1)
古縁流第十二代継承者藤原藤兵衛は放浪癖の持ち主で、免許皆伝後に日本全国をぶらりと彷徨った。
時は秀吉が天下人となり覇を唱えていた時代である。戦国の世の終幕の予感を胸に抱えて、日ノ本の国は嵐の前の静けさと言うべきものに浸っている。
ほとんどの場所では平和を楽しむ人々で溢れていたが、それでもまだ一部では暴乱が民を容赦なく巻き込んで暴れている。
藤兵衛自体は他人の戦などに加わるつもりはなく、その日その日の気ままな暮らしを楽しんでいた。
古縁流免許皆伝とは言っても次世代の育成自体には藤兵衛は関わっていない。ごくたまに才能のある若者を見つけた場合はまだ現役を続けている師匠の下に送り込むようにしている。
こうしてぶらり旅をしているのは藤兵衛が師匠の顔を見たくないというのもある。師匠に会うたびにそろそろ腰を落ち着けて古縁流の師範になれと毎回のように説教されるのである。
大名家の重鎮をやっている藤兵衛の兄もまた煩い。こちらは身を固めよとの鬼のような催促である。そして兄の口利きで共に主君に仕えよとの勧めである。
風が吹くように旅をして暮らしたい。見たことのない風景を求めて彷徨いたい。一所に留まるのはどうしても息が詰まる。それが藤兵衛の偽らざる気持ちであった。
ましてや宿敵十二王との終わりのない戦いを続けるのが古縁流の定めだとすれば、いったい何のための剣術なのだ。強くなり自由に生きるのが剣術の目的ではないのか。藤兵衛はそう思っていた。
つまるところ藤兵衛は自由人であり、古縁流の伝統には縛られてはいなかったのである。
*
いい湯だった。
藤兵衛は露天風呂に入っていた。そこそこ大きな露天風呂である。周囲はほぼ自然のままだが、今は使われていないと見える煮炊きのための小屋が一つ横に建っている。本来ならここで酒やつまみを作り、客に出すものと見えたが今は無人だった。
湯は少し上の岩の間から湧き出ていて、湯煙を上げながら岩の間の水路を通って温度を下げながら露天風呂に流れこむようになっている。
他に客はいない。藤兵衛は肩までどっぷりと湯に浸かると、手ぬぐいを絞って頭の上に置く。
湯治場は寂れていた。少し下がった場所に寄せ合うようにして小さな宿屋が十件ほど。飯屋が一つ。それも今では賑わいがない。
湯治場に客がいないのである。
そこではやつれた顔の住人が数人、暗い表情で俯いて暮らしている。 それでも露天風呂だけは立派だった。豊かな湯量をそのまま岩でせき止めて作ったものだ。たっぷりの湯がもうもうと湯気を上げていて、その先は川へと流れ込んでそのまま消えるのが贅沢であった。
この湯治場が寂れたのにはある訳があった。それは藤兵衛がここに来た原因でもある。
藤兵衛は熱い湯も好きだが、ぬるま湯にいつまでも浸かっているのも好きだった。だから仕事を早く片付けようと思った。
ざぶりと湯の中で立ち上がる。
「そろそろ出てきてもいいんじゃないかなあ」と周囲に声をかける。
それに応じて湯煙の中に人影が涌いた。
総勢六人。いずれも小汚い着物を着たむさい男たちだ。月代も綺麗に剃っていないどころか伸び放題の蓬髪だった。全員が手に手に武器を持っている。
野武士、あるいは野盗。
ある日、この湯治場に流れてきてそのまま居ついた連中だ。
「なんでえ。わかっていたのか」野盗の一人が言った。
「それだけ殺気が駄々洩れなら馬鹿でもわかる」
「確かに馬鹿な野郎だな。それならどうしてあのぶっとい刀を置いてきたんだ。お前はこれから死ぬんだよ。財布の中にはどれぐらい入っている?」
藤兵衛はかかかと大笑いした。
「そりゃおめえ、刀ってのは鉄なんだぜ。温泉なんかにつけたら錆びちまうだろ。それ、うぬらの刀も湯煙なんか浴びているとすぐ錆びるぞ」
「とぼけた野郎だぜ。これが怖くないのか」男の一人が手にした刀を振り回す。
藤兵衛は自分の顎に手を当てた。
「怖いかと言われてもなあ。俺は今までに何かを怖いと思ったことがないんだ。どうやら俺の頭には何か大事なものが欠けているようでな」
「ふざけた野郎だぜ。おい、みんな、こいつを刻んじまえ」
「ああ」藤兵衛は続けた。「そりゃ無理だ」
そう言いながら、藤兵衛はざぶりと湯から上がる。だんだん藤兵衛の全身が見えてくるに従って、その大きさが分かる。
大男ではあるが巨躯というほどではない。だがその肉体はまるで鋼の塊りだった。贅肉の類は一切ついておらず、発達した筋肉が鎧のように全身を覆っている。それは肉でできているはずであったが、果たして刀の刃が通るのかどうかも怪しい鉄の塊を想像させた。
ついに湯から上がった藤兵衛は手拭いを手に持っただけの全裸だ。
男たちの視線が藤兵衛の股間に集中した。無理もない。
「でけえ」一人が思わず呟いてしまった。衝撃を受けたという口調だ。
「何を驚いている。お前らも股座にぶら下げているだろう」藤兵衛が揶揄う。
「くそっ。てめえを殺したらそのご自慢のものを切り取ってやるぜ」
一人が前に出た。白刃を振りかざす。
「得物が無ければ手も足もでねえだろう」
「得物ならここに」
藤兵衛は手にした手拭いを手の中で素早くキリキリと巻いた。
わあっと叫び声をあげ、男の一人が湯の中の藤兵衛に切りかかる。
パンと小気味の良い音がして、男の刀が宙に飛んだ。先ほどまで刀を握っていた男の右腕が変な角度に曲がっている。くるりと手拭いが宙で回転し、つんのめった男の首の上に落ちる。
まるで太い棒で殴られたかのように、昏倒した男が湯舟に落ちる。
「ほい、湯が汚れる」
藤兵衛が腕を伸ばして男の襟を掴むと背後に投げ飛ばした。
男の体が宙を飛ぶと地面に激突して転がる。いくら藤兵衛が大男とは言っても、片腕で大の大人を棒切れのように投げるのは信じられない光景だった。
「次!」藤兵衛が言った。
残った五人の野盗が後ずさりをする。
一人が先駆けて逃げようとした。藤兵衛の体が動き、あっと言う間にその男の後ろに立っていた。
「ほい」手拭いが振られた。パンと音がしてその男が地面に倒れる。
「野郎!」逃げられないと知って、残った男たちが一斉に飛び掛かった。
くるりと手拭いが回り、男の顎を叩くと一撃で男が昏倒した。
手拭いが刀の峰を叩くと刀が折れる。
手拭いが足に触れると足が折れる。
手拭いが腕に当たると腕が折れる。
一瞬で全員が地に伏した。
倒れた男たちをずるずると引きずって一方に寄せると、藤兵衛はまたもやざぶりと湯舟に浸かった。
ああ、いい湯だ。
そう呟いた。
*
「これは些少ながら」
下村の宿の主は紙に包んだ金子を差し出した。薄い。中に入っているのはせいぜいが二両だろう。野盗六人の退治代にしては破格の安さであるが、藤兵衛は文句を言わなかった。振りではなく、金額の多寡などまったく気にしていなかったのだ。
「や、これはかたじけない」
がはははと大きく笑うと、藤兵衛はその金子を衒いなく懐に収める。
金額の少なさに藤兵衛が怒るのではないかと思っていた宿の主人がほっと安堵の息を漏らす。小さな湯治宿なのだ。それほど実入りがあるわけではない。
「あの湯治場の者はワシの親戚筋ですじゃ。このご時世ですから野盗があちらこちら徘徊しております。その一つが居つきましてなあ。前は怪我に良く効く秘湯ということで客で賑わっておりましたが、すっかりと寂れてしもうて困っておりましたで」
「あのようなものがごろごろしておるとは今のご政道はどうなっておる?
いや、山から山へと巡っておったのでとんと世事に疎くてなあ」
藤兵衛は訊いてみた。
「はあ、豊臣太閤さまが今は天下人というのはご存じですな?
