1)
金木新左衛門は第十四代古縁流伝承者になるはずの男だった。
生来いい加減な性格だったため地道に修行を続けるということが苦手であったが、才があったために怠けながら続ける修行でも驚くほど進み、初の免許皆伝が目前にまで迫っていた。世の中にはこういう者もたまにいるものである。
ところが当の新左衛門は喜ぶかと言えばそうでもなかった。古縁流の伝承者が何らかの責務を負っていることは傍目にも理解していたからだ。
新左衛門は責任という言葉が心底嫌いだった。人生は適当にふらふらと生きるのが至上だと心の底から信じていた。だが伝承者になることを断れば、恐らく師匠は新左衛門を殺すだろう。そう思わせるほど第十三代伝承者である土井雄三師匠は剣の道に厳しい男であった。
土井師匠はなかなかの偉丈夫で、参の皆伝者であった。それはつまり化け物のように強いことを意味していて、とてものことに弟子が逆らえるようなものでは無かった。無暗に弟子に暴力を振るうことはなかったが、古縁流の伝統を守るためには一切の異論を認めないところがあった。
そんなおり、新左衛門の二人の兄が疱瘡にかかって次々と死んでしまった。それまで一人家を離れてふらふらしていた新左衛門だけがその災禍を逃れ、他に取るべき手段もなく、結局は家を継ぐことになってしまった。これは新左衛門に取っては今までのような気ままな暮らしができなくなるという大問題である。しかしそれはまた古縁流の免許皆伝授与を断る良い理由にもなった。
手裏剣と斬撃の組み合わせを特徴とする古縁流の免許皆伝を持つことは、武家社会では出世の望みを断たれるのと同意語であった。
実際には手裏剣の技は遠近問わず有効な技で刀よりは百倍も強いのだが、残念ながら刀のような『名誉の武器』ではない。それゆえに飛び道具を使うのは卑怯であるからという単純な理屈で、武士の道にあるまじきという結論に落ち着くのだ。
金木家は小普請組の非役の小頭の一人である。それなりの人数を束ねる役柄だが、かと言ってはっきりした役目はなく、必要に応じて駆り出されるいわゆる武家社会の何でも屋である。
それはつまり手を抜こうと思えばいくらでも抜けるということで、新左衛門はこの仕事がいたく気にいった。三日に一度は登城せねばならぬが、非番の日は全く自由である。また登城したからと言って特に仕事が無い日は、所定の部屋でただ一日をだらだらと過ごすだけである。
登城しない日は暇をもて余せば町人に扮して色町に遊びに出るのが常であった。そうでないときは街をそぞろ歩きして茶屋の娘さんを口説いて回るのだから世話はない。女好きとは新左衛門のためにあるような言葉であった。
本人は自分で信じているほどの色男ではないのだが、なにぶん気さくで陽気な性格が幸いし、男女問わずに意外と人気があった。
新左衛門がもしやこれは俺の天職かしらんと思い始めた所で最初の事件が起きた。
いきなり降って湧いたかのような御前試合である。何を考えたのか殿様がこれからは我が藩は武を大事にせねばならないと考えたらしく、配下の各部署各組に御前試合の御触れを出したのだ。各組はそれぞれ代表を出し、殿の前で勝ち抜き試合をすることになった。
さあこれは困った。所属しているのは小さな組とは言えその組頭たるものが弱くては沽券に関わる。かと言って実力をそのまま出したのでは要らぬ注意を引く。もしやその流派は古縁流ではなどとなっては事が面倒になる。ましてやそれは珍しい流派よの、ちと技を見せてみよとでも殿に言われでもしたらさらに大変なことになる。
古縁流の技は他見無用。もし他者に見られた場合は見たものを殺さなくてはならない。
例えそれが殿様でも。
新左衛門自体はそんなことをするつもりはなかったが、まず間違いなく土井師匠ならそれをやる。それも躊躇いなく、粛々と、そして誰にも止めようがないほど堂々と。困ったことに土井師匠は参の皆伝者だ。そして参の皆伝者に取っては一つの藩程度を相手にするのはさほど難事ではない。それほどまでに古縁流は強い。化け物のように強い。まるで化け物を倒すために生まれた流派にすら思える。
悩んだ末に新左衛門は結論を出した。何か適当な流派名をでっち上げて御前試合に出る。そして相手をニ三人叩きのめした後は、わざと負けるのだ。
一見良い考えに思えたが、そうは問屋が卸さなかった。
*
御前試合が始まった。
実を言えば新左衛門は普通の人間相手に剣術で試合うのは初めてである。いつもは師匠か兄弟子相手に稽古をする。そして師匠も兄弟子もそもそも並みの腕ではないのでいつも新左衛門が叩きのめされて終わる。
古縁流の強さの秘密の半分は他の流派には無い薬活にある。修行の辛さを忘れるために薬草を噛み、酷使された筋肉の悲鳴を抑えるためにまた別の薬草を噛む。三度の食事にも薬草は混ざり、その結果、骨も筋肉も神経も常人の域を遥かに越える。
その変化は初の皆伝前の者でも相当に進行している。そのことが新左衛門には分かっていなかった。
雄叫びとともに相手の木刀が振り下ろされた。余りにその動きが遅いので新左衛門は軽くそれをいなして、木刀を相手の手からむしり取ると、その体を投げ飛ばした。
相手が地面に叩きつけられ、顔色を変えた上役たちが慌てて藩医を呼びにいったのを見たときも、何やら悪い夢を見ている心地だった。地面に頭から叩きつけられたぐらいで人間が動けなくなるとは思わなかったのだ。兄弟子など師匠が投げ落とした次の瞬間にはもう起き上がっている。古縁流の稽古ではそれぐらいが普通なのだ。
掴んだ相手の手首が折れていたことは後から聞いた。
次の相手と当たるときは用心した。わざと脱力して木刀を振ってみせた。困ったことにそれでも相手の木刀は弾け飛び、今度も手首の折れる鈍い音がした。
それを見ていた殿様が手を叩いて喜び、これぞ偉大なる豪傑、まさに武士の鑑だと叫んだのは大変にまずかった。
ここに至って新左衛門は途中の試合を跳び越えることが決まり、いきなり準決勝へと出ることになった。
目立ちたくない新左衛門としては大失態である。まさかこれほど皆の剣術が弱いとはと舌を巻いた。予想通りに流派を聞かれたので、幼いころに近所に居た老人から学んだ名もない流派だと答えるのが精いっぱいだった。
準決勝の相手は藩の剣術指南役であることを知り、膝が震えた。指南役はまごうことなき藩の重鎮であり、その背中には権力という名の翼が生えている。これは絶対に勝ってはならぬ。だが情けなくも一撃で負けてしまうのも今後を考えると良くない。ほどほどに戦い、相手に華を持たせる形で負けなくてはいけない。
まず上段に一撃を打ち込み、それを相手が受けた所でこちらの胴に隙を見せる。相手が胴を薙ぎそれをわざと受ける。そこで参りましたとてもそれがしの及ぶところにござらんと大見得を切れば、四方八方うまく収まるのではないかと思った。
先ほど見た試合での相手の木刀の速さなら、腹に気をこめておけばさしたる怪我にもなるまいと見切っていたのだ。
「いざや」
相手が正眼に構えるのを見ながら、大きく上段に振りかぶった。周囲の観客たちが歓声を上げる。
藩の剣術指南役と言えば藩の最高峰の武芸者である。それを相手に大上段など相手を舐めている以外の何物でもないのだが、今まで日陰でのんびり生きてきた新左衛門は大事な所が大きく抜けていた。
新左衛門は気合と共に木刀を振り下ろす。
真っすぐな何の工夫もない太刀筋。
さあ受けろ。
さすがに剣術の指南役だけはあった。素早く上げた木刀で新左衛門の上段からの斬撃を受けて見せた。ただ一つ計算違いだったのは、古縁流の斬撃に籠る膂力の凄まじさである。初の皆伝前の技でも、人間の受け止められるような斬撃ではないのだ。
新左衛門の木刀は相手が受けた木刀を押し込み、一緒になって指南役の顔にめり込んだ。十字に潰れた顔のまま指南役は後ろに無様に倒れ込み、後頭部を激しく打つとそのまま昏倒してしまった。
新左衛門の木刀には血まみれで、相手の歯が数本まとめて刺さっている。
御前試合は大騒ぎになった。
指南役は一命は取り留めたものの、それから長い間床につくことになった。顔に何重にも巻かれた包帯は痛々しく、見る者の同情と、そして密やかな侮蔑を生み出した。剣術指南役のくせに何と無様な。そう皆が蔭で噂した。
御前試合でのことゆえ、正々堂々と戦った新左衛門にはお咎めは無かったが、それはまた別の問題を引き起こした。
面子を潰された指南役一派からの執拗な嫌がらせである。なにぶん藩の重要な地位に多くの知己を持った相手ゆえ、誰もそれを止めることができなかったのがさらに問題を深くした。
