古縁流始末記銘板

牛頭

1)

「牛の頭をした化け物が出るそうでしてな」
 自ら立てた抹茶を勧めながら黄金長者は言った。
 黄金長者は恰幅が良くいかにも裕福そうに見える。これぞ商人というべき人物だ。
 その通りにとんでもない大金持ちで、米や木材などの国境を跨いだ日ノ本中の大規模な商売を牛耳っている。また裏では両替商や高利貸しなども行っているという暗い噂もあり、その分限は万両どころか百万両と言われている。幾つもある大蔵の中には千両箱が山高く積み上げられていることは誰もが知っている。
 その人物の対面に座る古縁流第二十八代目伝承者の宗一郎師匠は何のてらいもなく黄金長者から茶碗を受け取るとごくりと一口飲んだ。
 その茶碗一つで城が一つ買えると聞いてはいても、まったく動じない。
 師匠は黄金長者の話に片眉を上げて見せた。興味があるという印だ。

 本間宋一郎。当年取って四十二歳。小柄ではあるが引き締まった体をしていて、眼光は異様に鋭い。すぐ横に自分の体ほどの長さがある三貫目の戦国大太刀を置いている。いつも苦虫を噛み潰したかのような顔をしている。
 二人が居るのは大ぶりの茶室だ。にじり口もかなり大きい。
 正式なにじり口は身をにじるようにして入らねばならないほど小さく作る。武士は茶室に入るときに武士の魂たる刀を茶室の外に置いて来ねばならない。それでこそ茶の湯に身分の差を持ち込ませぬ肝と、そう考えたのが茶の道の祖である利休である。
 だが黄金長者の茶室は違う。そも最初から茶室の在り方が異なる。生きている限り決して刀を手放せない類の客が警戒することなく茶室に入れるようにしてあるのだ。
 黄金長者はただの富豪ではない。その取引相手には闇の世界の人間たちも多く存在する。黄金長者の下では日本の表と裏の権力者が交わることもあると言って過言ではない。その結果がこの茶室である。
 そこに並ぶ茶室の備品はいづれ劣らぬ名品揃いだ。普通の人間ならばここでもし転んで器物の一つでも壊しでもしたらと思うと、おちおちと茶など飲んではいられない。そんなものが並んでいる。
 だがもし師匠が剣を奮いてこの部屋の什器をすべて壊そうが、黄金長者はそれを咎めることはないし、師匠もそれを気に止むことはないだろう。一人はそれを気にしないほど富貴であり、一人はそれを気にしないほど別世界の住人であるためだ。

 黄金長者は話を進めた。
「御前町の噂でしてな。夜になると牛の頭をした化け物が来るそうです。それも厄介なことに、その度に女が襲われるのです。若い女も年増の女も、見目好い女も不細工な女も見境なしです。襲われた者の中には件を産んだと言われる者もおりましてな。ほら、あの、頭が人間で体が牛の必ず当たる予言を成すという妖怪のクダンです」
 手にした茶碗を下におくと、師匠はうむとだけ小さくつぶやいた。
「先生がお探しの者ですかな? これは」
 黄金長者が探るように言う。
「確かにその通りだ」師匠は答えた。「ありがたい。これは儂の借りとしてくれ」
「貸しという程のものではありません」黄金長者は居住まいを正した。「それならばまた一つ見聞きをしていただければ結構です」
「また倉が増えたのか」
「左様にございます。別に私はもう金など欲しくはないのですが、金という奴は寂しがり屋でして、すでに金がある所にまた自然と溜まるものなのです。できる限り世の中に戻すようにはしているのですが、まさか千両箱を往来に捨て置くわけにはいきませぬ」
「良いではないか。夜の間に千両箱を大通りに捨てておけばよい。金に困っておる者が拾うであろう」
「先生。ご冗談を。そんなことをすれば大通りは朝から晩まで目を血走らせた人々で埋まってしまいます。誰かが金を拾ったとでも言おうものなら、それを奪おうとして大騒ぎになりかねません」
「ふむ。面倒なものよのお。儂は持ち物はこの大太刀一本で十分じゃが」
 黄金長者は微笑んだ。この政財界に渡る怪物にしては、何の邪気も無い微笑みであった。
「先生はそれでこの世の頂点に立っておられるのですから、その大太刀こそが最大の財産でしょうに」
 そこで黄金長者は師匠を試すようなことを言った。
「本間先生がもし手元に千両箱を持っておられましたらどうなさいますか?」
「ふむ。そうじゃな」師匠は手の中の茶碗をこねくり回した。「儂なら山に穴でも掘って埋めるな」
 この答えに黄金長者は眉を潜めてみせた。
「何のためにでございますか?」
「山に埋めておけば千年も経ってから誰かが見つけて掘りだすであろう。きっと掘り出した者は有頂天になるであろう。人生が一気に輝き、楽しくなるであろう。それを思えば、食えもせぬ小判でも多少は人の役に立とう。そうだな。それを埋めた場所を判じ絵に描きばら撒けば、暇な人間が喜んで解くだろう。これも善い」
 黄金長者は自分の目の焦点がどこかずれているような感じを覚えた。答えは貰ったが、その意味が黄金長者には分からなかった。
「まったく。本間先生はそれ以外の欲はお持ちではないのでしょうか? 言ってくだされば贅の限りを尽くした住処でも、絶世の美女でもご用意いたしますものを」
「そのようなものは要らぬ。剣を究める邪魔じゃ」
 師匠はそこで顎を掻いた。
「だがまあ、欲と言えば一つある。我が流派を継ぐことのできる弟子が欲しいというものだ。今だ儂は古縁流を継ぐ伝承者を産みだしてはおらぬ」
「ならば剣の才のある者を私めの力で全国中から見つけ出しましょうぞ」
 師匠は大きくため息をついた。師匠がため息をつくのを初めてみたなと黄金長者は少し慌てた。
「それがなあ。古縁流に必要な才は普通の剣の才とはまた少し異なるのだ。体が強いだけではならぬ。心が強いだけではならぬ。剣が好きなだけではならぬ。信念が強いだけではならぬ」
「どういうことでしょう?」
「迷いと言うべきかな。それが無ければならぬ。一筋に努力だけを行う者は、古縁流の修行を耐えきれぬ。衰弱して死ぬのだ」

