古縁流始末記銘板

武士の矜持

1)

 希代の大商人、通称黄金長者の前に座る師匠の横には珍しいことに相異坊がいる。まるでそれに合わせたかのように、黄金長者の横には見知らぬ商人が座っている。
 黄金長者ほどではないが、その商人は高価そうな着物を着ていておまけに恰幅が良い。どこかの商売の大家と見えた。
 対する師匠は粗末な古びた厚手の着物を着ているし、相異坊と来たら山伏装束、つまりは商売着である。相異坊自身は顔が縦に長い異相であり、その装束と合わせると異様な雰囲気を纏っている。

「先生、お呼びたてしまして申し訳ございません」
 黄金長者は深々と頭を下げた。大名相手にも滅多に頭を下げない黄金長者が深くお辞儀をするのを見て隣の商人も慌てて頭を下げる。
 実際にはその大名連中は黄金長者の前では密かに畳に頭を摺りつけて借金をねだるのは公然の秘密である。
「うむ。長者殿から火急のお呼びたてとは珍しいことよ。腕の良いお祓い師を所望とのことゆえ、この者を連れて参った。名を相異坊と言う。霊山と名高い紫黄山を聞いたことがあるかな? あの場所の行者頭よ。腕の方は儂が保証する」
 師匠の口から人を誉める言葉が出るとは予想外であったが、それを聞いて相異坊の頬がわずかに緩む。
「相異坊様。私めは黄金長者と呼ばれています。今後ともよしなに願います」
 相異坊は重々しく頷くと言った。
「うむ。こちらこそよろしく頼む。さて、黄金長者殿。ときに巷で有名なそちらの大金蔵はどこかの?」
 それを聞いて師匠の片眉が上がる。それに驚いて黄金長者が聞き返す。
「うちの金蔵に何か悪い気運でも?」
「いや、せっかく長者殿のお屋敷に招かれたのだから土産に千両箱の一つでも持って帰ろうと思うての」
 相異坊はがははと笑った。笑いながらもその目が油断なく黄金長者を見つめる。
 これを黄金長者はただの冗談と取るか、それとももしや何かの気まぐれで千両箱をくれないかと期待している目だ。
 師匠の手がひょいと動き手にした茶碗で相異坊の頭を叩こうとする。相異坊の手も素早く動き、その茶碗を捉えて師匠の手からもぎ取る。
 どちらも実に淀みの無い自然な動きだったが、どちらの動きも並みの人間にできる動きではなかった。もっともそれを見抜いたのは、隣の部屋で護衛の任務として部屋の中を伺っている左内だけであった。
「お気をつけてくださいませ」黄金長者が呆れて言う。「その茶碗は一客で千両箱三つ分の価値はあります」
 ほう、とため息をついてその茶碗をしげしげと眺め、それからそれを懐に入れようとした相異坊の頭を今度こそと師匠が小突く。
「ええい。相異坊。いい加減にしろ。話が進まぬではないか」
「悪かった。大人しくしておく」相異坊は悪びれることもなく答える。いつでも掻っ攫って懐に入れられる位置に茶碗をそっと置く。

 黄金長者は気を取り直して話を再開した。
「ここなるお方は私めが懇意にしておる茶器問屋の主でございます。日本橋の辺りに大店を構えております」
 紹介を受け、改めてその商人は頭を下げた。
「これがまた厄介なことになっておりましてな。ささ、包み隠さず話なさい」
 黄金長者に促されるままに、商人は話始めた。



 私の先祖は戦国時代の武士です。決して武勇に優れていたわけではなく、また高い地位についていたわけでもないため、名前そのものは歴史のどこにも残っておりません。ご先祖様はある日戦場に出かけてそのまま消息を絶ちました。
 二代目は目端の利く方でしたので、武士で名を上げるのは諦めて商家の道を目指しました。この方面には才能があったようで家は代を重ねるごとに大きくなり、ついにはこの商売では日ノ本一と呼ばれるようになりました。今では商売の基盤は盤石となり、日ノ本の茶器や食器、あるいは名品市場を一手に取り仕切らせて貰っております。

 ・・ところが今になってご先祖様、つまりは一代目が化けて出るようになりました。毎日ざんばら髪の落ち武者が恨めしそうな顔をして私の枕元に立つのです。
 これにはほとほと参りました。なにぶんご先祖様なので無碍にはできません。
 そこで伝手を辿って拝み屋を雇い、ご先祖様の話を聞いてもらったのです。
 すると返ってきた答えが、なんでも生きている間は着ることのできなかった立派な武者鎧が欲しいとのことでした。そうです、そうです。いわゆる大名鎧と言うやつです。煌びやかで派手で豪華な装飾がついたやつです。
 金で解決できることならば何も問題はありません。さっそく私は当代随一と言われる名職人に頼んで、金に糸目をつけずに大名鎧を作っていただきました。

 出来上がった大名鎧はそれはそれは見事なものでした。
 大きな鍬形の前立てが煌めき、兜鉢には金をあしらっています。大袖草摺も金糸銀糸をふんだんに使い、大盾もただの飾りではなくきちんと鋼鉄の備えが入った立派なものです。
 もちろんすべて極秘で作ってもらいました。大名たちが持っている大名鎧よりも華美なものを武家でもない当家が所有していると知れれば、嫉妬した大名連中がお家お取りつぶしの愚挙に出るやも知れません。
 こうして納められた大名鎧を家の奥の一室に安置しそこを開かずの間とするとようやくご先祖様は現れなくなりまして、それでほっと一息ついたという次第です。
 ところが事はそう簡単には収まらなかったのです。

 じきに近隣で辻斬りの噂が出回るようになったのです。
 そうです。辻斬りです。それもただの辻斬りではありません。武者鎧の辻斬りなのです。
 深夜になると立派な鎧を着た武者が現れて、通りすがりの人に切りつけるのです。最初の三人ばかりは手傷だけで危うく逃れたのですが、四人目は逃げること能わずついには切り殺されてしまいました。
 そこで恐る恐る開かずの間を覗いてみると鎧の横に飾ってあった刀の刃に血曇りがついているじゃありませんか。
 驚きましたね。
 これはいかんと昼の内に鎧を座敷牢の中へと移しておいたのですが、次の日の朝には座敷牢の太い木の格子が真っ二つにされていて、やはり鎧は返り血を浴びてそこに鎮座しておりました。



