ある日のことです。漁師が浜に出て網を投げていると、それはそれは立派な黄金色のヒラメが掛かりました。
そう。ヒラメです。平らな体をしていて両目が上側についた魚のことです。高級魚なので、良い値で売ることができます。当然ながら漁師は喜びました。これで家に帰っても女房に小言を言われずにすみます。
己の運命を悟ったヒラメは泣いて命乞いをしました。
「お願いです。優しい漁師さん。どうか私を見逃してはもらえないでしょうか」
魚が言葉を喋ったことに驚いた漁師ですが、すぐに網からヒラメを外してやりました。優しい、という呼びかけには言葉で相手を操ろうという意図が透けて見えていましたが、文字通り手も足も出ないヒラメの立場としては、そのような手段を使うしかないのだろうと、漁師は大人の寛大さで許してやりました。
「しかし奇妙な話だ。お前さん、魚のくせに喋ることができるってことは、何かあれだろ? 魔法使いとか、それとも海の王子さまとか、そういった類のものだろ。ごく普通の漁師であるこのワシのごく普通の網からどうして逃げ出せない?」
当然の疑問を漁師はヒラメにぶつけました。これでヒラメが返事をしなかったら、傍から見てただの危ない人になってしまいます。だけどヒラメはきちんと返答をしたので、もう大丈夫です。
「たしかに私は魔法を使えます。それも凄いレベルの魔法をね」
ここでヒラメはため息をつきました。海の中に小さな小さな泡が立ち昇ります。
「でも、自分のためには使えないという規則になっていて、その規則は絶対なんです。そうでなかったら、私はこんなところで魚をやっていたりはしませんよ」
「その規則を誰が決めたんだい」
これも当然の疑問を漁師は口にしました。
「お察しの通りに、神さまですよ」
そう答えると用は済んだとばかりに、ヒラメは鰭をひらひらさせると、すぐに海の底へと潜って行ってしまいました。
きょうはもう漁はおしまいだ。そう決めて漁師は家に帰りました。
漁師の家は海から大分離れた荒野の真ん中にあります。以前はもっと海の近くに住んでいたのですが、漁師の奥さんが海風は体が冷えるから嫌だと言うので、ここに移り住んだのです。
「ジェーン・ドウや。ジェーン・ドウや。今帰ったよ」
漁師の奥さんは政治的そして市民運動的理由により、ジェーン・ドウという名前でした。もちろん、れっきとした生きている人間で、べつに漁師が死体愛好家というわけではありません。
ご存知無い方のために説明しておきますが、ジェーン・ドウというのは身元不明の死体につけられる仮の名前の一つです。
手ぶらで帰った漁師をしばらくのあいだ毒舌で痛めつけた後に、海で何があったのかを漁師の奥さんは知りました。
「なんて馬鹿なんだい。あんたは。折角のチャンスをふいにして。どうして魔法のヒラメに何も要求しなかったんだい。もしかしたら金持ちになることもできたかもしれないのに」
奥さんは家の中を手で示して見せました。
「ここはまったく酷い場所だよ。コエダメってのはここのことを言うんだよ。近くの沼の臭いはたまらないし、家は小さくて汚いし、今夜食べるものさえろくに無いんだよ」
以前に住んでいた海辺の家はもっと広かったのに。漁師はそう思いましたが、敢えて反論はしませんでした。漁師の奥さんは理屈が通用する相手ではなかったためです。同じようにして、家が汚いのは奥さんが掃除をしないためだという理屈も、食べ物が少ないのは奥さんが驚くべき大食いだからという理屈も、言葉にはされませんでした。
「今からでも遅くは無いよ。海に行ってそのヒラメを呼び出して願い事をするんだ。あたしはもっと立派な家に住みたいんだ」
もっと立派な家に住みたいのならワシと離婚して、それからもっと稼ぎの良い立派な旦那を見つければよいんだ。そうすればワシもコイツも幸せになれるのに。頭の中でそう呟きながら、漁師は横目でちらりと奥さんの体を見ました。締まりなくたるんだお腹。これでは何をどうしても立派な旦那などみつかるわけがない。
漁師の心に諦めの気持ちが湧きました。
再び漁師が海に出てみると、少しばかり風が出て、海は荒れ始めていました。