 それも道理であった。古縁流はそもそもの始めから忍術の系譜を受け継いでいる。この流派の強さの秘密は、普通の人間を遥かに越えた体力に基礎を置く。その人間離れした体力を何が作り出しているのかと言うと、それは薬物であった。
 すなわち、忍法四大活法の一つである薬活である。秘伝の薬をいくつも調合し、修行の段階に合わせて服用する。
 筋力を上げる薬、神経を強める薬、内臓を鍛える薬、そしてその先にあるのは、痛みを忘れさせる薬、疲労を消し去る薬、身体の崩壊を押しとどめる薬、精神を麻痺させる薬。いずれも劇薬だ。
 それを慎重に服用しながら、不眠不休で剣を振り続ける。筋肉は断裂し、また修復し、また断裂する。体は根本から作り直され、怪物としか言いようがないものに変じていく。
 余りの厳しい修行に免許皆伝前に逃げ出す者がほとんどだ。それらはそのまま忘れ去られる。秘薬の調合も剣の秘技も知らぬから。だが初の免許皆伝以降を受けたものはもう古縁流を抜けることはできない。抜ける者は師匠が殺すのが掟だ。
 そして適性を欠く多くの者がその過程で体か心を壊して死ぬ。これも事実だ。
 ゆえに第二十八代伝承者の本間宗一郎はまだ次の伝承者を育て上げてはいない。
 このままでは儂の代でこの流派は絶えるのか。それが師匠の一番の悩みであった。
 だがそれもまた時代の要請かも知れぬと思っていた。
 古縁流が生れた鎌倉時代はまだ強さだけが尊ばれる時代だった。古縁流は堂々と名乗れたし、一騎当千の強者の剣術としても名が売れていた。
 翻って今、我が流派は名乗るのも恥ずかしいとされる有様だ。それも技の半分に手裏剣が入っているという理由だけでだ。
 武士は強さが信条ではないのか。その武士が飛び道具とは卑怯なりなどと口にする。その割には、戦では飛び道具を手放すことはしない。敵を倒すはまずは鉄砲などと矛盾したことを平気で口にする。
 ヤワになり、矛盾し、その本筋を見失った武士たち。そんな時代に、古縁流は最後まで残った本物の武士の剣術なのだ。

「先生?」黄金長者の呼びかけが師匠の夢想を打ち破った。
「うむ。では行こうかの」
 残った茶を啜り終えてから、師匠は立ち上がった。



 黄金長者の蔵が並ぶ大広場には十人の男たちが並んでいた。
 周囲はかなりの高さの白壁が左右にどこまでも続く。ここは金蔵をいくつも置いてまとめて警備している黄金長者の金庫とでも言うべき場所だ。関係ない人間が足を踏み入れればそれだけで殺される恐れがある。ここの蔵を襲って莫大な金を手に入れれば日ノ本の国を支配するのも可能であると噂されている。
 どの蔵の中にも数人の手練れが籠っている。この手練れたちは決められた日時が過ぎるまでは何が起きようとも蔵の中から出てくることはない。そして蔵に入ろうとする者は黄金長者以下の決められた数名以外は問答無用で切り殺す定めになっている。そのためついたあだ名が金色極楽の地獄倉である。

 黄金長者の横を師匠が歩く。その後ろをもう一人の男がついていく。これも大刀を腰に下げた眼光鋭い男だ。上背がありいかにも強そうだ。だがそれでも師匠は背後にいるその男をまったく警戒していない。
 下地は細かい白砂が敷いてある地面であったが、黄金長者以外は誰も足音がしない。
 緊張した面持ちの十人の男たちの前で、師匠は立ち止った。
 いずれも月代を剃り、見苦しくない服装をし、腰に一刀を差している。それなりに武術を鍛えて来た者の気迫がどの男からも漏れ出ている。
 黄金長者の下には日々多くの浪人たちが集まる。日本全国の物流を司る以上、荷運びの用心棒は必ず必要になるからだ。太平の世ではあったが、だからと言って盗賊がいないというわけではないのだ。
 それらの用心棒の中でもこれはと思った者たちがここに集められている。その目的は金蔵の警備をする者を選抜することだ。もちろんそれに選ばれた者は特別な待遇を受けることができる。