 ここまで話してから商人は取り出した手拭いで額に浮いた脂汗をぬぐい取った。
「事ここに至って私どもも放置はできなくなりました。渡りのついた拝み屋を何人も雇ったのですが、どれも鎧武者を見た途端に逃げ出す始末。とうとう最後には事がばれることを承知の上で叡山の偉いお坊様を呼んだのですが、これが逃げれば良いものを無理して経を読みつけてその結果・・」
「死んだのか?」と相異坊。
「死にました。頭の上から足の先まで真っ二つで。その後はどえらい騒ぎとなりまして、金の力で何とか抑えましたが打つ手がないのは相も変わらずでして。思い余って黄金長者様にご相談申し上げましたところ、良い御仁がおられると、こうしてご紹介預かりました次第でして」
 相異坊がその後を続けた。
「まあワシら二人にかかれば大概の妖怪怨霊は片が付くな」
 ふんと鼻息を荒くした後で、相異坊はあぐらで座りなおした。
「で、いくら出す?」
 師匠が天井を睨んだ。黄金長者の目が開かれ、商人の顔に狼狽が浮かんだ。
「すまぬ」師匠が謝った。「こういう奴でな。修験力はあるのだがなにぶん酒と金に汚い」
 師匠の方はこれほど金に無欲なのにと黄金長者が嘆息する。だが金で片が付くならそれが一番良い。千両箱ならたくさんある金蔵の中一杯に積みあがっている。あまりにも金が多くて蔵に入りきれないのでそろそろ山にでも捨てに行こうかと思っていたところだ。

「千両お払いいたします」
 商人が思い切りの良い言葉を吐いた。
「まだまだ」相異坊が答える。
 全員その返事に目を剥いた。怨霊退治に千両でも破格なのにまだ足りないと言うのだ。
「ではいかほどをお望みで」
「そうさな。この二人で命を賭けるのだ。まずは三千両」
 思わず飛んだ師匠の拳をひょいと避けて相異坊は言葉を続ける。隣の間でその動きを見ていた左内が仰け反る。
 容易く避けたように見えるが剣の達人でも避けられるものではない拳であった。それを放つ師匠も師匠だが、それを避ける相異坊も相異坊だ。化け物二匹。座敷に大人しく並んでござる。左内はそう思った。
「これ。相異坊。いい加減にしろ」
「何を言う。本間。これは正当な対価ぞ。おヌシが欲が無さすぎるのだ。その分を代わりにワシが取り立てて何が悪い」相異坊が抗議する。
 相異坊は店主の方に向き直った。
「まだ言うておらぬことがあろう」
 店主の顔が強張った。
「辻斬りで死んだ数は十では済んでおるまい」
 相異坊が指摘すると店主の顔色が蒼くなった。
「二十、いや三十は行っておろう。店の周囲は狂ったようになった町方たちで見張られておろうがあ。だがそれでも何故か鎧武者は手薄な場所に現れて辻斬りを続けておる。それどころか町方も何人か斬られておろう」
「その通りでございます」店主は頭を下げた。
「付近の店にも何度も詮議が入っておろう。武者鎧は樽の中にでも隠してごまかしたか。どこに町方の目が光っておるかわからぬゆえに今更捨てようにも捨てられぬのであろう」
「相異坊。なぜわかる?」と師匠。
「話を聞いた時から街に商売に出ておる手下の者たちに聞きこみをさせたのよ。拝み屋が必要になる怪しの話はないかとな。すぐに事が知れたわ」
「なるほど」と相槌を打つ師匠。
「この怨霊な。一人ではないのだ。一人の怨霊の力では重い武者鎧をいつまでも動かすことはできぬ。力が尽きるのだ。恐らくはすでに数千という怨霊が集まりて、合力しておる」
「数千ですと!」話を聞いた店主が仰け反った。
「そうだ。ヤツらばはすぐに群れる。一人一人は弱くても集まれば力は倍化する。数千ともなれば相当なものよ。それらが武者鎧に取り付いて動かすのであるから、宙を飛ぼうと思えば飛べる」
「鎧が空を飛ぶのでありますか」驚愕した店主が思わず漏らす。
「長くは無理だがな。夜空から下を眺めて、取り手が手薄なところを見つけるぐらいは浮いていられる。これなら神出鬼没なのも頷けよう」
「そんなものをどうすれば」
「簡単よ。鎧が静まっている昼間に座敷牢に入り、辻斬りに出る直前にこれを叩く。だが容易ではない。相手は幾千にも膨れ上がった怨霊の塊よ。並みの侍でも、並みの術者でも歯は立たぬ。だからこその我ら二人」
 相異坊はずいと前に出た。
「三千両。決して高くはないぞ」
「ようございます」
 ここまで大人しく話を聞いていた黄金長者がぱしりと膝を叩いた。
「差額の二千両。この私めがお支払いいたしましょう」
「決まりだ」と相異坊。「ではその場所に案内してもらおう」


2)

 大店であった。広い店先に様々な茶碗や壺が並んでいる。奥の間には高価な茶器が並んでいる。もっともそこに入れるのは顔見知りの太客のみだ。
 店主が先導し二人を乗せた籠がそのまま店横の別出入り口へと入る。籠に乗ったまま通れるその大きさがこの店の格を示している。
 籠を使ったのは怪しげな風体の二人が人の目につかぬようにとの黄金長者の気配りだ。それでなくとも最近のこの界隈は辻斬りの話で警戒しているのだ。変わったものを見ればすぐに噂になるし、下手に騒がれれば町方が店に踏み込みかねない。
 血のついた刀をぶら下げた武者鎧など見つかりでもしようものなら。いかな大店でも店を取り潰されてしまう。
 駕籠かきの連中はこんなときのために黄金長者が飼っている者たちだ。当然ながら口は恐ろしく固い。
 座敷牢の正面にて籠は止まり、二人は降り立った。
「私は怖くてこれ以上は進めません。どうか先生方よろしくお願いいたします」
 店主はそう言い残すと、そそくさと店の表へと引き上げてしまった。
 二人ぽつんと座敷牢の前に残される。