おまけにそれらの嫌がらせを世事に疎い新左衛門はそれほど気にしなかったのもよくなかった。結果として嫌がらせはますます激化した。
そしてそれはついに頂点に達した。
*
ある日新左衛門は珍しくも居残りの仕事を押し付けられ、城から退出するのが深夜になってしまった。
提灯を片手に新左衛門が武家屋敷の中を抜ける暗い夜道をほとほとと辿っていると、複数の暴漢に襲われたのだ。いずれも袱紗で顔を覆った侍たちである。手に手に提灯と抜き身の刀を持って新左衛門を取り囲んだ。
総勢六名。
相手が弱ければ新左衛門もその間を駆け抜けて逃げる手もあったが、いずれも相当な腕の使い手と思われて新左衛門は窮した。
襲い掛かる白刃を見て、新左衛門はああいかんこれは死ぬかもしれんなと思った。
考えるより早く左手が動いた。袂から取り出した銭を指で弾く。一文銭が宙を飛び、恐ろしい精度で暴漢たちの眼を打った。厳しい鍛錬の通りに体が動き、目を潰されて怯んだ相手に抜刀した刃を真正面から斬り下げる。
古縁流乱撃、百花。振り下ろした刀を素早く上げてまた切り下ろす。ただそれだけの単純な技なのだが、それを高速で繰り返せる体術にこそ秘密がある。相手にすれば無数の刃が頭上より連続して落ちてくるように思えただろう。
百の花は赤い花。それは全身の傷から吹き出す血のあだ花。たちまちにしてその場に居た全員がただの肉塊へと変ずる。
またまた大問題である。
死体は隠しようがなく、状況から新左衛門を暴漢六名が襲ったのは明らかであった。お目付け役は正しく状況を見分し、六人が指南役の配下であることを調べあげた。
この襲撃の責任を取ってまだ傷が癒えていない指南役は腹を切ることになってしまった。
やはり新左衛門は御咎め無しであったが、それはさらにさらに深い問題の始まりに過ぎなかった。
坂を転がるかのように事件が深刻化する。俺は何て運が悪いのだ。そう新左衛門は嘆いた。
そこに湧いた話が今回の渡航の話である。
*
「金木新左衛門よ。よく来たな。まあ、そこに座れ」
新左衛門を呼びつけた上役は言った。女中が出した茶を軽く啜る。新左衛門にはお茶は無しである。
「こたびのことにお上は頭を痛めておる。そちも同じであろう」
上役は懐から出した書面を広げてみせた。
「そこで此度の仕儀となった。実はこの度、我が藩より中つ国へと一人の僧を送り出すことになった」
「僧でございますか」
「うむ。そちも知っておる通り我が藩には二つの宗派がある。一つは比叡山、もう一つは高野山じゃ。殿が崩御された場合はこの二つが交互に葬儀を取り仕切っておる」
「はは」と相槌を打つ新左衛門。
「困ったことにこの二つは犬猿の仲。この二つが宗門争いなどしようものなら、場合によっては藩が二つに割れかねぬ大事となる。それなのに最近では公道で大っぴらにお互いの宗派を罵る有様にまで発展しておる。そこでじゃ」
上役ははっしと自分の膝を打ってみせた。
「こたび、我が藩の中にある無名の小さな寺より、名高い高僧が出るということがあった。この高僧、二つの宗派の争いに心を痛めておって、何とかならぬかと考えた末、一つの妙案を思いついた」
ここまで聞いて新左衛門は嫌な予感がした。
「かって物語にて有名な玄奘三蔵法師が天竺に行って有難いお経を取って来た古事に習いて、自分も天竺に行ってお経の原本を手に入れてこよう。それによりて長い間の宗派争いにも決着がつくのではないかと提案したのだ」
「て、天竺」新左衛門は仰け反った。
「うむ。実はこの法師の法名も三蔵と言ってな、そこから思いついたのではないかとも思う。いずれにせよ、お経を取って返るまではこちらの宗派争いも保留となるので、話がうまく行こうがいくまいが当藩としては大変に都合がよい」
「先延ばしでござるか」
そう言った新左衛門の言葉に籠る暗黙の非難を上役は無視した。
「実はその線で中つ国の僧たちとも協議を進めた結果、彼らもこの話に乗ることにしたわけだ。どことも宗派間で争いが絶えないのは同じようでな。つまりはどちらの派閥も自分たちに都合の良いお経の原本が欲しいのだ」
「それでそのお話とそれがしに何の関係が」
「うむ。天竺までの道のりはかっての三蔵法師の時代とは異なり相当整備されているのだが、それでも山賊の類がわんさかと出るらしい。そこで、そちの出番だ」
「それがしの出番とは?」
「鈍いの。こちらの三蔵法師のお供をして天竺に行くのだ。そちが護衛をするのだ」
新左衛門はまたもや仰け反った。
「それがしが天竺に」
「これはお上にも裁決を仰ぎすでに決まっておる」上役は冷たく言い放った。
「しかし」
「しかしもカカシもない。それに奇妙な報告が上がっておる。あの闇討ち事件のおり、そちが奇妙な技を使ったというものだ。一文銭を相手の眼に過たず投げる。まるで忍者のようではないか」
新左衛門はどきりとした。しまった。あのときの襲撃犯には暗殺を見届けるための監視役がついていたのか。そうとも知らずに古縁流の技を使ってしまった。
頭に浮かんだのはただ一つ。
師匠に殺される。
「藩の重鎮の間ではそちを幕府の隠密ではないかと疑う向きもあってな。密かに殺してしまえと意見する者も日増しに増えておる。こうなれば噂の真偽はともかく、そちには早急に藩を出てもらわねばならん。言っておくが、この話、断ればすなわち切腹ぞ」
断れるわけも無かった。このままここに残っても、指南役の残党からどこまでも付け狙われるのが落ちである。なによりも古縁流の秘密の技を他者に見られた以上、このことが師匠の耳に入る前に逃げなくてはならない。
異国ならば文句はない。そこまではあの師匠も追っては来ないだろう。
新左衛門は深く頭を下げた。
「謹んで、その仕儀、お受け申す」
2)
出発の準備は慌ただしかった。何より、このままでは跡継ぎが居なくなってしまうと心配する両親には困った。毎日新左衛門が寝ている枕元で泣くのである。
思い悩んだ末、ある日、新左衛門は外に出かけ、一人の女性を連れて帰って来た。粗末な服を着たやや薄汚れた女性である。まるでどこかから流れて来た流民に見えた。両親の前に彼女を連れて行くと、新左衛門は言った。
「我が想い人にござる。腹の中にややこが居り申す」
それを聞いて両親が絶句した。どうみてもまともな女性ではない。それも道理で実はここ二三日で新左衛門が伝手を辿って探してきた適当な流れ者の女性なのだ。腹の中にややこがいるのは本当だが、誰が父親なのかは知らぬ。
「天涯孤独の身の上にて、このまま我が妻として迎え入れるのも問題無きものと存じます。それがしが法師様のお供にて異国に出かけている間、藩がお家を取り潰すことはあり申さぬ。その間に子を産み育てることができれば、それがしが異国にて果てようともお家が潰れることはあり申さぬ」
そこまで話すと見知らぬ場所に来て怯えている女を横に呼んだ。
「ささ、こちらへ。これより先はこのお二方がお前のててさまかかさま。わが身を粉にして仕えるのじゃぞ」
新左衛門は涼しい顔で立ち上がった。
「では出立の準備があるのでこれにて御免」
これは後には親戚一同を巻き込んでの大騒動となったが、新左衛門はそれ以来家には寄り付かず、馴染みの女の家で残りの時間を過ごした。
*
三蔵法師と名乗ったのはまだ若い僧であった。歳は二十歳を少し過ぎたぐらい。この歳で高僧との呼び名が高いとすれば相当な才人であると見た。細身の整った顔立ちの男であり、下手をすれば芝居小屋に居てもおかしくないような美男子であった。
しばらくこれからの旅の予定を話している内にその学識並々ならぬことが分かり、新左衛門は舌を巻いた。なるほどこれでは護衛の一人もつけたくなる。旅先で失うのはまさに藩に取っても寺に取っても大いなる損失というもの。
何よりもこれほどの美男子とくれば、上層部の中の特に奥様方に絶大な人気があるのは間違いない。若い高僧の下に赴き悩み事の相談に乗ってもらっている内に、惚れてしまうというのは良くあること。好いた男のためにあらゆる手を打とうというのは新左衛門が知った女性の本質である。
もっともその気になればどんな女でも思いのままにできる素養はあるのに、当の三蔵法師は少しも色気に興味を示さない。これはまだ手いらずではないかとも新左衛門は思った。法師は新左衛門とはまったく正反対の性格で驚くほど生真面目でおまけに潔癖なのだ。
旅の予定は一端博多まで陸路を移動し、そこで幕府の運営する中つ国への遣明船に乗る。本来国外への出国は厳しく制限されているが、今回のことには幕府も乗り気のようで許可は下りている。中つ国に着いた後は向こうの寺院の世話になる。天竺への西天取経を行う使節団の大部分が中国人の僧侶で構成されていて、三蔵たちはそこに客人として加わる形である。