お陰様で戦乱も収まりつつありますが、各地の大名家に潜り込めなかった野武士たちがあのように野盗へと変じておるとは聞いております」
「ふむ。困ったものだのう。おお、嫌だ、嫌だ。こんなことならもうしばらく湯に浸かっておれば良かったな。もっとも見知らぬ他人と湯にはいるのもあまり好きではないなあ」
「藤原様。お一人での湯治がお好みならば、先ほどの湯治場のもっと奥にさらなる秘湯があるという話です。なにぶん途中の道行が険しいので平地の民は近寄りませぬ」
「ほう、そんな所があるのか」藤兵衛の目が輝いた。
「絶景の中の露天風呂という話です」
「なるほど」
では明日から出かけてみようという話になった。
2)
自分でも物好きだなとは思ったが急ぐ旅でもなし、藤兵衛はぶらりと山奥の秘湯に出かけてみた。
古縁流の修行者に取っては山駆けは基本的な修行の一つである。藤兵衛にとってもそれは同じで、何ら苦労することなく険しい山を駆け上った。あの温泉を下に見て、川の横を遡る。もちろんここにあるのは人が通ることのできない獣道だけだがそれは問題ではない。
岩も木も崖も気にせずあらゆるものを踏みつけて飛ぶように駆け上がる。知らぬ者が見たならば山中にて天狗に遭ったと思ったことだろう。
以前に亥の王たる大猪に遭ったときのことを思い出した。よもやまたあれが出はしないかとも思った。終の皆伝技はあれ以来何度も試したのだが再現することはできず、もはや藤兵衛は習得を完全に諦めていた。別に終の皆伝技など無くても困るものではないと自分を慰めていた。
その内に目の前の景色が開け、目的の露天風呂に行きあたった。露天風呂とは言っても人間の手は入っておらず、自然が作り上げた湯でできた大きな溜め池とでも言うべきものだった。湯煙が立ち上り、温泉の周囲の木々は湯気のせいか元気がない。
「ここか」
さっそく藤兵衛はその場で裸になった。湯の温度を確かめ、ざぶりと浸かる。
ふううう。思わずため息が出た。実に気持ちが良かった。
「これは良い。とても良い」
眼前には赤くなりかけている紅葉が茂り、その合間から眼下の谷が見える。そこから吹き上げる冷たい風が火照った頬に心地よい。
荷物から濁酒の詰まった大きな瓢箪を取り出し、ぐびりとやった。続けて荷物から引きずり出した干し芋をつまみにする。
「おう、おう。これは極楽だのう」
思わず独り言ちる。
しばらく湯を楽しむ。ざあざあと川へと流れ落ちる湯の音が心地よい。風が吹く。紅葉が舞い散る。干し芋を食いちぎり、また濁酒を呑む。
それを繰り返す。すでに藤兵衛の頬が赤くなっている。まるで紅葉が降りかかった際にその赤味が映ったかのようだ。
ふと湯煙の向こうに影を見た。すわまた例の山賊か何かと身構えたが、よく見るとそれは小さかった。
猿。そう見てとった。猿が湯に浸かっている。
「おう。これは先客がいたか。気づかなんだわ。そうか、お主、この湯の主か」
藤兵衛は干し芋を差し出した。
「湯の代金じゃ。食わんかな?」
猿は手を伸ばすと干し芋を受け取り食い始めた。
藤兵衛は手近を探して、何かの木の実の殻らしきものを見つけた。その中を湯で洗うと、濁酒を注ぎ込んでこれも猿に差し出した。猿はこれも受け取り、ぐびりと飲んでみせた。
藤兵衛は手を叩いた。
「おう、おう、お主、いける口ではないか」
干し芋と酒が尽きるまでこの奇妙な宴は続き、やがて日が暮れる前に藤兵衛は山を下りた。
*
次の日、自分でも物好きだなと思いながらも、藤兵衛は食い物と酒の入った大甕を抱えてまた温泉へと出かけた。
やはり猿は温泉に浸かっていた。
その目の前に食い物を並べ、酒の大甕と盃を置くと、藤兵衛もざんぶと湯に浸かった。干物を取り上げると口に運び、まずは一杯とぐい呑みを傾ける。
思わず声が出た。
「おう、いつもながら良い湯よの」
猿が答えた。
「確かに良い湯だ」
藤兵衛の片眉がわずかに上がった。
「なんだ、お主。喋れるのか。名は何という? 俺は藤原藤兵衛だ」
「妖怪相手に名を名乗るのは間違いぞ」猿が指摘した。
「なに構わんよ。俺の名前はどこに出しても恥ずかしくはない名前だ」
藤兵衛が空とぼける。
妖怪に名を知られてはならぬというのは、名がその者の真髄を表すという思想からだが、藤兵衛は名前というものにそこまでの思入れを持っていない。名前など自分の持ち物、要らぬなら捨てれば良い。心底そう思っていた。
「それもそうだな。儂の名はトクチだ。十の口と書く」
「面白い名前だな。十の口。お主、そんなにお喋りなのか」
そう言ってから藤兵衛は腕を組み、しばらくしてから言った。
「分かった。『申』という文字を分解したのだな。十に口と書くからだ」
自分の言葉通りに空中に文字を描いてみせる。
「ほう、良く分かったな。そしておヌシも分かっておろうが儂はただの猿ではない。神通力を持つ十二王の一柱、申の王だ」
「ふむ。やはりか」
そう呟きながらも藤兵衛はもう一杯飲む。
「驚かぬのか?」
「驚いておるよ」ちっともそう思わせない口調で藤兵衛は答える。
「午の王に聞いてな。お主、亥の王岩鉄を殺した古縁流の伝承者であろう」
「亥の王とはあのでっかくて硬い奴か。確かに俺が殺した」
「では今度は儂と遣り合うかの?」
「やらんよ。俺はここに湯に浸かりに来たんだ。それともお主も人を殺して食っているのか?」
「馬鹿を言え。そのようなことはせん」
改めて藤兵衛はざぶりと肩まで湯に浸かる。
「ならば構わん。湯に心行くまで浸かって酒を飲もう」
しばらく猿は藤兵衛を見ていたが、自分も食い物を取りぐい呑みを手に取った。
「馳走になるぞ」
「おう、心行くまで食ってくれ、飲んでくれ」
「変わっているのう。おぬし」トクチが感想を漏らした。
「お主ほどではないよ」藤兵衛は軽口を叩いた。
その二日後、二人は剣を交えた。
と言っても木の棒を剣に見立てての他愛もない試合である。ひょんなことから申の王が剣術に興味を持っていることを知り、藤兵衛から持ち掛けたのだ。
二合三合と打ち合う内に、藤兵衛は面白くなってきた。藤兵衛は古縁流参の皆伝者だ。剣に関しては並みの剣士の遥かに及ばぬ領域にいる。申の王は神通力の持ち主だが、その力は剣の方面に伸びているわけではない。だがさすがに人間よりも遥かに長く生きている十二王一柱だけはあり、中々に手ごわかった。
藤兵衛は下段に来た攻撃を手にした棒で素早く流しながら、猿の頭の位置に棒を振り降ろす。その棒が届くより前に猿は跳び、返しの一撃を入れてくる。
面白い。猿の剣はきちんとした剣術を学んだ者の動きではない。だがその動作は鋭く、しかも理に適っている。山奥でただ一匹、工夫に工夫を重ねたのだろう。それが藤兵衛にはたまらなく面白かった。
日々が過ぎて行く。紅葉が散り始める頃まで藤兵衛と猿の試合は続いた。それは半分は真剣勝負であり、半分はただのじゃれ合いであった。
ある日、一人と一匹で湯に浸かりながら申の王トクチは訊いた。
「儂の剣術をどう思う?」
こういうとき藤兵衛は何の衒いも無く正直に話す。それが相手に対する礼儀だと知っているからだ。ここまでの猿との試合はすべて藤兵衛が一本取っている。
「かなり良いと思う。特にその小さな体躯と強い跳躍力は一対一で相手にするにはとても厄介な剣だ。もう少し、正式な剣術を学んで基礎に組み込めばもっと良くなるだろう」
「ふむ。やはりそうか」トクチは猿風に腕を組んでみせた。
「だがお主の剣術は複数を相手にするのは向かない。あくまでも一対一の剣だ」
「欠点があると申すのか」
「その通り。問題はお主の腕の短さだ。大勢に囲まれるとどうしても、腕の長さの差で相手の間合いに取り込まれてしまう。それが致命的となる。そしてそれは腕を長くすることができない以上は刀の長さで補うしかない。だがそうすれば当然剣の速さが遅くなってしまう。となると大事なのは最初から複数の敵と相対しないことであろうな」
「ふむ。分かった、心得ておこう」
これが古縁流ならば手裏剣術を併用することで弱点を補うこともできる。手裏剣術は相手が多くなればなるほど威力を発揮するからだ。だが猿の体の構造では投擲という動作そのものが困難であることを藤兵衛は理解していた。
「ところで」藤兵衛は話題を変えた。
「お主の神通力、それは読心であろう」
初めて申の王は驚いた顔をした。
「分かるか?」
「分かるとも。これだけ打ち合っていれば。お主の動きは目で見て動いているにしてはちと速すぎる」
「確かにそうだ。儂の神通力は目の前にいる相手の心を読むことができる。ただし、表に出ている考えだけだ」
むしろここまで申の王の神通力の秘密を知っていて、それを心の表に出さずにいた藤兵衛こそ驚きだ。藤兵衛の心の中は限りなく広く、そして穏やかだ。それなのに今のように突然真相を暴く言葉が浮き上がってくる。
こやつはいったい何者なのかと、申の王は思った。今までにこのような男に出会ったことは一度しかない。それは古縁流の開祖と呼ばれた男だ。あれも不思議な男だった。
猿の王の考えも知らぬげに藤兵衛は続けた。
「あまり良い神通力ではないな。ほら、何かこう、手から酒を出す神通力とかはないのか?」
「そんな神通力は聞いたことはないな」
「それは至極残念」
藤兵衛が本気でそう考えていると知って申の王は呆れた。
神通力一つ手にいれるのに数百年の歳月がかかる。それなのに、どこの世界に酒を出す神通力を望む馬鹿がいるのか?
