古縁流始末記銘板

藤兵衛 山中にて狩りをすること

 古縁流第十二代継承者藤原藤兵衛は、免許皆伝の後、日本各地を放浪した。
 これといって何かがしたかったわけではない。ただ一所に落ち着くのが嫌だっただけなのだ。武者修行の名の下に全国をぶらりと旅をする。武門の生れではあったが家は長兄が継ぎ、下手に揉め事を起こされるよりはとほぼ放逐の形で外に送りだされた。藤兵衛にはこれといって贅沢をする趣味は無かったので、僅かな仕送りでも生きるには十分であった。
 どうして自分のような野放図な人間が古縁流を学んだのかと不思議に思うこともあったが、武家社会の中での出世を望まない自分にはぴったりの剣術であるとも思っていた。古縁流の修行は厳しかったがそれでも向いていたのか技量は進み、あろうことか参の免許皆伝まで取ってしまった。初の免許皆伝で並の剣士を遥かに凌駕し、弐の免許皆伝では向かうところ敵なし、参の免許皆伝に至っては化け物の世界と言われていた。それをあっさりと得てしまったのは藤兵衛のもって生まれた才能だったのかそれとも苦労を厭わぬその性格ゆえか。
 日ノ本の国を悉く歩き尽くす所存と師匠に言ってみたところ、古縁流の縁起を教えられた。十二王との闘いなどはお伽噺としか思えなかったが、師匠の言葉には素直に従い、旅先で怪しげなものを見つけた場合には調べると約束した。
 ふらりふらりと彷徨うこと二年。そろそろ故郷に帰ろうかと思い始めたころにその噂が耳に入った。

 最初に耳に入ったのは山で人が食われたという噂であった。それも一人や二人の数ではない。山には山犬がいるわけだから人が食われることはよくある話だが、それが続くとなると話が異なる。何か人を専門に食う獣がいるということだ。
 面白そうだと思い、藤兵衛は躊躇わずにその山へと向かった。古縁流でも藤兵衛は参の免許皆伝まで到達している。それはつまり熊であろうが狼であろうが、どんな動物でも一打ちで倒せるだけの剣の腕があるということである。恐れる理由はなかった。
 だがそんな藤兵衛でもどうしても終の免許皆伝には入れなかった。参の免許皆伝までは修行の積み重ねだけで到達できるが、終の免許皆伝には心の使い方というものが必要になるらしく、それは藤兵衛には一番苦手なものだったからだ。
 鏡水一滴とか虚空虚閃などと言われても、それがどういう心の持ちようなのか、欠片も想像できなかった。最後には師匠もため息をついて藤兵衛に教えるのを投げだしたぐらいだ。
 さてそうなると藤兵衛自身も終の免許皆伝などは正直どうでもよかった。旅の道々やたらと絡んで来るような輩を完膚なきまで叩きのめせるだけの腕があればそれでよい。それが藤兵衛の生き方だった。



 里山を抜けてさらなる奥へと踏み込んだ頃、犬に囲まれた。続いて鉄砲を抱えた集団が集まって来た。ミノを背負って頭に布を被っている。いずれも鉄砲の他に独特の形状をした熊槍を携えている。
「お侍さまあ、見かけぬ顔だあね。どこから来なさった」
 彼らは山の熊猟師であるマタギの集団だ。その中の一人に話しかけられた。
「武者修行にて諸国を巡り歩いておる藤兵衛と申す。そなたたちは何ゆえ? 巻き狩りか何かか?」
「んだあ。おらたちは熊退治だあ。近頃この辺りに人喰いが出るでなあ」
「いや、おら、猪だと思うぞ。途中の村の畑が荒らされておったでな」
「どっちにしてもお侍さまあ、山には登らぬ方がよいだ。熊に間違えられておらたちに撃たれてもつまらねえだ」
 藤兵衛は少し躊躇った。一人の方が自由でよいが、別に人喰いとの一騎打ちがしたいわけでもない。ここしばらくは様子見と行こう。どのみちマタギの集団に打たれる程度の獲物ならばそれほど楽しめそうにない。
「一緒についていってよいか? それならばそなたたちに撃たれることもあるまい」
「そりゃ構わんが、おらたちは山歩きに慣れているだ。ついてこれねばそこに置いていくことになるべ」
「委細承知。その場合は捨てて行って構わぬ」