最後に土井師匠の下へ別れを告げに訪れた。
少しだけ顔を出して帰るつもりであったが、一通り習った技を演じさせられ、師匠にぎろりと睨まれた。
古縁流第十三代伝承者土井雄三は男の目から見ても恐い男であった。上背がある上に肩の筋肉は隆々と盛り上がり、総髪を頭の後ろで適当にまとめている。着る物には頓着がなく破れ目のある古着を平気で着ている。もちろん顔の殆どは手入れしていない髭で覆われていて見た者はすべてぎょっとする。一言で言えば野生化した宮本武蔵という感じである。
そのために殆どの時間は里山の中に建てた粗末な小屋で過ごしている。ただし近隣に出没する熊や猪はすべて叩き殺して食ってしまうため、周辺の村では恐れられていると同時に村の守り手として感謝もされていた。
「修行の手を抜いておったな」土井師匠は新左衛門を咎めた。
「いえ、あの、その」
「異国より帰りたるとき、ここに再び顔を出せ。そのときに月日の分だけ修行を積んでいなければ」
師匠はそこで言葉を切って、強調するかのように言った。
「分かっておろうの?」
ひぃ。新左衛門の唇から小さく声が出た。兄弟子たちがその様をにやにやと見ている。これはいつもの光景なのだ。
「肝に銘じます。頑張ります」
それだけ言って逃げ帰った。もちろん新左衛門であるからには、その場しのぎの嘘に過ぎないのだが。
*
陸路は問題なく進んだ。
三蔵法師を馬に乗せ、新左衛門自身はその手綱を引く形で進んだ。元より足腰は頑丈だ。というより新左衛門がその気で駆ければ、下手をすれば馬よりも速い。もっともそんな事をすればあれは妖怪だとの悪い噂が流れ、大変に厄介なことになるので止めておいた。
行く先々でその地の寺院仏閣に招かれ、宿代わりとすることができた。偉いお坊様が来たというので近隣の者たちが集い、さまざまな法話や相談会が開かれた。新左衛門は傍で聞いているだけでこの三蔵という名の法師が実に深く穏やかな知性を持ち、そして限りなく優しいことが分かった。張り詰めた空気を持った訪問者たちが、帰る頃にはみな人生の何か大事な果実を受け取ったような顔で帰るのがその証拠であった。
やがて二人は本州南端についた。関門海峡を渡るのはさして難事では無かった。渡しの大船に乗り小倉藩の領地に上陸し、博多のある黒田藩までの街道を進む。この街道の詮議は厳しいので有名であったが、三蔵法師の名は先に伝えられていたので何の問題も無く進めた。藩の通知もあったが、道々立ち寄った寺院のもつ交流の力の方が強かった。いずこの藩の役人も多かれ少なかれどこかの信者なのだ。
博多から乗船し、五島列島の奈留湾を介してそれなりの規模の船団になった所で、明へと出航することになっている。いわゆる遣明船団である。日本海の荒波を越えるには天候を正しく読み出航しなくてはならない。ここでしばらくの間は風向きが良くなるまでは逗留である。
そうして奈留湾にある旅館に滞留していると、同じく故郷から来た連中からおかしな噂を聞いた。
それは藩の重鎮の何人かが殺されたという話であった。それも普通の死に方ではなく、頭の先からつま先まで全身を真っ二つに切り裂かれての死である。あまりの凄まじい死に方にこれは何か化け物の仕業ではないのかとも言われていた。どう見ても人が成せる技ではなかったらしい。
新左衛門には誰がやったのかはすぐに分かった。
土井師匠である。
恐らくついに師匠の耳に新左衛門の不始末が知れたのだ。そして新左衛門が使った古縁流の技の秘密を守るために、秘密を見たと思しき者たちを皆殺しにしているのだ。
それがすべて済んだ後は、当然自分だ。そう考えると新左衛門の腹が冷えた。迂闊にも古縁流の秘技を軽々しく漏らしてしまうような弟子はその手で殺す。師匠ならあり得る話であった。師匠は新左衛門がこの世でただ一人心底恐れる男なのだ。
さあそうなると新左衛門は気が気ではない。船団が出発するのは今日か明日かと気を揉み始め、廓の女性の肌に這わす手もどこか上の空になってしまった。今そこの襖をけ破り、怒髪天を突いた師匠が現れるのではないか。そう思うと勃つものも勃たなくなってしまった。
そんな有様であったから、風が変わり、船団がいざ出発となったときの新左衛門はまさに天にも昇る心地であった。
助かった。からくも死の顎から逃れた。その安堵感は今までに得たどの快感よりも素晴らしいものであった。
だが十日の船旅は、新左衛門にとっても三蔵法師にとっても大変に辛いものとなった。
そう、船酔いである。日本海の荒波は実に強烈な船酔いを引き起こす。
十日の間吐き続け、体重が三貫目ほど落ちたところでようやくに陸地に着いた。陸地に降りるとすぐに新左衛門は地面に腹ばいになり大地に接吻をして、その様を三蔵法師に窘められることになった。
寧波の港でしばらく過ごして体力を回復した後に、一行は北京へと向かった。 北京は中国一の大都会で皇帝のおわします帝都でもある。すでに前回の遷都より百数十年が経っていて、新旧様々な建物が都市の中でその威容を競っていた。 そこで三蔵法師一行を待っていたのは聞いていた話を遥かに越える規模の大商隊で、これには今回の西天取経の一行の他に朝貢の返礼品を運ぶ部隊が加わったためと分かった。
三蔵たちは皇帝へのお目通りを許され、そののち出発の準備が整うまでこの都で二週間を過ごすこととなった。
三蔵法師は大伽藍に入りびたり、そこの僧たちとの議論に加わって日々を過ごした。
新左衛門はやることが無いので、商売女たちの居る場所を見つけ出し、そこにしけこんだ。三蔵法師は中つ国の言葉を話せたが、新左衛門は違う。だがそれでも言葉も文化も違う場所にすぐに馴染んでしまうのがこの男であった。
*
大商隊が出発する前の夜は新左衛門は中国人の賭場で過ごした。朝になる頃には白熱した勝負は佳境に達し、最後は伸るか反るかの大勝負になった。手持ちの金を全て賭け、その結果派手に負けてしまった。目の前で回収されかけた大金を素早く自分の懐に掻きこむと、新左衛門は賭場の用心棒の顔を蹴り飛ばして逃げ出した。
これぞ新左衛門の奥の手、秘技賭場荒らしである。もちろん古縁流の技ではない。
その気になれば普通の人間の用心棒など新左衛門の相手にはならない。手に手に刃物を持って追いかけてくる連中を素早く振り切ると、大商隊の列の中に潜り込んだ。
「新左衛門。どこに行っていたのです。危うく置いて行く所でしたよ」
三蔵法師が厳しい声で咎めた。
「すみません。法師さま。少々野暮用がありまして」
「また女ですか。少しは自重しなさい。あなたは僧ではありませんが、これはあくまでも御仏に仕える西天取経の旅なのですから」
「今後気をつけます」しらりと新左衛門は嘘をついた。
手に手に武器を持った賭場の連中が大商隊に近づきかけて、護衛の兵たちに追い返されるのが見えた。
当然だ。運んでいる荷物は国が所有する高価な返礼品だ。暴漢が傷一つでもつけたら護衛の首が飛ぶ。あっと言う間に追って来た連中は蹴散らされ這う這うの体で逃げていった。
心の中で舌を出しながらもしおらしい顔で、新左衛門は三蔵法師につき従い進んだ。
3)
旅は長く続いた。行く先々で返礼品を運んでいる小さな商隊が本隊を離れ、それぞれの目的地へと向かう。そのたびに本隊は段々と小さくなっていき、最後には西天取経の僧たちの一行のみとなった。
ここから先の道は明国の管理下にはなく、周辺の各国が独自に繋いでいる交易路を辿るようになる。中国語も通用しなくなると、新左衛門は素早くその国の言葉を覚えていった。
この点では新左衛門には特別な才能があったようだ。なにせ言葉ができねば色街で遊ぶことも、旨い物を食うことも、酒を買うこともできないのだ。それでは旅の楽しみが半減してしまう。その意味では新左衛門は人生で初めて必死の努力というものを知った。
そうなると自然と三蔵法師も新左衛門を通訳として頼るようになる。二人の関係は最初思ったよりもうまく行っていた。
砂漠の国。山だけの国。ごろた石だけが転がっている国。地面に掘った穴の中の水だけが頼りの国。奇妙な風俗に不思議な生活。黒い肌や白い肌の人間もときおり見かけるようになってきた。奴隷もいれば貴族や王族もいる。他の国から来た隊商たちともすれ違った。木々の様も変わり、今まで味わったことのない果物も食べられるようになった。初めてラクダを見たときは度肝を抜かれた。