 座敷牢は太い木材をいくつも十字に組み合わせて作られた牢だ。元から人間の力では破れないようにできている。
 大家にはこのような牢が必ず一つは備わっている。その目的は放蕩息子や流行り病に罹った者を閉じ込めるためのものである。特に大店の放蕩息子は野放しにしていると家そのものを借金のカタにして判を押しかねないから厄介だ。主人の息子であるというだけで借金のための信用となる時代なのだ。ろくでなしの跡継ぎによる被害を防ぐためには座敷牢に押し込めるしかないのが実情であった。
 ここの座敷牢の中には豪華な武者鎧が鎮座ましましている。その膝の上には抜き身の刀が載っていて、赤黒い血錆がその表面に見て取れる。
 武者鎧は二人の闖入者を無視するかのようにピクリとも動かない。
 武者鎧の前の太い木の格子が切断されている。これでは牢としては意味をなさない。
 師匠はその切り口を調べると背筋を伸ばした。
「ひどい切り口だ。何の技も見えぬぞ。これは大力によって力任せに切ったものだ」
 それでも折れなかったとすれば、血錆の浮いた刀はそれなりの名刀であったのだろう。
 その横で相異坊は手にした瓢箪から酒を飲んでいる。
「こら、相異坊。何を酒を飲んでおる」
「いやな、黄金長者の家を出る前に酒を無心したら瓢箪一杯に入れてくれてな。これがまた良い酒でのう。うむ。止められない。止まらない。酒なくして何の人生ぞ」
「おヌシ、いい加減にしろ。あの鎧はどうだ」
 師匠は武者鎧を指さす。
 目を眇めていた相異坊は肩を竦めるとまた酒に戻った。
「何の変哲もないただのガランドウの鎧だ。中には何も入っていない」
「ふむ」
「てっきりこれが依り代になっていると思ったが、そうではない。怨霊の本体はどこか別のところにいて、修羅の刻限になると改めて鎧に宿るのであろうよ」
「ではここで待つしかないのう」
 面倒だなという口調で師匠が嘆息する。
「なに、そりゃ過ごし方による」
 相異坊は大声で店の者を呼ばわった。
 何事かとやってきた店の者に相異坊は怒鳴る。
「旨い飯とツマミ、それと酒を用意しろ。大樽でだ」
「儂には茶を持ってきてくれ。自分で入れるから火鉢とヤカンも欲しい」
 店主からは二人の要求にはすべて従えと厳しく言われている。慌てて店の者が命じられたものを運んでくる。
「これより祈祷を始める。誰もここに近づいてはならんぞ」
 相異坊は言い含める。
 店の者に取ってはこれは渡りに船だ。あの血染めの武者鎧を見てしまったから、日が落ちた後には誰もここには近寄りたくない。
 店の者たちはたちまちにして姿を消す。
「さて、ゆるりと待とうかの」
 師匠はあぐらをかいた。
 相異坊はどこかから引っ張ってきた茣蓙を引いてその上で横になり、残り少なくなって来た黄金長者の酒をちびちびと飲んでいる。
 ときたま起き上がると飯櫃から飯をよそうと大飯を食らう。
「験力を貯めねばならないからの」
 そう言い訳をした。
「嘘つきめ」師匠が一言で評する。

 やがて日は落ちる。だが何も起きない。
 ついに黄金長者の酒は尽き、相異坊は持ってきて貰った大樽から柄杓で酒を汲むようになった。
「うむ。これは今一つだな」酒臭い息で感想を漏らす。
「当たり前だ。長者の酒がどれほど上等なのかを知らぬのか。それと比べればたいがいの酒はまずかろう」
「うむ。そうと知っていれば三千両などというはした金ではなく、その酒蔵一つをもらったものを」
「止めておけ。おヌシは大ザルだ。酒蔵一つぐらいではたちまちにして飲み干してしまおう」
「仕方ないであろう。験力と名はついておるがその源は修験者が飲み食いしたものよ。だが一日中飯を食うだけで過ごしていてはさすがに世間様の風聞が悪い。そのため修験者はおのずから食べる量を減らしてしまい、結果として験力まで減らしてしまう。ワシはその足りない分を酒で補っておるのだよ」
「また適当なことを」師匠が眉を顰める。「それにおヌシが験力を使うとこなど見たことがないぞ」
「それは目立たぬようにやっておるからの。験力は見せびらかして使う類のものではないからの」
 師匠は答えない。膳のものを半分ほど食べた後は、いつも持ち歩いているドウランの中から薬草を少し取り出して噛み始めた。

 後は静寂の中にときおり柄杓を酒樽に突っ込む音がするだけである。
 夜になった。夜気が強まり、外から流れ込む風が冷たさを濃厚に帯びてくる。
 これだけ酒を飲みながらも相異坊はただの一度も厠に行かない。この男の膀胱はいったいどうなっているのかと師匠が怪しみ始めた頃、最初の変化が起きた。

 小さな人魂が一つ、窓から飛び込んで来たのだ。


3)

 師匠が大太刀に手をかけて立ち上がりかけるのを相異坊は目で制した。相変わらず酒を飲むのは止めない。
「慌てるな。あれは小物だ。まだまだ本体は出て来ない」
 二人の会話は気に留めない様子で、その人魂はふわりと武者鎧の中に吸い込まれた。
「修羅の刻限が近づくほど大物が出てくる」
 相異坊の説明通りに、次の人魂が入ってくると武者鎧へと入り込む。やがて増えてきた人魂の流れは最後は光の洪水のようになり次々に武者鎧へと吸い込まれていく。ここまで来ると専門家ではない師匠にもその武者鎧から放たれる気が強烈に感じ取れるようになってきた。
「多くの怨霊が集まって一つの目的のために鎧を動かすのだな。一体では何もできぬが、集まるとかなりのことができる」
「今の内に祓うことはできぬのか?」
「できぬわけではないがのう」そう言いながら相異坊はぐびりと柄杓の酒を飲む。
「それをやると怨霊たちの中心になるここのご先祖様が逃げてしまう。逃げてまたどこかで悪さをする。つまり切りが無い」
「やれやれ、おヌシは酒を飲むばかりでちっとも働かん」
「ぬかせ。ワシは頭を使うのが仕事、お主は体を使うのが仕事よ」
「たまには逆にしようではないか」
「それも良いかもしれぬな」相異坊はそう言いながらもまたグビリと酒を飲む。
 ははあ、さてはこの男の験力は飲んだ酒をどこかにやって厠へ行かないで良くすることに使われているのだなと、師匠は妙なところで納得する。
 その間も人魂の洪水は武者鎧に流れ込み続ける。
「当の昔に万は越えたな」相異坊が感想を述べる。「どれも戦場で無念の死を遂げた連中だ」
「戦場とは言っても戦国の世は二百年、いやもっと昔であろう」
「だからどの人魂もやせ細っておろう。自分の姿形すらもう思い出せていない者も多い」
 こやつ、人魂の細かい見分けがつくのかと師匠が呆れる。さすが修験者の頭を務めるだけはある。
「後二百年もすればどいつも只の魑魅魍魎へと変わる。虫や草と変わらぬ存在となり最後には消えていく。おそらくはこいつらに取ってもこれが最後の悪あがきのつもりだろう」
「怨念の残り火か」
「残り火と言っても数があるからのう。このまま辻斬りを続けて贄を増やせば、最後には街一つを焼野原にできるやもしれぬ」
「面倒な話よの」
 師匠は冷えた茶を啜った。