 そういうことになった。

 藤兵衛は人好きのする男だ。マタギたちとたちまちに打ち解けてしまった。
 お蔭で色々と話が聞けた。
 山に入った人間が帰って来ないことが続き、村の男手総出で山狩りをした結果、無残にも半分食われた死体となって見つかったのが始まりだった。じきに被害者が増え、あるマタギが呼ばれた。一人での熊狩りが得意な男で、ついた通り名が熊取五郎であった。
 その男も手足と頭だけの姿で発見されるに及んで、周辺を囲む村々すべてのマタギに召集がかかった。集まったマタギたちに数カ村が合同で依頼を出し、今回の大規模な巻き狩りが決まったのだ。
 マタギは藤兵衛をお武家さまと呼んだが、マタギたちの身分も一応は武士である。もっとも名ばかりの武士でその地位に旨味があるわけではない。あくまでも幕府が鉄砲の所持を認める上での方便である。
 尾根に出た所でマタギたちは集まって相談を始めた。
「五郎さんのオロクが見つかったのは確か韮沢の方だったの」
「上がりの尾根の方がよかないか」
「いや、こいつは人の肉の味を覚えているからまだ同じところにいるかもしれん」
 目端の利く何人かが先行し、残った全員で素早く尾根を駆け降りる。犬たちも特に吠えるわけでもなく追従する。よく鍛えられているなと藤兵衛は感心した。
 沢に出たところで全員が一斉に休憩に入った。
「お武家さあ、どうせ付いてこれまいと思ったらきちんとついてきただなあ」
「日頃から山歩きは嗜んでおるからの」藤兵衛は答えた。
 実のところ山駆けは古縁流の修行の基礎だ。山から山へと鬼人の如くに駆け巡る。その気になればここにいる誰にも追いつけぬほどの速さで駆けることはできるが、それをやると化け物扱いされて撃たれるのが関の山なので止めておいた。
 マタギたちはそれぞれに弁当として持ってきた握り飯を食い始める。藤兵衛が何も持っていないのを見て、自分たちの分を分けてくれた。
「や、これはかたじけない」
 藤兵衛は有難く馳走になる。古縁流では基本的に山に入るのに食料は持たない。その手裏剣の技と草木に関する知識を持ってすれば食料は容易く手に入るからだ。山を舐めていると言えば確かにそうだが、それで別に困るということがないので藤兵衛には改める気はさらさらない。
「権爺。ちょっと相談があるだ」
 犬を引きずってきた一人がマタギ衆の頭に話しかけてきた。
「犬たちの様子が変だ。怯えているように見える」
「馬鹿こくでねえ。こいつらは熊にでも平気で向かっていくマタギ犬だぞ。怯えるなんてこたああるもんじゃねえ」
 だが確かに犬たちは怯えていた。尻尾を股の間に挟み込んで仲間の犬たちの間に潜り込んでいる。ボス犬はしきりに空中の匂いを嗅いでいた。
 藤兵衛も同じように風の臭いを嗅いでいた。何かが変だ。それは今まで感じたことのない臭いの無い臭いであった。特に意識には上らないのに、それでも研ぎ澄まされた感覚の中に何かが引っ掛かる。
「権爺。ちょっと来てくれ。大変なものを見つけた」
 偵察に出ていたマタギが息せききって駆けつけて来た。その尋常ではない様子に休憩していた全員が弾かれるように立ち上がる。
 連れていかれた先にあったのは熊の死骸だった。それも普通の熊の三倍はある大きなものだ。その大熊の腹が裂かれた上で、腸が大きくえぐり取られ、食い散らかされている。
 誰もが無言であった。
「こりゃ、猪にやられた傷だ」権爺が断言した。「だけど普通の傷じゃねえ。どうみてもこの猪、小山のようにでかいぞ」
 どうするどうすると言い合っている内に、山の天気が変わり始めた。霧がどこからともなく湧いて来ると周囲を取り囲み始めたのだ。
「こりゃいけねえ。霧が出て来たぞ」
「まずいな。今この猪に襲われたらどうにもなんねえぞ」
「見えなきゃ鉄砲は役立たずだべ」
 死体を見分していた権爺が立ち上がった。
「仕方ねえ、皆、円陣を組むだ。それぞれ円陣の外に向いて熊槍と鉄砲を構えておけ。霧が晴れるまでそれでしのぐぞ」