一行は行く先々でその街の主から歓待された。街に着く遥かに前から出迎えの者たちが待っている。街の者たちはこぞってこの使節団を歓迎し、街の僧侶たちもこの偉大なる使節団の目的を称えるために訪れた。三蔵法師も目の回るような忙しさであっちの講義に出かけたりこっちの集まりに顔を出したりと引き回された。
新左衛門もまた忙しかった。あっちの賭場からこっちの娼婦館へと渡り歩く。酒場で一日飲んだくれているかと思えば、次の日には僧房の寝床にいきずりの相手を引きずり込み、これを三蔵法師に見つかり大目玉を食らったりした。
三蔵法師と新左衛門では新左衛門の方が十歳は年上なのだが、いつの間にか三蔵法師には頭が上がらなくなっていた。三蔵法師は深い学識に加え、穏やかかつ真摯な性格のお蔭か使節団の中でも一目置かれるようになっている。
もちろん新左衛門とてまったくの役立たずというわけではない。
一度街を出て荒野の奥へと入ると、様々な贈り物を携えた使節団は山賊に取っては絶好のカモである。どこに行っても使節団は狙われた。そんなとき、新左衛門の働きは目覚ましかった。使節団には国がつけた護衛の兵士たちが同行していたが、新左衛門ほど強い男は他にいなかった。
文字通り嵐のように襲いかかる山賊たちの集団の真ん中で剣風を吹かすのだ。新左衛門が刀を一振りするたびに、山賊が一人、死体に変わる。気が付けば周囲一面の血だまりの中に新左衛門一人が生き残っている有様になる。
だんだんと使節団の一行の中での新左衛門を見る目が化け物を見るような目に変わっていった。しかしそれを押しとどめていたのが三蔵法師の人徳である。新左衛門がどんなに恐ろしい化け物でもあの三蔵法師にだけは頭が上がらないとの見方で許されたのである。三蔵法師さえ居れば新左衛門を怖がる必要はない。
言わば新左衛門は三蔵法師のお供として隊商の中に存在を許されていたと言える。
古縁流がこれほど強いとは新左衛門は思いもよらなかった。そもそも古縁流では他流自流問わず、無闇な戦いは禁じられている。その理由は新左衛門が知らぬ古縁流の縁起にあるのだが新左衛門はそれを知らない。だから初めて知った自分が強いという事実により、新左衛門が少しばかり好い気になっていたのは否めない。
古縁流には初、弐、参そして終の皆伝の四段階がある。初の皆伝直前だった自分でもこれほど強いとすればその先まで進んだ伝承者はいったいどれほど強いのだろうと考えると新左衛門は身震いがした。
土井師匠に教えて貰ったことがある。
初の皆伝は忍者の技が多く取り入れてある。それはあくまでも人間を相手にするための技なのだと。手裏剣などの投げ技が多く存在するのもこの皆伝の特徴だ。
弐の皆伝は力と技をさらに推し進めたものだ。それでもあくまでも剣技の範囲であり、一般の剣士が稀に到達するかもしれない領域の技なのだ。
そして参の皆伝は古縁流の刀の扱いに習熟したものの技で、傍目に見れば冗談のような技が多いとのことだった。刀というものは刃の向きと斬撃の軌道が見事に一致しないと切れないのが通常である。だが参の皆伝に達したものはどのように刀を振ろうが必ず切れるほどの修行を積んでいる。その「切れる」を前提として組み上げられたのが参の皆伝技である。
参の皆伝に達した者は刀を振るうときに風切り音がしない。本当に風を「切って」いれば風切り音はしないのだと、参の皆伝伝承者の土井師匠は語ることがあった。
終の皆伝は古縁流の究極の皆伝だ。その皆伝は真面目に修行を積めば到達できるものではなく、できる者にはできるができない者にはどれほど努力しようができないというそういう類のものらしい。
終の斬撃は硬い岩でも鉄でもお構いなしに切り裂くことができ、終の突き技は野辺のススキの茎をぴくりとも揺らすことなくその中心を貫くことができるという。もはやここまでくればお伽噺か仙人かという世界である。
もちろん新左衛門自身はそれを信じてはいなかった。どの流派も多少は自分たちのことを誇張するものだ。
*
不毛の限りを尽くした砂漠と荒地を越えると、今度は低山地方へと差し掛かった。短い丈の草が見渡す限りに山を覆っている。その山肌を白い何かの動物が歩き回っている。
「三蔵さま。見たことのない動物がいますぜ」新左衛門は声をかけた。
「見たことは無いだろうけど、お前も良く知っている動物ですよ」と三蔵法師が答える。
え、とつぶやいて新左衛門は目を凝らしたがやっぱり見覚えがない。新左衛門の問いかける視線を受けて、微笑みを浮かべて三蔵法師は答えた。
「十二支に出てくるでしょう。あれが未ですよ」
「未・・」新左衛門は驚いた。確かに羊は十二支ではおなじみの動物だ。だが日ノ本自体にはいない動物でもある。たまに今年は未歳だからと絵馬に描かれることもあったが、それは大概が山羊を写したものに過ぎなかった。
「あれが本物のヒツジ。なるほどこれは珍しい」
「後で食事に出るかもしれませんよ。ヒツジの肉が。聞いた話ではとても美味しいそうです」
「あれ、法師さまは肉は食べられないのでは」
「そんなことはありませんよ。自ら行う殺傷は戒律で禁止されていますが、差し出されたら別です。お斎は残さず食べるのが礼儀というものです。お釈迦さまもそう述べておられます」
「へえ」新左衛門は感心した。
この街でも盛大な歓迎が行われた。
この時代、よほどの大都会でも無ければ娯楽というものは非常に乏しい。使節団の到来は予め通知はしてあるので、こういった珍しい事件を見逃す者はいない。
街の名士たちが道の両側に並び、各伽藍の僧たちが出迎える。その内の何人かは一行に加わることになっていて、また一行からも何人かがこの街に残るという形で、結果として隊商の人数はそれほど変わらない。
すでに北京を出発してから半年は経っている。残りの旅程は後半年で、その後に天竺の大伽藍で写経の作業が行われることになっており、これが約二年かかると見積もられていた。もっとも三蔵法師が向こうでもっと多くの教えを学びたいと言えばその期間は延長されるわけで、当然新左衛門もそれに付き合うことになる。
そろそろ故郷が恋しくなってきてはいたが、かと言って故郷に帰ればそこには土井師匠という鬼よりも恐ろしい存在が待っている。
どうして古縁流の技を他人に見られたぐらいで自分が殺されねばならないのかという不満はあったが、文句を言っても何も始まらない。自分が何を言ってもあの師匠が考えを変えるわけがないのは分かっていた。
もしかしたらお師匠さまがこの異国にまで自分を追って来ているのではないか。そう思うことがしばしばあり、その度に新左衛門は腹の底がずんと冷えるような不安を感じた。
この広い荒野をざんばら髪を乱しながら、鬼の形相のお師匠さまがどこまでも追ってくる。そんな夢を見て夜中に何度飛び起きたことか。
その不安を払拭するかのように、三蔵法師の厳しい監視の目を逃れて、行く先々の賭場に潜りこみ、行く先々の娼婦館にしけこんだ。好きなだけ飲み食いして、それから使節団の出発の日に支払いをすべてを踏み倒して逃げるのだ。
手に手に刀や槍を持った街の荒くれ者たちに追われながら街を逃げ出していくのが新左衛門の日常となった。そうして使節団の一行に追いつくと、何食わぬ顔で護衛役を務めるのだ。
悪い噂が広まる速度は光よりも速い。たまに伝え聞く話に悩まされるのは三蔵法師の役目であった。
4)
その日は新左衛門は一行から離れ、街の外れで珍しくも日向ぼっこをしていた。
三蔵法師のそばに居ると、やれ阿頼耶識やら末那識やら訳の分からぬ議論に巻き込まれてしまう。それが新左衛門にはたまらなかった。
三蔵法師の学識は高いが、この法師にはもっと人々の日常に関する悩みに対処して欲しいと新左衛門はそう思っていた。その方が法師はもっと多くの人々を救えるのではないかと感じるのだ。阿頼耶識の在り方がどうであれ、人々の苦しみがそれで救われるのだろうか。いや、偉い人々がそう判断しているのだから間違いはないのだろう。だが真の救いとはもっと分かりやすくそして単純なものであるのではないかと新左衛門は直感しているのだ。
傍目からは午睡にしか見えないが、そんなことを考えての日向ぼっこである。
「おじさん、何しているの?」
道を横切った子供たちが新左衛門への疑問を口にした。変わった服を着ているので一目みれば異国の客だと分かる。
「別に何も。お日様と風が気もちいいでな」
旅の間にすでに言葉は二度ほど変わっているが、新左衛門は何とか普通に話せていた。むしろ言葉がほとんど通じないのに、経典を前にするとこの国の僧侶と難しい議論ができてしまう三蔵法師の方が驚きである。
「ここでうたた寝すると百匹目のヒツジに遭うから気をつけなよ」
百匹目のヒツジ?