いや、この男がもし長い修行の果てに神通力を身につけたなら、案外そういったものを選ぶのではないか。そのようにも感じた。
藤兵衛は湯から上がると、体を拭いた。
それからまた数日が経ったころ、温泉宿の主人が近頃の世相についての話をしているのを藤兵衛は小耳にはさんだ。
時代は太閤殿下豊臣秀吉が聚楽第に入った頃だ。この頃には天下の争乱も終結の兆しを見せ始め、街中も落ち着き始めていた。人々は百年も続いた戦乱にほとほと飽きていて、平和を求めていたのだ。
藤兵衛が街に降りたがらないのは、この大きな体の背中に運ぶ戦国大太刀のせいでもあった。見る者が見れば藤兵衛が只者でないことはわかる。そのため、どこを歩いていても、うちの兵にならないかと声をかけられるのだ。
またそうではなくても、この頃には傾奇者と気取った連中が道で張っていて、誰彼となく喧嘩を売るというのが流行っていた。武芸の腕を宣伝するためだ。
それが煩わしくて藤兵衛は街には極力近づかないようにしていた。
もともと仕官がしたければ大名家の良い地位にある兄に口利きを頼んでいただろう。堅苦しい生活が嫌いで放浪の旅に出ているのだ。仕官などは藤兵衛がもっとも嫌うところだから勧誘の声を掛けられても応じないし、それで喧嘩に発展することにもうんざりしていた。
しかしそういった殺伐とした雰囲気も落ち着いて来たとなれば街は魅力的だ。旨い食い物に酒、そして綺麗な女子が集まるのが街と言うもの。
うむ。では久方ぶりに街に降りてみるか。藤兵衛はそう決心した。
次の日、十合も申の王と打ち合った後に、湯から上がりながら藤兵衛は言った。
「もう分かっておると思うが、俺は明日から街へ降りてみようと考えている」
「風が呼ぶのか?」
「一つ所に長居するのは性に合わなくてなあ」
「そうか」
猿も湯から上がった。
「では儂もついていこう」
これにはさすがの藤兵衛も驚愕した。
「何を驚いている。儂は山にも棲めるし、街にも住めるぞ」
「想像もしなかった。しかし街中を猿が歩いていると目立つぞ」
「それなら大丈夫だ。おぬしが猿飼いを名乗ればよい。何、喋らなければ儂が申の王と見抜く者はおらぬよ」
「そんなものかな」
「そんなものだよ」
「しかしトクチ殿。そなた、家族はおらぬのか。一人で出かけてよいのか?」
「儂に家族はおらぬよ。昔はおったが皆死んでしまった。それ以来、家族は作っておらん」
「死んだ?」
「みんな、歳を取ってな」
「トクチ殿、そなた何歳になる?」
「千歳を越えた頃からは数えてはおらぬ」
「何と! 千歳。そんな長生きをする動物がいるとは!?」
「十二王はな、どういうやり方かは知らぬが、ある日突然なにかに選ばれるのよ。選ばれた者は歳を取らぬようになり、長く生きるに連れて神通力を得る。そうして十二王が誕生するのよ」
「どえらい話だな」
「長い生の間に色々なことをやったよ。猿の群れの大頭となったこともあるし、一人で山に籠って里に出没しては妖怪と呼ばれたこともある。家族を作って百匹の子供たちに恵まれたこともある。だがそのすべては儂よりも長くは生きられなかった。とうとう最後に独りぼっちになってしまって、こうして山から山へ渡り歩いている有様よ。長く付き合っている相手は同じ不老長寿である十二王だけとなってしまった」
申の王トクチは寂しげな表情をした。それを見て、藤兵衛の心は同情でひどく傷んだ。たった一人で生き続けるのはどれだけ寂しく辛いことであろう。そう感じたのだ。それは放浪癖のある藤兵衛も同じで、好きで彷徨っているのだが、それでもたまらずに夜に一人で星空を見ながら長い間じっとしていることもある。
好きで選んだ孤独でもやはり辛いことは辛いのだ。それでもその生き方を変えることはできないと藤兵衛は断じていた。
申の王の場合は好きで選んだ不老長寿ではないのがさらに哀れを誘う。
藤兵衛の心の中を覗いていたトクチはその思いの深さに衝撃を受けた。ここまで自分に共感してくれた相手はここ数百年いなかったのだから。
「まあそういうわけで、儂は自由だ」とトクチは締めくくった。
「ならば心置きなく出かけるとしよう」藤兵衛は答える。
そういうことに決まり、翌日、一人と一匹は山を下りた。
3)
藤兵衛は細い山道を軽い足取りで飛ぶように降りていく。その逞しい肩の上に乗っているのは申の王トクチである。
この時代はまだ髷を結う者は武士のみで、身分上は浪人に当たる藤兵衛は蓬髪のままで通している。藤兵衛はその蓬髪を頭の後ろで結んでいるので、トクチはそこを掴んで自分で平衡を取っている。トクチ自身は人間の少年ぐらいの体格である。藤兵衛は大男なのに加え、隆起した筋肉がその体を隙間なく覆っているために、その肩の上に乗ったトクチがまるで肩乗りの小猿であるかのような錯覚に陥る。
やがて藤兵衛は里山に至った。構わずに下って行き、その先に街の家々の屋根が見えるようになった頃に藤兵衛は足を止めた。
「さて、街で暮らすには金がいるな。どうやって稼ぐか」藤兵衛は腕を組んだ。
山賊退治で儲けた金も元々が余り多くは無かったので、心もとない。
「金か。人間たちが言う所の金は儂には良く分からん」申の王が申し訳なさそうに言った。
「まあ力仕事でもやればそこそこ稼ぐことはできるがな。それもつまらん」
藤兵衛の頭に一つ良い案が浮かんだ。
「トクチ殿。少し俺に力を貸してはくれぬか」
「また悪いことを考えるなあ。おヌシは」トクチが藤兵衛の心を読んで呆れた。
「そう褒めるでない」
「褒めてはおらぬ」とトクチが返す。
がっはっはと豪快に笑い飛ばして、藤兵衛は街へと足を踏み入れた。
お目当ての賭場を見つけるのには時間がかかった。
戦国時代の末期にして江戸時代の直前のこの時代。賭博の主流は双六と賽子であった。
双六は盤双六と呼ばれるものである。最古の遊戯とも言われ、2個の賽子を振ってお互いの駒を進めて戦う遊戯である。運と知性の遊びであり上流階級に好まれたのだが、この遊戯に領地まるごとを賭けてその結果すべてを失うものが続出したために、時の政府により弾圧禁止まで受けたという経緯がある。
一般人はそのような頭脳を必要とすることはせずに賽子をツボに入れて振る賭け事に興じた。
だが賽子賭博は手ごろですぐに結果が出るので人気であったが、一つ欠点があった。
イカサマがし易いのである。
イカサマ賽子は言うに及ばず、壺振りは自分が狙った目を出して初めて一人前の世界である。要は胴元の差配一つで勝ち負けはどうにでもできるのである。
だからきちんと仕切られた賭場で一見さんが大勝ちすることはできないし、客に見せかけたサクラが混ざっている場合は、賭場の金をすべてそのサクラが掻っ攫って終わりになることもある。
そこで極々一部で行われたのが後の世に手本引き呼ばれることになる賭博であった。札師が六枚の数札の中から一枚を選んで場に出し、その数字を客が当てるという賭博である。
この賭博が完全に確立するのは江戸末期になるが、それを遡ること三百年前に遡るこの時代にもその原型と言えるものがすでに出現している。
それが藤兵衛の狙い目であった。これなら申の王の神通力を使えば、藤兵衛は大勝ちできる計算になる。
*
その賭場は公家屋敷であった。戦国時代の末期には公家の力は衰退し武家が台頭している。公家のかっての勢いは失われどれも窮乏の内にあったが、それでもその名家としての格式は今もなお残っており、各地域を抑えている大名の手の者も公家には滅多に手を出さなかった。そのため上客を捕らえている親分衆は公家の屋敷の離れを借りて夜中に賭場を開くことが多かった。
ここもそうした賭場の一つであり、俗称であるが大納言賭場と呼ばれていた。この辺りの賭場の中では最大のものである。
客の出入りを見張っている敷張と呼ばれる若衆が、肩の上に猿を載せた藤兵衛をじろりと睨む。
この賭場に来る客は金銀を懐に抱えた上客が多い。古びた着物を着た藤兵衛はいかにも怪しげに見えるので賭場の方でも警戒する。特に藤兵衛は上背がある上に、背中に最近では滅多に見ないような大太刀を背負っている。つまりは怪しさが満杯である。
「お客様。行先をお間違えでは?」
若衆が声をかける。言葉は丁寧だが声には脅しが籠っている。
「いやな、ちょっと一回だけ勝負がしたくてな。田舎ばかり回っておったので、こんな立派な場に一度来てみたかったのだ。なに、迷惑はかけぬ。この懐の金子を一度張ってそれで負けたら笑いながら帰る。それだけよ」
藤兵衛が、がははと笑うと辺りがぱあっと明るくなったような気がした。藤兵衛の人の好さがにじみ出るような笑い方だった。思わず敷張若衆は座敷の方へと案内の手を伸ばしてしまった。
「あちらになります。竹の盆でお打ちくだせえまし。梅と松の盆は商人の方用なので近づかないようにしてくだせえ。それとお刀は途中で若い衆に預けていただきやす」
「承知承知。いや、かたじけない」
肩の上の猿を撫でながら、この大男が公家屋敷の裏門をくぐる。
後で上の者に叱られるかも知れぬなと思いながらも、敷張若衆はその後ろ姿を見送った。近頃稀に見る気持ちの良い漢であった。
