来るべきもの銘板

来るべきもの 背負うもの

 自慢ではないが私は零感である。見えないし、聞けないし、嗅げない。そんな私がなぜ怪異に遭遇するのかは謎である。
 占い師は当然霊感があるものと言うのが現代の風潮である。霊感占いなどというものも商売として存在しているのを見れば確かにそうなのであろう。残念ながら私にはそれはできない。だから占いの術理に沿い、占機を読み解くのが私の占いのやり方のすべてである。自分に霊感があったらなと思うこと、しばしばである。

 そんな私でも、相手が強ければそれなりに見えることもある。

 その日はバーでゆっくりと飲んでいた。週に一度趣味でやっている占いだが、占ってくれというお客さんは滅多にいない。一応小さな看板は出しているのだが、無料にすると逆に警戒されるのだろう。

 一人で酒を飲むときは、目を瞑って飲む。目を開けても瞑っても酒の味は変わらぬと思っている。もちろん科学的検証では、目を瞑って飲むと酒の味は逆に判らなくなるらしいが、気にしない。
 ここは二階にあるバーで、階下は行列ができるラーメン屋だ。昼の間は旨いタンタン麺を出すが、夜になると無くなりかけた汁に水を足すのでまずくなるという楽しい特徴を持つ店だ。
 このバーにはエレベータなどという高級なものは無いので、飲みに来る人間は階段を一段一段上る必要がある。
 瞑った目の暗闇の中にバーのすべてが映る。その唯一の入り口の階段も。階段を上って来る女の人も。足音を立てないようにゆっくりと一歩また一歩。背中に何か背負っている。ぼんやりとした緑の塊。霧でできた青虫のような。
 うわ、と思った。想像にしても気持ちが悪い。
 階段を女の人が登りきる。手を伸ばして入り口のドアを・・。
 想像と現実が交差する一瞬。ガチャリ。ドアが音を立てて開いた。
 誰かが入って来て、真横の椅子に座った。他にいくらでも席が空いているのに。次に来る言葉は予想がついた。
「占っていただけますか?」
 現実側の目には女の人が背中に背負っている青虫は見えない。それが見えたら霊能者だ。私に霊感は無い。私は霊能者ではないから。
 占った。
 でも占うまでもなく、やはり無茶苦茶な結果が出る。取り憑いている者の発する妖気で占いの場が乱されている。
 だがはっきりと後ろに何か憑いていますよ、とは言えない。そいつの正体が何だか知らないが、そいつの邪魔をすればこっちに向かって来る。
 そういうものだ。
「悪運が憑いているときは神社に参ると良いですよ」
 言えるのはここまでだ。これほど大きく強く不気味な何かだから、憑かれた者は神社の中にすら入れまいとは判っていたが。
 神社に行かれて神と対面するぐらいなら、宿主の心を操ってそれを回避する。そうなると、助かるかどうかは日頃の行いと持って生まれた運勢の強さによる。
 後は適当に言葉を濁してお帰り願った。

 人づてに聞いた所では、その後に彼女は鬱病を発症したようで、二度と姿を見せることは無かった。
 すまない。私はヒーローじゃないんだ。



 またある夜、同じバーでお酒を飲んでいると、今度は賑やかな大声が階下から上がって来る。
 暴力団の組長のケイさんだ。
 ケイさんは職業は怖い人だが、面倒見の良い気さくな人で、かなりのお年なのだが元気な人である。もちろん、怒らせるとちょっと洒落にならないほどの怖い人である。かって日本中のヤクザがが大抗争を繰り広げていたとき、命知らずで名を馳せた人である。修羅場を山ほど越えて来ただけあって恐ろしく肝が据わっている。
 がちゃりとドアを開けて、ケイさんが顔を見せた。これも知り合いの怖い人たちを数人連れて来て、カウンターの反対の端に陣取ると飲み始めた。
「先生。おはようございます」
 この人は私を先生と呼ぶ。こちらも軽く会釈をする。すでにお爺さんだが、仕立ての良いスーツをきちんと着こなしお洒落である。職業はよろしくないが、一流企業の中でこの人よりももっと質の悪い人間をたくさん見て来たので、あまり気にはならない。ニコニコ笑いながら、部下と部下の家族を片端から破滅させる会社の部長の類よりも何倍も良い人間である。善人と悪人の境目は法律ではない。
 挨拶をしてからまたいつものスタイルに戻る。薄暗いバーの中で酒の入ったグラスを抱えて目を瞑る。瞼の奥の暗闇の中に映る想像のバー。黒塗りのカウンター。カウンターの向うに並ぶ無数の酒。奥で突き出しを用意しているマスター。右側では大声で会話するケイさん。ケイさんの背中に黒犬。

 黒犬?

