ティムポール・ディムスへの夜旅は、短いが決して順調とは言えなかった。意地悪な月は雲の中に隠れ、暗い森の道は否応無しにケインの足を痛めつけた。いばらの藪を踏み抜き、何度かは転び、沼地には足を取られた。
これがフェアなゲームだと死体は明言したが、それは嘘であると、ケインはひそかに確信した。暗夜行路など普通の人間にはひどい苦難でしかない。
ようやくティムポール・ディムスの教会が夜の星を背景に姿を現した。
「ついたぞ。あんたのお望みのティムポール・ディムスだ」
「ああ」死体がうれしそうな声を出した。
「ここだここだ。噂ではアイルランド中で一番、死人への待遇のよい教会だ」
「待遇?」ケインは眉をひそめた。
「三食昼寝つき」死体は説明した。「まあ、死人というものは、夜はたいがい起きているから、昼に寝ないと仕方がないのだが。それに死人は飯を食わないことも付け加えておく」
「夜に起きるか」ケインは嘆息した。「あんたのように喋る死体ってのは初めてだがね」
「まあ、普通は喋らんね。一度、現世から身を引いた者は、あまり元の世界とはかかわりたがらないものだからな」
「だが、あんたはまだ喋っている」
「それはおれがまだ、この世に縛りつけられている存在だからさ。お前さんがそれを断ち切ってくれれば、おれは恩に着るよ」
「別に恩に着る必要はないさ。名無しの死体さんよ。ただおれを冷たい奴だと言わないようにしてくれればいい」
死体の手が上がると、教会の扉を指差した。
「入り口の鉄柵は開いている。教会の扉の鍵は、扉の上側のでっぱりの所においてある」
「至れり尽くせりだな。ありがたくて涙が出る」
そう言いながら、ケインは教会の入り口の柵を押し開けると、扉の上側を探った。伸ばした手が年代物の錆びた鍵に触れた。それを鍵穴にいれると、重々しいきしみ音とともに、扉は開いた。
「神さま、お許しを。盗みに入ったのではないのです」ケインはつぶやいた。
「盗むどころか置いていくんだがな」死体が軽口を叩いた。
教会の中は無人で真っ暗だった。消えかかったロウソクが一本だけ弱弱しい灯りを投げている。ケインは献灯テーブルの下に燃え残りのロウソクを見つけると、灯りを増やした。祭壇の隅にシャベルを見つけ、敷石を一枚剥がした。
「この下に埋めるんだな」
背中の死体にもう一度確認を取ると、剥き出しになった地面にシャベルを突き立てた。凄まじい悲鳴と共に老婆が土の下から飛び出ると腐りかけた腕でシャベルを掴んだ。
「なんてことをするんだい。この間抜け。ここはあたしの場所だ」
「うあ」さしものケインも言葉を失った。
「すまねえな。ばあさん。知らなかったもんで」ケインの背中で死体が答えた。「どこかいい場所はないか。ほら、一か所ぐらいは俺が入れる場所が空いているだろ?」
「あるわけないだろ。ここは一等地なんだぞ」老婆が喚いた。「あんた、教会にいくら献金した。この場所は安かあないんだ。貧乏人が入れるところじゃないんだよ」
「何だかもの凄く世知辛い話だなあ」ケインは感想を漏らした。
「あんた、何を言っているんだ。人間の世界で金が絡まない場所が一つでもあるかね」老婆の死体が指摘した。
ひそひそ声で死体はケインに囁いた。
「おい、ケイン。ものは相談だが、この婆さんやっちまおうぜ。それで代わりに俺を埋めるんだ」
「聞こえているよ。あたしゃ地獄で鍛えられた地獄耳なんだ。そんなことができるならやってみるがいい」
老婆は教会中に轟くような声で叫び始めた。
「ここに埋まっている皆、起きとくれ。侵入者だ。泥棒だ。墓暴きだ。何とかしないと、あたしたちゃみんなここから追い出されちゃうよ」
その声に応じて、周囲の敷石が一斉に蠢き始めた。外れた敷石の下からたくさんの骨の手が伸びる。
「いけねえ。逃げろ」
死体が慌てて忠告したがその前にケインは逃げ出していた。しばらく走ってから荒い息をつきながら立ち止まり、背後の音に耳を澄ませた。
「追って来てはいないな」
「ちぇっ。追って来ていたらその分空きができるってことだ。代わりに俺が入れたのに」
「馬鹿言え。その前に俺が八つ裂きになってしまう」
「それもそうだな。もっともそうなっても俺はちっとも構わんが」
「俺は構うね」
「さて、次はキャリック・ファド・ビク・オーラスだな。あのあたりでは一番古い墓地だ」
ケイン・コナガンは考え込んだ。
「ちょっと行先を一通り言ってくれないか」
「お安い御用だ。次はキャリック・ファド・ビク・オーラス、それからティムポール・ロウナン、イムロウグ・ファダ、そして最後がキム・ブリーディア」
「それなんだが、最後のキムに行けば何があっても死体を埋められるって話だろ。じゃあ最初からキムに埋めればいいじゃないか」
「そりゃダメだ。埋める順番は決められているし、それを違えたらゲームにならない」
「それはどうかな?