「皆さん、このお人が私の敬愛する先生です。これよりこの先生が皆さんを選別いたします。先生がダメと言われた方は静かにそのまま屋敷にお戻りになってください。後程、お手間を取らせた代金をお渡しいたします。このことに関してはすでに申し上げましたように一切の抗議はお聞きできません。またこの度の仕儀は他言無用に願います。口の軽いお方をこの私めは決して大事には致しません」
 にこやかな笑みを顔に貼りつけたまま黄金長者が厳しいことを言う。もちろん文句を言う者はいない。黄金長者は商人だが、厳然たる闇の力も持っている。
 黄金長者と横についてきた男を残して、師匠が静かに前に出る。
 その後ろ姿を見ながら、黄金長者がひそひそと話をする。
「左内さん。今回の者たち、どう思います?」
 左内と呼ばれた長身の侍は少し身を屈めて、黄金長者の耳に囁いた。
「左から二番目は目に卑しさがあります。その隣の三番目は肝が据わっていません。それと右から二番目のあの綺麗に身支度を整えた男、あれはかなり危ない感じがします」
「やはりそうですか」黄金長者が相槌を打った。
 師匠はその会話をすべて聞いていた。古縁流の剣士は力もそうだが、感覚も人並み外れている。山の中で一人で生き抜けるように訓練を積むのだ。その結果、野生の獣ですら顔負けの鋭敏さを誇るようになる。
「では始めようかの」まるで背後の会話を聞いていないかのように師匠が言った。 十人の男たちが居心地悪そうにしている中、師匠はゆっくりと彼らに近づいた。
 宗一郎師匠は背がやや低いぐらいで見かけは貧相だ。まだ岩の方が表情豊かに見えるぐらいの不機嫌な顔をいつもしていて、肉付きも良くは見えない。この冴えない男を、日本の財界を一人で支配する黄金長者が先生と持ち上げるのは実に奇妙な光景であった。本来は黄金長者は大名ですら頭が上がらない男なのだ。
 だがその印象は、師匠の前に立つと速やかに消える。それが今から起ることだ。
 師匠は一番左の男の顔に、無遠慮に自分の顔を近づけた。まるで自分の鼻に噛みつこうとしているかのようで、男は少したじろいだ。
 師匠の瞳が男の瞳を真っ向から覗き込む。
 その瞳の中に何かが見えた。それに気が付いた瞬間に男の膝から力が抜けた。その場にへなへなと崩れ落ちる。熊と素手で対峙しても恐れる気配も見せない自負があった。それなのにこの有様である。男は自分の不甲斐なさに愕然とした。
 あれは何だ。あの瞳の奥にあったものは。男は自問する。
 それは静かに燃える炎のようにも見えた。荒ぶる嵐のようにも見えた。六本の腕が見えたような気がした。三つの顔が見えたような気がした。あり得ないことだが、それは人間ではなかった。
「ヌシは良し」
 師匠の声が下りた。それに思わず力なく頷いてしまう。自分は許されたという安堵の思いで全身が温かくなる。世の中にはこんな化け物がうろうろしているのかと思うと肝が冷えた。
「次」
 そういうと師匠は二番目の男に近づいた。その拍子に懐から何かが落ちる。
 小判だ。相手の男がそれに気を取られて屈む。
 男の首の後ろにトンと何かが置かれた。師匠の手刀だ。
「ヌシは駄目だ。小判に気を取られるものが金蔵を守ることなどできようか。その小判を拾って家に帰るがよい」
 項垂れた男を捨て置いて、次に移る。
 三番目の男は師匠に対して身構えた。何が出ても動じはせぬとばかりに歯を食いしばる。
「よし、腹に力を入れて備えよ。これより儂は叫ぶ。それに耐えてみせよ」
 師匠は大きく息を吸うと、激烈な気合を放った。
 大地が揺れた。空に大きなヒビが入り、庭園内に植えてある木という木から葉が飛び散った。現実には何も起きていなかったが、そう感じさせるほどの苛烈な気合であった。
 左内自身は落雷が落ちたのかと思った。反射的に腰の刀に手をかけてしまう。その隣で黄金長者が身を固くしている。それでも倒れなかったのは流石というべきか。
 気合を掛けられた当の男はすでに、屋敷の出口目掛けて一目散に走り続けていた。その袴の裾に色々な汚物が張り付いてだんだら模様になっているのが見えた。
「なんじゃ情けない」師匠はぶつぶつとつぶやいた。
 さて、隣はと見ると、全員が腰が抜けたのかペタンと地面に腰をつけている。ここに集ったのはいづれも剣術の猛者のはずなのだが、さすがに師匠の気合には耐えられなかったようだ。
「ふむ。うぬらは漏らさぬだけまだマシか。一応は合格かの」
 師匠はへたり込んでいる残りの男たちの前をゆっくりと歩いた。それから右端の一歩手前まで来ると足を止めた。
「ただし、ぬしは駄目じゃ。血の匂いがひどすぎる」
 言われたのは綺麗な身だしなみをした男だった。上等の布の服に、椿油の匂う一本の毛の乱れもない髪。持っている刀の鞘は手元側に綺麗な細工が入っている高価な品だ。
「待て、血の匂いとは何のことだ。どうしてそれがしが駄目というのか」
「立て」男の問いには答えずに師匠が命じる。
 男が立ち上がる。
「抜け」
「!」
「抜いてみよと申しておる」
 師匠は男の刀を示す。
 渋々という感じで刀の鯉口を切り、抜いて見せた。白刃が日に輝く。師匠は恐れることもなくその刃に顔を近づけて匂いを嗅ぐ。
「新品同然に研いである。だが血曇りというものは研いでも消えなせぬ。それは切られた者の怨念が貼りつくからだ」
 師匠は姿勢を戻した。
「無辜の者、二十は切っておるな。ぬし、どこぞの盗賊団の頭であろう」
 むうっ。男の口から声が漏れた。凄い目で師匠を睨む。睨みながらも、抜き身を鞘にそっと収めた。
 次の瞬間、男は抜いた。
 神速の抜刀術。そう言っても良いだろう。
 刃が風を切り、戻り、また切りつける。三度の斬撃の後には四つに分断された師匠の体が残る・・はずであった。佐内が刀を抜きながら前に跳び出そうとしたがその体が途中で止まる。
 男の放った二度の斬撃はあっさりと躱され、最後の斬撃は空中で止まっていた。刃の中ほどを師匠が親指と人差し指でつまんでいる。どれだけ押しても引いても、刀はびくともしなかった。
「臭い臭い。怒ると気が濁って血の匂いが強くなるの」
 師匠が指を捻るとその指の力だけで男の刀が半ばから折れた。
 この隙に近づいて来ていた左内が刀を一閃させた。
 盗賊の体が両断される。
「手間をかけるのう」
 師匠が左内に笑みを見せ、それを見た左内は思わず後ろに飛びのいてしまった。今日一日で見た中で一番恐ろしい光景だった。なるほどこのお方がいつも仏頂面を崩さぬのは、それが一番怖くない顔だからかと、左内は改めて思い知った。
 師匠の笑みに臆してしまった自分を隠そうとするかのように左内は言った。
「しかし今の技は噂に聞く真剣白刃取りなのですか。振り回される白刃を摘んで止めてしまうとは、実に凄い」
「なに、技と言えるほどの物ではないぞ。余りにものろのろと刀を振り回すから、刃をちょいと掴んでみせただけだ。言わば児戯よ。それにおヌシならこれぐらいはできるだろう」
「はあ、まあ、それはそうですが」
 左内は頭を掻いた。それでも気軽にできる技ではない。一歩間違えば剣士の宝である指が落ちる。
 その顔を見ながら、師匠は押し黙った。もしこれが古縁流にとって技と言えるほどのものならば、ここでそれを見た黄金長者も含む全員を殺すことになる。そこまでは説明しなかった。
 最初から、師匠が立っている場所とこの左内という侍が立っている場所は一段も二段も違うのである。
「さて、最後に」
 師匠はそう言いざまに、懐から一本の手裏剣を取り出して投げた。それを避けて、右端にいた男が宙に跳んだ。
「ヌシは忍びだな。幕府かそれとも他の大名か」
 男が地面の上に改めて立った。先ほどとは立つ姿勢が明らかに異なる。背をわずかにかがめ、巻き上げた重心を上に置く。それは剣士の姿勢では無かった。剣を扱うならば重心は下に置く。上に置くのは飛び道具を主眼に置いているということだ。
「特には聞かぬ。殺しはせぬ。追いもせぬ。疾く去るがよい」師匠が告げる。「それとも殺りあうかの?」
「その前に名を教えよ」男は殺気を少しも感じさせぬ声で言った。
「古縁流・本間宗一郎」
「聞かぬ流派だな」
「五百年前なら多少は知られていたのだがな」師匠は自嘲した。
 そこまで聞くと、男は白壁に向けて走った。懐から取り出した手拭いで白壁を叩いた。壁と手拭いの間に一瞬だけ生じた粘着力を捉え、それを手がかりにして一瞬で高い壁を乗り越えて消えた。これは忍者の技の一つだ。
「逃がして良いのですか? 先生」
 左内が訊く。
「構わぬ。あれを殺して益があるわけでもなし。殺してもどうせ次が来る。長者殿の守りが手堅いと知ればつまらぬちょっかいはかけては来ぬだろう」
 構わずに黄金長者のところに戻る。
「丸きり良いというわけではないが、全く使えぬほどでも無し。残ったものはそのまま雇うが良い」
「わかりました」黄金長者が頭を下げる。「先生のお弟子に採りたい者はおりましたでしょうか?」
「駄目だの」心底疲れたような声で師匠は答えた。「あの程度では修行の最中に皆死ぬ」