 目を開けた。横目でケイさんを見る。もちろんその背中には何もいない。目を瞑る。黒犬がケイさんの背中に乗っている。
 あれれ?
 黒犬と言っても、普通の黒犬ではない。粗いポリゴン細工でできたような、あるいは木彫りの人形のような。全体が真っ黒に塗られている。目だけがわざとらしく白地に黒丸でコントラストを見せながら目立っている。

 こりゃいったいなんだ?

 幽霊の類にしてはあまりにも変だ。妖怪の類にしては作り物感が半端じゃない。
 ああ、と思った。これは式の道具。一般に言われる式神の一種だ。つまり依代に使われた道具の形を忠実になぞってその姿を作っている霊体だ。
 呪いを掛けられたな。それもプロの技だ。そう思った。職業柄、ケイさんは対立する相手には事欠かない。
 日本人同士の争いでは呪詛師を使うケースは少ない。だが、外国では呪詛師はごく普通に使われる。サッカーの試合にも勝敗を決める要因として呪詛師が雇われる国もあるぐらいだ。むしろ東南アジアの中では日本が異質なのだ。
 これは恐らく大陸系の呪詛師だなと当たりをつける。依代に呪文を書き、命を持たせて使役する方術と呼ばれる技だ。
 犬の形をしているのは、命令に忠実でかつ攻撃性を持たせるため。
 粗い木彫りになっているのは、術の誓文を描くのに平面の方が描きやすいため。
 黒色にしてあるのは悪を成させるためと、誓文を他人に読まれないようにだ。誓文自体は自分の血を混ぜた墨を使って描いているから、塗りつぶしても霊には読める。誓文は式神との契約内容を記したもので、ライバルの術師に内容を読まれると足下をすくわれかねないので、こうして隠す。
 なるほどきちんと術理に従っている。自分でも変な所で感心した。
 さて、次の問題はこのことをケイさんに伝えるかどうかだ。ケイさんはこの手のことは何か経験があるのか、比較的真面目に聞いてくれる。忠告しても怒らずに聞いてくれるだろう。
 だが、そうなれば当然、お祓いをしてくれと言われてしまう。それはつまりプロの術師に素人が喧嘩を売るということであり、かなりの確率で命を落とすことになる。
 ケイさんは好きだが、そこまでの義理は無い。それにそれだけの修羅場を潜って来たということはそれなりの強運を持っているということ。ならば放置しても差し支えはあるまい。

 私はヒーローじゃない。

 グラスのお酒に改めて向きなおろとしたその時、想像の中の黒犬の瞳が初めて動いた。黒目がぎょろりと動き、こちらを捉える。
 ぶんと何かが空気を切り裂くと、手の中のグラスが粉々に砕け散った。
 うお、と、わあ、が同時に出た。うおは驚愕の、わあは感動の声だ。
 一瞬、ケイさんが銃で撃ったのかと感じた。だが違う。いまのは鬼礫の術。初めて見た。というより、見えなかった。目を瞑った暗闇の中で空気にトンネルを穿ちながら何かが向かって来た映像が浮かんだだけだ。
 中国の奥地の河に住む妖怪が使う技。鬼礫。悪気の塊を投げる技。人に当たると高熱を出し、二、三日で死ぬと伝えられている。もっとも黒犬がその妖怪そのものではなく、似たような技を使っているということである。
 マスターが慌てて飛んで来て、砕けたグラスを片づける。
「見事にばらばらだね」
 そう言いながら、気にしないでいいよと笑いかける。とても大事にしていたクリスタルガラスの最後のグラスなのに。
「すまんです」
 視線を前に固定したまま、考える。
 こちらが気づいたことに気づかれた。そして警告の意味で鬼礫を撃って来た。余計なことを言ったら、次は怖いぞ、ということだ。
 鬼礫を直接当てて来なかったのは、こちらがまだ仏の弟子だから。いかにいい加減な弟子でも、手を出すともっと怖い何かが背後から出てきかねない。用心を兼ねた警告。式神の持つ単純な思考ではない。これを操っているものの考えだ。

 売られた喧嘩は買ってもいいな、とも思った。でも余計なことをするなと仏さまに怒られるのも間違いない。
 私はお祓い師じゃないし、そもそも赤の他人の喧嘩を買ってどうする?

 引くことにした。三十六計逃げるにしかず。勘定を払って店を出た。
 お大事のグラスを割られたマスター、ごめんなさい。