竹の盆の部屋はこの屋敷で一番大きな部屋であり、そして一番粗末な部屋でもある。賭場の盆道具以外には調度と言えるものが何も置いていない。
盆は部屋の中に六つも並んでいて、普通の町人とおぼしき人間たちがその周りに群がっている。もっともこの時代、一般人と武士などはきちんと分けられてはおらず、その中のどれだけが本当はヤバイ連中なのかどうかは分からない。
盆の内の三つは普通の賽子賭博だ。残りの三つが札引きになっている。単純に自分の勘だけで行けると思っている人間は賽子に、自分の眼力に自信がある人間は札引きに張り付いている。見たところはどの盆も盛況で、張札を求める声、思わず上げた歓声、頭を抱える男たちの呻きなどに満ちている。
合力と呼ばれる若衆たちがその間で忙しなく立ち働いている。
部屋に入る前に藤兵衛は戦国大太刀を若衆に預けている。
「頼むぞ」その一言と共に腕の中に落とされた戦国大太刀の重さは二貫とちょっと。受け取った若衆の体が思わずぐらりと揺れた。
「猿は預けられませんか」
刀の重さに悩みながらも若衆はようやくそれだけを言った。盆御座を猿に荒らされでもしたら死人が出る騒ぎになりかねない。
「この猿は大丈夫だ」
にかにかと屈託の無い笑みを浮かべながら藤兵衛が請け負った。
「もしこの猿が騒ぎを起こしたら俺の腹を切ってもよい」
ここまで言われては若衆も止めるわけにはいかない。
「ようございます。その言葉、お忘れなきように」
本気の脅しを告げる声色を滲ませながら若衆は部屋の中へと藤兵衛を通した。
懐の中の金の全部を帳場に差し出し、張札を一つだけ貰う。帰るときには儲けた張札を帳場に出して金に換える方式だ。その換金率の差は通常は五分ほどでこれが賭場の基本的な儲けとなるのだが、それとは別に勝った者からの盆への祝儀や出た目ごとに親の総取りなど別の取り決めなどもつけられており、それらが皆賭場の収入となる。
藤兵衛はざっと盆を見て、わざわざ中央の盆へと割り込む。
どうせこれからは注目を引くのだから、別に端っこで始める必要はないとの腹積もりだ。
「一回だけ『見』をさせてもらうぜ」
そう宣言してから、じっと目の前の勝負に目を飛ばした。見とは博打の流れを見るための見物宣言である。もちろん見だけを延々と続ければ合力若衆たちに外に放り出される。
札師が手拭いの中で札を探り、客に見えないように手拭いの下に埋めたまま前に置く。
その横には今までに出た目を示す札が並んでいる。
直前に三の札が三つ並んでいた。釣りである。次の札も三の札か、それとも他の札に逃げるか。今はそれが焦点になっている。張り子は札師の心の中を読む。札師は張り子の心の中を読む。札師と張り子の虚々実々の心理戦がこの札引きの醍醐味であった。
張札が揃うと若衆から声がかかり、札師は己の両の手の中に何もないことを示した後に手拭いを開く。
三の札が現れる。場がどよめいた。さすがに三が四度続くことはないと思った連中が自分の頭を叩く。
張札が集められ、場が綺麗になる。
「次、入ります」
札師が静かな手つきで札を繰る。適当に選んでいるのではない。きちんと選んで出すのが作法だ。
「行けそうか?」藤兵衛が小声で呟いた。
トクチが藤兵衛の耳を引いた。都合三回。
藤兵衛は手の中の張札を置き、一緒に受け取っていた数札から三を出して、一点賭けで出す。勝てば六倍で戻る。一見勝ち負けで倍率に差がついていないように見えるが、札師は人の心を読む達人だけに、すべてが終わって見れば勝負はたいがい札師の勝ちに終わる。これはそういう賭博なのだ。
置き札が開かれ、三の札が出る。また場がどよめいた。張り子の多くが裏をかかれた中で、藤兵衛だけが勝ちを拾う。
「次、入ります」
また札が置かれた。
次も三の札か。さすがにこれ以上同じ札はあるまい。いや、裏をかいてまた三も。そんな感じで虚実いりまぜ様々な思惑が飛ぶ。トクチが心を読んでみると札師の心の中にそれぞれの客がどう考えているのかの見込みが浮かぶ。それが客の思考とほぼ一致しているのが分かり、トクチは舌を巻いた。その中で藤兵衛に対するものだけが空白で残っている。藤兵衛はまだ賭けの傾向を見せていないからだ。
藤兵衛は今度は一の札を置く。一方他の張り子は今度もまたと三を置いた。
置き札が開帳されると、賭場が沸いた。
藤兵衛の張札は今や三十六枚に増えている。
またその張札を全部前に出した。その場にいた全員がざわめいた。
だが賭場ではたまにこういう人間が出る。自分の運が天に登るためのものだと信じてやまない連中だ。きっと次ですべてを失うだろうと皆が心の中で冷笑する。
だが次も当たるとその笑いも消えた。
さらに次の札では皆が一斉に藤兵衛と同じ数に賭けた。
置き札が晒されると、今度は盆全体が揺れた。いったい何が起きているのかと他の盆からも客が覗きに来る。
ここに至って初めて盆親が帳場から出て来ると一つ頭を下げた。
「札師、代えさせていただきやす」
手本引きは札師の癖が読まれたと思ったら別の札師に変えることが許されている。すぐに若衆の間に怒声が飛び、もっと上の盆から熟練の札師が呼ばれてくる。
この間に藤兵衛の前の山のような張札はもっと高額の張札に差し替えられている。
新しい札師が藤兵衛の前に向かい合わせに座る。この勝負が藤兵衛一人を相手にするものだと周囲はすでに分かっている。
「入りました」
札師が言う。肩の上のトクチが耳を引っ張ったが、藤兵衛はそれとは異なる札を置いた。ただし張札はわずかに二枚ほど。
ここで当てるは簡単なれどそれでは藤兵衛が札を読めることがばれてしまう。
三度続けて外して、藤兵衛の後追いで賭けていた連中が軒並み手を引いた。頃合い良しとみて藤兵衛が小さく当てる。
もう二度ほど当ててから、藤兵衛はまた全額を賭けた。札師の癖を見抜いたぞ、との素振りである。
置き札がさらされる。また盆がどよめいた。
もう一度全額。
それが的中すると部屋全体が揺れるほどの大騒ぎになった。
ここに来てまたもや盆親が動いた。
「お客様。これ以上は竹の盆の天井に触れます。お後は松の盆へお移りください」
一つ上の位の盆を奨められた。
「ん、そうか。ではそうしよう。いや、世話になった」
藤兵衛は気前よく張札のかなりを祝儀として盆に置くと立ち上がった。
*
松の盆は商人たちの盆だ。身なりのきちんとした客に混ざると古びた服を着た藤兵衛の姿は目立って見える。
竹の盆の張札は一段と高価な松の盆の漆塗りの張札に換わった。もちろんこの交換の際にも少しばかりピンはねされているが藤兵衛は気にしない。
ちらりと今までの出目を示す見せ札を見る。今度は『見』はしない。ここまで来ればどのみち藤兵衛が何かやっていると疑われているのは間違いないから、今さら誤魔化しても仕方がない。
ぐいぐいと三回ほど全額を押し出すと、たちまちにして手元に新しい張札の山ができた。
周囲はもう大騒ぎである。他の盆からの見物人たちも部屋の外から覗きこんでいる。それを止めようと部屋の前に合力の若衆が勢ぞろいする。
再び盆親が藤兵衛の前に座りこみ、盆を移れと穏やかな、だが有無を言わせぬ口調で頼み込む。
貴様が何かインチキをやっているのは分かっている。だがそれがどうやってかを説明できない以上、藤兵衛を責めることはできない。だが少しでも隙を見せたら生かしては返さぬぞ。そういう思惑が見て取れる。
それらを一切気にせずに、がははと笑いながら藤兵衛は立ち上がる。今度は若衆が進み出て、藤兵衛威の張札を集めると後ろについていく。
藤兵衛の肩の上で申の王が身じろぎする。周囲に大勢の人間がいると落ち着かない。しかもその半分が押し殺した殺気を放っているだからなおさらだ。
藤兵衛。おヌシ。一つ間違えたら膾にされるぞ。トクチはそう忠告したかったがこれほどの人の目に囲まれると、言葉を放つことはできない。
*
梅の盆は最高位の盆だ。裕福な商人が頼もし講の帰りに寄るような盆である。あるいは高位の武家もたまに訪れる。一般人は間違っても入れて貰えないはずの盆だ。美しく飾った襖に囲まれた奥まった場所にある部屋である。部屋の中には香が焚き込められている。部屋の四隅に大きな行燈が置かれ、光が投げかけられている。
梅の盆には他の客はいなかった。盆主の場所には公家らしき装束を着た男が一人、座っていた。
「大納言さまだ」それだけ説明すると松の盆親は引き下がった。
「そなた、名は何という?」大納言と呼ばれた公家が訊いてきた。
「藤原藤兵衛」藤兵衛は衒いも無く答える。
「そなたに訊く。まだ賭けるや?」
手元の張札を軽くかき混ぜてから藤兵衛は頭を掻いた。
「これだけあればしばらく遊べるなあ。俺はもう止めてもいいのだが、まああんた次第だな」
「それならば麿ともう一勝負せよ」
「いいな。だがモノは何だ? 数札はここにはないようだが?」
「これでおじゃる」
大納言が取り出したのは藤の壺笊だ。つまりは単純な丁半博打である。
合力若衆が二人入って来ると大納言の左右に座る。
「いいだろう」