良く思い出してみろ。確かに妖精の爺さんは最初はその順番で言っていた。だが俺と口論して疲れた後はどう言っていた?
『夜明けまでに、いま言ったどこかに死体を埋めるのだ』と言っていたよな」
「そりゃ言葉の綾ってもんだ」
「言葉の綾だろうが何だろうが、俺が約束したときに言っていたのはそうだったぞ。もし俺が最初に話しかけられたときに約束していればそりゃあ順番通りに回るさ。だが俺が約束した時点のゲームの規則では『どこでもいい』になっていたからな。妖精の爺さん、相当苛々していたから言葉が適当になっていたんだ」
ケインの背中でしばらくの間、死体は考えていた。そしてようやく言った。
「お前の勝ちだ。お前が正しい。それにお前が勝てば俺もこの苦労から解放される。それでいこう」
「とは言え、キム・ブリーディアまでは三十マイルってとこか。重い死体を担いで歩くとすれば大変だな。それも夜明けまでと時間が限られている」
「なあ、ケイン」
「どこかで馬を調達したいな。この辺りで一番近い街は。ええっと、深夜でも貸して貰えるかな」
「なあ、ケインったら」
「うるさいな。考えごとの邪魔をしないでくれないか」
「なあ、ケイン。何か聞こえないか?」
二人は耳を澄ませた。ほどなくそれが聞こえて来た。狩りの時に使う角笛の音だ。
「こんな深夜に狩りだって? 神様だって寝ている時間だぞ」
「俺は正体が分かったぞ。逃げろ、ケイン。闇の狩人がやって来る。手遅れにならないうちに逃げろ」
だが時すでに遅かった。無数の黒い猟犬が闇の中を疾走してくると二人、いや一人と一体の周りを取り囲んだ。後から首無し馬に乗った幽霊騎士がやってきた。骸骨寸前までやせ衰えた騎士が鎧に身を固めている。生気のない皮膚が突き出た頬骨に張り付いている。その上の二つの眼窩に並ぶのは鈍く赤く輝く地獄の石炭であった。
「よしよし、今宵の獲物が掛かったようだな」幽霊騎士が宣言した。「余に出遭ったからには、お前たちの命と魂は貰うぞ」
「やりたくても命なんか持ってねえよ」死体がぶつぶつと言った。
「何ぞ言うたか。下郎」幽霊騎士が轟く声で叫んだ。
「何も言っていません。死体は無口なものですぜ。旦那さま」死体が慌てて答えた。
「やれやれ。今夜は何て夜だ。妖精に死体は担がされるし、幽霊騎士に命を狙われるなんて」
それを聞いて幽霊騎士は嘆息した。
「何だ。そなた、妖精どもの先約ありか。これではそなたを狩るわけにはいかんなあ。久しぶりの獲物だったのに」
ケインは頭を上げた。
「殺さないのか?」
「殺さない。もう行っていいぞ」
幽霊騎士が合図すると闇の猟犬たちが一人と一体の前に道を開けた。
「それなら助けついでに一つ頼みがある」
ケイン・コナガンは恐れを知らない。いや、人並みに恐れは知っているがそれに従うほど素直ではない。彼の体にはアイルランド魂が溢れている。
「頼み事とはなんだ?」
滅多に人に頼み事をされたことのない幽霊騎士がわずかな驚きを込めて問うた。
「夜明けまでにこの死体を連れてキム・ブリーディアに行かねばならない。できればその馬を貸してくれ」
幽霊騎士が絶句した。
「そなた、自分が何を言っておるのか判っているのか。何よりどうして余がそなたを助けねばならない」
「では一つ聞くが、あなたはアイルランド人か?」
「然り。余は生粋のアイルランド人、高貴な生まれよ」
「俺はケイン・コナガン。同じくアイルランド人だ。そしてこの背中の友もアイルランド人だ」
ケインの背中の上で、死体がお辞儀をした。
「そして俺はこのアイルランド人の友のために命がけの戦いに挑んでいる。それが気高き行いだと思うからだ。あんたはどうだ? そう思うか?」
「実に、友人のために命を懸けるは気高き行いなり」
「では例えば友ではなく、同じアイルランド人の同胞のために命を懸けるのはどうだ? やはり気高き行いであろう」
