生きること銘板

生と死の境界

 飼い猫はガンで死んだ。
 その死に行きつつある姿を見ながら、私は思う。
 生と死の境界はどこにあるのかと。
 もう猫は瀕死の状態だ。愛猫の名前を呼ぶと、尻尾の先が少しだけ動く。それ以外の部分のコントロールはすでに失われている。寝床に漏らした小便の匂いが鼻をつく。
 死にかけた体からぶら下がる、今ややせ衰えた本体と同じ大きさに成長したガンの塊だけが、まだ盛んに熱を放ち、強烈な生の息吹を見せている。無目的で無意味な躍動。憎むべき塊。やがて宿主の後を追い、冷えたただの肉の塊となる運命にある。

 猫が動かなくなって二時間。死後硬直が始まる。首が曲がり、目が開く。はっと気づくとその顔がこちらを向いている。死んだ目が私を見つめている。
 また見ると、今度は首は横を向いている。
 それが繰り返された。
 そして一瞬、その全身が柔らかくなり、目が閉じた。いつもの猫の寝姿がそこにあった。その瞬間、この子は生き返ったのだ。
 それからまた全身が硬直し、死んだ目が開き始める。
 朝までには完全に死に、冷えた体だけが後に残った。

 生と死の境界は曖昧だ。

 映画の中では主人公が拳銃を発射する。撃たれた悪役はばたりと倒れ動かなくなる。こうして悪は滅びた。めでたし、めでたし。
 だが実際には生と死の間には物語のように明確な境界線は存在しない。


 狸寝入りという言葉がある。死んだふり、偽死反応である。筋肉は硬直し、反応は消える。さすがに呼吸までは止まらないが。死体に化けることで生き残る。
 このような反応がある以上、どの時点まで生きていて、どの時点で死んだのかを判定するのは思いの外難しい。
 現代、死の判定には3つの基準が使用されている。
 一つ。自発呼吸の停止。つまり息をしていないこと。
 二つ。心臓の停止。鼓動が聞こえないこと。
 三つ。脳死。脳波が出ないこと。
 3つの基準と言っても、3つが止まれば、という判定ではない。3つの内どれかが認められれば、という判定である。これは臓器移植用に新鮮な臓器が欲しいための処置である。死体は、新鮮なものでないといけない。だから呼吸が止まっては困るのだ。心臓が止まっては困るのだ。どちらも臓器の新鮮さにはダメージとなる。そのような理由から脳死を死の根拠の一つとした。
 商売目的で決定された死の定義にどれだけの正当性があるというのか。


 中世ヨーロッパの時代。近代医学の芽がようやく出始めた頃、死を判定する二十三の方法が編み出された。

 代表的には次の二つである。これは現代でもごく普通に行われる判定方法だ。
『死者の口に鏡を当て、曇らぬこと』
『脈拍が取れないこと』
 呼吸と脈拍の停止。だがこれらはどちらも一時的に停止する仮死状態というものがある。さらにはこの仮死状態に落ち込む病気が存在する。この病気の持ち主は裸の胸の上にメッセージカードをぶら下げている。
「私は死んでいません。埋葬しないでください」
 実際には呼吸は停止しているわけではない。一分間に一度程度はしているのだ。脈拍もそうで恐ろしく弱い脈を一分間に二回程度打っている。だがこの程度では誰も気づかないのだ。口に当てた鏡は曇らないし、手の脈も常人には感じ取れない。

 さらに続けると次の項目がある。
『手の甲を錐で突き刺し、応答しないこと』
 これは重要である。痛みに対する反応というよりは血が流れるかどうかを見ることができる。心臓が完全に止まった場合は傷口からは血は出ない。
 アメリカの警察の科学捜査班のドラマの中で、死体を解剖した際にメスで切った部分から血が流れて初めて死体ではないことに気づくというシーンがあったがこれである。だがこの方法でさえ、極端に弱った鼓動は注意深く観察しないと分からない。

『足の裏をロウソクの炎で焼き、応答しないこと』
 これは何とも凄まじい。逆に言えば二十三種類の試験にすべてパスする必要があったということは、その他の二十二の試験方法をすべてパスしても、最後の火炙りで絶叫と共に生き返るケースがあったことを意味しているからだ。