藤兵衛は大納言の正面にあぐらをかいた。公家側三人と大男の藤兵衛一人でようやくつり合いが取れる。
トクチが藤兵衛の耳を引っ張った。その蓬髪の中に顔を寄せてトクチは囁いた。
「イカサマだ。こいつは凄腕の壺振りだし、壺に糸が張ってある」
「うむ」藤兵衛は呟いた。傍から見ると独り言に見える。誰も藤兵衛が猿と会話しているとは思いもしない。
賽子のイカサマには色々なものがある。この場合は藤の壺笊に仕掛けがある。これは一見普通の壺だが、持ち手の角度によって壺の中がわずかに覗けるようになっている。張り子が賭けた目が当たっていた場合には、壺を開けるその瞬間、この糸を使ってサイコロを動かして目を変えるのだ。熟練者がやると滑らかな一動作でこれができる。
賽子勝負ではトクチの神通力は役に立たない。それなのに藤兵衛は張札すべてを前に押し出した。
「一発勝負だ」藤兵衛は大きな声で宣言した。
「おい、大丈夫なのか」トクチが慌てたが藤兵衛は取り合わない。
梅の部屋の外で興味津々で覗き込んでいた客たちがおおっと感嘆の声を上げた。もっとも合力若衆たちが部屋の入口を固めているのでそれ以上は部屋に入れない。
「実に気持ち良い賭けっぷりでおじゃるなあ」大納言が一言漏らす。
「では行くでおじゃる」
大納言の手が上がり、賽子二個を壺笊に放り込む。トンと音を立てて壺笊を盆茣蓙に置くと軽く揺すって壺の中央に賽子をまとめる。貴族姿の男が滑らかに壺を振る姿は実に奇妙であった。
「丁」間髪入れずに藤兵衛が言う。
「丁でおじゃるか」
「俺は半端という言葉が嫌いでなあ。だからこういうときはいつも丁を選ぶ」
左手で頭をボリボリと掻きながら藤兵衛が答える。
大納言がさりげなく壺に視線を落とすと藤の網目にちらりと中が見えた。壺笊の内側には布が張ってあるのだが、この角度だけは視線が通るようになっている。
二つの目は六と六のゾロ、つまりは丁だ。
この男、強運だなと思った。いや、麿がちょうどここに居たときに居合わせたのだから不運だとも言える。
「では」大納言は壺に手を伸ばした。
ついと手を伸ばし、静かに壺を上げる。中に張られている細い糸を引っかけて賽子の端を持ち上げる。勢いよくやると賽子が派手に転がってバレるので、ゆっくりやる必要がある。
全員の目が壺に集まったその瞬間が藤兵衛の狙い目だ。
藤兵衛の左手の親指が怖ろしい速度で、ただしほんの少しだけ動いた。袖に隠れてそれは誰にも見えない。いや例え注意して見ていたとしても見えなかっただろう。それほどの速さだった。
飛んだのは細い針だ。
藤兵衛の蓬髪の中には針が何本か隠してある。それぞれ異なる色に塗られていて、背景に応じて使いわける。今回は盆茣蓙に合わせて白だ。
その針は誰の目にも止まることもなく壺の糸を断ち切ると、大納言の手元の横をすり抜けて壁に刺さる。
ここで何が起きたのか気づいたのはトクチだけだ。それも藤兵衛の心を読んでその意図を知っていたからに過ぎない。いきなりこれをやられて気づく者はまずいない。
何よりも壺の底の細い糸をこれも細い針で射抜くなどという芸当をできる人間がこの世の中にいた、というその事実そのものがトクチを驚愕させた。
サイコロは壺の下で不安定に揺れたが、元の位置にとどまった。
「ロクゾロの丁」信じられないという声で合力若衆が宣言する。
どおおっと部屋の外で客の声が津波となって湧き上がった。
どうしてと大納言が手の中の壺を見ると、糸が切れている。イカサマを見破られたと理解したが、当然ながら大納言はそれを責める立場にはない。
「藤兵衛とやら。面白かったでおじゃる。これにて帰るがよい」
大納言が立ち上がると部屋を出ていった。
合力若衆が無言で張札を金子に代えると藤兵衛に差し出した。
大名たちが勝手に鋳造した小判もあれば銀の小粒も相当混ざっているが、大部分は最近豊臣家が鋳造を始めた天正小判だ。当然ながらこの中には偽金も混ざっているだろうがそれでもかなりの価値にはなる。それらをすべてをまとめて大きな布袋に詰め込み懐に入れると藤兵衛は賭場を後にした。
*
帰りの夜道は暗いでしょうからと敷張若衆が提灯を差し出してきた。
それを頼りに夜道を歩く。
そのうちにトクチが藤兵衛の耳を引っ張った。
「つけられている」とトクチ。
「分かっている」と藤兵衛。「この一見客に提灯を渡したのは目印のつもりだな。大方、大納言とやらはこの懐の金が惜しくなったのであろう」
「儂には分からん。食えもしないものに命を賭けるとは」
「これは食い物に換えられるからな」
「そんなものかね。しかし、おヌシ、当たったから良いようなものの、あそこで半が出ておったらどうする気だったのだ」トクチが訊いた。
「簡単さ。その場合は大納言とやらの持つ壺を叩き落す。壺にはついていてはいけない糸がついたままだからな。イカサマの言い訳はできんさ。どちらにしても金はこちらのものだ」
藤兵衛は快活に言った。もちろんその場合は賭場の若衆全部を相手の大立ち回りになる。それが藤兵衛には分かっておるのだろうかとトクチは呆れた。
藤兵衛は頭をぼりぼりと掻いた。その手の中に何本かの針が握られたのをトクチは知った。
「まあ普通はこんな一点賭けの大当たりが連続なんてあり得ないからな。こちらが何らかのインチキをやっていることは向こうにも分かっている。だがそれを証明できないからどうしようもない。だが幸いこちらは一見客でしかも裏はなさそうだ。ならば、と考えるわけだ。トクチ殿、知っておったか? 死人は口を利かぬものだ」
「儂はこれまでに口を利く死人に会ったことがあるぞ」
「ほう。それは驚きだ。世の中にはまだまだ俺の知らないことがあるのだなあ」
「長く生きていればおヌシも会えるさ。さて、そろそろ来るぞ」とトクチ。
提灯の灯りと共にどかどかと足音が近づいてきた。都合十人という所か。
藤兵衛が賭場の入口で預けた戦国大太刀を見て、容易ならざる相手と考えたのだろう。ただの飾りならそれで良し、もしこの大太刀を普通に振るえる相手ならば並みの腕ではない。そう見たのだ。
賢い判断だが、そもそももっと賢ければ藤兵衛には手を出さなかっただろうに。
藤兵衛はわざわざ大太刀を抜いたりはしなかった。殺しが目的ではないのだ。いつも持ち歩いている胴乱から金属の油壺を抜き出すと、手近の木に振りかけて、提灯の火を押し付ける。
たちまちにして暗闇の中に巨大な松明が燃え上がった。
この光の中に、いきなりの大松明の出現に驚いている男たちの姿が浮かびあがる。先ほどの賭場の若衆に加えて二人ほど浪人が混ざっている。
「わざわざ殴られに来るとは、ご苦労なことだの」
言いながら藤兵衛はずいと前に出た。右手に鞘をつけたままの大太刀を握っている。肩の上から乗っていた申の王が飛び降りた。
藤兵衛の周囲を男たちが取り囲む。
「旦那方、こいつです」若衆の一人が藤兵衛を指さして叫ぶ。
「うむ。確かに間違いない。お前たちが探しているのはこいつだ」と藤兵衛が茶化す。
二人の浪人が刀を抜いてこれも前に出る。
藤兵衛の表情から茶目っ気が消えた。ぎょろりと目が剥かれるとその全身から強烈な気が噴き上がる。一瞬、浪人たちの目には藤兵衛が大きくなったかのように見えた。
「うぬら。そんなに人が斬りたいのか」藤兵衛が浪人たちに向けて言った。「いくら天下争乱が収まりかけているとは言え、いまだ戦国の世は残っておろう。人が斬りたいなら戦に出ろ。それとも何か、こんなところでしか漢を売れぬか」
その言葉を聞き、藤兵衛の気拍に後ずさっていた浪人たちが激高した。
「くそ。おのれ!」
二人して切りかかろうと刀を振り上げた。
その瞬間、藤兵衛の鞘に納まったままの大太刀が伸びた。浪人たちの頭上の刀の柄にその先がちょんちょんと触れる。刀が手からすっぽ抜け地面に金属音を立てて落ちる。
「どうしたどうした。ご自慢の得物であろう。しっかりと握らぬか」
藤兵衛が揶揄う。浪人たちは地面に転がる刀に飛びつき、再び構えた。
またもや藤兵衛の大太刀が伸び、今度は刀の先端をちょんちょんと突く。
浪人たちの痺れた手から刀が落ちる。
「くそっ! いったい何を!」
「ほらほら、ちゃんと握らぬから刀を落とす」
からからと笑いながら藤兵衛が言う。
悪態を突きながら浪人たちが刀へと走る。今度はその剥きだしになった首筋に藤兵衛の大太刀が触れた。
足をもつれさせて地面に突っ伏すと浪人たち二人はそのまま動かなくなった。
「心配しなくても二日もすれば目が覚める」
ぶんと音をさせて戦国大太刀を肩に担ぐと藤兵衛は言った。
「さて、お前たちはどうするね?」
「野郎!」若衆の一人が言いかけたが兄貴分が手で止めた。これはもうどうしても藤兵衛には敵わぬと見て、その気が変わらぬ内にと頭を下げた。
「見逃していただけるんで?」
「ああ、いいとも。別に俺は人が殺したいわけじゃないからな」
「兄貴!」先ほどの若衆が口を挟んだ。「大丈夫だ。やらせてくれ!」
兄貴分の拳がその顔にめり込んだ。たまらずに若衆が後ろに吹き飛ぶ。