 やがてさしもの人魂の流れも細くなり、最後にはぷつりと途絶えた。
「そろそろだ」相異坊が呟く。「来るぞ」
 一際大きな人魂がいくつかの人魂を引きつれて入ってくると、師匠たちの姿に驚いたように立ち止まり、それから慌てて武者鎧へと飛び込んだ。
「自我が強く残っているな。あれが本体だ」
「人魂は一つでは無かったぞ」
「でかいのが本体だ。他のは辻斬りの犠牲者が鎖で繋がれているにすぎん。殺した相手を贄として自分の力を強めておるのだ。それより気をつけよ」
 相異坊は武者鎧を指さした。
「そろそろ動き出すぞ」
 ゴトリと音がした。鎧武者の体がゆっくりと起き上がる。その面頬の目の部分から赤い光が漏れだす。
 ガシャリと音を立てて鎧武者が前に出る。ぎこちない動きで血錆がついたままの太刀を振り上げた。
 その動かぬ口から太い男の声で言葉が漏れる。
「またぞろ懲りずに来たものよ。うぬらどこのウジ虫か。そちらから贄になりに来るとは殊勝なことよ。さあ、首を切ってやろう」
「ほう、大口を叩くものだのう」ここに至って初めて師匠も立ち上がった。「どれ、一つ試してやろう」
 師匠が大太刀を引き抜いて鎧武者の前に出る。
 鎧武者の刀が振り下ろされた。師匠がわずかに体を開き、寸の見切りでこれを躱す。
 続いてまた刀があげられ振り下ろされる。今度の師匠は頭を少し傾けただけで避けてみせる。
 続く鎧武者の攻撃は地擦りの一撃。戦国大太刀がそれを迎え打ち地面に叩きつける。刀を手から取りこぼして鎧武者が慌てた。
「辻斬りなどをするからどれだけやるかと期待したがひどいものだの。なるほどこれでは戦場では役に立つまい」
 師匠が真面目に感想を述べる。その口調に鎧武者が激怒した。
「おのれ、無礼者」
「おヌシはそのような口を利けるほどの者か?
 無辜の民を切り殺し、あまつさえその魂をつなぎ留め、死んだ後までも食い物にする。そのような者が畏敬の念を受けられるわけもなし」
 師匠は歯に衣を着せない。
「おのれ、おのれ」
 鎧武者は地面に転がる自分の刀に手を伸ばした。師匠の手にした刀がひょいと動き、鎧武者の伸ばしたその腕をすっぱりと切り落とす。
 師匠の剣にかかれば鋼の筋金入りの小手ですら抗することもできはしない。
「次は首を落とそうかの」
 言うなり、大太刀を横に振る。鎧武者の首が飛ぶ。
「次は足」
 足が二本宙に舞う。
「まだ死なぬか。では胴じゃ」
 続いて胴が真っ二つになる。派手な音を立てて武者鎧が地面に激突する。

 光が爆発した。武者鎧から人魂が一斉に逃げ出す。鎧から噴き上がった人魂の群れは宙で旋回を始めた。
「ほい」と一声かけてから相異坊がその光の渦目掛けて何かを投げた。それが渦に近づいた瞬間、相異坊は素早く印を結んで呪を唱えた。
 渦の中に黒い穴が生じて周囲の人魂が吸い込まれる。だがその穴もすぐに閉じると床に何かが落ちた。
 それを見た人魂の群れは恐慌状態になると四方八方へと飛び散り逃げだした。
 そこをすかさず師匠の剣が閃き、数十の人魂を切り裂いたがそこまでだった。
 座敷牢の天窓や隙間から一斉に人魂が外へと流れ出る。それは師匠にも止められない。
 やがてあれだけいた人魂のすべてが逃げ去った。
 元の静けさに戻った座敷牢の中で相も変わらず相異坊だけが酒を飲み続けていた。

「これで終わったのか?」師匠が問うた。
「まさか。これからよ」相異坊が答える。
「どういうことだ?」
「あれは武者鎧という器に無数の怨霊が入り込んで操っておるだけよ。鎧をいくら切っても怨霊には効かぬ。他の器を探しに行くだけよ」
「あのでかい本体を斬れば良いのか?」
「切っても無駄だ。魂は確かに切断できるが、決して滅びはしない。時間をかければまた一つにくっついて一から出直しよ」
「厄介だの」
「厄介よの。封印するにしてもあれだけの怨霊が居るのではそれも難しい。せめて数を減らさねば」
 相異坊は初めて立ち上がると最前まで人魂の渦があった場所を探り、自分が投げた水晶の欠片を拾い上げた。それは微かに黄色く輝いている。
「十体は捕らえた。だがこれぐらいでは到底足りぬ」
「他に水晶は持ってきておらぬのか?」と師匠。
「無論、持ってきておる。だがそれでも全然足りぬ。あれでは切りがない」
「厄介だの」
「厄介よの。封印するには水晶が足りぬ。それより何よりワシの験力だけでは足りぬ。かと言ってお主の剣だけでもどうにもならぬ。ここはもう一工夫が要る」
「考えるのはヌシの仕事だ。儂はもう寝る」
 師匠はごろりと横になった。
「これではいつもの逆ではないか。ワシは楽をさせてもらえぬのか」相異坊は嘆息した。
「三千両の大仕事ではないか。嘆いていないで頑張れ」
 師匠は冷たく突き放す。