初耳だ。
「そりゃいったい何だい?」新左衛門は当然の疑問を口にした。
子供の説明によると、百匹目のヒツジとはここの住人の間で恐れられている呪いだということだ。
まず夜眠るときに、ヒツジを数えたくなる。ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、という具合にだ。そして知らぬ間に眠りに落ちる。だが次の日もそれは続く。今度は十匹まで数えて眠る。さらに次の日は二十匹だ。
ところがこのヒツジを数える行為は止まらないのだ。本人がどれだけ止めたくても、どうしても羊を数えてしまう。そして数えるヒツジの数はどんどん増える。そしてついには五十匹目に達する。
五十匹目のヒツジだけはそれまでとは違う。そのヒツジは夢の中で立ち止まるとこう告げるのだ。
「気をつけよ。百匹目のヒツジは怖いぞ」
さらにヒツジの数はどんどん百に近づいてゆく。うなされる本人をどれだけ他人がゆすろうとも起きはしない。それどころか水をかけても起きないのだ。
九十八匹目のヒツジは怯えた顔でこう警告する。「気をつけろ。奴はすぐそこまで来ている」
九十九匹目のヒツジの警告はこうだ。「すぐ逃げろ。奴が来る!」
ここまでであやうく夢から覚めた者はいる。だが、百匹目のヒツジに遭った者はいない。翌朝、寝床の中で冷たくなっているのが見つかるから。
「何と。恐ろしい呪いであるな」
ちっとも怖がってもいない癖に、しらりと新左衛門は言ってのけた。
子供たちが去ると、新左衛門はまた物思いにふけりだした。
*
その日は珍しく素面で宿に戻ると、三蔵法師が憂鬱そうな顔で出迎えてくれた。
「新左衛門。私は気が重いのです」
「あ、あの、違います。今日は一滴も飲んでいません」
新左衛門はしどろもどろで言い訳した。寝床でゆっくり飲もうと思って酒を買って来たことは内緒だ。
「そうではありません。実は街の長老会から奇妙な依頼を受けたのです。私ならば解決できるのではないかと。ああ、彼らは私に何を期待しているのでしょう」
「依頼ってどんな?」
「百匹目のヒツジという話を知っていますか?」
え、と驚いた新左衛門の表情を三蔵法師は素早く読んだ。
「知っているのですね。ならば話は早い。最近この辺りで流行り始めた百匹目のヒツジの呪いを私に解いてくれというのです。彼らもさんざんに悪魔払いの儀式はやったようですがまったく効き目がない。日ノ本という異国から来た僧ならばもしやと考えたようです」
「はあ」
「すでに何人もが死んでいるそうです。その中には街の有力者のご子息も含まれていて大騒ぎになっているようです」
新左衛門はこの話を子供の戯言と捉えていたがそうではないようだ。実際に死人が出ているとなると笑えない。
「はあ。それで法師さまはお祓いができるのですか?」
「お祓いは密教系の技法ですね。一応お祓いの次第も一通り学んで来てはいるのですが、それが効くかどうかとなると自信がありません」
「大変ですね」新左衛門はあくまでも他人事だ。
「そこでお前も同行して欲しいのです」
「でもそれがしはお経の類は何もできませんが」
「それでも構わないのです。正直なところ、猫の手にも縋りたい気分なのです」
「はあ、分かりました」新左衛門は猫の手真似をして見せて言った。「にゃあ」
*
よろしくお願いしますとその男は頭を深々と下げた。お辞儀という作法はどこの国に行っても変わらないのだなと新左衛門は思った。
「お止め下さい」
三蔵法師は厳しく言った。それからわけが分からないという顔をしている新左衛門に言った。
「この国ではお辞儀というのは人ではなく神に対して行うものなのです。恐らく使節の一人が私のことを間違って伝えたのでしょう」
いくつかやり取りがあり、男の寝所に案内された。夢を見るのが怖くてここ数日寝ていないとの話であった。今日は偉いお坊さんが見守ってくれるというので、安心したのか男はすぐに眠りについた。
「ヒツジが一匹・・」男がつぶやいた。夢を見始めたらしい。
「始まりましたね」
三蔵法師は新左衛門に目配せをした。
打合せ通りに新左衛門が男を強くゆさぶった。だが男は幸せそうに眠り続けている。そしてその間にもどんどん数が進む。
「ヒツジが四匹・・」
壺に入った水を頭からかけてみる。やはり起きない。次にその水を男の耳の穴に垂らして見る。それでも起きない。瞼をこじ開けてみたが、別にこれという変わったものは見つからない。眠っている男の白目に睨まれただけだ。ついでに新左衛門がその白目を舐めてみた所で三蔵法師にやりすぎだと怒られた。
「これがこいつの悪戯なら、さすがにこれで起きると思ったのですが」
新左衛門は言い訳した。
「ヒツジが十五匹・・」呟きは続く。
ついに新左衛門が業を煮やした。
「法師さま。こいつの頬を張り飛ばそうと思います」
「やりなさい。新左衛門」
てっきり止められると思っていた新左衛門は拍子抜けした。すぐに気を取り直すと、男の胸倉を掴んで頬を左右に張り飛ばした。歯の一本が折れ、血の筋を引きながら宙に飛んだ。
「やりすぎです。新左衛門」三蔵法師が再び咎めた。
「や、これはしまった。力を入れ過ぎた」新左衛門は頭を掻いた。
古縁流における薬活ありきの修行は恐ろしい結果を生む。強化された膂力もその一つだ。立ち居振る舞いに十分に注意しないと周囲の普通の人間は容易く怪我をする。
驚いたことにそれでも男は起きなかった。相も変わらず羊を数え続けている。
「これは病ではありませんね。恐らく彼らが言う呪いというのは当たっています」
三蔵法師が感想を漏らした。
「何かの文献で夢術と言うのを呼んだ覚えがあります。こうして羊を数えるのは術の進行を助けるためでしょう。一つ数える度により深い術の掌中に落ちていくのです。百匹目を数えたとき術は最高潮に達し命を奪う強さになるのでしょう」
「術ですか。で、これはどうすれば破れるのです?」
新左衛門は眠ったままの男を見つめたまま言った。
「これが術だとすれば何かの術の焦点がこの部屋にあるはずです。窓も扉も閉まっている以上この部屋は一種の結界になっています。まず間違いなく、術の焦点はこの部屋の中にあります」
「焦点ですか?」
「つまり依り代です」
新左衛門は部屋の中を見回した。壁際には壁飾り。寝床の横には机が一つ。その上には雑多な小物。寝室なのだ。その他には大したものは置いていない。
「依り代を破壊するのです。新左衛門。ここにあるものをすべて破壊するのです。躊躇ってはいけません」
もちろん新左衛門は躊躇わなかった。この人物の神経はそこまで繊細ではない。
鞘から抜かないまま刀を振り回した。古縁流で主に使う戦国大太刀は故郷に置いてきてしまったが、ごく普通の日本刀は持って来ている。
机の上にあった小物はことごとく打ち砕いた。その後に机自体も真っ二つにした。壁飾りも寸断し、寝床の足も折り取った。
物を叩き壊すそら恐ろしい騒音がしたが、それでもまだ男は眠り続けている。
「ヒツジが九十七匹」苦しそうに呻く。
「これで全部ですか。新左衛門」
「全部です」
三蔵法師は男の体をまさぐりだした。寝間着の下に何かないかと探し始める。
「ヒツジが九十八匹」
「法師さま」
「何もありません」
「羊が九十九匹」
男の顔は脂汗でびっしょりだ。その汗は頭の下の枕にまで浸み込んでいる。三蔵法師ははっと気づいた。
「お師匠さま」
「枕です。新左衛門。枕を壊しなさい」
新左衛門は枕を蹴った。宙に浮いた枕を刀が捉える。枕の中身が弾け飛んだ。
「わぁっ!」男が跳ね起きた。痛む胸を抑えて蹲る。
「どうやら術は解けたようですね」三蔵法師が言った。