2)

 入口の扉につっかい棒を内側からかけておいて、部屋の真ん中に留守との札を置いて、師匠は出かけた。
 留守札の横には酒の入った瓶を一つ置いてある。
 これで相異坊が留守の間に訊ねて来れば勝手に家の中に入り、勝手に酒瓶を見つけて、勝手に大人しく帰るだろうとの目論見だ。内側からのつっかえ棒など、修験者の頭の相異坊に取っては障害にはならぬ。うんと息を詰めて一つ印を結べば験力であっさりと扉は開く。だからこれはあくまでも普通の泥棒に向けた備えだ。
 もし運の悪い泥棒が家の中に入ることができて酒瓶を盗みでもしようものなら、相異坊は激怒してその泥棒の匂いを辿って何かひどい目に合わせるだろう。
 儂は番犬を一匹飼っているようなものだの、と師匠は思った。もっとも大酒を飲む番犬など少しも有難くはなかった。

 師匠は教えて貰った町に潜んだ。黄金長者に頼んで一件の家を借り出し、そこにある物を集めて貰った。
 うら若い女性がいつも使っていた布団。それを家の中に積み上げて貰ったのだ。
 もちろんこれは裏の手段で集めたものだ。こんなものを大っぴらに集めたりすれば、お上を含めての大騒ぎになりかねない。今は遊郭全盛の時代ではあるが、街中自体の風紀は厳しく取り締まられていた。それぞれの身分に従い扱いは天と地ほども異なる。それは見かたを変えれば、ただ単に前例の無いことを許さないという封建時代独特の頭の固さをも意味していた。
 師匠はその布団の山の中に潜んで、女というものは臭いものだのと思いながら、ただひたすら日暮れを待った。
 師匠自体は全く匂いがしない。見た目の風体風貌に関わらず、しょっちゅう体を洗っているし、着衣も綺麗に洗って着ている。これは潔癖と言うよりも、忍術を源流の一つとする古縁流の作法とでも言うべきものであった。匂いを残せば後を追われる故に匂いは漏らさぬ。常住戦陣こそが古縁流の教え。