 それ以上は会話することもなく、二人して床に寝転がるとすぐに眠りに落ちた。


4)

 翌朝、様子を見に来た店の主人は床に転がる縦横に切断された武者鎧を見て絶句した。
「本間先生。相異坊先生。これは」
「こやつを呼ぶのに先生はつけずによい」師匠がぶつぶつ言う。
「そうだ、代わりに大先生をつけろ」と相異坊。
「首尾はいかがでした」期待を籠めた顔で主人が訊ねる。
「残念ながら逃げられた。つまり勝負は今夜だ」
 相異坊が立ち上がるとぱんと音を立てて自分の腹を叩く。
「それより腹が減った。朝飯を用意してくれ。全部で五人分は欲しい。それと酒のお替りだ」
 そう聞いた店主は隅に転がしてある酒樽を覗いてそれが空であることに気づき絶句した。いくら二人でもわずか一夜でこの大樽を飲み干すとはと呆れたのである。実際には相異坊一人で飲んだのであるが。
「酒は黄金長者のところに使いを出してあそこの酒をねだってくれ。相異坊のたっての頼みと言ってな」
「は、はあ」毒気を抜かれた顔の主人。
「それと糊を練って持ってきてくれ。良くくっつくやつをだ」
「はあ、糊を何に使いますので?」
「鎧を形だけでも直すのよ。その方が惹きつけやすい。霊は住み慣れた場所へと戻りたがるからな」
「はあ」
「後は紙と墨をたくさんだ」
「紙と墨を何に使いますので?」
「いちいち聞き返すでない。まどろっこしい。とにかく言われたものを揃えろ。さもないとこのままお山に帰るぞ」
「ひえ、それはご勘弁を」慌てて主人が座敷牢から飛び出す。
 この二人が最後の頼みの綱なのだ。

 紙に糊を塗り、それを鎧の切断面に張り付けて何とかくっつける。触ると切断した具足の先がぶらぶらするが別段着るのが目的ではないからそれで問題はない。
「どうせ人魂が中に入って動かすのだ。鎧が一つに繋がっているのかどうかは気にすまい。大事なのは形だ」
「何だか事情を知らずに聞くと情けない言葉だの」
「本間。お主も良く見ておけ。このワシとてたまには働くのだ」
「たまにはか?」
「たまにはだ!」

 相異坊は手を出した。
「ん」
「なんだ?」
「お主の大太刀を渡せ」
「それは構わぬが」
 師匠が戦国大太刀を差し出した。相手が相異坊で無ければ命の次に大事にしているこの大太刀を渡しはしない。
 それを受け取った相異坊の腕がぐんと落ちる。
「うお! 何という重さだ」
 二貫は優にあるこの刀をこの男はあれほど軽々と扱うのかと相異坊は呆れた。相異坊自身も怪力の大男だが、このどちらかと言えば小男の部類に入る人間が膂力では相異坊を越えているというのは納得がいかなかった。
 普通の刀よりも長い大太刀を床に置いてずるりと刀身を引き出す。綺麗に研がれた美しい刃がぎらりと光を反射する。
 貰った墨に自分の血を混ぜると、相異坊は刀身に文字を書き込んだ。それから刀身の光に目を細めながら何やら呪を唱える。気合を入れて刀身に指を走らせると、一際ぎらりと光が走った。
「泰山府君法奥義鬼切りの秘術」と術の説明をする。
「今のこの刃は魂を斬ることができる。だが長くは持たない。せいぜい十人切れれば効力は消える」
「足らぬの。ざっと見たところ人魂は万の数はいたぞ」と師匠。
「足らぬな。だから良く考えて使え」
「準備はこれですべてか」
「後一つある」

 その最後の一つが終わった頃になってちょうど、黄金長者からの酒樽が届き、相異坊は相好を崩した。
 豪快に酒樽の蓋を割り、黄金色に見える酒にどぷりと柄杓を浸し、そのまま一息に飲み干す。
「旨い。これよこれ。仕事の後の一杯はまた格別よ」
「今回は珍しく、おんしも仕事をしておるの」
「当たり前じゃ。三千両の大仕事よ」
「こやつ、一人占めするつもりか」
「なんじゃ、お主にしては珍しいの。分け前が欲しいのか?」
「いや、要らぬ」師匠はごろりと横になった。「言ってみただけじゃ。どうやらおヌシの強欲に当てられたらしい」
「バカを言え、わしとして好きで強欲しておるわけではない」
「はて、好きでやらぬ強欲というものがあるのか?」
 師匠はつと手を伸ばして放っておいた茶碗の茶を一口飲む。そして顔を顰めると改めて湯を沸かし始める。
「ああ、お主はいつも一人だからのう。早く弟子を取り一家の長となれ。そうすれば金の大事さが分かる。ワシは霊場紫黄山の修験者たちを束ねておる。その数は千人を越える大所帯よ」
 相異坊は酒樽の横にどっかと腰を下ろす。
「修験者には色々な者がおる。修験道一本で食って居る者もいれば、本業では商売をやっておる者もいる。村で畑を耕す者もおるし、町で貸本屋を営んでいる者さえ居る。修験者の半分はいずれも手弁当で修行に来ておる」
「うむ」寝転がったままの師匠が相槌を打つ。師匠のこのような様は相異坊にしか見せない。
「だがそれでも、大勢が集まると金が要るのよ。例えば修行中に死なないように修験場の道を整備する必要がある。
 石ころ一つでも何かのはずみに人を尾根から転がり落とすからの。過保護に思えるかも知れぬが、そういったタチの悪い定めを持った石というものは生半な修行ぐらいでは避けられぬ。元より何かの呪いがかかっておるのだ。
 だからそういったものは早目に見つけてあらかじめ取り除いておくのが肝要だ」
 そう言いながら柄杓で自分の頭をこんこんと叩くと続けた。
「大概は善徳を積ませるという名目で配下の修験者を割り当てるがそれでも資材を使う場合は金が要る。割り当てられた者たちが何かの拍子に怪我をすれば、見舞金を出すこともある。そうなるとどうしても金がかかる。組織とはそこにあるだけで金を食う。そういったものなのだ」
 ざぶりとまた酒を汲むと師匠に差し出したが断られた。
「それらを差配するのはすべてこのワシだ。霊場に足を踏み入れる者からはお布施を取っておるがそれぐらいでは到底足りぬ。取られる方としては堪ったものではない額だが、取る方としては全然に足りぬのだ。自ずからどこか他から持って来る必要がある」
「それゆえの強欲か」
「それゆえの強欲だ」
「嘘つきめ」師匠がぴしゃりと言い放つ。
「バレたか」相異坊は大きく口を開けて笑った。
 どこまでが本気かどこまでが嘘か。わからぬ男であった。

