生きること銘板

生と死の境界2

 生と死の境界は曖昧である。

 この曖昧さが一番問題になるのは近年定着しつつある医学であるところの臓器移植である。

 現代では、脳波の消失もしくは心臓の鼓動の停止を持って死と定義する。かっては心臓の鼓動の停止を持って死としていたが、臓器移植技術の進歩と共に、このどちらかを持って死んだことにすると変えられてしまった。

 この死の二つの基準、脳波と心拍ほど曖昧なものはない。
 脳波は一度停波してもすぐに復帰するし、止まった心拍も何かの拍子に復帰する。AEDが放つちょっとした弱い電気ショック一つで復元するのは誰もが知るところである。こんなものが死の判定の条件として採用されているのは間違っているのだが、医学界はそうとは考えないらしい。まったく恐れ入る。

 全ては新鮮な臓器のためである。

 脳と心臓は直結しているように思うが実はそうではない。血流さえあれば心臓が停止しても脳は生き続けることができるし、脳が停止しても心臓は自分で鼓動を作り出す。ただ心臓が止まり血流が停止すると脳は窒息死するし、脳が停止すると様々な不具合で心臓は停止する。緩い結合でもそれなりに影響するということである。

 さて、心臓の停止に伴う血流の停止で臓器の鮮度はどんどん失われる。心臓の停止を待ってから臓器を取り出していたのでは遅すぎる。だからこそ脳波の停止を基準として臓器の取り出しを始めることができるのは非常に好都合なのである。
 すでに前編で述べた通り、人間の死はいい加減である。掌に錐を刺しただけで生き返って悲鳴をあげる。

 錐を刺す?

 では臓器移植で体にメスを入れるのはどうか?
 実は条件はまったく同じである。

 臓器を取り出すときには臓器が痛んでしまうので麻酔は使えない。その状態でメスをずぶりと差し込むのである。『死体』が生き返らないわけがない。
 実際に日本の移植用臓器取得手術の第一号では、手術中に何かが起きて中止になっている。そして第二号でも、同じく手術中に何かが起きて中止になっている。医者と看護婦が手術室から慌てて逃げ出すようなレベルの『何か』である。
 そして記念すべき第三号では、『死体』に筋弛緩剤を注射することで何とか成功にこぎつけているのである。

 ここまで聞けば手術の現場で何が起きているのか推測できない人はいないだろう。

 また臓器提供者は脳死が確認されると血管に臓器保存液を流し込まれる。このとき死んでいるはずの臓器提供者は例外なく泣くという。医者に言わせるとこれは反射作用だと言うが、それが起きるということは向心系神経、つまり痛覚などが生きていることを示している。脳の死が即時でない以上、この間は凄まじい苦痛を感じているのではないか。
 是非とも蘇生者の意見を聞いてみたいものだが、血管に保存液を流しこまれた時点で蘇生はほぼ不可能になるので、これは無理な相談というものである。
 だが、このことが詳しく調査されることはないと断言しよう。臓器移植はこれからの医学において金の成る木なのだ。だから何としても推進しなくてはいけない。

 鬼の所業? その通り。全ては新鮮な臓器のためなのだ。