 素早く命令を出した。
「お侍さまは陣の中央にいてくだせえ。そこなら間違っても鉄砲の弾には当たんねえ」
「承知」
 藤兵衛は背負っていた戦国大太刀を下すと、鞘から抜き放った。普通の刀よりも長い見るからにごつい刀身がぎらりと光る。藤兵衛はそれを持ち、円陣の中央に何を恐れるでもなくすらりと立つ。一見朴訥に見えるこの男が恐ろしい大太刀を持つと、今までよりもさらに大きく見えることに全員が気がついた。このお侍、只者じゃねえ。今更ながらに皆が気が付いた。
 霧はますます濃くなってくる。頭上の青空は見えるのに、横方向の視界は完全に閉ざされてしまった。
「来るぞ」藤兵衛が言うのと、犬たちが吠え始めるのがほぼ同時だった。
 じきに地響きが聞こえてきた。犬たちが狂ったように吠える。吠えるというよりむしろそれは悲鳴に近かった。
「誰か見えるか」
「分かんねえ」
 マタギたちが焦りの籠った声でつぶやきあう。
「こちらの方角だ」
 言うなり藤兵衛は刀を頭上に横向きに構えた。古縁流参の斬撃の型炎弧の発動体勢。本来、古縁流の技は他見無用だが、この際だ、気にすまい。藤兵衛は断じた。
 無数の銃口が藤兵衛が示した方向に向く。次の瞬間、牛よりも巨大な猪が霧の中から飛び出した。マタギたちのただ中へ突進してくる。恐怖に狂った一匹の犬が大猪に吠えかかり、その牙の一撃で弾き飛ばされた。周囲の霧を赤く染めて犬の内臓がまき散らされる。そのついでに進路に現れた太い木を牙で引き裂くと、大猪はマタギたちへの突進を再開した。
 マタギたちの銃が次々に火を噴いた。大猪はそれを一切気にせずに突っ込んで来る。大猪の体に弾かれた弾丸が周囲に散らばるのが感じ取れた。
 マタギの銃は単発銃だ。一度に撃てるのはただ一発のみ。形勢を見て取った藤兵衛はマタギたちの頭上を飛び越えた。飛び越えざま手裏剣を二本放つ。それは狙い過たず大猪の目に命中すると敢え無く弾かれた。
 むん。藤兵衛は無言の呼気の爆発に合わせて大太刀を振るった。全てを寸断する鋼の刃が綺麗な弧を描いて霧を切り裂く。硬い音がして大猪の首の辺りで激しい火花が散った。耳を覆いたくなるような不快な音を立てて、鋼の刃がその体の上を滑る。
 大猪が突進を中止し、素早く方向転換すると霧の中へと逃げ込んだ。
「むう。何という硬さ」
 藤兵衛はつぶやいた。大木を一撃で切り倒す参の斬撃が、まったく通用しなかったのだ。今のは肉の硬さではない。岩、いや鉄の硬さだ。その目玉ですら手裏剣を弾くとはあまりにも常軌を逸した化け物だ。
 古縁流に伝わる十二王の言い伝え。まったくの嘘というわけでは無かったのか。
 自分が亥の王に出逢ったことを初めて藤兵衛は知った。

 十二王は人間よりも長く生き、それぞれが違う神通力を持っている。亥の王の神通力はあの鉄もかくやと思わせる硬さか。藤兵衛は考えた。どうやればあんな化け物を倒せるというのか。



 マタギたちは巻き狩りを諦め、帰り支度をし始めた。
 鉄砲の弾すら通用しない怪物を目の当たりにしたのだから無理もない。このまま山に残れば全滅は必至である。
「犬は一匹やられちまったが、お武家さまのお蔭で人死にが出ねえですんだ。おらたちゃ山を降りるでよ。お武家さまはどうしやす?」
「それがしは今しばしあれを追ってみようと思う。ついては頼みがある。その熊槍を一本もらえぬか」
「そりゃあかまわねえだ。おらのを使ってくれ」
 熊槍は先端が丸い円筒を斜めに切ったようになった独特の穂先を持つ。これが刺さった傷は血が止まらず獲物は失血死に至る。
 彼らに別れを告げその姿が見えなくなると、藤兵衛は本来の山駆けの速さに戻って走り始めた。尾根を駆け抜け、崩れた崖を跳び越え、木の葉を揺らすことすらなく藪を通る。古縁流の体術は山岳修行者でさえ舌を巻く。
 先ほど感じた微かな気配を求めて山々を駆け巡った。あの大猪は今までにない反撃を受けて慌てて逃げた。だが受けた傷はどう見てもかすり傷だ。戦意が無くなるほどではない。かならずや傷の復讐に来るに違いない。藤兵衛はそう思った。
