古縁流始末記銘板

護法

 古縁流の弟子草野三郎は山野を駆け廻っていた。
 その目的は深山に生えるという珍しい薬草である。

 あの日、師匠はボロボロの有様で旅から帰ってくるとそのまま三日ほど寝込んだ。その後はいつものように復帰したがそれでも以前に比べて元気がないように見えた。三郎のしつこい詮索についに根負けして、師匠は自分が病気であることを、それも不治の病であることを明かした。そしてそれを深く口止めした。
 それ以来、薬を作る材料を求めて、三郎は山と町を往復し続けているのであった。

 三郎が知っている限りの薬活は尽くしたが、簡単に手に入る薬草はどれも効き目が無かった。当然である。それぐらいの薬草で済むのならば、三郎よりも遥かに薬に詳しい師匠が作らぬわけがない。それどころか不思議なことに師匠は一切薬を作る気配が無かった。
 探し回った挙句に、三郎は古縁流に伝わる古文書の中にそれらしき薬の作り方を見つけたのだが、何分それには深山にだけ生えるという非常に珍しい薬草が要ることが分かった。
 それ以来三郎は山野に通い続けて探しているのだが、それらしい草は見当たらなかった。
 このままでは師匠が死んでしまう。三郎が焦りと恐怖で途方に暮れていたとき、一人の男に出逢った。頭に頭巾を被り、手に錫杖、汚れた鈴懸を着ている。山伏と呼ばれる類の修験者である。
「そなた、ここ数日この辺りをうろついているようだが如何なる所存か。ここは我らの聖域ぞ」
 修験者は三郎を咎めた。
 修験者は山で修行をすることで御山の力を取り込み人の域を越えることを目指す者である。霊山と呼ばれる場所には必ずそこを根城とする修験者たちがおり、何々山の信者と称される。例えば霊峰富士などでは富士信者と呼ばれる修験者が厳しく山を管理している。彼らは山を聖域と見なしているので、余所者に荒らされることを非常に嫌い、ときには侵入者の命を奪うこともある。
 故に三郎は礼儀正しく応答した。
「これは相すまぬ。そのようなこととは露知らず、失礼をした。ただちに退去するゆえに許されい」
「見たことのある面だの。もしや本間殿のお弟子か」
「師匠をご存じで。いかにも。末弟子の草野三郎と申す者にござる」
 三郎はお辞儀をした。
 実のところ、師匠は修験者には評判が悪い。古縁流の修行を盗み見に来た修験者を悉く木の上から叩き落とすからだ。もっとも、隠形がうまくいってもし古縁流の修行を本当に盗み見でもしようものなら、師匠はその者の命を躊躇わずに奪うに違いないので、叩き落された者はまだ運が良かったと言えるのだが。
 しろりと三郎を睨んでから、山伏は口を開いた。
「儂はここらの山伏を束ねる相異坊と言う。さて、本間殿は元気かの」
 師匠の病気を告げてよいものかと三郎は躊躇した。武芸者は己の不調をことさらに喧伝はせぬものゆえ。
 相異坊と名乗った男は目ざとく三郎の顔色を読んだ。
「そうか。本間殿が病気にのう。まさに鬼の攪乱とはこのことじゃ。そなた、薬草探しか」
 三郎が背に負ったカゴをちらりと見て言う。
「その通りにございます。もしやこの薬草に見覚えはござりませぬか」
 これは隠しても仕方ないと思い、古縁流の古書より書き写して来たものを見せる。それにさらりと目を通してから、相異坊はむうと言葉を漏らした。
「心当たりはある。だがこれは当方に取っても秘事でな」
 三郎が驚愕する顔を見ながら、自分の顎を撫でて見せた。
「よし、他でもない。本間殿のためだ。三郎と申したな。ここより西に四里のところにある山の頂上は、下からでは分からぬが窪地になり池がある。そのほとりにこの薬草が生えている。ただしそれは我ら山伏の秘事、宝じゃ。特別に一本抜き取るを許す。ただし二本はならぬ」
 ぱあっと三郎の顔が明るくなった。地獄に仏とはこの事だ。
「心得ましてございまする。心の底より感謝いたしまする」
 挨拶もそこそこに、教えられた山へと走った。ほどなく薬草は見つかり、その秘宝とでも言える草を優しい手つきでそっと掘り出すと、三郎は帰路へついた。

 山野を飛ぶように駆ける。背中の背負い子の中には布で包まれた薬草が大事に仕舞われている。これで師匠の病気が治るかと思うと一日中駆け回って疲れ切っているはずの足も軽くなった。
 影の如く道なき道を走る。木の根も岩も跳んで越える。地面だけではなく踏めるものは何でも踏んで走る。そのうちに深い森も切れ、眼前に人気のない野原が広がるようになってきた。
 ふと、三郎の足が止まった。訝し気に周囲を見渡す。
 何もいない。だが何かの気配がする。
 また駆け始めた。ただし今度は精神を集中して。
 音だ。音がする。三郎の足音に合わせるように、密やかに、忍ぶ足音が背後から付けてくる。
 三郎が止まる。音が消える。三郎が走る。音が再開する。
 自分の足音の木霊だろうか?