漁師は浜辺に立つと、海に向けて呼びかけました。
「ヒラメよ、ヒラメ。ヒラメさん。ワシの呼びかけに応えて出てきてくれんか。ワシの奥さんのジェーンはどうしても我がままを言うのをやめんのじゃ」
「だいたい予想していましたけどね」
海の中からヒラメがひょっこりと顔を出して言いました。
「で、奥さんは何と言っているんです?」
「でもお前さん、魔法のヒラメなんじゃろう? ワシが言わずとも判るんじゃないか」
否定の仕草として、ちっちっちっと人差し指を振りたてながら、ヒラメが答えました。
「人間が頭の中で考える本当の願いと、言葉にした願いは微妙に異なるのですよ。そこがこちらの付け目でね」
どこかから取り出した人差し指をまたどこかにしまいながら、ヒラメは続けました。
「さてっと、では、奥さんの願いは何ですか?」
「ああ、聞いておくれ、ヒラメよ。ワシの奥さんのジェーンはもっと大きな家に住みたいと言うんだ」
「家に帰ってごらんなさい。奥さんは大きな家に住んでいますよ」
どこかから出したチェックリストに丸を書くと、ヒラメはまた海に潜って消えてしまい、漁師は仕方なく自分の家へと戻りました。
家に戻ってみると、元の家があった場所には大きくて立派な新築の大邸宅が建っていました。削りたての新鮮な木の匂いと、磨かれた大理石の玄関。綺麗に整えられたレンガの壁に、落ち着いた色合いの屋根。さらには見事な花の咲き誇る庭と、裏側には家畜小屋までが備わっていて、丸々と肥えたヤギや牛が柵の中に繋がれていました。漁師ががっかりしたことに、その柵の中に奥さんの姿はありませんでした。
「見てよ、あんた。やっぱり魔法のヒラメだったんだね」
奥さんは大邸宅の中央の居間でその大きな体を休めていました。
「で、お金はいつ届くんだい?」奥さんは言いました。
「お金って何のことだい?」漁師は聞き返しました。
「まあ呆れた。あんた、家だけを要求したのかい。なんてえ馬鹿者だろ。ついでにお金も要求するのが普通の人間じゃないのかい。本当に気の効かない人だね。大きな家だけあったって、固定資産税はどうやって払うつもりなんだい。もう一度ヒラメに掛け合いにいかないと酷い目に遭わせるよ」
もう十分酷い目には遭っているとは言い返さずに、漁師はまた浜辺に出かけました。
海ではごうごうと風が轟き、大きな波がお互いにぶつかりあって砕けていました。
漁師は浜辺に立つと、海に向けて呼びかけました。
「ヒラメよ、ヒラメ。ヒラメさん。ワシの呼びかけに応えて出てきてくれんか。ワシの奥さんのジェーンはどうしても我がままを言うのをやめんのじゃ」
「やっぱりね」呼びかけに応じて出て来たヒラメはウインクをしてみせました。
「人間の欲には際限がありません。今度は何ですか? 当ててみせましょう。お金でしょ?」
「こいつは驚いた。正解じゃよ」
「ごく簡単な推理ですよ。家にお帰りなさい。奥さんは金持ちです」
次のチェックリストに印をつけるとヒラメはまた海の底へと戻っていきました。
家に戻ってみると、奥さんは札束の山の中でうれしい悲鳴を上げていました。
札束の一つに火をつけて、それで葉巻をくゆらせると奥さんは漁師に命じました。
「お金だけじゃ寂しいね。さっき国税庁の役人が来てね、不労所得だから税金を払えって喚いていたよ。あたしゃ、せっかくのお金を税金で持っていかれるのは嫌だよ。
お前さん、ヒラメに言ってやっておくれ。あたしゃこの国の皇帝になりたい。皇帝なら税金なんか取られっこない」
それはどうかなと思いながらも、漁師はまた浜辺に出かけることになりました。その足取りはとても重いものでした。
海では空の色が見えないほどの暗雲が渦巻き、岸壁のすべてを洗い流せとばかりに潮が逆巻いています。
漁師は浜辺に立つと、海に向けて呼びかけました。
「ヒラメよ、ヒラメ。ヒラメさん。ワシの呼びかけに応えて出てきてくれんか。ワシの奥さんのジェーンはどうしても我がままを言うのをやめんのじゃ」
「はいはい、今度は何ですか」
バスローブを着たヒラメが出てきていいました。
「今度は皇帝になりたいとか言い出したんでしょう」
「その通りじゃ。どうして分かるんだ」漁師は目を剝きました。