*
「まさか枕とは」
三蔵法師と二人だけになってから新左衛門は感想を漏らした。
「古い文献にあります。寝ているときには人の魂は枕の中に宿ると。その枕をいきなり切ったりすると夢見ていた人は死ぬと」
「でもあいつは死にませんでしたよ」
「それはね。新左衛門。どんな術者かは知りませんが、そいつは枕の中に入り込み、あの男の魂を絡めてとって夢術を行っていたのですよ。だから枕を壊したことで術は破れ、術が破れた代償は枕を支配していた術者に返ったはずです」
「そんなもんですか」
「そのようなものです」
「その術者はまた来るでしょうか?」
「来るでしょうね」
「そりゃまた一体どうして」
「それはね。新左衛門。よく考えてご覧なさい。
この術の破り方を知っているのは私たち二人だけなんですよ。しかも破り方は至極簡単。術にかかった人の枕を蹴り飛ばすだけなんです。ということは私たちが生きている限り、この大層な術は意味を失います。
貴方ならこんなときどうします?」
「秘密を知った者を殺します」ぶすりと新左衛門は言った。「つまりまた来るというのはこちらの方に狙いを変えるという意味ですか」
確かにそうだ。新左衛門もつい最近、同じ目に遭っている。というより遭わせている。古縁流の技の秘密を垣間見たために藩の重鎮たちは殺されている。
後から聞いた話をまとめると、狙われていると気づいた藩の重鎮は腕に覚えがある浪人たちを自宅に集めたようだ。そしてその結果、一人で済むはずの犠牲が、そこに集まった全員へと拡大した。すべては秘密を守るため。
「いいですか。術の始まりは羊の一匹目です。一晩で百匹目まで進行することはない。そなたも夢には注意して、羊が出たらお互いに教えあうのです。そうすればすぐに命を取られることはないはずです」
「心得ました」
新左衛門の顔は暗い。術の破り方は分かったが、まだ問題が解決したわけではない。犯人を見つけないといけないのだ。
*
今や見知ったものとなったヒツジはこちらをその奇妙な瞳でみつめると、備え付けてある柵を跳び越えてみせた。
「ヒツジが一匹」呟いてみる。
次のヒツジは前のものより少し大きく見えた。同じように柵を跳び越えてみせる。
「ヒツジが二匹」
次のヒツジは素早かった。柵に突進すると見事に跳び越え、瞬く間に消えた。
「ヒツジが三匹」
そこではっと気が付いた。寝床で目を覚ます。周囲は暗い。まだ深夜の時刻だ。
ついに来たか。そう思った。だがまだ三匹目だ。最初はこんなものか。
躊躇わずに三蔵法師に相談した。
「そうですか。ついに始まりましたか」
三蔵法師はどことなく嬉しそうに見えた。
「あの。三蔵さま」
「何です?」
新左衛門は恐る恐る訊いた。
「何だかとてもうれしそうに見えるのですが」
「ああ、その通りです。私は楽しんでいるのですよ」
「私が夢術に狙われていることをですか」
「ああ、違いますよ。もちろん」三蔵法師は幸せそうなため息をついた。
「私が西遊記を好きなのは知っているでしょう。その中に描かれる玄奘三蔵様の姿に長い間自分を重ねていたのです。今回のこの西天取経の旅を提唱したのもそれが理由の一つです。
見たことのない異国の景色、異国の食べ物、異国の人々。それらはすべて西遊記の世界を思わせるものでした。でもただ一つ、物語の世界にはあって現実にはないもの。それが妖怪でした。
そうそう。もう分かったようですね」
三蔵法師はここまで喋ると、にっこりとほほ笑んだ。
「妖怪がいたのですよ。神通力も存在したのです。私たちは西遊記の世界に居るんです。それが私には殊の外うれしい」
「それがしにはまったく理解できません」
いや、理解してたまるものか。新左衛門はそう思った。三蔵法師さまのことは心の底から尊敬しているが、この趣味にはついていけない。
「そうですね。これは羊の絡んだ妖怪ですので、西遊記で言うならさしずめ羊力大仙に当たるのでしょうか。
まあ、それは別にして、対策を練りましょう。今日からは一緒に眠ることにしましょう。新左衛門が羊を唱え始めたら私が枕を蹴るというのはどうです」
「一生それがしと二人で生きていくつもりですか」やや呆れながら新左衛門は言った。「策を練りましょう」
新左衛門は自分の考えを説明した。
*
次の日の夜。またもや羊が現れた。
五十匹目のヒツジは立ち止まってこう言った。
「気をつけよ。百匹目のヒツジは怖いぞ」
「待て。その百匹目はどんな奴なんだ」思わず訪ねてしまった。
これには五十匹目のヒツジは面食らった。
「言ってよいものかどうか。ただ我らの中で一番体が大きい」
「それ以外には? 一目見て分かるのか?」
「それを言えるわけがなかろう。俺に聞くな」
「なんだ。つれない奴だな」
五十匹目のヒツジは肩をすくめると消えた。その後のヒツジは会話に参加する気はないようで、そそくさと柵を跳び越えて消えた。
七十二匹目で夢から覚めた。
「続きはまた明日ですね。ただ明日は街の長老会に呼ばれていますので夜になるまで私はいません。新左衛門。私が帰るまで決して寝てはいけませんよ」
「承知仕りました」
*
次の日は朝から三蔵法師が出かけたので、一日中刀を研いで過ごした。古縁流は戦国大太刀というとんでもなく大きく重い刀を使う。この刀は腰に差して歩けるようなものではないので、それを持ち運ぶには背中に担ぐしかなかった。旅に持ち歩くのは不便なので、代わりに新左衛門はごく普通の日本刀を持って来ていた。
新左衛門自身は古縁流の伝統にはさほど敬意を払ってはいなかったのだ。戦国大太刀を使うにはそれを使うだけの必要性、つまり十二王を殺すには普通の刀では重さが足りないという事実を、まだ新左衛門は知らなかった。
刀身に自分の姿が映るようになるまで研ぎあげると、軽く振ってみる。その刀身を柵に見立てて、羊が一匹跳び越えた。
夢が始まったのだ。
しまったと思った。
まだ三蔵法師が帰って来ていないのに、夢が始まった。本人が眠らなくても夢術を始められるとは知らなかった。いやそれともうかと居眠りをしてしまったのか。新左衛門は必死で足掻いてみるがどうにもならない。夢術は自分では脱出できないのだ。
二匹目、三匹目と続いた。こうなると後は三蔵法師が間に合うように帰って来ることを祈るしかない。きっと三蔵法師は長老連中に捕まって歓待を受けているのだろう。
四十二、四十三・・五十。
そいつは言った。
「気をつけよ。百匹目のヒツジは怖いぞ」
「助けてくれ」新左衛門はダメ元と思って言ってみた。
「できぬ相談だ。俺もこの術の一部ぞ」
「ではせめて百匹目がどんな恐ろしい姿をしているのかだけでも教えてくれ」
「くどい。それはできぬと言うたはずぞ」
「今夜で百匹目まで行くのであろう。ならば死ぬ逝く者への手向けとして、教えてくれても罰は当たらぬぞ」
五十匹目のヒツジは躊躇った。
「分かった。特別だぞ。あいつの毛は真っ白だが、その中の一本だけ赤い毛になっている」
聞きたかったのはそういうことでは無かったが、教えてくれただけでも有難い。
「かたじけない」新左衛門は礼を述べた。
それから後もじりじりと羊たちは数えられに来た。柵を羊が飛び越える度に、どうしても「ヒツジが・・」とつぶやいてしまう。
「ヒツジが九十八匹・・」
とうとうここまで来てしまった。そのヒツジは立ち止ると怯えた顔でこう告げた。
「気をつけろ。奴はすぐそこまで来ている」
「どんな姿なんだ?」
「すぐに分かるさ」
次のヒツジが跳んだ。
「ヒツジが九十九匹・・」
そのヒツジも叫んだ。
「すぐ逃げろ。奴が来る!」
「逃げられればそうするわい」新左衛門は悪態をついた。