 試してみた。走りながらいきなり自分の足音を殺してみる。最新の注意を払い、音が出ない物の上だけを踏むのだ。そこに生まれた静寂の中で背後の足音だけが続き、それもすぐに消えた。気づかれたと知って相手も足音を消したのだ。
 三郎は走りながら跳躍し、空中で振り返った。
 ちらりとススキの野の中に隠れる何かが見えた。地に降り立った三郎は素早く手に持った杖を構えながら呼ばわった。
「なにやつ。出てこい」
 杖は例によって表面に木の皮を被せただけの鋼鉄でできている。これと古縁流の技を加えれば相手が何であっても十分に戦えるはず。
 三郎の呼びかけに応えてススキの野からそれは出て来た。
 人間ほどの大きさがある四つ足の獣。灰色の体にところどころ茶の毛が混ざっている。だが犬ではない。もしやオオカミと呼ばれるものではないかと三郎は思った。こんな巨体がススキの中に見事に隠れるのは驚きだった。
「俺を食いたいのか」
 三郎は杖を正眼に構えた。狼はその場で座ると、三郎をその目でじっと見つめた。不思議な煌めきを持つ青い瞳だった。
 狼が何もしないと見て取ると、再び三郎は町へと走り始めた。背後でまた狼が三郎を追って走り始める。今度はその存在を隠そうともしない。
 やがて里山を抜け、途中の村を駆け抜けた。狼も三郎についてくる。それを横目で見ていた村人がつぶやいた。
「えろう速く駆けるお人やな。あれ、大山の送り狼さまがついておる」
 狼はとうとう町の外れにある師匠の家までついてきた。その時分にはもうとっぷりと日が暮れている。後をつけてくる狼が怖かったわけではないが、師匠の家から漏れる明かりを見て、三郎は安堵した。
「ただいま戻りました」
 三郎は師匠に声をかける。その三郎の背後をちらりと見て、師匠が言った。
「何の気配かと思ったら送り狼ではないか。三郎。お前が頼んだのか」
 狼を頼むっていったいどうやるのだろうと三郎は思った。
「山から帰る道すがら、ここまでついてきてしまいました。余程それがしが旨く見えたのでしょう」
 師匠の眉根に皺が寄った。
「馬鹿者。オオカミ様は人など襲わぬ。ここまでお前を護ってついてきてくださったのだ」
 師匠は軒先に座っている狼に一つお辞儀をした。
「よくぞお護り下さいました。ただいま小豆粥を作りますのでいましばらくお待ちください」
 病気の師匠自ら甲斐甲斐しく働き、小豆粥を炊き始める。何が何やら分からぬも、師匠が立ち働いているのに弟子がのんびりするわけにもいかず、三郎も手伝い始めた。
 やがて小豆飯が炊きあがり、大きな丼に大盛にすると横に塩を盛り、師匠が口上を述べながら狼の前に差し出す。
「些少ながらお送り頂いた御礼にございます」
 狼はあっという間にそれを平らげると姿を消した。
 師匠にじろりと睨まれて三郎は肝が縮んだ。
「オオカミさまはそれ自体が大いなる神でもあり、また大いなる神に仕える御使いでもある。夜道を帰る人の後をつけ危難よりお護もりくださる存在だ。つまり送り狼さまがつくということはそなたが未熟ということと知れい」
 食器を片付けながら師匠は三郎の無知を叱った。しばらく小さくなっていた三郎だが、思い出したかのように薬草を背負い子から取り出した。
「お師さま。これを相異坊という方から頂いてきました」
「む。そうか。相異坊殿か。この薬草は山伏の秘宝ぞ。よくぞ分けてくれたものだ」
「ただちに薬を煎じますゆえ」
 たまらず嬉しそうにしている三郎に、自分は蛇の王により死に至る呪いを受けているから薬石は効かぬとは言えず、師匠は口をつぐんだ。