「魔法のヒラメを長いことやっているんでね。お家にお帰りなさい。奥さんは皇帝です」
チェックリストの最後の項目に何かを書き込むと、ヒラメは姿を消しました。
漁師が家に帰ってみると、そこには巨大な宮殿があり、奥さんは大勢のお付きの者たちに囲まれてその玉座に座っていました。
「お前さん。あたしゃいいことを考え付いたよ。皇帝なんかじゃ物足りない。あたしは神になりたい。悪いけど魔法のヒラメにそう言ってきておくれ。さっさといかないと死刑執行人にあんたの首を斬らせるよ」
浜辺に向かう漁師の足取りはこれまでにないほど重く辛いものになりました。
もはや荒れ狂う空と海の区別はつきません。そこにあるのは水の地獄とでも言うべきもので、世界の終わりを予感させる恐怖の光景です。その地獄の中を大きなヒレと棘を持った怪物が何匹も撥ね跳んでいます。
漁師は浜辺に立つと、この地獄に向けて呼びかけました。
「ヒラメよ、ヒラメ。ヒラメさん。ワシの呼びかけに応えて出てきてくれんか。ワシの奥さんのジェーンはどうしても我がままを言うのをやめんのじゃ」
ヒラメが深い深い海、いや闇の底から現れました。その頭の上には不思議な形の冠を被っています。天は引き裂け、雷の光だけが周囲を照らします。
「汝なにを望むや」ヒラメは轟く声で問いかけました。
「恐れ多くも御高きお方。わしの愚かなる妻は自身が神になりたいと言っております」
狂笑。爆笑。呵々大笑。そして最後に一言だけ。
「そなたの家に帰るがよい」
漁師が震える足で家に戻ると、そこには宮殿も家も無く、代わりに光り輝く巨大な何かが存在していました。
「お前さん。あたしゃ、神になっちゃったよ」
光輝く何かは宣言しました。
「ああっ! 助けておくれ。世界中のすべての光景が、すべての音が、すべての悲鳴が、すべての苦しみが、すべての望みが流れ込む。あたしに助けてくれと叫ぶんだ。あたしはすべてを救わなくちゃならない。でもどうやって。神の力は無限だけどそれでも限界はあるんだ」
「ジェーン・ドウ。お前は神なんだろ。神を辞めればいいじゃないか」
「できないんだよ。お前さん。あたしは神で、神はすべてを愛している。愛するものを捨てて、元の人間に戻ることなんてできやしない。お願いだよ。魔法のヒラメに頼んでおくれ。あたしゃこんな重荷を背負うことなんかできっこない」
四の五の言わず、漁師はこんどは光の速さで浜辺に向かいました。
海はひどく穏やかで、静かな青空の平穏がその上に伸びていました。その上に光の文字が浮かんでいます。
『神、空に知ろしめす。すべて世は事も無し』
漁師は浜辺に立つと、優しき青に染まる海に向けて呼びかけました。
「ヒラメよ、ヒラメ。ヒラメさん。ワシの呼びかけに応えて出てきてくれんか。神さまのジェーンがお前を呼んでいるのじゃ」
ゆっくりと深いところからヒラメが浮き上がってくると、顔を出しました。
「前任者の神としての私の役目は終わりました。これ以上は何もできません」
ヒラメは説明した。
「また次の誰かが神になろうとするまでは、あなたの元奥さんは神を続ける必要があります」
「そんな!」
「一つ指摘しますが、わたしが借りがあったのは命を助けてくれた貴方本人に対してです。貴方の奥さんには何の借りもなかった。さて、一つお聞きしますが、貴方は今の状況を鑑みて、私が十分に借りを返したと思いますか?」
漁師は考えてみた。ジェーンは自分の望みを得ることができ、そして自分は今や自由だ!
「ああ、うん。そうだな。借りは十分に返してもらえたと思う。でもジェーンはワシを恨まないだろうか?」
「神の仕事は目が回るほど忙しいものです。個人に対する興味は長続きしませんよ。すでに神さまは貴方のことなんか忘れてしまっています」
元は神だったヒラメは長い長い息を吐いた。
「何千年に渡る苦難の末、私もやっと自由になった。これからは普通のヒラメとして人生を全うできる。どうです、私、良い演技だったでしょう」
ヒラメはどこかからチェックリストを取り出すと、その紙を引き裂いて捨てた。漁師に対して最後に一つ挨拶すると、またもや深い深い海の底へと戻っていきました。