 やがて日が暮れた。


5)

 深夜になり夜気が濃くなるとつうと空中を滑るようにして最初の人魂が飛んできた。それはぐるりと座敷牢の中を飛んで回ると武者鎧の中へと吸い込まれた。
 終夜点けたままの行灯の明かりが一つ、頼りなく座敷牢の中を照らしている。

 牢の片隅に積み上げたガラクタの上に被せた菰の下で、隠形の術をかけたまま相異坊は片目だけで部屋の中を睨んでいた。もちろん一片の気すらも漏らさらない完全なる隠形術である。
 結んだ印を少しも崩さず、開いた片目も瞬きすらしない。そのままでは瞳が乾いてしまうが、代わりに涙腺を意図的に開いて涙を流し続けている。もちろん常人にはできぬ技である。
 ハエが一匹飛んでくると相異坊の頬に止まりその流れる涙をしばらくの間飲んでいたが、やがて満足したのか飛び立ったときにも相異坊はピクリともしなかった。
 ここまでできる相異坊の験力にはいつも叩いている大口以上のものがあった。
 その真横ではこれもまた師匠が石化けを行っている。裏返してくるりと巻いた服の下で完全に石と化している。この状態でも周囲の状況は石としての自分で感じているので、存外にその知覚は鋭い。

 二つ並んだ木石。こうしてみるとどちらもまさに化け物であった。

 安全と見るや昨夜と同じく武者鎧へと繋がる人魂の川が生まれ、そして最後の大人魂が入るのを機に武者鎧がガシャリと音を立てて動きだした。
 その拍子に糊で止めた具足が外れかけ、武者鎧が慌てる。
「なんと杜撰な直しか!」武者鎧が怒鳴る。
「これをやった者を見つけたらそのそっ首叩き切ってくれるぞ」
 気を取り直して座敷牢の入口へと向かう。そしてぎくりとした。
 いつの間にかそこに師匠たちが立っていたのである。周囲を照らす行灯の明かりが知らぬ間に増えている。
「それを直したのは儂だ」師匠が嘘をついた。「このそっ首、欲しければいつでもいいぞ」
 自分の首をとんとんと叩いて見せる。
「おのれ、待ち伏せとは卑怯な」憎々し気な口調で武者鎧が漏らす。
「道行く人を不意打ち闇討ち辻斬りして来た者がどの口で言うか」
 師匠が叱り飛ばす。
「うぬらには関係あるまい。なぜ邪魔をする」
 武者鎧が刀を振り下ろす。その軌道を師匠の大太刀が下から迎え打ち跳ね上げる。
「関係はある。我らは飯を食い酒を飲み、日々人々と関わり笑顔をいただいて生きておる。ならばこの世の憂いは我らの憂い。人々の苦難は我らの苦難。
 世のため人のため、汝らをこの世から滅ぼそうぞ。
 古縁流第二十八代伝承者本間宗一郎推して参る」
 それを聞いて鎧武者は大きく両手を広げた。
「我らはこの太平の世の者たちを殺さねばならぬ。でなければ戦国の世を生き、ただ報われることなく荒地に屍を晒した我らの恨みを晴らすのだ」
「そのために無辜の人々をも殺すというのか」
「これは我ら戦場で果てた侍の意地よ。戦場で臆病にも逃げ回り、それ故に生き残ったやつばらの子孫が今のあの大城にて栄華を極めておる。これを間違っているとは思わぬか。
 我らの屍の上に築きし平和。だがその我らは何ぞ。今や誰も我らを思い出す者もなく、供養の経を唱えてくれる者もおらぬ」
 鎧武者の言葉に合わせて、その体のあちらこちらからすすり泣きが聞こえてきた。
「我らにいったい何の咎がある。首を切られ、胸を突かれ、傷を負い野原に捨て置かれる。その名すら忘れ去られ、我らの武勇を物語るものもおらぬ」
 大勢の悲鳴が鎧の中でコダマする。
「ただ運の良さだけで、あれらは大きな城の中で敬われ、子々孫々まで何不自由ない暮らしをしている。一方で我ら武運無き者は皆骨となり、着ていた具足すら剥ぎ取られ捨て置かれる。これを許せるわけがあるまい」
 おうおうと嘆きの声が鎧のあちらこちらから沸き上がる。怨霊たちの共鳴だ。
「だからこうして手当たり次第に殺して魂をつなぎ、それを持ちて我らは強くなる」
 そこで鎧武者は一呼吸を置いた。
「そしていつの日にかあの城の天辺にまで駆け上るのだ」