 出来上がったのは相当に苦い薬であったが、表情も変えず一口で飲み干すと、師匠は三郎に篤く礼を述べた。



 師匠が課す修行は厳しさの度合いを増していた。その理由を知っている三郎は文句も言わずに真面目に修行を積んでいった。実を言えば大声を上げて泣きたい気分ではあったが、それは三郎がこの時代の男、しかも武士である以上はできなかった。
 一方で兵庫之介は早めに音を上げて、何やかやと理由をつけて師匠の下には現れぬようになった。師匠は自ら行う修行でなければ意味がないと考える人であったから、そのことをとやかくは言わなかった。真摯に修行に向き合う者のみが古縁流の奥義へと到達できるのだ。

 ある日を境に修行の内容が変わった。
 借り切った道場の窓も扉もすべて締め、そこで修行が行われた。
「よいか、三郎。本来ならば免許皆伝の技はその技を受け継ぐ資格ができてから伝えられる。だが、儂には時間がない。これより、初の皆伝、弐の皆伝、参の皆伝、そして終の皆伝の技と極意を教える。もちろん、習うたからといってすぐに技が使えるわけではないが、すべてを覚えてこれから先も絶えず磨き続けるのだ。さすれば自ずから技はお主の身に蘇るであろう。また兵庫之介の修行が進んだと見たら、今度はお主が技をすべて伝授するのだ。よいな、三郎。しかと申し伝えたぞ」
 師匠の死の予告を聞いて悲しみに胸が張り裂けそうな思いの三郎に、師匠は何の遠慮もなく技を叩き込んだ。筋肉の動きから呼吸の発動。目の配りから重心の取り方。覚えることはいくらでもあった。極意とされる口訣の多くも習った。その真意は自ら覚るものとして教えてはもらえなかったが。
「その時がくれば自然に分かる。もし分からねば、それは技を使う域に達しておらぬということ」
 ここに及んでもただひたすらに厳しい師匠であった。

 伝授が終わる頃には、師匠が放った技の余波を受けて、借りた道場は柱と言わず床と言わずほぼ半壊の有様となった。壁だけは壊れる度に補修した。外から覗かれぬためである。寂れた道場から何やらただならぬ気と凄まじい音が発せられていると聞いて大勢の人間が見物に来たが、どれも師匠の一睨みで小便を漏らして帰る羽目となった。
 あの道場には鬼が棲みついたという噂が流れ始めたが、それはあながち嘘ではなかった。
 やがてすべての伝授が終わり、倒れそうになっている師匠をこれも倒れそうになっている三郎が支えながら、師匠の家に帰る日がやってきた。
 二人とも酷い有様である。
 今日ぐらいは師匠にまともな物を食べさせようと痛む体を抑えて料理に頑張る三郎の前を、子供が一人、犬を連れて通りかかる。
 師匠の家の近所に住む顔なじみの子供である。師匠もたまにちょっとした用事を頼んだりもするので良く知っている。
「坊。見かけぬ犬じゃの」師匠が声をかけた。
「おいら拾って来たんだ。お父は飼っていいって言ったんだ」
「ほう。それは善かったの」
 師匠は不愛想に言った。少しも善くなさげだ。
 この人は、こういうときぐらいは微笑めばいいのにと三郎は思う。師匠は剣には厳しいが、それ以外のことには無頓着で、でも何故か子供に対してはとても優しい。だがそれらすべてを不愛想に表情を見せない顔でこなしてしまう。だからどの子供たちも師匠には懐かない。
 この人は人生をだいぶ損しているのだろうなと、人生経験の少ない三郎でさえ思うぐらいだ。



 師匠の病はじりじりと悪化していく。それでも死に至る体の最後の力を振り絞るかのようにして、師匠は全ての技を三郎に伝授した。何度も三郎にやらせてみて、技の型が間違っていないか、意心の持ち方が間違っていないかを確かめた。頃合い由と見るや、計ったかのように師匠は倒れた。陶蛇を倒してからすでに月は五回廻っていた。