 猪は鼻が良い。その犬よりも鋭い鼻で何でも嗅ぎ分ける。こうして自分の匂いを振りまけば、後は相手が見つけてくれる。
 駆け抜ける速度は落とさずに、途中で兎を捕まえ、木の実を拾う。ついでに薪も集める。良さそうな場所を見つけて即席の庵を作り、素早く腹拵えをした。
 後は待つだけだ。藤兵衛は倒木の上に腰を据えると座ったままですぐに眠りについた。命が危険に晒されている中でも平然と眠りにつける藤兵衛は恐ろしく肝が据わった男である。
 湿った風を感じて目が覚めた。
 霧だ。これから周囲を満たすであろう濃い霧の前触れだ。この霧は亥の王である大猪の存在とは切り離せないものらしい。
 熊槍を手に取って重さを測る。本来古縁流の技は大太刀で行う。だがこれからやる技は槍の方が状況に合っている。
 来るとしたら正面だ。奴は今まで無敵だったはず。だからこそ、傷を受けて逃げ出したという恥辱を振り払うには正面から来る。これは人間の考え方だが、妖物とてあながち違ってはいないのではないかと藤兵衛は読んでいた。
 藤兵衛が使う参の皆伝には二種の突き技がある。今必要な技は尖り蝗。その突きは大木に大穴を開ける威力がある。槍を正眼に構えて藤兵衛は待った。
 忍び寄るしめやかな足音。やがてそれは地響きに代わり霧の中から大猪の姿が出現した。藤兵衛の体が前へかがむと、体が伸び、腕が伸び、さらに地面を蹴った。全ての力が一瞬にして剣先に収束され稲妻もかくやとばかりの突きが繰り出さる。強烈な衝撃が熊槍から腕を伝わり、その反動を殺さずに藤兵衛は回転しながら宙に跳んだ。その体の下を大猪の体が凄い勢いで通り抜ける。
 突き技は必殺の技でもあるが突きを放った直後に完全に無防備な状態に陥るという欠点がある。特に強烈な突き技であればあるほどそれは顕著になる。尖り蝗は突きの反動を使って跳ぶ技であり攻撃に続く回避までの一連をまとめた技である。古縁流の突きの威力ならば反撃できる敵などいようはずもないのに、その後の跳躍がどうして必要なのかと常々藤兵衛は思っていた。だが今やその意味が理解できた。
 古縁流の技はいま目の前にいる人知を越えた怪物と戦うための技なのだ。
 空中で猫のように体を捻り着地するとともに手の中の折れた熊槍を投げ捨てる。置いておいた大太刀へと走ったがそのときにはもう大猪は消えていた。
 霧が消える。地面に点々とついた血の跡を追って藤兵衛は走った。途中で引き抜かれた熊槍の穂先を見つける。その先端が無残にも潰れているのを見て、藤兵衛は舌を巻いた。参の皆伝の突き技でもかすり傷しかつけられないのか。
 近い。藤兵衛は警戒した。視界に出て来た大岩を飛び越え、その先の藪を抜ける。そこで痕跡は途絶えていた。
「うぬ。猪め。どこへ行った」
 お日様に照らされた大岩の上に乗ってしばし考える。藪を睨み通り抜けた痕跡を探す。あの巨体が通ればそれなりの跡は残るはずだがそんなものはどこにもなかった。
 藤兵衛は大岩から飛び降りるとさらにその先を探った。さんざに探したが何も見つからず、藤兵衛は諦めるしかなかった。来た道を辿って元のところに戻る。
 何かが変だった。そしてすぐに気が付いた。途中で飛び越した大岩が無い。大岩があった場所の地面を探ると草が大きな範囲で押しつぶされている。
 どういうことだ。
 まさか。いや、しかし、そうではないか。
 十二王はどれも神通力を持っている。猪の神通力は体を岩のように硬くすることだと思っていたが違ったようだ。岩のように硬くするのではなく。岩そのものに変ずる神通力なのだ。
 相手を襲うときは猪に変じ、傷を受けたときは岩に変じてやり過ごす。
 これは厄介だ。藤兵衛は腕を組んで考えた。相手が攻撃する一瞬だけがこちらの攻撃が通じる隙間だ。その瞬間に放つ一撃だけで大猪を殺さない限りは岩に変じて逃げられる。だがあれを即死させるのは恐ろしく難しい。