 牛の化け物が来るとすれば深夜、子の刻であろう。そう当たりをつけた。
 気配を消して布団の中で石になる。忍法石化け。これも古縁流の技の一つだ。
 夜が深くなるにつれて夜気が濃くなり、隙間風が冷たくなっていく。雨戸の外から聞こえる風の音がだんだんと強くなる。
 どこかで梟が鳴く声が聞こえた。どこぞの木の上に巣でも作ったのであろうよ。師匠の石の心の上をそんな考えが流れて行く。
 闇の中で一人、様々な思いが浮かぶ。儂は選び過ぎているのだろうか。そんな考えも湧いてきた。才無き者でも弟子と成し、最低限である初の皆伝まで押し上げて流派を継がせるべきではないか。
 本間宗一郎自身は若い時分で終の免許皆伝に達してしまった。だからこそ、選ぶ目が厳しくなってしまっているのではないか。
 古縁流の古伝を紐解けば、ぶらりと全国を渡り歩いていたと言われる第十二代継承者藤原藤兵衛のような男もいる。翻って自分の又造師匠などは初の皆伝にまでしか行きつけなかった男だ。いづれも固いことは言わずにただ流派を次の者へと引き継ぎ、その果てに見事な業績を上げている。ならば自分ももう少し柔軟であっても良いのではないか。
 そうとも思った。

 果てることなき夢想を打ち破ったのは、外を歩く何者かの足音であった。その音から察するに、それは大きく重い人型の何かだった。
 息を潜めて待っていると、その何者かは雨戸をガタガタと揺らし始め、ついにはバリバリと壊して外してしまった。
「女の匂いがするぞ」
 その何者かは吠えた。
 月明かりに影が映ると、障子戸が勢いよく引き開けられる。
 月の淡い光が作る逆光の中で黒い巨体に牛の角が生えているのが判った。顔は良く見えなかった。
 そいつは積み上げてある布団を引きはがし始めた。
「隠れても無駄よ。さあ、顔を見せるがよい」
 師匠が布団から飛び出した。その手にはいつの間にか抜き身の戦国大太刀が握られている。
 光が一閃した。
 牛男が後ろに仰け反って庭に転げ落ちる。
 一方の角が真ん中から切断されて、布団の上に落ちた。
 ぬうと師匠が立ち上がる。牛男に比べるとその体躯は貧相に見える。だがその体に纏った気迫は凄まじいの一言であった。
「やはり十二王の一人であったか。名乗っておこう。我は古縁流第二十八代伝承者本間宗一郎なり」
 げっと牛男の喉から声が漏れた。それから何かに気づいたかのように自分の角に触れ、それが切断されていることに気づいた。
「おのれ、おのれ。俺の大事な角をよくも」
「男前になったの」月明りに照らされる中、師匠が笑った。
 牛男が思わず怯んだほどの恐ろしい笑みだった。人間の笑みがこれほど恐ろしいものになるとは誰知ろう。
「どれ、もう一つの角も落として、もっと男前にしてやろう」
 ずいと師匠が前に出た。細身の男から場違いの威圧感が吹き出る。戦国大太刀の形を取った死がその手に握られている。
 前に出るかとみせた牛男がいきなり逃げ出した。その背に手裏剣が一本刺さるが無視された。
「人なら今ので死んでいるが、やはり十二王は丈夫だの。どれ、追うとするか」
 暢気な言葉を口にして、師匠も後を追った。
 月の光の下では、すべての光景は白と黒で作られる。その影絵の町の中を一匹と一人は追いかけっこをした。
 化け物が逃げ、人間が追いかける。何かが間違っていた。
 牛男は足が長いだけに速い。それに対して師匠の動きも素早かった。飛鳥の如くに地を馳せる。追いつくは容易なれど、人家のある所では巻き込まれる人々が出る。もう少し人気の無い所まで追い、それから殺そう。それが師匠の考えだった。
 いきなり前を走っていた牛男の気配が消えた。その場に着いてみるとそこには大振りの井戸が一つ大きな口を開けている。
 鶴瓶が一つ、からんと乾いた音を立てた。
「むう。これは」
 一言呟くと、大太刀を縦に持ち邪魔にならないようにする。それから師匠は井戸に飛び込んだ。