『体温が落ちること』
 仮死状態にある場合の顕著な特徴は体温が少し低くなるだけというものがある。体温は組織が生きている重要な証拠だと考えてよいのだ。
 だがこれも確実な判定方法にはならない。ときたまだが人間は冬眠に近い反応を見せることがあるからだ。
 カナダなどでは冬に湖に落ちて凍死したケースが多く報告されており、これらの「死体」は一日後に蘇生したものから、三日も経過して埋葬寸前に蘇生したものまである。
 かなり古い話になるがこれも死んで二週間たち腐敗した後に蘇生したという記録があるのだ。ただしさすがにこの場合、蘇生から二時間後に再び死に、生き返らなかった。


 かように生と死の境界を判定するのは難しい。いや、そもそもそんな明確な境界は無く、死人は生きたり死んだりを何度も繰り返しながら、徐々に死に近づいていくものなのかも知れない。 なお上記に上げた判定法はやがて廃れることになる。黒死病の流行である。死体が確かに死体かどうかを判定している間に死病が移るのだ。じきに誰もそんな危険な手続きをしなくなった。死体はその場で処分場に運ばれることになった。今回のコロナ騒ぎの中国の映像の中に積み上げられた死体袋の中にまだ動いているものがあったが、それと同じである。


 日本の民法では死より四十八時間の監視を義務付けている。この期間が過ぎるまでは埋葬は許可されていない。死が確定するまでの時間がこれだ。余りにも死んだ後に蘇る者が多いため、決められた措置だ。だが、この時間は何か理由があって決められたものではなく、単に都合が良い時間を適当に選んだだけに過ぎない。

 これが原因とは言わないが、早すぎた埋葬の悲劇は、枚挙に暇がない。
 数少ない土葬では、掘り返してみた棺桶の中の五つに一つは生き返った形跡があると言う。両手で決して開けることのできない棺桶の蓋を掻きむしり、剝げ落ちた指の爪が乾いた血と共にこびりついているのが発見される。
 医学者に言わせるとこれは死後硬直の成せる技であるとは言うが、それが本当なのかどうか確かめたという実験を今のところはまだ聞いたことが無い。つまりは疑問に対する口先だけの言い逃れである。
 昔の日本は土葬が多かったので、棺の中での生き返りの例は多い。棺を埋める前に棺の顔の部分を開けてくれと遺言を残し、その通りにしたら埋葬直前に生き返った例などもある。あるいはたまたま墓の下からの声を聞きつけ暴いてみたら生き返っていたという例もある。

 火葬の場合は、焼き釜の中でのお目覚めということになる。火だるまになった死体が絶叫と共に跳ね起きるというが、これもその筋に言わせると死後硬直というものらしい。
 火葬の場合の蘇生率は一説によると三人に一人。ただし、生き返ってもどのみち全身重度熱傷で助かるわけもなく、火葬場の賠償問題に発展するので、そのまま高温の炎で焼き殺すとは言われている。
 大丈夫。死体が叫ぼうが、逃げようと動きまくろうが、焼き釜のマドを内側から叩こうが、すべては死後硬直の成せる技なのである。
 死後硬直。なんと都合の良い言葉だろう。惚れ惚れする。

 このように昔から早すぎた埋葬の例は枚挙に暇がない。死体が蘇生した例としては現代でも多いので調べることができる。
 しかしこの問題に正面から取り組んだという話を聞かないのは困ったことである。もちろん、この辺りの正確な情報が判明すれば老い先短い老人たちがパニックになるのは間違いない。
 この内、土葬の方が蘇生率が低いのは生き返る前に棺桶の中の酸素が尽きてしまうことが多いからではないのだろうかと愚考してしまう。


 このように生と死の境界は非常に曖昧である。
 死は恐ろしいものだが、その後に生き返るのはもっと恐ろしい。目を覚ましたとき君は火葬炉の中で、再びの死が目前にまで迫っているのかも知れないと考えてみたまえ。おちおちとゆっくり死んでもいられない。