 鎧武者が言葉を終えると、周囲はしんとした。怨霊たちも泣くのを止めている。そして次の瞬間、大雷鳴が落ちた。

「愚か者!」
 師匠の怒号だ。世界がその声だけで埋まり、強烈な衝撃で大気が震え、床さえも大きく揺れたように思えた。
 鎧武者の全身から何かが弾けた。
「貴様らが侍なものか!
 戦場に命を賭けるはよい。だが敗れたからと言って女々しく恨み、人々に災いを為す者が侍を名乗るというのかあああああああ!」
 燃えるような強烈な気が師匠の全身から噴き上がっていた。
「戦場は命のやり取りよ。一度そこに入るは敵の命を奪うため。ならば己の命を奪われたとて文句を言う筋合いがどこにある!」
 ごうと炎が師匠の目から噴き出したように見えた。
「それとも自分たちが勝ち生き残るが道理と勝手なことを言うか。ヌシら、どこまで夢に甘えておる!
 技に敗れ、武運つたなく敗れたならば、文句など一つも言うことなく骸にならんかあ!
 敵に殺されたならば、ただ静かに塵芥へと変ぜよ。
 それこそが戦場の潔さ。それが武士というもの!」
 師匠の大太刀が持ち上がり、武者鎧に叩きつけられた。切れない、いや、切らない。古縁流打鼓天の技。決して切らず、ただ強烈な衝撃で打ち抜くのみ。
 鎧がまるで太鼓であるかのように大音響を立てた。激しい衝撃で鎧が一瞬歪み、耐えきれずに人魂の一部が飛び散り消える。
 師匠が握る戦国大太刀の刃の上で描かれた呪文が怪しく光る。
「衆を頼んで寡を殺す。万の怨霊を持ちて、無辜の通りがかりの一人を殺す。そのどこに正義があるのか。
 それでも、貴様ら。武士の端くれかあぁ!」
 また武者鎧を叩いた。大音響。また何かが耐えきれずに弾け飛んだ。悲鳴が鎧のあちらこちらから漏れ出す。
「貴様とて衆を頼むのは同じ。二人がかりではないか」
 鎧武者が叫んだ。声に苦痛が滲んでいる。
 師匠はその非難を歯牙にもかけない。
「そちらは万、こちらは二。どちらが衆だ?
 それにこいつは烏合の衆ではない。我が無二の友だ。貴様らにこのような真の友がおったことがあろうか!」
 大音響。振り下ろされた大太刀が半円の軌道を描いて再び師匠の頭の上へと舞い戻る。
 無数の悲鳴が武者鎧から漏れ出した。
 打鼓天は連撃の技、次々と落雷が続くかのように降り注ぐ。

 師匠から少し離れて相異坊はこの様を見ていた。
 いくつもの行灯が投げかける光の中で師匠の影が踊る。相異坊の目は捉えていた。一見無数の影が重なっているように思えるが、その実その激しく蠢く影は六本の腕に三つの頭を持っていた。
 相異坊は疑問に思った。
 こやつ、本気で怒ったときには影が変貌するのに気づいているのか?
 少なくともこれは憑依ではない。化身。そういう表現が正確かもしれない。恐らくはこの太平の世に取り残されたただ一人の阿修羅の化身。
 古縁流第二十八代伝承者本間宗一郎。戦国最強と呼ばれた剣術の流派の中でも最強の流派の中に産まれた最強の男。あらゆる剣士の中で頂点に立つ、しかし無名の男。
 好もうと好むまいと、この男は生涯を孤高の戦いの中に生きると運命づけられているのだ。

 その間も師匠は技を繰り出し続ける。
「孤高を保つでもなく」
 どん! 
「武士の矜持を見せるでもなく」
 どん!
「おのれを磨くわけでもなく」
 どん!
「大義を立てるわけでもなく」
 どん!
「人の悲嘆に心を動かすことなく」
 どん!
「ただおのれの欲に任せて血を貪る」
 どん!
「それで武士を名乗るかああ!」
 どがん!

 ついに鎧がバラバラに砕け散った。その中から大人魂がヨロヨロと転び出る。その周囲に細い光の紐でいくつかの人魂が繋がれている。
 その他の人魂はここまでにすべて砕かれて周囲に撒き散らされてしまった。
 戦国の時代から二百年。どの怨霊もすでに限界を迎えていた。そこに師匠の怒りが降り注いだのだ。もはやその形を留めることさえできはしない。
 相異坊が大人魂を指さした。
「あれじゃ。本間。あの紐を斬れ」
「承知!」
 師匠が目にも見えぬ速さで大太刀を振る。光の紐が切断されると解放された人魂の群れがまっすぐに上に上り、天井に当たるとそこを抜けて消えた。
「よし!」
 ここまで傍観していた相異坊がはっしと膝を打った。素早く印を組み、呪を唱えて、験力を放つ。
 壁に貼られていた紙が一斉に燃え上がった。それらはあっという間に燃え尽きて後には紙に描かれていた無数の梵字が炎となって浮かび上がった。
「これでこやつは逃げられん。宗一郎よ。斬れ!」
 その言葉を受けて大太刀が大人魂を切り裂いた。
 声にならない悲鳴が座敷牢を満たす。
「やった・・のか?」と珍しくも師匠。手ごたえがない。
「魂は死なぬ。切ってもじきにくっつく。だがこれで奴はうまく動けない」
「ではどうする?」
「こうする」
 相異坊はどっかと床に座り込み、周囲に呪文を描き連ねた符を並べる。
「泰山府君大秘法獄門召喚」
 相異坊の周囲に光が明滅していた。験力が弾け、何か大事なものが歪む。
 すでに座敷牢の中は座敷牢でありながら、座敷牢ではなかった。
 二つに切られた大人魂が逃げようとして狂ったように壁にぶるかる度に、そこで燃える梵字に押し戻される。
 相異坊の前の床から、黒い剛毛の生えた腕が付きだした。つづいて太い肩、角、爛爛と炎が燃え上がる瞳が現れる。
 やがて一体の黒鬼が全身を現した。
「それだ」相異坊が大人魂を示す。
 黒鬼は師匠を見て一瞬体を強張らせた後に、大人魂を両手に掴むと大慌てで再び床へと飛び込んで消えた。
 何かが変化したようには見えなかったが、その瞬間世界が元に戻った。
 壁で踊っていた梵字が消えた。
「これで終わりか?」師匠が聞いた。
「これで終わりだ」相異坊が答える。「しかし今の黒鬼、お主を見て何やら焦っておったな」
「そうか」
 相異坊の含みのある言葉を無視して師匠は腰を下ろした。師匠は自慢話の類は一切しない男である。
「刀が通用しない相手は嫌いだのう」しみじみと言う。
「いや、いや、今回はお主の刀よりは言葉が役に立ったぞ」
「何だと?」
「ほれ、最後はあれだけいた怨霊たちがほとんど逃げてしまったてあろう。あれがなければもっと手こずっておったよ」
「首魁が斬られたから逃げたのか」
「まさか。だがあれだけの心からの叫びを浴びせられたのでは、怨霊どもの精神が持たなかったのよ。
 いずれ情けない生き方での逆恨み八つ当たりの怨霊たちに、真っ向からあれだけの非難を浴びせたのだ。それもお主の高潔な生き方そのものをぶつけられたのではそれは堪らぬであろう。心が壊れぬためには己を引き裂いて砕けて逃げるしかなかった。
 そういうわけだ。
 同じ修羅と云えども格の違いが一段二段どころか、天と地ほどもあるのだから不思議はない」
「ぬかせ。誰が修羅だ」
 戦国大太刀を抱えて、師匠は押し黙った。
 すでに師匠の影は元に戻っていた。