兄貴分は横目で藤兵衛をちらりと見た。あけっぴろげの緊張感の無い表情とは裏腹に、その体から気迫が噴き出している。これだけの気迫を見せる男に昔ただ一度だけ遭ったことがある。
武蔵と名乗る浪人だった。その男の目はぎらぎらと光り、藤兵衛と同じように鍛え上げられた体から気迫を噴き出していた。賭場で手持ちの金をすった後に、それが誰だか気づいた大納言がいくらか勝たせてやって終わりにした。
あの男がもし暴れていたら賭場の若衆の半分は死んでいただろうと、後ほど聞かされたものだ。
あのときの男よりもこの藤兵衛という男の方が殺気を感じさせないだけに数段危険だ。この手の男はみんなそうだが、藤兵衛の中には何か恐ろしいものが眠っている。いくたびかの修羅場を抜けて来た者の勘で兄貴分の若衆はそう感じた。
「おう。みんな。有り金を出せ」
手早く全員の懐から差し出させた金子を集めると、藤兵衛の前に差し出した。
「ほう、これはかたじけない」
兄貴分の手の上から金子が消え、藤兵衛の袖の中に消えた。
「さて、金を貰ったからには土産の一つも持たせねば、お前たちが叱られよう」
藤兵衛はそう言うと、炎を上げて燃え盛る木の前に立った。背中の戦国大太刀を下ろすと、その刃をずらりと抜き出した。
戦国大太刀を藤兵衛が構える。五尺はある戦国大太刀を六尺ある藤兵衛が大上段に構えると、その切っ先は平屋の屋根にまで届く。炎を背景にそれは夜空に向けて聳え立つ鋼の山脈に見えた。
何をするのかと見守る若衆たちの前で、藤兵衛が気合と共に刃を振るった。
神速の刃は常人の目には見えぬ。だが炎の照り返しを受けて、その白刃の軌跡は残像を残した。白い三日月のような弧が藤兵衛の周囲に無数に生まれ、膨れ上がった。まるで巨大な光の花が大きく開いたかのようだ。その光の花が松明と化した木を包んだ。
トクチは目を剥いた。その刃の光の中に踏み込みでもしようものなら、如何なる者でも肉片になる以外の運命はない。
不思議と刀が風を切る音はしなかった。
次の瞬間、ふうと一息ついて藤兵衛が刀を引いた。
燃えていた木がいくつもの砕片に切断され、周囲に火の粉を吹き上げながら崩れ落ちる。
燃え上りながらもたった今までそこに立っていた木が、地面にうず高く積もった焚火と変ずる。この奇跡のような荒業に若衆たちの顔色が蒼くなった。
一歩間違えればそこに積もっていたのは若衆たちの体ということになっていただろうと正しく理解したのだ。
「行け」藤兵衛はそれだけを言った。
動けなくなった浪人たちを担ぐと若衆たちは消えた。
「またえらく儲けてしまったなあ。泥棒に追い銭とはこのことだ」
藤兵衛はがははと笑った。
「自分が泥棒だとの自負はあるのだな」トクチが呆れたように言った。
4)
街道筋に面した店の一角に一際派手な大店が出ている。左右の柱を朱塗りにしていて、格子の向こうに女たちが並んでいる。
いつの時代にもどこの場所にも必ず存在する建物、すなわち遊郭である。
ここはこの辺りの遊郭では一番大きな店で武士から町人、場合によっては農民まで幅広く訪れている店だ。さすがにお公家様だけは変装して訪れる始末である。
その入口の暖簾をばさりと開けて、肩に猿を載せた大男が入って来たときにはさすがに店の者も驚いた。古びた服に手入れをしていない蓬髪。一目見ただけで金に縁の無い輩と番頭は正しく見抜いた。ここでは客の懐に応じて入る扉が異なる。上客が他のみすぼらしい客と同じに扱われるのを嫌うためだ。
「あの、お客様」
この貧乏人めと思いながらもそれでも藤兵衛に語り掛ける口調は丁寧だった。なにせこの男は背中に大きな大太刀を背負っている。近年では滅多に見かけない戦国大太刀。このようなものをこれ見よがしに持っている以上は、戦国の徒花である傾奇者の可能性がある。下手に怒らせれば暴れかねない。彼らはそうすることが名前を売る近道だと思っているからだ。
藤兵衛はその辺りを心得ている。うむと一言だけ答えると懐から出したずしりと重い金袋を番頭の手の上に置いた。その余りの重さに番頭が前のめりに転げそうになる。
じゃらりと音がする。思わず番頭は袋の口を緩めて中を覗いてしまった。
色々な国で発行された小判に甲州金までもが山ほど詰まっている。
「しばらく長居するぞ」
にかにかと笑顔を見せて藤兵衛が言った。
「酒と旨い食い物を山ほど持って来い。それと酌をしてくれる女もだ」
「へい。ただちに」
とんでもない上客の出現に番頭が跳びあがった。
広い座敷にずらりと遊女が並んだが、藤兵衛とトクチはそれらには目を向けなかった。藤兵衛としては別に女が抱きたかったわけではなく、ただ単に酌をしてくれて辺りを賑やかにしてくれる女たちが欲しかっただけだ。
藤兵衛は山盛りの料理を片端から平らげ、大きな盃で酒を流し込む。その横ではトクチがちょこんと座って、色々な山海の珍味を試している。
遊郭一番の女たちが舞い踊るたびに、藤兵衛の手が動いて銀の小粒をばら撒く。きゃあきゃあと嬌声を上げて女たちがそれに飛びつく。
「お大尽さま~」と声が上がる。
「そなたせっかく手に入れた金を」とトクチが眉をひそめて藤兵衛の耳に囁いた。
「なに、どうせ博打で稼いだあぶく銭よ。こんな金にはこうやってばら撒く以外に使い道はない。女たちもほら嬉しそうだろう。この女たちはこういった機会でもないと店への借財を返すこともできないのだ。それに懐にこれだけ金があると重くてかなわん。しまったな。どこかの道端に半分捨ててくればよかった」などととんでもないことを言い出す。
その内に藤兵衛もトクチも酔いつぶれ、部屋に引きこもった。
二日ばかりそうやって遊んだだろうか。存分に食い、存分に呑み、存分に羽を休めた。
三日目の夜には金子も半分に減った。
明日はここを出てまたどこかに行くかなどと藤兵衛が考えていた夜半、何かの気配がした。例え酔ってはいても藤兵衛の隙をつけるわけもない。それはトクチも同じであった。暗闇の中で手を伸ばして藤兵衛の腹をそっと突く。
静かに襖が開くと、女が一人忍んできた。藤兵衛が寝ている枕元に近づくとそこに置いてあった金袋に手をかけた。
じゃらりと音がした。はっと女の手が止まる。藤兵衛は寝たふりを続ける。女の手が再び動き、重い金袋を抱えると、また静かに襖を閉めて姿を消した。
「よいのか、お主」トクチが囁いた。
「構わん。無くなってせいせいした。それにあの女にも何か事情があるのだろうよ」
そう言ってからゴロリと寝返りを打つと、藤兵衛はまた眠りについた。
次の朝、番頭が揉み手をして部屋に現れた。
「藤原様。昨夜のお代を頂戴いたしたく」
「ああ、番頭か。すまぬが」藤兵衛は続けた。「金は無い」
「え?」番頭がわけの分からぬという顔をした。
「だから金が無い」
「無いと言っても昨夜はあんなに持っていたじゃないですか」番頭が呆れたように言う。「そのまま朝までお休みしておられたのにどうして金が無いんですか?」
「そう言われてもな」
がははと笑い、藤兵衛は裸になった。筋肉隆々の見事な体が現わになる。股間のとんでもない一物まで露わになる。
「これこの通り。金の玉は二つあるがこれで支払われても困るだろ?」
事を飲み込んだ番頭が慌てて一番番頭を呼んで来る。
この遊郭を実質仕切っている一番番頭が藤兵衛の前に現れると正座した。居住まいを正し厳しい声で言う。
「藤原様。金が無くなったとの話ですが、よもや昨夜のうちに盗まれたという話ですか?」
ここのような上客を扱う遊郭では盗難騒ぎは信用に直結する。盗難の責任は当然店にあるとみなされるのだ。何も対処しなければ上客が逃げてしまう。
番頭ですら知らぬ盗難とあれば当然ながら犯人は遊女ということになる。大勢の遊女の中には手癖が悪い者も当然混ざっている。何人か心当たりがある分、番頭も藤兵衛に対して強くは出られない。
「いやいや、別に盗まれたわけではない」
金を盗まれた者とは思えぬ笑顔で藤兵衛が主張する。
「ただ、無くなっただけだ。だが俺の財産と言えばこの大太刀と友であるこの猿だけでどちらも手放すわけにはいかぬ。そこで番頭殿、一つ提案だが、お代の分を俺に働いて返させて貰えぬか。何、飯さえ食わせてくれるならどのような仕事も厭いはせぬ」
この提案に一番番頭は思案した。遊郭の手落ちを藤兵衛は自分でかぶると言ってくれているのだ。これほど有難い話は無いのだが、それでこの人にどのような得があるのだろうか。
裏を探ろうとかとも考えたが、藤兵衛の裏表の無い表情を見ている内にそんな気も失せた。このお人は、こういうお人なのだ。稀に見るどこか箍の外れた善人、そしてそんなことも気にせぬほどのさっぱりした漢なのだと。
「よろしゅうございます。ただし本日より下積みの部屋に移っていただきます」
そう言いながらも一番番頭は感謝の印に深々と頭を下げた。
その日から藤兵衛は甲斐甲斐しく働き始めた。
藤兵衛は大きな体をひと時も休めることなく小まめに動かす。薪割りを始めるとたちまちにして横に薪の山が積み上がる。今そこで掃除をしていたと思ったら次の瞬間には向うで障子を張り替えている。ふと目を逸らして戻してみると裏手で大きな荷物を運んでいるという具合だ。