 秘伝書に書かれている薬は後二種類残っている。それを試すしかないのだが、やはり必要な薬草は稀にしか見つからないものでどうにもならない。
 三郎は焦った。
 そしてある日、師匠の目を盗んで山へと走った。命じられた修行を勝手に抜けるのは三郎にとっては初めてだった。
 かって覚えたる山へと走り、大声で呼ばわった。
「相異坊どの。相異坊どのは居らぬか」
 しばらくそうやって叫び回っていると、一人の男が木の上に現れた。その男は山伏の姿をしていたが、相異坊ではなかった。
「そこな男。何をしきりに喚いておる」
「それがし、古縁流の草野三郎と申す者。相異坊どのにお目通り願いたく」
 山伏はしばらく三郎の顔を見つめていたがその瞳の中に真剣な思いを読み取った。
「わかった。相異坊どのには伝えておこう。三日後にまたここに来るがよい。相異坊どのがそなたを認めれば、ここで会えるであろう」
「かたじけなし」
 ここまで背中に担いで来た酒瓶をその場に置く。
「これはほんの志にござる」
 三郎も多少は物事の機微が分かる。山では大抵のものが手に入るが、米で作った酒だけは手に入らない。本来修験者にとって酒は禁物のはずだが、実際のところは酒が嫌いな修験者など居はしない。
「うむ。確かに受け取った」心なしか、山伏の顔が綻んでいる。
 そのまま師匠の家へと帰る。山を越え、里が見えて来た辺りで日は暮れ、そこでまたもや何かに付けられているのを感じた。
 走りながら後ろをちらりと覗き見る。
 何匹かの体の大きな狼が後をつけてくる。三郎は足を止めた。
「御護りご苦労さまにござる」
 狼に向かって頭を下げた。その頭上を何を考えたか一匹の狼が跳び越える。
「これは御戯れを」
 それだけ言ってからまた三郎は走り始めた。
 狼たちはつかず離れずついてくる。
 やがて町の外れにある師匠の家についた。人家はまばらだが、それでも野中の一軒家というにはほど遠い。三郎は家から漏れる灯りの中へと踏み入れた。
 師匠は囲炉裏の前に座って何かの書き物をしていた。ちらりと横目で三郎を見たが何も言わない。修行を抜けたことで怒られるかと思っていた三郎は拍子抜けがした。とにもかくにもあの木の小枝でパシリとやられるのだけは嫌だ。
「お師さま。竈を借ります」
「飯ならそこに作っておいた。食べるがよい」師匠は筆で台所を示す。
「いえ、本日も狼たちに送って貰った故に、小豆飯を炊きたく存じます」
「狼たち?」
 初めて師匠が立ち上がった。家の外を覗く。
「何もおらぬぞ。三郎。今日何があったか包み隠さず申すがよい。嘘はならぬぞ」
 眼光鋭く、こう師匠に言われてはどうしようもない。三郎はすべてを話した。
「ふむ」師匠は腕を組んだ。
「三郎。狼と犬の違いは知っておるか」
 てっきり相異坊に会いに行ったことを咎められるかと思っていた三郎は返事に窮した。
「狼は群れず、人を襲わず、むしろ助ける。犬は群れ、人を襲う。それが違いだ。
 三郎。本日そなたをつけて来たのは送り犬というもの。送り狼ではない。そなたに隙あると見れば襲われておったろうよ。もしや頭の上を飛び越しはしなかったか」
「そういえば一匹が飛び越しました」
「そなたを計ったのだ。そのとき動揺を見せていれば襲われておったであろうよ」
「犬ごとき、恐れはしませぬ」
「一匹ならばな。群れを成せばそうもいかぬ。もし今後山に行くことがあるならば、きちんと大太刀と手裏剣を持っていくようにせよ」
「心得ましてございます」