 落下は一瞬だった。
 冷たい水の中にどぶんと落ちるかと思ったが、予想に反して固い地面に足がついた。
 素早くいつも腰にぶら下げているドウランの中から小さな火種を取り出すと、即席の松明を作って火をつけた。
 空井戸の底には横穴が広がり、少し下向きの傾斜となって地の底へと延びていた。師匠は恐れることなく前に進む。
 道はどんどん下る。横穴は牛男が通れるほど大きく、やがて広く開けた場所に出た。
 そこは巨大な洞窟で、はっきりしない光源による薄明かりに満ちていた。
 古い建物が所せましと建てられていて、その中央を大通りと思われる道が伸びている。幾つかは商店と思える作りだ。
 横穴から繋がる部分に木造りの関が設けられている。そこを今まさに牛男が通り抜ける所だった。
「御用ぞ。道を開けい」牛男が吠えた。
 関の両側を固めていた大男たちが道を開ける。その頭の上に角が生えているのが師匠には見てとれた。
 あれは鬼か。するとここは根の国か。師匠は理解した。この横穴と井戸は冥界とのつなぎ役である常無常たちが使う地獄穴か。なるほど合点がいったわい。師匠は独り言ちた。
 関を通り抜ける牛男の後を追おうとすると、関を守っていた鬼たちが通せんぼをした。師匠の倍の大きさがある赤味がかった鬼たちだ。
「待て、待てい。お前、生者だな。生者は許可ある者以外はここを通ることはならぬ」
「あの者は通ったではないか」
「牛頭様は良いのだ。我ら地獄の獄卒の長だからな」
「牛頭というのか。儂はその牛頭に用があるのだ」
「ならぬ」赤鬼は強情だった。
「そうか。言うても無駄じゃの」
 師匠の眼が細くなった。師匠は言っても無駄なものはまず殴るという方針を貫いている。師匠を少しでも知っている者ならその邪魔をしようという者はいない。
 残念ながら鬼たちは師匠を知らなかった。
 師匠が背中に担いでいた戦国大太刀を下した。次の瞬間、閃光が走った。関の木組みが丸ごと切断され、崩れ落ちる。閃光は一筋だけだったが、不思議なことに木組は幾つにも分断されている。
 チンと戦国大太刀が鍔鳴りをした。
 居合刀ならともかく人の背丈ほどもある戦国大太刀で抜刀術を使える者は世界広しと言えどは本間宗一郎その人ぐらいのものである。
 背後の惨事に呆然としていた鬼たちが我に返る。
「こやつ、何をした!」
「知れたこと。斬ったのよ。では、通るぞ」
「通すものか」
 鬼たちが手にした棒を改めて握りしめる。
「元気だのう」
 師匠が嬉しそうに・・笑った。
 恐ろしい笑顔だった。誰も見たいとは思わぬ表情だった。いや、それを笑顔と断言してしまえば、太陽は西から登ることになる。
 門番鬼たちの腰から何かが抜けて、膝が折れた。目の前に立ちはだかる師匠の前に倍の上背がある鬼たちが蹲った。
 それが圧倒的な殺気のせいだと初めて門番鬼たちは理解した。膝が止めることもできないほどに震えた。
「何じゃ。闘らないのか。では通るぞ」
 二匹の鬼の間を悠々と抜けて、師匠が街に足を踏み入れる。
 関が崩れた音に驚いて町の建物から他の鬼たちが顔を出す。その視線の先を師匠が走る。すでに牛頭は町の通りの反対側を走っている。
 恐るべき速駆けに鬼の町はすぐに尽き、また洞窟になる。
 牛頭が洞窟の横に置いてあった大きな丸岩を転がした。驚くべき膂力で自分の体よりも大きな丸岩を転がして、洞窟の入口を塞ぎ、自分はその閉じる隙間の中に体を躍らせた。
 師匠が大岩にたどり着いたときにはすでに洞窟の入口は封鎖されてしまっていた。
 師匠はその大岩を押してみたがびくともしない。
「うぬ、そうか。丑の王の神通力は凄まじき大力か。だがこれしきで儂を止めることはできぬぞ」
 師匠は戦国大太刀を抜くと、大上段に構えた。
 気合を発した。一閃、二閃、そして三閃。
 大岩がばらばらに寸断され、周囲に崩れ落ちる。断面はまるで磨いたかのように綺麗だ。
「では通る」一言呟くと、瓦礫を越えて、師匠は洞窟へと足を踏み入れた。

 次の関は石作りであった。門番たちは青鬼である。
「狼藉者め!」関の上から青鬼たちが怒鳴る。
「その通り」
 それ以上は答えず、師匠が刀を振る。
 石壁がまるで藁でできているかのようにあっさりと切断され、轟音を立てて崩れ落ちる。青鬼たちも一緒になって落ちると、地面に転がって呻く。
「誰ぞ儂と死合う者はおるか?」
 師匠の問いに当然ながら誰も答えない。
「では通るぞ」
 師匠は崩れた関を通り抜けた。
 街自体の作りには工夫がない。中央に街道が通り、その両側に鬼たちの住居が並んでいるだけだ。その点では人間の街と違いはない。師匠はその中をまっすぐに駆け抜ける。
 前方に荒い息で走り続けている牛頭の気配がある。
「やれやれ。十二王にも関わらず良く逃げおる。少しは潔くすればよいものを」
 師匠が不満を漏らす。

 今度の洞窟を抜けるとそこには鉄でできた関があった。
「むう。しつこいのう」
 門の隙間から怒れる目の黒鬼たちが覗いていた。
「牛頭さまを追っているという狼藉者はこいつか」
 口々に何かを言い合っている。
「お前たち。門から離れておれ。怪我をしてもしらんぞ」
「何をしようと言うのか。人間め」
「知れたことよ。今よりこの門を両断する」
「できるものならやってみよ」
 売り言葉に買い言葉である。問題はそれを売った相手が師匠ということだ。
「承知した」一言返すと師匠は大太刀を大上段に振り上げた。
「たかが鉄の門など何するものぞ」
 神速で振り下ろされた大太刀は鉄の門を上から下まで完全に切り裂いた。
 大音響を立てながら、さきほどまで門であった鉄の板が地面に転がる。
「もう一度」
 今度は両脇の鉄柱が切断される。
 ずいと壊れた門を潜った師匠が黒鬼の頭上に剣を掲げた。
「さて、次はどの頭の上に振り下ろすかの?」
 黒鬼たちが自分の背丈の半分もない師匠を恐れて、這って逃げ出した。
「まったく。牛頭め。下手に逃げ回るから関係の無い者が巻き込まれる」
 まるで他人事のように師匠が不満を漏らし、今までで一番大きな洞窟へと足を踏み入れた。

