ファンタジー短編中編銘板

食料が一杯

 吹雪で山に閉じ込められてはや二週間。持ってきた食料は全て尽き、仲間達もことごとく凍死した。冬山好きでいつかはこんなことになるのではないかとは恐れていたが、十分な装備も用心も山の気まぐれにはかなわなかった。

 もう、体力も限界だ。覚悟を決めて遺書を書き始めた僕を誰かが呼んだ。
「若者よ、助けてくれ」
 冗談じゃない。幻聴にしてもこれは酷い。助けて欲しいのは僕だ。
「そう、怒るな。代わりにお前を助けてやろう。取り引きだ。いいな」
 死ぬときは皆こうなんだろうか? 幻聴が延々と続く。
「幻聴では無い」
 ふん、幻聴は皆そう言うんだ。
「食い物をやろう」
 く、食い物! それなら幻聴でもいい。味さえあれば。いや、味があって腹が膨れるのが一番いい。
「やっと、話が通じたな。さあ、私の頼みを聞いてくれ」
 頼みってなんだい?
「私を殺して欲しいのだ」
 なに!?


 怪物の名はビヒモスと言った。創世の時代、キリスト教の神は地上に山脈並の大きさの巨大獣ビヒモス、海に巨大魚リバイアサンを創成した。最後の審判の後、選ばれた人々の永遠の食料とするためである。そのためにのみこの巨獣たちは生き、無限に大きくなった。だが誤算が一つあった。

 何故、死にたいのだ?
「私の心はここに、この巨大な身体の中に閉じ込められている。神は私の精神については気にしなかった。ただの獣の心ならどれだけよかったことか。だが余りにも長い時を生きて、私は賢くなってしまった。自分が人間たちに食われるためだけに存在しているのは耐えられない」
 では、自分で死ねばいい。
「出来ない。私の身体は事故や病気で死ぬことのないように頑丈に創られている。それに自殺はできないようにされている」
 何故、僕を選んだ?
「私はほとんどの時間を寝て過ごす。目覚めている時間は短いのだ。たまたま、今回目が覚めたときに君がそこにいた。さらに、君はキリスト教徒では無い。私を殺すことにそれほどの葛藤は感じないだろう」
 お前を殺せば、神に選ばれた人々はどうなる?
「まだリバイアサンが居る。あやつだけで食料は十分なはずだ」

 しばらく考えて僕は承知した。何か大それたことをしようとしているとは感じていたが、自分の命には変えられない。
 吹雪の中、ビヒモスの声が案内した山腹の洞窟には、不思議な赤い光りがあった。その洞窟の中は奇妙に暖かく何かの息遣いがあった。

 これは?
「私の心臓だ。不思議かね。私の身体は大地の精気を吸収して勝手に巨大化する。普通の生物とは成り立ちが違うのだ」
 食料はいつ貰える?
 笑い声が返って来た。
「私の身体は全て食料だ。君は今、文字通りに山のような食料の中にいる」

 こうして、僕はビヒモスを殺した。彼の心臓は温かかった。そして彼の肉はとても旨かった。十分な食料に恵まれ、やがて回復した天候をついて、僕はただひとり生きて帰った。
 僕が自分の家に帰って、一年も経った頃、ビヒモスの山、いや山脈は崩壊した。ニュースによると巨大な空洞が山脈の下に生じたのが原因だそうだ。コンピュータによる計算で再現したところ、まるで巨大なトカゲの様な形の空洞が生じたと言う話で、テレビの中で学者達は岩塩の溶解がどうのこうのと解説していた。誰も僕のチームの遭難と事件を結びつける者はいなかった。
 当り前だ。誰がこんな話を信じる?

 少なくとも一つの事実が僕には判った。ビヒモスの食べ方だ。恐らくは生きたまま、心臓を傷つけないように食べるのだ。ビヒモスを殺してしまえば、すぐにその巨体は塵と化す。ああ、御丁寧にも獣の肉に飽きたら、もう一つ魚の肉もある。恐らくはこちらも食べ方は同じだろう。無思慮な神の振るった無意識の悪意の表れ。

 異変に気がついたのは、それからさらに一カ月後のことだった。僕の体重が酷く増えているのだ。ダイエットも効果が無い。一週間の断食の後に僕の体重は五キロ増えていた。さらに体重増加は加速度的に増えている。
 医者にも判らないこの異変の原因は僕には判った。神は自分の信者の食事を半分に減らすつもりは無いってことだ。それに誰かがリバイアサンの方も殺してしまったら信者たちの復活後の生活はどうなる?
 だから神はスペアを用意したわけだ。

 昨日、試しに自分の腕に噛みついてみた。痛くも無く、血も出ず、そしてビヒモスの味がした。悲しいことに自分の肉は旨かった。そう、ビヒモスを殺したものが、次のビヒモスとなる。それが神が定めたルール。
 僕はビヒモスになりつつある。


 ああ、誰か。僕を殺してくれ。この運命から、僕を助けてくれ。僕の代わりにビヒモスになってくれ。