が緑色に見える人間たちの話もある。
それらは本当に見間違いや作り話なのだろうか?
皆で撮った写真の中に数の合わない手や足が写ることがあるのはそこに人間モドキが紛れ込んでいるせいではないのか?
近い将来、国民に橙的にDNA検査が広まったときに、この疑惑の真偽は証明されるであろう。