 古縁流の参の免許皆伝の技は人知を越えた技だ。だがそれなのに、この怪物には通じない。今までの攻撃はいずれも掠り傷を負わすだけに終わっている。大きくて、硬くて、その上に丈夫。なんと厄介な三拍子。
 この怪物を倒せるのは師匠ですら到達できなかった終の免許皆伝者のみ。
 自分が放浪生活を楽しんでいる間に、もしや師匠の下では終の免許皆伝者が生まれているやも知れぬ。だがもしそうであってもその者を連れて来たときには猪の王はどこかに立ち去っているであろう。

 だがそれ以上に、藤兵衛は自分の手ですべての片をつけたかった。



 考えた通りの場所を見つけ出すのに三日もかかった。
 硬そうな木を切り倒し、大振りのこん棒を作りだす。
 それから尾根を廻り歩き、先々で宣言した。
「古縁流第十二代継承者藤原藤兵衛。猪の王に堂々の勝負を願う。来なければ卑怯者ぞ。日本全国に亥の王は臆病者と喧伝してくれよう」
 果たしてあの猪の妖物が人語を解するかどうかは謎だったが、恐らくは解るのではないかと思った。化け物とはそういうものだ。藤兵衛は呑気にそう信じていた。
 果たして翌日、藤兵衛が待ち構えているところに霧が湧いて来た。
 用意しておいたこん棒を手にして待つ。やがて霧が濃くなると地響きが近づいて来た。ここは一本道であり、どこから来るのかは分かっている。呼吸を整え、神経を研ぎ澄ませる。今だ! 心の命ずるままにこん棒を振り下ろす。それと同時に濃い霧が形を無し大猪へと変ずる。飛び出してきたその頭にこん棒が命中した。鈍い音を立てて大振りのこん棒が途中からへし折れる。だが、さしもの大猪もたたらを踏み、一瞬自分の位置を見失った。ふらつく頭を左右に振り、正面に立つ藤兵衛をきっと睨みつける。
「しまった!」大声で叫ぶと藤兵衛は折れたこん棒を捨てて逃げ出した。
 その後を一呼吸遅れて衝撃から立ち直った大猪が追った。山駆けで鍛えた藤兵衛の足、元々が四つ足で人間よりも速く走れる大猪。両者とも恐ろしい速さだったがわずかに大猪の方が速い。最初に生まれた両者の間の距離がじりじりと縮まり始める。
 藤兵衛も命がけだ。全力で走るが大猪を振り切れない。その上体が一瞬だけかがみ地面から小枝を拾い上げる。その隙をついて大猪が藤兵衛のすぐ後ろにまで迫った。顎から生えている鋭い牙が揺れる。それは人間でも木でも岩でも平気で引き裂く死の使いだ。
 藤兵衛が跳んだ。大猪が牙を剥く。必死の遁走劇の最中の一人と一匹の足の下から大地が消えた。
 次の瞬間、両者は空中にあった。背後に立った今越えたばかりの崖の縁がある。罠にかかったことを知り、大猪が吠えた。
 大猪は落下した。しかし藤兵衛だけは空中でとどまり、崖の腹に足をついて留まった。その手には小枝と、それに結び付けた山蛾の糸がある。
 古縁流の秘術で作る山蛾の糸。その糸は、細いが大の大人の体重にもよく耐える。半透明の糸はこの霧の中では見ることは叶わぬ。その糸の先は予め崖の上の岩に結び付けておいた。
 足元に広がる深い霧の底の底で何か大きくて重いものが大地に激突する音がした。
 いかに神通力で硬くなっている大猪と言えど限度はある。この高さなら死なぬまでも深い傷を負ったはず。藤兵衛は素早く崖を登ると、予め調べておいた道を辿って崖下へと降りた。
 霧が薄れてきている。
 崖下は岩盤が露出した荒地だ。その中に大きな岩が一つ鎮座していた。下調べのときには無かったものだ。藤兵衛は恐れることなくその岩に手を当てた。
「む。温かい。やはりそうか」
 日の射さぬこの崖下で岩が暖まるなどあり得ない。これこそこの大岩がさきほどの大猪であった証である。
 藤兵衛は素早く大岩の周りを廻った。岩自体には亀裂一つついていない。藤兵衛は頭上の崖を見上げた。
「あそこから落ちても傷がつかないとは何たる硬さ。だがそれでも効くことは効いたようだな」
 しかしこれは。藤兵衛は大岩を撫でながら考えた。