なにぶん藤兵衛の動きには遅滞がない。優れた武芸者の特徴であるのだが、一つ一つの動作が無駄がなく滑らかなのだ。そのため一人でも三人分の働きができてしまう。
トクチも面白くなってきたのか藤兵衛を手伝った。燗をした酒徳利が載ったお盆を持って客座敷へと届ける。猿がお酌をするのが受けて座敷は大いに賑わいだので、じきに遊郭の看板猿になってしまった。
その内に藤兵衛は下働きとして厨房にも出入りするようになった。繁忙期に皿洗いにと送り込まれたのが機で、料理の仕込みから素材の仕入れまで幅広くこなした。厨房の食器洗いのついでにこっそりと飯櫃から米をこそぎ落とすと握り飯を拵え、ミソとタクアンをつけて手早く弁当を作る。
客が取れなかった遊女たちは罰として食事を抜かれることが多い。そんな遊女たちがすきっ腹を堪えて夜に寝ていると、部屋の扉が開いてそっとこの弁当が差し入れられるのだ。
最初は誰がやっているのか分からなかったがじきにそれが藤兵衛の仕業と分かり、遊女たちは心の中で手を合わせる仕儀となった。
藤兵衛は今までどこでどう過ごしてきたのか、これだけのことを何の屈託もなく自然に行う男であった。
「お主は本当に不思議な男よのう」
ある日、トクチが感心したという口調で言った。
「そんなことはない。ごく普通のどこにでもいるありきたりの男だよ」
藤兵衛はからからと笑う。ついでに厨房からくすねてきた大根の切れ端を酢漬けしたものをトクチに差し出すと、二人でボリボリと食う。どちらも野生児のようなものだ。旨い料理も好きだが、粗菜でも少しも気にしない。
周囲の店の者たちがあの遊郭は良い下働きを雇った実に羨ましいと噂するようになる頃には、藤兵衛はすっかりと店の者にも信用され、たまに帳場まで手伝うようになっていた。藤兵衛は隠しているが元々はきちんとした武家の出なのだ。読み書き算盤まで広く扱うことができる。
女郎たちも藤兵衛に懐き、色々と理由をつけては藤兵衛のそばにいるようになった。誰も見ていない隙に藤兵衛にもたれ掛かり、その硬い背中に頬を擦り付けたりもした。もっとも藤兵衛はそれで女郎たちに手を出すということはしなかった。
女郎たちの中でも一人だけは藤兵衛には近づかなかった。藤兵衛の金を盗んだ女だということは神通力で心が読めるトクチには分かっていたが、当の藤兵衛本人がまったく気にしていないのでトクチも余計な口は挟まなかった。
騒ぎが起こったとき藤兵衛は大きな荷物を納屋に運び入れているところだった。
遊郭の中に怒号が響くと、二階から足音も荒く男たちが降りて来た。その腕の中に女郎の一人が囚われている。
「店主を出せ。ここの店はどんな躾けをしている!」
男たちの一人が叫ぶ。
「この女、熱燗を俺の大事なモノの上に零しやがった!」
「違う」女が言いかけるが男の一人に喉を抑えられて声を詰まらせた。
帳場にいた一番番頭が出てくる前に藤兵衛の体が動いた。
「お客様。いったいどうなさりました」
そう言いながら、藤兵衛は肩の上に担いでいた木箱を乱暴に下におろす。ちょうど女の喉を掴んでいた男の足の上にだ。
べきりと音がした。藤兵衛が軽々と担いでいたので誰も気づかなかったが、その木箱は二十貫の重さがある。
「野郎、何しやがる」
もう一人が懐からドスを抜き出した。
「ほい」
藤兵衛の手がひょいと動き、相手のドスを握る手を包み込むと素早く元の位置へと戻る。ドスを出した男が痛みに呻き、地面に跪いた。見ると男の指の関節という関節が折れ、骨がドスの柄に突き刺さっている。
止める間も無く藤兵衛が動く。殺気の欠片も感じさせずに太い腕が左右に振られ、男たちの頬を張り飛ばす。ただそれだけで、男たちが悶絶する。
「ウチの商売物の女に手を出してはいかんぞ。お前たち」
今さらのように言葉を取ってつける。
周囲で心配そうにこの騒ぎを見ていた女たちに向けて早く消えろと手を振ると、藤兵衛は倒れている男たちの足を無造作に掴んだ。都合四人分の足を抱えるとそのままずるずると裏口へと運んでいく。
誰も止める間もないほど素早いし、止める気にもならないほど邪気の無い動きであった。まるで朝起きて顔を洗うほどに藤兵衛の動きには何の躊躇もない。
やがて藤兵衛が戻ってくると、辺りの掃除を始めた。
「藤兵衛さん。彼らは?」一番番頭が訊ねた。
「す巻きにして川に流しました」
何事でもないという風に藤兵衛が答える。
「お客様に何てことを」
「番頭さんもご存じでしょう。この間からウチを外から伺っていた奴らです」
「そうか。やはりアレか」
一番番頭がため息をついた。
この店はこの辺りで一番の遊郭である。だから二番手三番手の遊郭から何やかやと嫌がらせが来るのだ。
今回の四人組はそれなりの腕を持っていたろうに、この藤兵衛がいなければどうなっていたことかと一番番頭は肝を冷やした。
5)
久方ぶりに遠出となった。藤兵衛の背中には戦国大太刀が担がれている。
遊郭の店主の女房のお出かけのお供である。暇を持て余したトクチも藤兵衛の肩の上に乗っている。
下女一人もお付きについているが最近は物騒だ。ちょっかいをかけてくる他の遊郭の連中も厄介だが、一番は傾奇者と呼ばれるはぐれ者たちである。派手な服装で自分を飾っているので目立つが、一番厄介なのはその行動である。街でそれなりの腕がありそうな相手と見ると喧嘩を売るのである。人前で自分の剣の腕を見せ、出世に預かろうという目論見である。
本当ならどこかの大名の戦に参加し下積みからのし上がるのが正しいやり方なのだが、それでは出世するまでに命を失う可能性が高い。街の喧嘩で名を売り、最初から高い所に引き上げられて始めようという考えである。
問題は始めた当初はそういった目論見であったとしても、たいがい最後はただの無頼漢に堕ちてしまうということである。強そうな武士を見るとこれを避け、弱そうな相手と見ると因縁をつけて揺すり集りをやる。そういう生き方である。
そういった輩に取っては身なりのよい奥様方が侍女を引き連れているのなど、恰好の獲物である。さすがに本店の近くでは顔を知られているので手を出す馬鹿はいないが今日は遠出である。
そういうわけで奥様のすぐ後ろを大男の藤兵衛がでかい刀を背負って歩くことになったのである。
ときおりトクチが藤兵衛の肩から飛び降りるとそこに出ている屋台で食い物を買って来る。賢い猿よと褒められるついでに焼き鳥の一本もおまけにつけて貰ってくる。
これが十二王の一柱である申の王とはなあ。藤兵衛はそう思ったがもちろんそれはトクチには筒抜けである。
「十二王と言っても長生きをして神通力を得た動物にしか過ぎん」
そうトクチが説明したが、それだけでも凄いことなのだがなあ、というのが藤兵衛の偽らざる感想である。なにせトクチは千歳を越えているのだ。
ぶらりぶらりと歩いていると、そろそろこの生活も捨てるべき頃合いかなとも感じた。藤兵衛の放浪癖がまたうずき始めたのである。
そのうち街道も尽き、大きな街へと行き着いた。堺の街である。良質の港に恵まれ、近畿地方の水運を一手に握る当時有数の巨大都市である。
半日ほど街の中をあちらこちらへと歩き、奥方の用に付き合う。そろそろ用事も尽きて帰ろうかという頃になって事件が起きた。
いきなり前方が騒がしくなり、馬に乗った先ぶれの使者が叫びながら駆け抜ける。
太閤殿下、つまりは天下人豊臣秀吉の行列である。武士も町人もただちに道の端に寄り頭を下げる。下手に立ったまま行列を眺めでもしようものなら、ただちに警護の武士が飛んで来て問答無用で棒を食らわせる。
秀吉は天下人になったが、それでも多くの者に陰で恨まれている。
大名の行列は緊張感に溢れているものではあるが、太閤殿下の行列は特に厳しかったのは秀吉がそもそも癇癪持ちであったせいである。少しでも齟齬があれば警護の武士たちはその場で切腹を命じられかねない。
藤兵衛も形だけ頭を下げるが内心は興味津々である。今の時代の天下人とはいったいどんな人間なのだろうせめて顔ぐらいは見てやろうなどと考えていた。
トクチはそんな藤兵衛の頭の上に乗ってこれも興味丸出しで行列を眺めていたが、猿畜生が高見で見るはけしからぬと警護の侍が飛んできたので、素早く降りると藤兵衛の後ろに隠れた。
「ほう、ほう、見てみろトクチ殿。今の世は猿が天下を統べておるようだ」
蓬髪の下に隠した目をぎょろつかせて藤兵衛が言った。その視線の先には秀吉が乗った駕籠が進んでいる。駕籠の片側は開いており、自分に頭を下げる群衆を見て太閤殿下が悦に入っている。
「ははは。確かにそうだ」トクチが静かに笑い転げた。
いきなりどこかで犬が吠えた。
「ほら、犬もあれが猿だと思って吠えておるぞ」とトクチ。
「いや、いかんぞ。あれは。狂犬ではないか」藤兵衛が呟いた。
吠える犬に追いかけられた子供が一人、大名行列の前へと飛び出した。その先にあったのはまずいことに秀吉の駕籠だ。
直衛の武士が二人、腰の刀に手をかけたまま前に進み出た。前に進めた足に力を入れてその場に一瞬止まると、刀の鯉口を切り熟練した一連の動作ですらりと白刃を抜き放つ。