 その瞬間、師匠の目に何かを言うべきかどうか迷いが生じたが、それはすぐに消え、三郎は何も気が付かなかった。



 約束の日が来た。三郎はそれなりに支度を整え、師匠の家を出た。出がけに師匠から相異坊に渡せと荷物を預かる。
 飛ぶように走った。きっと良い報せを持って帰る。できるならば目的の薬草も。それで衰え行く師匠の病気も治り、また元のような生活が始まると無邪気にも信じて。
 約束した場所に着くと、一人の山伏が待っていた。今度は相異坊である。
 挨拶の後、師匠の言伝と共に荷物を渡す。相異坊は無遠慮に荷物の包みを開くと、そこから小判の塊が転がり出てきた。
「ほう、これはこれはかたじけない」
 相異坊は顔を綻ばせた。別に相異坊が欲深というわけではない。この辺りの山伏を束ねる相異坊の立場にあっては金というものは大切なものなのだ。山の民と言える山伏とは言え平地に住む民と完全に隔絶しているわけではない。金さえあれば大勢の山伏の面倒を見ることができるのだ。だから金は幾らあっても困ることはない。師匠もその辺りはよく分かっての仕儀だ。
 三郎はこの気を逃さず薬草の特徴が描かれた紙を差し出した。
「相異坊どの。これらの薬草に見覚えはござらぬか」
 あの薬草で駄目なら、本間宗一郎の命はもう助からぬ。相異坊はそう思ったが口にはしなかった。紙に描かれた薬草を見てしばし考える。
「一つは見たことは無い。少なくともこの辺りには生えておらぬ。もう一つは見たことがある」
「それはどこに!」三郎の言葉には血が滲んでいた。
「ここより東に二十五里。毛海山と呼ばれる場所だ。だがそこに行くには一つ問題がある」
「どのような」
「山犬の縄張りなのだ。山犬は動くものすべてを襲い食い尽くす」
「山犬など恐れはしませぬ」
 三郎は背中に背負った大太刀に触れた。
「その数、実に千匹」相異坊はずばりと言った。
 これにはさしもの三郎も怯んだ。
「千匹!」
「以前はその山には犬などいなかったのよ。ところが最近とみに数が増えてな。ついに毛海山を占領してしまった。元々そこに棲んでいた猪も鹿も、熊でさえも悉く食い尽くし、得物がなくなると今度は旅人を襲い始めおった。今では修験者ですら寄り付かぬ死の地へと変わってしまってな。この薬草はその麓に生えておる」
「行きます。その場所を詳しくお教えください」
「その意気やよし。されど無謀なり」
「この命など惜しみはしません」
 しばらく沈黙してから相異坊は言った。
「本間殿は良い弟子を得たものだなあ」

 三郎は走った。教えられた場所へと向かって。
 相異坊の話では日中は山犬は姿を現さないという話だった。昼の間に山に行き、薬草を採って、素早く帰る。それしか方法はなかった。
 三郎は凄まじい速さで駆けてはいたが、日はどんどんと傾いていく。ようやく教えられた山についた頃には残照が山の斜面を照らすばかりとなっていた。三郎は暗くなりつつある地面を探し続けた。
 無い。
 無い。
 無い。
 こうなれば時間との勝負だ。地面を這いまわるように探す。人には見せられない姿だ。
 あった。
 紙に描かれた通りの特徴を持つ草だ。薬効があるのはこの草の根だ。傷つけるとそこから成分が流れ出てしまうので、慎重に根の周りを掘り上げる。そのままそっと布に包むと、懐にしまった。
 唸り声が聞こえた。その声の先に一匹の山犬が居た。
 ここで戦う必要はない。
 三郎は居ぬを無視して走った。その後を犬が追いかけて来る。
 犬が吠えた。その声に呼応するかのようにあちらこちらから新たな犬が湧いて出る。だがさぶろうの後をつけるばかりで、まだ襲ってはこない。日が落ちて人間の眼が効かなくなってからが本番なのだ。