 そのうちにようやく洞窟も果てが見え、最後の大広間へと師匠は到達した。


3)

 目の前に現れたのは巨大な宮殿であった。飾りの類は質素だったが建物自体は壮大で重厚な作りであった。大きな木からそのまま削りだした太い柱が幾本も聳え、薄暗い世界の中で白い壁が目立っている。きちんと正装した鬼たちがその建物の回りで忙し気に走り回っている。
 その建物の大きな扉の中に牛頭が走り込むのが見えた。
「そこな牛頭待てえい!」
 その細身の体からは考えられないほどの大声を放ち、師匠は突進した。
 牛頭がびくりと跳びあがると逆に足を速めた。声を聞いて宮殿の中から武装した鬼たちが走り出してくると師匠を見つけて殺到してくる。

 話をする暇はなかった。

 襲い掛かって来る鬼たちを鞘をつけたままの戦国大太刀で跳ね飛ばす。師匠の体の倍もある鬼たちがまるで毬のように撥ね飛ばされる。鬼たちの太い足が折れ、毛むくじゃらの腕があらぬ方向に曲がる。
 古縁流第二十八代本間宗一郎は伝承者中では最強の名を誇っている。
 その勢いのまま牛頭が消えた分厚い正面扉をけ破った。
 立派で広い石造りの中央廊下を牛頭を追って駆け抜ける。その姿は見えなかったが、ここまで走りっぱなしだったため牛頭は大量の汗をかいている。その匂いを辿って師匠は牛頭を追った。
 牛頭は真っすぐ前だ。
 やがて廊下は尽き、重々しく豪華な扉で終わる。扉は金の飾りで縁取られている。
「この先か。手こずらせおって」
 押して見たが扉は向こう側で閂が掛けられているのかびくともしない。
 戦国大太刀を再び鞘から抜き出す。
「終の技、滴抜」小さくつぶやくと、扉に刃を埋めた。
 すうと何の抵抗も見せずに刃が扉に潜り込む。軽く振ると、扉の向こうで太い閂が切断され、派手な音を立てて転がり落ちる。
 そのまま大太刀を抜き、手を持ち替える。
 強く押すと今度は重々しくだが扉が開いた。
 部屋の中の光景が目に入る。大きな机の向こうに髭面の大男が座っている。その横に牛頭が立っており、部屋の左右には武装した赤鬼青鬼黒鬼が立ち並んでいる。
 牛頭が師匠を指さした。
「大王様、あやつです!」
 それを圧する声で師匠が叫ぶ。
「逃げまわるのは止めよ。牛頭。それでも十二王か!」
「待てマテ待て。そこの男。ここがどこだか分かっておるのか」
 髭面の大男が慌てて割って入った。
「我は冥界の判官たる閻魔大王。ここは我の法廷なるぞ。この無礼者!」
 師匠が直立不動し、刀を鞘に戻すと、深々と頭を下げた。
「これは失礼仕った。それがし古縁流第二十八代伝承者本間宗一郎と申す。我が流派の古き因縁によりそこな牛頭に用があるゆえ参った」
「大王様。嘘です。あやつは御用で現世に出ていた私にいきなり襲い掛かってきたのです」
 牛頭が言い訳をした。
 髭面の閻魔大王がその言葉を遮った。
「いかな理由があろうとも、この冥界の法廷を侮辱するはならぬ。本間とやら、すぐに現世に帰れ」
「現世に御用というのは夜な夜な町娘たちを犯していたことか」師匠が怒りを含んだ声で言った。「牛の子を産んで一生を台無しにした者もおるのだぞ」
「なんと!」閻魔大王が驚愕した。「牛頭よ。それは真か」
「まったくの嘘で御座います」
 しらりと牛頭は嘘を吐いた。
 師匠が閻魔大王の横を指さした。
「そこにある鏡は浄玻璃鏡と見た。その鏡で牛頭を照らしてみるがよい」