 岩が本体でそれが猪に変じるのか、それとも猪が本体で岩に変じるのか。どちらにせよ、殺せば正体がわかるというものぞ。
 藤兵衛は背中の戦国大太刀を下すと刀身を鞘から引き抜いた。それを頭上高く持ち上げる。狙いは大岩を猪と見立てた場合の首に当たる部分。
「古縁流参の斬撃。打鼓天」
 大木すら一刀両断する参の免許皆伝の斬撃技である。技名を言うなり刀を振り下ろした。派手に火花が散り、刀が弾かれる。衝撃で手がじんと痺れた。
 藤兵衛は舌を巻いた。これは鉄の硬さなんてものではない。正しくは鋼鉄の硬さだ。
 これでは手も足も出ぬ。そのうち藤兵衛がいない隙にまた霧を湧かして大猪はここより逃げ去るであろう。そうなればもはや二度と藤兵衛の誘いには乗るまい。
 ここでいま確実に仕留めるしかないのだ。だが藤兵衛の持つ参の免許皆伝技ではどれも歯が立たない。
 終の技が要る。だが藤兵衛は終の技にはただの一度も成功していない。
 藤兵衛は覚悟を決めた。この場で終の技に到達する。それしかない。
 師匠は何度も藤兵衛に教え諭していた。
 弐の皆伝、参の皆伝までは肉体の修練が主たる要因である。だが終の皆伝は心の使いようだと言われている。剣の技がその真価を発揮するためには心の置きようが大事なのだと。そのために古縁流は藤兵衛がもっとも苦手な座禅を修行に取り入れているぐらいだ。
 未だ藤兵衛は終の技には達していない。さらに言うならば、藤兵衛の師匠ですら終の皆伝には届いていない。そして今必要なのは終の技なのだ。
 終の皆伝、突き技、滴抜。片腕に沿わせた刃を上に向けて、大岩に当てる。もしこれが猪ならば、この刃の先に心臓があるはず。型の発動の体勢を取り、切っ先の先にあるはずの大猪の心臓を心の中に思い浮かべる。
 型はこれで良い。この技の発動に必要なのは鏡水一滴の心。心の中に教えられた極意を思い浮かべる。
 藤兵衛は集中した。
 集中した。
 集中して集中して集中した。
 刀の切っ先に集中した。
 大岩の中にあるはずの相手の心臓に集中した。
 それを貫くことに集中した。
 刀そのものが藤兵衛になり、藤兵衛そのものが刀になった。
 やがて周囲の音が消え始めた。続いて周囲の光景も消え去る。敵前にも関わらず、藤兵衛は静寂の中、無限に広がる水の上にいた。目の前には大岩。そして刀を構えた自分だけしかいない。
 これは岩に非ず、猪なり。
 藤兵衛はつぶやいた。岩に当てた手の下でいまだそれは岩の感触を保っている。
 これは岩に非ず、猪なり。
 またもやつぶやいた。
 これは岩に非ず、猪なり。いまここにて我はこの猪を屠る。
 そのとき、天啓が生じた。
 天から一滴の水滴が落ちて来た。それは水面にぶつかり、波紋を広げた。落ちた場所を中心にして完全なる円が広がる。
 これは岩に非ず、猪なり。手の下にある岩の硬い感触が一瞬だけ柔らかく感じた。
 波紋が周囲から戻って来る。それが一点にまとまる瞬間、藤兵衛の手が己の意思あるものかのように動いた。何の抵抗も見せずに刀の刃先は大岩に沈み込み、鍔まで深く貫いた。
 貫かれた瞬間、大岩はびくりと動き、そしてただの岩へと変じた。その体を大太刀は見事に貫き、先端は向こうにまで突き出ている。
 これが剣の極みというものなのか。藤兵衛は深く感動した。その瞬間は素早く過ぎ去り、藤兵衛は崖の下にいる自分に気が付いた。
 刀を抜こうとしたが、今度はいくら力を込めてもびくともしない。鏡水一滴の心に再び戻ろうとしたがどうしても出来なかった。
「わずかひと時だけの終の心地か。刀は諦めるしかないな」
 藤兵衛はため息をついた。手を伸ばして冷えゆく大岩を撫でる。
「楽しかったな。おい」
 当然ながら返事はない。
「なんだ、やはりただの岩か」
 ボリボリと頭を掻き、刀が刺さったままの大岩を睨んだ。
「やれやれ、大事な刀を取られてその上に猪鍋はお預けとは、これでは割りに合わぬのう」
 誰に聞かせるでもなく藤兵衛はそう言い捨てると、一人山を降りた。