 三郎は走り続けた。後を追う犬の数がだんだんと増えて来る。日が容赦なく暮れていき、真っ赤な夕焼けが周囲を染めている。まるで山火事のようだ。その頼りない赤も闇へと変じていった。
 とうとう野原のただ中で日が完全に落ちた。犬たちの吠え声が激しくなり、目の前に現れた名も知れぬ木に三郎は跳びついた。両手に持った手裏剣を木に打ち立ててその幹を垂直に駆け上る。
 犬たちが木を取り囲んだ。何匹かは木を登ろうとしたが、その鼻面に大太刀の鞘を食らって泣き声を上げながら落ちると、それ以上登ろうとする山犬はいなくなった。
 都合千匹。誇張ではなかった。大きいのから小さいのまで、牙を剥きだした犬が木を中心に巨大な円陣を組んでいる。犬の海という表現がぴったりだ。そしてそのただ中に木にしがみついた三郎が一人だけ居る。
 もちろん古縁流を持ってすれば二十三十の数の犬は問題ではない。だが千匹となると話が違う。人間は疲れるのだ。いつかは隙ができて噛みつかれ、無残にも殺されて終わるであろう。
 自分の命はどうでもよい。だがこの薬草だけは届けなくては。三郎は決心した。
 犬の群れに変化が起きた。星明かりだけではよくは見えない。無情にも月は雲の中に隠れてしまっている。
 三郎は木の枝を切り取ると布を巻き、油を浸み込ませた。持ち歩ける油壺は古縁流の装備の一つだ。なぜそんなものが古縁流の戦支度の中に入っているのかは分からなかったが、ようやくその意味が分かった。このような場合のためだ。
 即席の松明に火をつけると、その灯りの中に何が起こっているのかが映しだされた。
 一匹の犬が近づいて来る。その周囲の犬たちが後ずさりをしてその犬を中心に新しい輪ができる。
 その犬は二本の足で歩いていた。
 二本の足で立ち、自由になった前足で何かの指図をすると、今度は周囲の犬たちがその通りに動く。たちまちに三郎がしがみついている木の周囲に、新しく整った円陣ができ上がる。先ほどの円陣とは異なり、犬たちの間にいくつもの隙間ができて自由に配置が変えられるようになっている。これでは三郎が何をしようと先回りをされてしまう。
 たかが犬がこれほどの賢さを見せるとはと、三郎は舌を巻いた。
 こいつが山犬たちの頭か。どう見てもただの犬には見えない。あきらかに知性がある振る舞いだ。もしやこれは人間が犬の皮を被っているのではないか。そうも思った。
 山犬の群れの中から何匹かの体の大きい山犬が選び出されると三郎の木に近づいて来た。それぞれ助走をつけて三郎へと跳びかかって来る。高い。今まで見たことが無い高さまでその山犬たちは跳んで来た。
 意識するまでもなく三郎の手から手裏剣が飛ぶ。空中で手裏剣に打たれた山犬が悲鳴を上げながら落下する。
 また山犬の頭が何か指示を出す。今度は山犬たちが集団になってお互いの体をよじ登り始める。三郎の横に犬でできた山が盛り上がり始めた。木と同じ高さにして三郎に食いつこうというのか。
 敵の攻撃を大人しく待ってはいけない。三郎の心の中で何かがつぶやいた。覚悟しろ。今こそ切り込むべき時だ。
 何をやるにしても明かりが要る。こんな松明では心もとない。
 手にした壺の中の油をすべて木の幹に注ぎかける。手にした松明でその油に点火すると、三郎は気合と共に跳んだ。
 背後で炎が燃え上がる。火は木の肌をすばやく舐め、弾ける音とともに枝葉に燃え移った。
 宙に跳んだ三郎は。いままさに完成しつつある犬の山の頂上を斬り飛ばし、大混乱を起こした犬たちのど真ん中に着地する。それと同時に走りだし、山犬の頭へと突進した。