 浄玻璃鏡は秘密を暴く力を持つ神鏡だ。それに照らされればすべての嘘は暴かれてしまう。

 牛頭がしまったという顔をすると、閻魔大王はその表情からすべてを悟った。
「なんと。牛頭。大変なことをしてくれたな。ううむ。だが困った」
 少し間を置いて閻魔大王は配下の鬼たちに命じた。
「冥界の重役を務める者が不祥事を起こすとは。この事はどこにも漏らすわけにはいかん。者ども。そこな男を捕縛し、冥嘆牢に閉じ込めて置け」
 師匠の顔に怒りが浮かんだ。師匠は滅多に怒った顔は見せないため誰も知らなかったが、それは師匠の笑みの百倍は恐ろしいものだった。
「痴れ者めが! 閻魔、お主、このすべてをもみ消そうと言うか」
 師匠の体が膨れ上がったように見えた。
「人を裁く者が己に甘くて、裁きの主が務まるのかあ!」
「問答無用。それかかれ」
 赤鬼青鬼黒鬼たちが手にした武器を振り上げながら一斉に飛び掛かった。
 鞘に納めたままの戦国大太刀が水平に振られた。それに触れた鬼たちが数匹真横に吹き飛ばされる。あり得ない攻撃であった。師匠の倍以上の背丈がある筋肉隆々の鬼たちがまるで藁の茎のように吹き飛ばされたのだ。
「参の技、ススキ刈り」
 言葉を継ぐと、襲い掛かって来た鬼の武器を弾き飛ばし、背後から迫って来た鬼の頭を叩いて倒す。師匠はそのまま部屋中を暴れ回った。
 暴風雨。そう表現するのが正しい。それも世界の終わりに巻き起こると言われている大嵐だ。
 角が折れ、腕が折れ、足が折れ、たちまちにして襲い掛かった鬼たちがすべて床に転がった。
「ヌシらもお役目なれば斬らずにおいてやろう」
 じろりと周囲の惨劇を睨むと、師匠は閻魔大王に向き直った。
 閻魔大王と牛頭は机の背後の扉に消える所であった。
 扉が音を立てて閉まる。
 師匠が大太刀の鞘で扉を叩くと硬い音がした。
「むう。鋼の扉か。無駄なことを」
 師匠はすらりと大太刀を鞘から引き抜いた。ぎらりと光る刃を頭上に高々と差し上げる。その先端がふらりと揺れる。
「秘剣迷い星」
 呟いた。目にも止まらぬ速さで剣が振り下ろされる。
 そこには一切の音がしなかった。静けさの中で鋼鉄の扉が音も無く切断されると、地響きと共に床に転がる。
 その小部屋の中で閻魔大王と牛頭が目をひん剥いて震えていた。
「なんと凶悪なる剣か。一片の慈悲も見えぬ。それを使うお前は化け物か」閻魔大王が咎めた。
「化け物は儂ではない。権力を己が目的のために使うお前たちこそが化け物だ。古縁流は化け物を切る剣。今こそその力を見せてくれようぞ」
 師匠はそう言い返すと大太刀の切っ先を牛頭に押し付けた。
「他の鬼たちは御用ゆえに襲って来た。ゆえに殺してはおらぬ。だが牛頭よ。お前は別だ。十二王との因縁、今こそ果たさせてもらうぞ」
 ずいと刃を前に出す。牛頭が後ずさると、その体は壁に当たって止まった。これ以上は下がりようがない。刃の切っ先が牛頭の体に埋まり始める。
「待て、待ってくれ」閻魔大王が止めに入った。
「牛頭は困る。牛頭は困る。こいつは獄卒の頭だ。ここで生者に殺されるとこの法廷の権威が崩れる」
「それの何が問題だ。この者は夜な夜な現世に抜け出て女を犯して来たのだぞ」
「それは分かる。だが、それでも困る。この閻魔の法廷は冥界の要なのだ。それが崩れれば冥界自体が大混乱となる。そうなれば現世もただでは済まない。必ずまた、現世でも大戦が起きてしまう。またもや無辜の民が大勢死んでしまう」
 うむ、と師匠は唇を噛んだ。
 しばらくしてそこに落ちた沈黙を破ったのはやはり師匠であった。
「分かった。では牛頭、そして恐らくはここにいるだろう馬頭の身柄は、閻魔王よ、おヌシに任せる」
 賢くも閻魔大王は師匠の物言いに抗議はしなかった。
「そいつらは二度と現世に出してはならぬ。それならばそやつらは鬼籍に入ったこととして、古縁流は手を出さぬ」
「それはできぬ。彼らにはお役目がある。どうしても少しは現世に出る必要があるのだ」閻魔大王が食い下がった。
「ではお役目のときのみ現世に出るを許す。それ以外はならぬ。閻魔よ、それを約束しろ。さもなくば」
「さもなくば?」
「儂はまたここに来る」
「約束する」閻魔大王は即答した。「お前の要求はすべて飲む」
「今回の牛頭の所業。確かに裁けよ。身内びいきはならぬ」
「分かった」
 そこでしばらく動きを止め、師匠は戦国大太刀を振るった。
 小部屋を構成する鋼の壁がことごとく分断され、崩れ落ちる。
「確かに約束したぞ」
 大太刀を鞘に納める。
「ではこれにて儂は現世に引き上げる。儂が二度とここに来ぬことを願うがよい。分かったな!」
 平伏した閻魔大王と牛頭を後にして、師匠は踵を返した。
 その後ろ姿が浄玻璃鏡の面にちらりと映った。
 六本の腕に三つの顔の魔神がそこに見えた。
 顔を青くした閻魔王が思わず呟いてしまう。
「阿修羅王」
 しばらく様子を伺ってから牛頭が頭を上げた。
「なんて奴だ。大王様の法廷の権威をないがしろにしおって」
 その頭の上に閻魔大王が手にした笏を叩きつけた。
「この馬鹿者! 現世で悪さをするだけではなく、あろうことかあんな化け物を引き込みおって。いかに地獄の獄卒長でも許せるものではないぞ。牛頭、覚悟しておけ」

 ただの人間が冥界の関をことごとく破り、鬼の獄卒をすべて叩きのめす。
 それも道理。ただの人間などであるものか。
 阿修羅王の加護を受けている人間など初めて見た。あれは天界人界地界すべてを切り裂く魔神の類だ。
 まったく、人間というものほど恐ろしいものはない。
 床に転がって気絶している鬼たちを見ながら閻魔大王は嘆息した。