馬鹿話短編集銘板

俺のものは俺のもの

 その昔、英雄オイディプースが人面獅子の怪物スフィンクスに問いかけられた三つの謎々。そのうちの一つがこれだ。

『自分のものでありながら、自分よりも他人の方が多く使うものは何だ?』

 答えは『自分の名前』。

 自分の名前は他人が自分を呼ぶために使うから、どうしても自分が使うよりも多くなる。
 俺が初めてこの謎を知ったときはなるほどと思った。
 そのうちに、この答えは俺に取り憑いた。

 俺の名前が自分のものであるならば、俺が使う方が多くならないといけないのではないか。
 何といっても俺の名前は俺のものなのだから。
 だが俺がどれだけそう思っていても、友達も親も俺の名前を勝手に使った。

 長じるにつれて俺はますますこれが気になってきた。心配した親が俺をカウンセリングへと送り込んだが、待合室で俺の名前が呼ばれた瞬間に、俺は家へと逃げ帰ってしまった。
 他人に俺のものである俺の名前を使われるのが耐えられない。例えば誰かが勝手に君の歯ブラシを使っていたとして、それを嬉しいとは思わないだろう。
 そういうことだ。

 俺は決心したよ。俺の名前を取り戻し、俺のものと成すことを。
 そのための計画を俺は立てた。
 大事なのはこれ以上俺の名前を呼ばれないようにすること。そのためには他人との接触を最小限に抑える必要がある。
 そのためには金が要る。それもとんでもない金額が。
 俺は何でもしたよ。合法違法を問わずあらゆる金になる仕事をやった。ただし足がつくようなことはしなかった。悪事がばれてニュースにでもなろうものなら、もう取り戻すことができないほどに俺の名前は使われてしまうだろうから。

 そうやって準備ができるまでに十年が経過した。
 その間に俺が俺の名前を使ったのは一万八千二百十一回。そして他人が俺の名前を使ったのは五万八百二十二回。これまでの人生を全部加えると推計十二万六千回ほどになる。

 無人島を買い込み、その上に自給自足できる家を建てた。太陽光発電と天水蓄積および大型浄水器、巨大な冷凍庫、そして倉庫。
 仕事は衛星電話だけでできるように調整した。
 物資を備蓄し、本土からの行き来が最低限になるようにしてから俺は島に引きこもった。
 毎日海岸に立ち、海に向かって自分の名前を繰り返し怒鳴った。当然だが海は俺の問いに答えなかったので、俺の名前の使用回数は着実に増えていった。

 無人島に移り住んで十年が経過した。その間に俺が使った自分の名前の回数は十三万回に達した。計算上ではこれで俺の名前は俺のものになったことになる。
 ようやく俺の心に平和が訪れた。

 海辺にパラソルを刺して、その下で安楽椅子に座って冷えたレモンティーを飲んでいたときのことだ。
 島に一つだけ作った桟橋に向かって船が近づいてきた。生活物資はひと月に一回運んでもらえることになっているがそれではないらしい。
 一人の男が船から桟橋に上がると、俺を見つけて小走りで駆けよって来た。
「俺さんですか」きちんとスーツを着込んだ男は聞いてきた。
「そうだ。俺が俺だ」俺は言い返し、これでプラスマイナス0だなと計算した。
「ああ、よかった。私、実はこういったものです」
 男は名刺を差し出した。
 弁護士?
 俺の島に何か問題が、との俺の問いに男は首を横に振った。
「違います。あなたはビジョン産婦人科で産まれていますね」
「覚えていないな。いや、聞いたことがない」
 あなたという呼びかけは名前の使用にカウントしなくても良いな。
「実はそこで四十年ほど前に赤ん坊の取り違えが起きまして、この度その件で追跡調査をしているのです」
「まさか!」俺は絶句した。
「そうです。あなたは取り違えられた方であなたの本当の名前は・・」

 俺は絶叫した。絶叫して絶叫して絶叫した。

 気を取り直すまでに一週間が必要だった。弁護士は粛々と手続きをし、俺は年老いた本当の両親に会い、そして俺の本当の名前を手にいれた。
 さんざん他人に使い古された俺の本当の名前をだ。

 平穏のときは一瞬で過ぎ去った。
 だが俺は負けない。絶対に負けない。死ぬまでに後たったの三十万回ほど俺の名前を使えばいいのだ。
 何ということはない。
 それで俺の本当の名前が俺のものになるならば。