いよいよと覚悟を決めた。夢の中でもいつも手元にあった刀を引き寄せる。
何か大きなものが目の隅から現れ始めて・・。
「新左衛門! 起きなさい!」
三蔵法師の声とともに枕が蹴り飛ばされた。一瞬で目覚めた新左衛門は手にしていた刀を鞘から引き抜くと、まだ空中にある枕を突いた。
悲鳴。
怒号。
雷鳴。
静寂。
穴の開いた枕から何か黒い物が飛び出し、窓を破って飛び出した。
「危ない所でした」三蔵法師が冷や汗の浮いた顔で言った。
「どの時点で帰って来たんです?」
「九十八匹目でした」
とすると今夜の仕儀は相当危ない橋だったわけだ。新左衛門も今更ながら冷や汗が出て来た。
「それよりも新左衛門。今飛び出て行ったものを追わないと」
「駄目です。外は暗闇です。暗闇の中の戦いは人間には分が悪い」
「でも逃げてしまいますよ」
「大丈夫だと思います。見つける手段は手に入れました」
新左衛門は三蔵法師を促した。
「さて、後は明日の朝として、今夜はもう眠りましょう。この部屋の窓は壊れてしまったから法師さまの部屋で寝ましょう」
今度は朝まで夢も見ずに深く眠れた。
5)
朝食を済ませると三蔵法師を伴って外に出た。新左衛門は山肌に見える白い点の群れを指さした。
「恐らく奴はあそこで放牧されているヒツジの群れの中に紛れています」
「私もそう思います。術というものは近ければ近いほど強く働きますから。でもどれが本体だかは見分けが付くのですか」三蔵法師は心配そうだった。
「体の大きいヒツジです。真っ白な体毛の中に、一本だけ赤い毛が混ざっているそうです」
「そんなこと誰に聞いたのですか」
「夢の中のヒツジにです」
呆れ顔の三蔵法師を放置して、ずかずかと前に進む。できれば三蔵法師は部屋に残していきたかったが、そうもいかない。三蔵法師は物見高いのだ。その顔がどことなく微笑んでいるように見えるのは気のせいか。
三蔵法師の歩みに合わせてゆっくりと進む。緩やかな登りをこなすにつれ、ヒツジたちの姿が大きくなっていく。
「ずいぶんたくさんいますね。いったい何匹いるんだろう」と新左衛門。
「百匹ですよ」
「数えたのですか?」
「どうしてこの夢術の名前が百匹目の羊なのか分かりますか?
これも術の一環なのです。馬鹿馬鹿しいことですが、術を強化するにはこういった辻褄合わせが必要なのです」
「そんなもんですかね」
「そのようなものなのですよ」
三蔵法師は博識とは言え、畑違いの夢術を正しく捕らえている。一を聞いて百を知る。世の中にはこういう人もいるものだなと新左衛門は感心した。
やがて羊の群れの場所にたどり着いた。鳴き声が耳につく。白いもこもこの毛の塊が新左衛門たちを一斉に見つめた。
「手分けして探しましょう」
「では私はこちらから」
二人は群れの左右に別れ、順に念入りに羊を調べていった。一匹二匹つぶやくさまは、まるで夢術にかかっているようだ。
やがて群れの中央で二人は合流した。
「あれ。いませんね」と頭を掻きながら新左衛門。「当てが外れてしまった」
「いいえ。見事に正解ですよ。私の側の群れにいました。赤い毛が一本生えた羊が」
「どこです!」
「しっ。気づかれないように。今からその羊の下に案内しますから付いてきてください。私は武術の心得が無いので、きちんと守ってくださいよ」
「承知」
羊の群れを刺激しないように二人はそろそろと進んだ。少し進んだ所で三蔵法師は一匹の羊を指さした。
「こいつです」
「でもそう大きくはありませんよ」
「小さくなるように化けているのでしょう」
ああ、と合点して新左衛門はその羊の前に立った。腰の刀をすらりと抜き放つ。
「法師様は離れていてください」
その羊は新左衛門を見ると小さく鳴いた。
「騙されぬぞ。貴様が羊の振りをしようがどうしようが、それがしはお前を切る。なあに間違っていたとしても一頭分の羊の代金を払えば済むことだ。それに・・」新左衛門は後を続けた。「・・羊の肉は旨い。それがしは大好物にござる」
気合と共に刀を打ち込んだ。
その羊は素早く頭を振ると、角で刀を弾き、ずうと立ち上がった。
まるで人間のように。
化け物羊の体が膨らみ始め、元のものの二倍ほどになる。
「どうして俺だと分かった」化け物羊は人語を喋った。
「貴様、気づいていないのか。臭いんだよ。鼻が曲がるほどにな。そりゃ自分の臭いは自分では判らぬも道理」
新左衛門はしらりと嘘をついた。それを聞いた化け物羊が嫌な顔をするのを見て、なんとなく満足した。新左衛門にはこうして相手を揶揄う癖がある。
「まあいい。物は相談だ。お互いここで相手を見なかったことにして別れるというのはどうだ?」化け物羊が提案した。
「断る」新左衛門は断言した。「貴様はここで殺す」
「どうして? お前は俺に含みがあるわけではあるまい」
「貴様は今までに多くの人々を殺している。そしてこれからも殺すだろう。それが理由だ」
「他人を救うために自分の命を捨てるというのか」
「他人ではない。自分を救うためだ。いま貴様を逃がしたら、またそれがしを狙うだろう。それが済んだら次は法師さまだ。なにせお前の夢術の秘密を知っているからな。生かしておくわけにはいくまい」
「何を言う。これからはお前たちを狙ったりはしない」
「嘘だな」新左衛門はにやりと笑った。「それがし、他人の嘘だけはすぐ分かる」
いきなり羊の前腕が振られた。新左衛門は素早く横に飛び、強烈な一撃を化け物羊に見舞った。
むう。新左衛門は唸った。手ごたえがない。まるで雲を切るようなというより、刀の刃が何かの表面を滑っているように感じる。
「気づいたか」
化け物羊がにやりと笑った。羊の顔のままでの人間に似せた笑いは恐ろしく不気味であった。
「ワシの体を覆う毛はいかなる刃物も通しはしない。これこそが未の王たるワシの神通力よ」
「未の王が何かは知らんが、それなら俺にも手はあるぞ」
新左衛門は刀を鞘に納めると、鞘ごと太刀を構えた。
「これなら通用するであろう」
言うが早いか鞘に包まれた刀を叩きつけた。それは未の王の肩に当たったがそれだけだった。未の王が刀を払いのける。
「効かぬわ。お前ごときひよっこ剣士が殴ったとてどれほどのものか」
未の王が突進し、新左衛門は弾き飛ばされた。地面に倒された拍子に手から刀が離れてしまう。三蔵法師が前に出ようとしたが、それで何がどうなるものでもない。
「さあ踏み殺してやるぞ」
未の王は後ろ足だけで立ち上がると、大きく両の前足を振りかぶった。
死んでたまるかとばかりに新左衛門が尻を地面につけたまま後ずさりする。
その時だ。黒い実体を伴った一陣の突風が吹いて来たのは。強烈な衝撃と共に未の王の上体がぐらりとよろめいた。
新左衛門の上に一人の男が立っていた。薄汚れた着物を着て、さらに全身砂埃だらけだ。切りそろえていない蓬髪が風に揺れている。よく見知った顔だ、と思う間もなく新左衛門の背筋に冷たいものが走った。
「お師匠さま!」悲鳴だった。
「まったくこんな所まで逃げるとは、手間をかけさせおって。この馬鹿弟子が」
その男は文句を漏らした。手に二貫目はある抜き身の戦国大太刀を握っている。
「だが、でかしたぞ。新左衛門。未の王を見つけ出したはそなたの手柄だ」
「ええと。あの」
新左衛門には何が何だか分からなかった。先ほどから会話に出てくる未の王とは何のことだ。
「するとお師匠さまはそれがしを殺さないので?」
「その話は後だ。楽しみに待っておれ」と、つれない返事。
師匠は未の王に向き直った。
「古縁流第十三代伝承者土井雄三。未の王に堂々と勝負を挑む」