「確かに気高き行いだ」
「ではその戦いを行っているアイルランド人を助けるのは、すべてのアイルランド人に取っては名誉な行いではないのか」
「その通りだ。そしていま、余にも判ったぞ」
幽霊騎士は首無し馬から飛び降りた。
「乗るがよい。気高き友よ。我が愛馬シルヴィアに。大事に扱ってくれ。シルヴィアは吾輩が敵に殺された後、吾輩の仇を取ろうとして、同じく敵に首を切り落とされてしまったのだ」
幽霊騎士は恐ろしい力でケインと死体を馬の上に投げ上げた。
「夜明けまでにシルヴィアを解放してくれ。この娘は賢いからすぐに我が下に駆け戻るであろう」
「心の底から感謝する。気高き騎士どのよ」
「お安い御用だ。吾輩の中にはいつでも支払うべき正義が溢れている」
骸骨騎士は馬の尻を叩いた。
「はいよー。シルヴィア! キム・ブリーディアまで走り抜け!」
まるで雲に乗っているようだった。馬には首が無かったので前方からの風はまともに吹き付けて来たが。ケインは必死で死体ともども鞍にしがみつき、後は首無し馬に任せた。道と言わず、山と言わず、谷と言わず、首無し馬のシルヴィアは一直線に駆け抜けた。行く手を阻む城の垂直の城壁を駆け上り、きらめく水面を沈むことなく疾走した。半分になった月が照らす野原に咲く花をそよとも揺らすことなく駆け抜けた。
やがてケインの鞍を掴む手の力が無くなり始めた頃、キム・ブリーディアに着いた。そこは中央に小さな教会を抱く広大な墓地であった。うち続く戦乱の死者のために新しく用意された場所でもある。念のため馬を墓地の外に繋いだまま、死体を背負ったままケインは中ほどへと進んだ。ほどなく空き地の中央に開いたままの墓を見つけた。その中には空の棺が一つ配置されていた。
「お誂え向きだな」ケインは感想を漏らした。
「ちょっと待て、棺の表を見てみろ」死体が指摘した。
ケインは棺の表を調べて、そこに彫ってある名前を読んだ。
「俺の名だ」死体がびっくりしたように言った。「こりゃ俺の棺桶だ。ここでずっと俺のことを待っていたのか」
「妖精たちにもいいところはあるんだな。万一、人間側がゲームに勝ったときのためにきちんと棺を用意しておくとは。
友よ。中に入んな。埋めてやるよ」
「ありがとう。助かるよ。友、ケイン・コナガンよ」
死体はケインの背中から初めて離れると棺桶の中に滑り込んだ。ケインは棺の蓋を閉めてから、近くの盛り土を墓穴へと落とし始めた。
かなり大変だったが、やがて棺は土に隠れ、ケインはそこで祈りの言葉を捧げた。最後にもう一掻き分の土をかけようとして、削れた盛り土の下から何かが顔を出しているのに気が付いた。
掘り出してぎょっとした。切断された馬の頭だ。まるでつい昨日切断されたかのように新しいままだ。さらに掘ると、引き裂かれた騎士の死体もでてきた。どちらも随分前からここに埋まっていたように思えるのに腐っていないということは、何らかの魔法が関わっているとケインは見当をつけた。あるいは何らかの呪いだ。
もしやと思い、馬の首を持って繋がれたままのシルヴィアの下へ行く。
「もしかしたらこれ、お前さんのか」
ケインの手の中で馬の首の目がぎょろりと動いた。その首はひとりでに宙に飛び上がると、首無し馬の首の切り口にくっついた。今や完全なる幽霊馬となったシルヴィアは木に繋がれていた紐を振りほどくと、夜の闇の中に消え去った。
「おい、おい。俺はどうやって帰ればいいんだよ」
ケインは文句を言ったが、内心ではあの馬のために何かしてやれたことがうれしかった。
仕方なしに夜の道を最初の場所目指してとぼとぼと歩き始める。今度は背中に負ぶさる死体がないので随分と楽ではあったが。
イムロウグ・ファダ辺りまで帰って来た時、道の向こうが騒がしくなった。しまったと思って隠れる間もなく、妖精たちの群れに見つかってしまった。