 走りながらも上段に構え直し、振り下ろす。犬の頭を二つばかり弾き飛ばし、横薙ぎでさらに三つを追加した。もう一度上段に構え直し、山犬の頭の目前に迫ったところで邪魔が入った。
 横合いから跳びかかって来た犬を避け、さらに反対側から来た犬の顎を危うく避ける。
 燃え上がる木から逃げ出した犬の混乱の輪の中で、三郎は山犬の頭と対峙した。その周りで五匹の犬が三郎と睨みあった。
 こいつらは他の犬とは何かが違う。山犬の頭の護衛なのか。
 三郎は刀を水平に薙ぎ、前に出ると見せかけて横に跳んだ。五匹の犬たちは三郎の動きに正確に反応し、三郎の攻撃は無に帰した。
 この犬たち、まるで剣士相手に戦う訓練を受けているかのようだ。三郎はそう思った。恐ろしく連携の取れた動きだ。それに刀の軌道というものを見切っている。いったい誰がこの犬たちを訓練したのか。よもや目の前にいるこの二本足で立っている山犬の頭が育てたのか。
 すでに周りは千匹の山犬に囲まれている。生き残る望みは目の前の山犬の頭を倒すことのみ。だがその間に立ちふさがるのは刀剣と戦うように躾けられた五匹の山犬。
 三郎。絶対絶命なり。
 だがここで引くことはできない。
 三郎は覚悟を決めると切り込んだ。右の犬を狙うと見せて左へ刀を返した。それを読んで左右に逃げた犬は放置して、また右へ跳んだ。突きを放った先にはすでに犬はおらず、剣の下に逃げ込んでいる。そこに蹴りを入れた。悲鳴と共に犬が弾き跳び、その突き出した足を狙って別の犬が跳びついてきた。
 足を引き戻して体勢を整えると、再び犬たちとの距離を取る。一度でも噛みつかれたらそれで終わりだ。動きが鈍れば犬たちになぶり殺しにされる。
 次の攻撃位置に動いた犬に向けて手裏剣を投げた。その犬が避けた隙に剣で切り込む。ようやく届いた切っ先で、犬の鼻先が裂けた。してやったりと三郎が喜ぶ間もなく、背後からどんと大きな犬に突かれた。受け身を取り回転した瞬間に三匹の犬が襲いかかってきた。
 転ぶと襲われる。送り犬の説明を思い出した。間一髪で避けた顔の前で牙が噛み合わされる。
 刀身に二匹の犬が噛みついて動きが止められた。もう一匹が三郎の喉へと迫る。
 そのときだ。何か大きな影が目の前を跳び越えた。三郎を襲っていた三匹の犬がその影に弾き飛ばされる。三郎が素早く立ち上がって見ると、それはあの狼だった。
 狼は次の動きで近くにいた犬をその強力な顎で真っ二つに噛み裂いた。その強さに驚く暇もなく、本能が三郎を突き動かした。山犬の頭との間に立ちふさがる一匹に突きを放つ。それは狙い過たずに犬の体を貫いた。犬をぶら下げたままで刀を振り、まだ二本足で立ったままの山犬の頭に切りつけた。刀から抜けた犬の死体がぶつかり悲鳴を上げた山犬の頭に向けて、返す刀で下から切り上げる。血が飛び散った。それと共に切断された前足が宙を舞う。
 山犬の頭がやられて周囲を囲む山犬の群れが一斉に総毛だった。復讐心が生れ、三郎との包囲がじわりと縮まる。
 その瞬間、倒した犬の上に足を載せていた狼が吠えた。
 狼の吠え声は他の動物とはまったく異なる。それは恐るべき声だった。まさに全山鳴動し、大地が揺れた。
 続いて、地平線すべてを埋めるが如くに、狼の吠え声があちらこちらから返って来た。
 これにはさしもの山犬たちも動揺した。我先にと一斉に逃げ出す。こうなればもはや統率など無い。尻尾を巻き、散り散りになり、後ろもみずに逃げ出した。
 たった一匹の狼が、千匹の犬を追い散らしたことになる。
 あっという間に、その場に残るのは三郎と狼と、三郎に切られた犬の死体だけになった。