「いにしえ・・えにし・・だと」未の王がさも憎々し気に言った。「お前らの手を逃れてこの国にまで逃げて来たのに、いったいどこまでしつこいのだお前らは」
「それが因果というものよ」
土井師匠は大太刀を上段に構えた。
「一刀両断にしてくれよう」
「できるものか。子弟ともどもここで死ぬが良い」
未の王が突進した。土井師匠の大太刀が天空より落ちて羊の頭を打つ。その瞬間、大羊は体を丸め、背中で太刀を受け止めた。
「む。切れぬ」
土井師匠がつぶやいた。
「お師匠さま。そいつは刃物が通じませぬ。殴れば多少は通るようですが」
「馬鹿者。それを早く言わぬか。この粗忽者め。ならば、この手だ」
くんと刀が天を目掛けて伸び、それから頭上に上げた肘の後ろへと垂れる。
「参の技。打鼓天」
静寂であった。
土井師匠は刀を振っているのに、風を切る音はしなかった。何の力を入れているようにも見えぬ刀が、丸まったままの大羊の背に静かに落ちる。
そこで生じた大音響を新左衛門は落雷かと思った。大羊の背中がへこみ、体が地面に叩きつけられてからまた跳ね上がった。そこにまた次の打鼓天が炸裂し、また次、また次と尽きることなく刀が叩きつけられる。
参の皆伝斬撃技、打鼓天。それは相手の皮を一切傷つけることなしに、内側を痛めつける衝撃を生み出す。一撃ごとに肉が弾け、骨が砕け、神経が引きちぎられる。それは剣の理に沿っていて、なおかつ剣の理を無視しているように見える矛盾した技である。
「な」
未の王はそこまで言うことしかできなかった。
体が地面に叩きつけられてまた跳ね上がる。そこにまた強烈な衝撃が加わり、地面に叩きつけられる。未の王は毬の如くに大地と大太刀の間で跳ね回った。
逃げる余裕はなかった。前足といい後ろ足といい、背中といい腹といい、遠慮呵責無しに恐ろしい力で叩かれた。角が砕け散り歯がすべて折れ眼球が飛び出す。内臓が破れ砕けた骨の砕片が肺に突き刺さる。自慢の無敵の毛皮に囲まれて、内側はただの肉塊へと変じた。
土井師匠が手を止めたとき、そこに転がるのは羊毛に包まれたひき肉でしかなかった。
「古縁流第十三代伝承者土井雄三。未の王を討ち取ったり」
土井師匠は名乗りを挙げた。
大太刀を地面に刺すとそこに顎を載せ、じろりと新左衛門を睨んだ。
「技の秘密を漏らしてはならぬ訳が分かったか。我らの流派には十二の宿敵が居る。もしこの未の王が打鼓天の技を知っておったら、我らに歯向かうことなくあっさりと逃げておったろうよ。今度はもっと遥かな遠い異国の地へとな」
「私が悪うございました」
新左衛門はそれはそれは実に見事な土下座をした。今は謝るほか手はない。
遠巻きに二人を見ていた三蔵法師が事が済んだと見て近づいて来た。
「これ、新左衛門や。このお方はどなたかな。紹介してください」
「それがしの剣の師匠の土井先生にございます。そしてこちらは西天取教に向かう三蔵法師さまにございます」
そこまで言ってから新左衛門ははっとした。土井師匠が三蔵法師を睨んでいる。
「三蔵殿。今の戦いを見たかの?」師匠は問いかけた。
冷たい声であった。新左衛門が止める間もなく三蔵法師は答えた。
「はい。最初から最後まで。見事な技。この目でしっかりと見させていただきました」
沈黙が落ちた。遠くで風の吹き渡る音だけがする。残された羊たちでさえ、鳴くのを止めている。
「お師匠さま。このお方は駄目です。世界が失ってはならぬお方です。それはやってはいけません」
新左衛門は二人の間に割って入るとまた土下座した。
「どうか、我が命に代えて、このお方だけは」
「新左衛門よ。お前はこのワシを殺人鬼か何かだと思っているのか」
失望を含んだ冷たい声であった。そうではないのですかと答えかけて新左衛門は慌てて言葉を飲み込んだ。これを言えば間違いなく殺される。
「ワシとて人を見る。このお方ならば大丈夫であろう」
それから三蔵法師に向き直った。
「今見たことは人が知ってはならぬ秘事。誰にも言わないと約束してくだされ」
「分かりました。誰にも言いません」三蔵法師は即答した。
「それと今一つ。金木新左衛門はその性、強欲怠惰にして己を律するということを知らぬ。磨けば光る原石なれど、磨かれることを嫌う原石でもある。これよりこの不肖の弟子を破門する。代わりに貴方様がこ奴を弟子にして導いてもらいたい」
「あの、その」
自分には預かり知らぬ所でまたもや物事が進行しようとしている。新左衛門は慌てた。
「お前は黙っておれ」ぴしゃりと土井師匠は諭した。
「返答は如何に」
三蔵法師はしばらく考えていたが漸く答えた。
「分かりました。引き受けましょう」
「安心しましたぞ。よろしく頼みます。もうお分かりとは思いますが、粗忽ながら根は善い奴なのです」
土井師匠は溜めていた息をふうっと吐いた。
「やれやれ。自分の弟子を手にかけずにすんだわ」
それから大太刀を鞘に納めながら横を向いた。
「新左衛門!」
こっそりと逃げようとしていた新左衛門は凍り付いた。
「今申した通りにこのお方の弟子となり、天竺まで旅をせよ。そして日本に無事にお連れせよ。
途中でこのお勤めを捨てたりしようものなら、今度はどこにいようと。例えあの空に輝くお日様にまで逃げようとも、このワシが必ず探し出して仕置きをするからそう思え」
「へへぇい」
新左衛門は平伏した。長い間そうしていたが、恐る恐る顔を上げてみたときにはすでに師匠は去った後だった。
「しかし良かった。もしあの未の王が斬撃だけではなく打撃も効かなかったら打つ手がなくなるところだった」
僧房の部屋に戻ってようやく人心地がついた新左衛門が感想を漏らした。
「それは無理というものですよ」
三蔵法師は自分の考えを述べた。
「夢術と斬撃無効。どちらも根は一つの神通力です」
「ええと」新左衛門は訳が分からないという顔をした。
「未の王の本来の神通力は『分離』なのでしょう。斬りつけられた傷を本体から分離して無かったことにする。己の魂を分離して相手の枕に入り込む。
しかし神通力と言えども無限ではありえない。これら性質の異なる二つの方向に一つの神通力を振り分けたためにどちらも中途半端になってしまったのです。つまり分離できる傷は切られた傷だけ。そして夢術を完成させるには相手にヒツジを数えさせないといけない。だからこそ夢術は破られ、そして土井師匠の技により負けたのです」
ここまで説明すると三蔵法師は話題を変えた。
「さて、新左衛門や」三蔵法師は口を開いた。「これよりお前は私の弟子となった。今後は怠らず仏道に励むように」
「あの、それがしはまだ弟子になるとは」新左衛門は慌てた。
「おや? 土井師匠。まだ何か」三蔵法師が新左衛門の後ろを見ながら言った。
新左衛門は跳びあがった。背後に慌てて向き直り、間髪を入れずに土下座した。
「お師匠さま。それがしは何も」
そこまで言い訳してから絶句した。後ろには誰もいなかったのだ。
「諦めなさい。新左衛門や。いまさら弟子にはならぬでは済まないことは、お前にも分かっているでしょう」
新左衛門は観念した。その様を見て三蔵法師は満足そうに微笑んだ。
「ではお前に法名をつけねばなりませんね」
しばらく考えた。
「よし。これからお前に八つの戒律を授けます。それを持って今後お前は八戒と名乗りなさい」
「あの、その」
「一つ、酒は飲まぬこと」
「法師さま」
「師匠と呼びなさい。二つ、博打はしないこと」
「師匠。ご勘弁を~」
「三つ、夜遊びはしないこと・・」
ここから新左衛門改め法名八戒の苦難は始まった。
こうして羊力大仙は滅んだ。新しい三蔵法師とそのお供の八戒の旅が成功裏に終わったかどうかは、また別のお話である。