「見つけたぞ。ケイン・コムラ」妖精たちの長が叫んだ。「イムロウグ・ファダで待っていたのに来なかったな。や! 背中の死体はどうした。まさか振りほどいて逃げて来たのか。となると、ゲームはお前の負けだな。ケイン。さあ我らと共に来て貰うぞ」
「何を言う、ゲームは俺の勝ちだ。死体ならちゃんとキム・ブリーディアに埋めてきたぞ」
「馬鹿な。お前はまずイムロウグ・ファダに埋められるかどうか確かめねばならん」妖精の長が指摘した。
ケインはもう一度懇切丁寧に妖精との約束を思い出させた。特に、埋めるのはどこでも構わないと妖精の長が言ったことを説明した。
「むむむ」妖精の長は言葉につまった。
「確かにそなたの言う通り、ケイン・コメスよ。だが、妖精の書に名前が書かれた以上は、そなたは逃れることはできぬ。これもそなたの悪業の報いなれば、甘んじて罰を受けよ」
「待てまてマテ。悪業の報いとは何だ。俺は清廉潔白だ」
「嘘だ。清廉潔白な者の名が妖精の書に載るものか」
「お前たち、嘘を言っているだろう。その妖精の書を見せてみろ」
妖精たちは何かを相談していたがやがて結論を出した。
「よかろう。特別に見せてやる。見ればお前も言い逃れはできまい」
妖精たちの中から大きな本が出てきた。物凄く古びていて、表面は緑青のわいた銅の板で補強されている。その本が重々しく開くと、表れたページを妖精の長は指さした。
「ほら、ここじゃ。ここにそなたの名が書いてある」
ケビンはその名を読み上げた。
『ケイン・コールマン』
妖精たちが踊りだした。
「さあ、ケイン・コールマン。わしらと一緒に来るがよい」
「馬鹿野郎!」ケインは怒鳴った。「俺はケイン・コナガンだ。そこに書いてある名前はケイン・コールマン。全然違う人間だ」
「同じケインだろう」妖精たちが抗議した。
「違うケインだ」ケインは怒鳴った。「人間の名前はお前たちのように曖昧じゃなくぴっしりとしているんだ。コナガンとコールマンは全くの別人だ」
「そんな!」妖精たちが一斉に唱和した。
妖精の長は渋い表情で腕を組んだ。
「だが困った。わしらは今夜中にケインを連れて行かねばならん。仕方ない。それ皆の衆。こいつを捕まえろ」
「無茶苦茶だ」
ケインは飛び掛かって来た妖精の顔に拳を叩き込むと、掴みかかって来る無数の手から逃げた。そのときだ。多くの吠え声が闇の中から湧き出てくるやいなや、黒い猟犬の塊へと変じて妖精たちに食らいついた。
たった今までの妖精の怒号がすべて悲鳴に変わる。闇の猟犬たちは逃げ惑う妖精たちを噛みつき蹴散らし追い立てた。たちまちにして辺りから妖精の姿は消え、代わりに今や首有り馬に乗った幽霊騎士が現れた。
「友よ」幽霊騎士が言った。
今夜はやけに死人に友達と呼ばれる夜だなとケインは思った。
「我が愛馬のシルヴィアに首を取り戻してくれて心よりの礼を言う。シルヴィアの言うところによると、そなた、余の骸の在りかを知っておるとのことであるが」
「ああ、それなら心当たりがある。キム・ブリーディアの墓地の中心に行けばそこで見つかると思うよ」
幽霊騎士の骨ばった顔が凄い形に歪んだ。それが幽霊騎士の満面の笑顔だとケインはようやく理解した。
「何と礼を言えばいいのかわからぬ。ケイン・コナガン。余がこれほどの長きに渡って探し続けたものを見つけ出してくれるとは。これで余もやっとこの呪われた運命から解放される。
我が祝福をそなたに。では失礼する。夜明け前に我が骸を取り戻さねば」
闇の猟犬たちを連れて、首有り幽霊馬と幽霊騎士は消えた。
「まったく。なんてえ夜だ。今夜は」
それでも今夜は、神は眠りもせずに働いているらしい。多くの馬鹿騒ぎと、そしてもっと大切なことに、幾つかの祝福と共に夜は過ぎさろうとしている。
アイルランド一の変わり者、ケイン・コナガンは肩をすくめると歩き出した。急げば朝日が昇る前に、安らかなひと眠りぐらいはできるかもしれない。