 あ、と三郎が声を上げた。あの山犬の頭がいない。前足の一本は切り落としたがまだ死んだわけではないはず。
 しばし迷ったが薬草を持ち帰るのが先だ。三郎は山犬の頭の前足を拾うと、走り出した。背後を狼がついてくる。

「む。今日も送られてきたか」
 師匠は三郎とその後ろにいる狼を見てつぶやいた。自らふらつく体を支えて竈に立ち、小豆粥を煮始める。小豆粥が煮える間に、三郎は本日あったことの仕儀を師匠に伝えた。
「そうか、そのようなことがあったか」
「これがその前足です。右の前足と思われます」
 三郎が山犬の頭の前足を取り出した。師匠はしばらく眺めていたが結局はそれを放り出した。
「拾っておけばよもや人間の手にでも化けるかと思ったのですが」
「当てがはずれたのう」
 師匠はそう言うと、小豆飯を丼一杯に盛り、その横に塩を盛った皿をつけて狼の前に置く。そうしておいて、狼が食べ終わるまでその正面に正座した。食べ終わったと見るや、師匠は深々とお辞儀をし、そのまま頭を上げずに言った。
「御山の大神どのに申し上げる。ここなる我が弟子をお救い頂いたこと深く感謝いたします。されど」
 師匠は居住まいを正した。
「されど、これなるは未熟ながらと言えど剣士。他のものに護られるは剣士に取りては恥となり申す。またこの者の修行の妨げになりますれば、今後一切のお気遣い無用にござる」
 師匠はもう一度地に頭がつくまでお辞儀をした。手を伸ばし、隣に座っていた三郎の頭も地面にこすり付ける。
 二人がようやく頭を上げたときには狼の姿は消え失せていた。



 昨夜作り上げた薬のせいか、今朝の師匠の調子は良さそうだった。
 三郎は甲斐甲斐しく朝食を作っていた。
 近くの家から子供が大泣きする声が聞こえてきた。そのただ事ならぬ様に、病気の師匠も家から出てきた。
「いったいどうしたのじゃ」
 二人して、声の主を求めた。
 近くの家の納屋で子供が血まみれの犬を抱いて泣きわめいている。
 犬は右の前足が無かった。
「何があった?」と師匠。
「知らない。朝起きたら、おいらの犬が血まみれで」
 師匠は三郎と目を合わせた。そして頷く。
「坊。血を止めねばその犬は死ぬ。お湯がいる。用意しておくれ」
「本当に!? わかった」
 子供は慌てて外に出て行った。
 師匠はすばやく犬の状態を改めた。
「三郎。まだまだ修行が足らぬの。傷口が汚すぎる。切り方が荒いのだ。見よ、出血がひどくて意識が朦朧となり、一番帰ってきてはならぬここに帰ってきてしまったのだな。まさに犬のサガというべきか」
 そう言いながらも腰から刀を引き抜き、三郎に差し出した。
「三郎。お主が止めを刺せ」
 三郎が逡巡するのを見て、師匠は刀を引いた。
「では儂がやろう」
 剣先を犬の頭にぴたりとつけた。一点の隙もない、見事な構え。そのまま小さくつぶやいた。
「そうか。死にかけた儂を見張るため、普通の犬の振りをして、この地に近づいたのか」
「お師さま」と言いかけた三郎を厳しい目で止めた。
 犬も何かを言いかけた。その瞬間小さく気合をかけて、師匠は刀を突いた。
 そして二人してその家を離れた。やがて背後で子供が更なる大声で泣き始めるのが聞こえた。
「お師さま」
「何も言わずともよい。愛するものを失った者には如何なる慰めも役には立たぬ」
 三郎は沈黙したが、しばらくしてからまた口を開いた。
「お師さまが刺す瞬間、あの犬めがマテと言ったような気がしました」
「お主が知らずとも良いことだ。三郎。忘れるがよい」

 その日一日の修行も、また厳しいものであった。