6)

「首尾よく行ってようございました」
 黄金長者は師匠へ茶を差し出した。その隣の相異坊の茶碗には最初から酒が注いである。今回も黄金長者の横にはあの店主が座っている。
「すべて片はついた。秘法を使って地獄送りにしたから二度とこの世には現れまい」
 それに答えたは黄金長者だ。
「この者も大層喜んでおりまする。あの座敷牢は取り壊して中庭にするつもりだそうです」
「一件落着。まずは目出度い。さて、長者殿、報酬についてだが」
「もちろん、用意してございます。この黄金長者、約束を違えたりはしませぬ」
 黄金長者が手を叩くと店の者たちが数人がかりで千両箱を運んできた。千両箱一つで六貫の重さがある。それが三つ、山形に積みあがる。
「どうぞお納めください。どちらにお運びすればよろしいでしょうか?」
「そこで長者殿に頼みがある」と相異坊。
「はい」真面目な話をするのだと見てとり、黄金長者は居住まいを正した。
「この金で紫黄山から下りて最初に街道に当たる場所に小さな宿場町を作って欲しい。最低でも飯屋が四五件に宿屋が二件ほど。その程度で良い。大事なのは店だ。色々日常品を置いた店が欲しい」
「宿場町でございますか」
「修験者たちは大概が手弁当で霊山に来るが、それでも修行中に色々と不足するものが出てくる。例えば酒などな」
 相異坊は手の中の酒の入った茶碗を振ってみせた。
「その度に遠く町まで買い出しに行くのが大変なのだ。いずれ本業を別に持つ輩なので、そうなれば一年に一回の修行の機会の大半を逃すことになる。前から色々と頼まれていたのだが、そういう町が一つあの辺りにできてくれると大変に役に立つ。前から色々動いておったのだが、なにぶん街道沿いに新たに町を作るとなると、利権に群がる役人たちがうるさいので長者殿の力を借りないとどうにもならぬ」
 黄金長者それが成り立つかどうかを少し考えてから答えた。
「ようございます。宿場町を作りましょう。しかし三千両あればもっと大きな町が作れますが」
 相異坊はそれに頷いた。
「それでな最後の願いなのだが、その宿場町にあの辺りに屯している子供たちをできるだけ雇って欲しい。あの辺りは流れてきた浮浪児たちが特に多くてな。タチの悪い地回りがそれに目をつけて実にまずいことになっておる」
「地回りですか」
「ああ、むしろそれについてはウチの連中も手を貸す。町には紫黄山修験者の手の者を張り付けておくし、ウチの縄張りとしても宣言しておく。一度町として立ち上がれば生半の者では手を出せまいよ」
 相異坊ほどではないがその配下の者たちも相当な荒行修行を積んだ者たちである。それが千人もいるのでは地回りヤクザがどれほど集まろうが敵うものではない。
 元からある町をヤクザから奪うというならば衝突もあるが、新しく作られた町の利権ならば、最初の衝突で力の差を見せればそのまま誰も手を出さなくなるという腹積もりである。
「わかりました。新たに作られた町が不慣れな子供たちにより立ちいくようになるまでにはずいぶんと金と手間がかかりましょうぞ。お上への根回しも入れれば賄賂もたくさん要りましょう。それも勘定に入れての三千両と言うことですな。
 この黄金長者の名にかけてその通りにしてみせましょう。
 しかし相異坊さまはそれでよろしいのですか?」
「ああ、そうだな」相異坊は頭を掻いた。
 つと手を伸ばして千両箱の蓋を外すと、中から小判を一枚取り出し、懐へ入れた。
「ワシはこれで十分」
 そう言ってから少し動きを止め、頭を掻きかきもう一枚小判を取り出してまた懐へ放り込むと、惜しそうな顔をしながらも千両箱の蓋を閉めた。
「後はこれを。口一杯まで並々と注いでくれ」
 相異坊は空の瓢箪を差し出した。
 呼ばれた丁稚が瓢箪を持っていくと黄金長者は話の矛先を師匠に変えた。
「先生の取り分はいかにしましょう」
 師匠は片眉を上げた。黄金長者との取引では師匠の方から何かを要求したことはない。
「儂はいらんよ」師匠は答える。「今回は実に珍しいものが見れたからの。それで満足だ」
「珍しいもの?」
「相異坊の働く姿」
 それだけを言った。師匠の隣で相異坊が苦い顔をする。
 こほんと咳をして威厳を取り戻すと相異坊は後を続けた。
「ご主人どのには悪いがご先祖様は怨霊として地獄に落ちた。現世で無関係の人々を何人も殺してしまったからの。因果応報なれば受け入れるしかない。恐らくはこれより千年は地獄から出てはこれまい」
 それを聞いて主人は頭を深々と下げた。
「因果応報なればいたしかたございませぬ。されどどのような不出来であろうともご先祖様はご先祖様。私どもいかに供養すればよいでしょうか」
「こちらにできることはあまりない。毎年決まった日に坊主でも拝み屋でもよいから経でもあげることだな」
 気休めだなと師匠は思ったが口にはしなかった。
「だが儂もあまりあの鎧武者のことを悪くは言えぬ。一歩間違えれば儂もああなっていたやも知れぬ」
 珍しくもしみじみと師匠が感想を漏らす。
「お主は大丈夫よ」相異坊が保証した。
 なにせお主は阿修羅の化身とつい口をつきそうになった言葉はそのまま飲み込んだ。

「さて、ワシはこれでお山に帰る」相異坊は立ち上がった。「また何かあれば本間に言伝を預けるがよい」
「やれやれ儂は伝書鳩かい」と師匠が文句を言う。
 師匠が滅多に見せないそんな態度を見て、黄金長者は満足げに頷いた。
 友人とは良いものだ。この苔蒸した岩のような先生ですら幸せにする。