一振りで犬の首が刎ね飛んだ。
もう一振りは子供の首へと向かった。
激烈な火花を飛ばしてその刀が弾かれた。藤兵衛が放った石が寸分過たず刃に命中したのだ。
「何をする。出会え。不埒者だ!」警護の武士が叫ぶ。
それをかぶせるように藤兵衛の怒号が周囲を圧した。
「うぬら。この馬鹿者めがあ!」
怒号一声大地鳴動す。その信じがたい大声に藤兵衛の周りにいた人間たちが思わず腰を抜かす。びりびりと大地が揺れた。
すっくと立ちあがった藤兵衛の体はいつもより遥かに大きく見えた。怒髪が天を突くとはこのことだ。鋼鉄で編んだような筋肉の畝が紅潮した皮膚の下で大蛇のようにうねる。藤兵衛はまるで炎に包まれているかのように見えた。
「いたいけな子供をその刀で斬ろうというのか。うぬら。武士の矜持はどこに落としてきた!」
思わずもその心の中を神通力で覗きこんでしまい、トクチは驚愕した。
赤。赤。激烈な赤。怒りの赤。血の赤。
地獄の炎の赤。
その炎の中に、火炎を背負った姿が感じ取れた。
阿修羅。憤怒の相。あらゆるものを焼き尽くす怒りの具現者。修羅界の支配者。
いつもとぼけた藤兵衛の心の中にじっと眠っていた修羅の姿。それがこれほどのものとは。トクチは心の中で怯えた。人間とはここまで恐ろしい存在を身の内に宿すものなのか。
口々に何かを言いながら侍たちが刀を抜きながら迫って来る。
「ごう!」藤兵衛が吠えた。
それはもはや人間の言葉ではなくなっている。それも道理。今の藤兵衛は人間ではない。
振るわれた戦国大太刀は驚くべき間合いにまで届き、取り囲んで首を取ろうとしていた男たちの刀を吹き飛ばした。刀を持っていた男たちの手首が、刀を飛ばされた衝撃だけで乾いた音を立ててへし折れる。
「ごう!」
次の一振りで後続の男たちも弾き飛ばされた。
「ごごう。ごう!」
気合と共に藤兵衛が跳んだ。倒れた男たちの頭上を飛び越え、集まって来た侍たちのど真ん中に着地する。
鞘をつけたままの二貫目の大太刀がまるで棒切れか何かのように振り回される。男たちが構えた刀はそれに触れただけで呆気なく折れ、剣風を浴びるだけで相手は気を失う。
これはまさに豪剣。トクチは目を見張った。藤兵衛ほどの体に恵まれた者が古縁流の修行をするとこんなことが可能になるのかと舌を巻く思いだった。これはもう剣術という領域ではない。台風とか津波などの大災害の世界だ。
切り合いでは歯が立たぬと見て弓を出せとの掛け声が飛んだ。遠見にずらりと弓を持った武士たちが並び、慌てて弓を揃える。
やがて引き絞られた弓から無数の矢が藤兵衛目掛けて飛んだ。
藤兵衛の左手がぼうと霞むと、次の瞬間、その手の中に矢が握られていた。飛んできた矢がこちらに届く前にすべて掴んで見せたのだ。残りの矢は周囲で呻いている男たちに刺さって逆に被害を大きくする。
「うぬらは敵も味方も区別がつかぬかあ!」藤兵衛が怒鳴った。
手の中の矢を宙に放つ。それは過たず弓を持った兵たちに命中する。
素手で矢を放つ打ち根の技は古縁流の修練の中の一部だ。普段は見せない藤兵衛の手裏剣術の一つである。
「鉄砲隊!」ついに最後の命令が放たれた。
火縄銃を持った兵たちがばらばらと出てくる。それぞれに膝を付くと藤兵衛目掛けて撃った。
藤兵衛の巨体が怖ろしい速さで動いた。百歩の距離から撃たれた弾を正確に見切って避ける。常人では見ることもできぬ速さの弾を、しかし藤兵衛は見切っていた。
古縁流参の皆伝者藤原藤兵衛。神技に至る一歩前の境地。この程度のことは十分にやってのける。
今度は藤兵衛の手から礫が飛んだ。金属を紡錘形に尖らせた兜割と呼ばれる礫だ。それは火縄銃を持った兵たちの右肩をことごとく打ちぬいていく。たちまちにして五体満足な撃ち手は一人もいなくなった。
古縁流の指弾は火縄銃の弾よりも速い。
とうとう藤兵衛が秀吉の駕籠の前に立った。護衛の者たちはすべて地面にうずくまって呻いていて、誰も藤兵衛を止められない。
仁王が目の前に立っている。秀吉の心の中を見て、トクチは理解した。自分が秀吉の立場であったら、今の藤兵衛の前にだけは立ちたくない。
秀吉は小便を漏らしていた。
藤兵衛の持つ大太刀がここで初めて鞘から抜かれた。磨き上げられた鋼の輝きが秀吉の目を打った。ずるずると鞘から抜け出す長大な刀身を見ているだけで腹の底がずんと冷えた。それがすべて姿を現したときに、自分は死ぬのだとの予感があった。
「武士ならば武士の矜持を持て。天下人なら天下人の矜持を持て。うぬはあまりに醜く過ぎる」
それだけ言うと藤兵衛は抜き放った大太刀を大上段に振り上げた。その刃は遥かに高く天に伸び、今まで天下の頂点に立っていたと自惚れていた秀吉の誇りをズタボロに引き裂いた。
もはや自分と刃の間に入るものは何もない。
藤兵衛は刃を振り下ろした。
音はしなかった。沈黙の中の無音劇。
腰を抜かして動けぬ秀吉の周囲で、駕籠が真っ二つになって分かたれて落ちる。そのただ中にありて、豪華な衣装に包まれた秀吉だけは無傷であった。
トクチが走り出てくると藤兵衛の肩に飛び乗った。藤兵衛の耳にひそひそと小声で話す。
「藤兵衛。お主、この始末どうつける?
こやつ、警護の武士も先ほどの子供も見つけだして処分するつもりぞ」
「では殺すか」さらりと藤兵衛は言った。
一介の浪人が天下人を殺す相談をしている。
「そうもいくまい。そうなれば天下はまた乱れるし、どのみちそうしても関わった者たちは詰め腹を切らされて殺される」
うむ。困った。藤兵衛は本当に困った。子供を助けようとして飛び出したは良いものの、ここまで騒ぎが大きくなるとは藤兵衛も思っていなかった。
「よし、藤兵衛。こうしよう」トクチが何かを藤兵衛に囁いた。
「なるほど」
一言答えると、藤兵衛はもろ肌を抜いだ。隆と盛り上がった筋肉が鎧のように覆っている体を見せる。贅肉など欠片もついていない。背をずいと伸ばし、戦国大太刀を頭の上に振りかざす。藤兵衛の体に緊張が満ち、筋肉が膨らむ。そうすると一回りも二回りもさらに大きく見える。
元よりの大男がそうするとまるで巨大な神が聳えているようだ。強烈な気拍がめらめらと体から立ち上る。まるで見えない炎を背負っているようだ。
「よいか、猿よ、良く聞け」大声で秀吉を猿と呼ばわった。
「俺は山門守護の仁王の眷属トウベ。これなるは山王たる大山咋神様の使いたる神猿トクチ様なり。
聞けば歳経た猿の妖怪たる経立が人の世に出て天下人となっているとのこと。配下とする猿の眷属の狼藉ともなれば、如何に鷹揚たる山王様としてもこれを見逃すわけにはいかぬ。そのたっての願いとして、神仏のよしみとして俺が探索をあい手伝うことと成った次第。ゆえにお前を退治に来た」
山王とは比叡山の神である。日本全国に広がる山王信仰の祖であり、猿を使いとして使うことがある。大山咋神はそれらの神の頂点に位置する神であった。
寝耳に水のこの話に秀吉は狼狽した。自分を妖怪呼ばわりした敵は確かに大勢いたが本当の妖怪だと指摘した者はいなかった。何より、仁王などという存在が本当にいたのかと驚愕したのである。仁王像は仏教の飾りではなかったのか。
だが周囲に累々と倒れている警護の武士たちをみればそれは信じざるを得なかった。いづれも選び抜かれた強者のはずだったのだ。それが一瞬ですべて倒されてしまった。
「だがこうして来てみれば、もしやそなたは人間か?」
藤兵衛は秀吉にぐっと顔を近づけた。骨太の顔に憤怒の相が浮かんでいる。その瞳は自ら光を放つようであり、ただひたすらに恐ろしい。
涙を流しながらも声はでず、秀吉はただこくこくと頷くしかできない。
「判断がつかぬのう。人であるならば生かす。妖怪ならば殺す。
いまひととき、お前の命を預けようぞ。お前を俺は見ているぞ。天下人たる秀吉よ。お前が人を殺すことで自らを人ではないと証かすならば、俺はいつでも再び戻り来たり、その首を刎ねてやろう」
鬼の顔の藤兵衛の横にトクチも顔を並べた。その猿の口が開く。
「人間よ」重々しい声で言った。「この事、神の秘め事なり。かまえて他言無用とす」
秀吉は地に頭をつけて平服した。すべての疑いは今消し飛んだ。目の前にいるのが神猿というのは間違いない。
自分の小便の臭いの中、秀吉が我に返ると藤兵衛とトクチは姿を消していた。
「あれであやつは少しは優しい人間になるのかな」
夜道を駆けながら藤兵衛は呟いた。
「あの瞬間は確かにそう思っておったよ」とトクチが答える。「だが人というものは懲りない生き物だからな」
「違いない」藤兵衛はそう答えた。
「しかし神猿と仁王の取り合わせか。あの男すっかりと信じ込んでいたぞ。人が天下人に物申せば角が立つが、神の言葉ならば謹んで聞くだろう」
トクチは指摘した。それを聞いて藤兵衛がからからと笑う。
「あながち間違っていないぞ。トクチ殿は神通力を持った申の王。ならば神猿と呼ぶのが正しかろう」
「よしてくれ。背中が痒くなる」
「蚤でもおるのか? ならば後で毛づくろいを手伝ってやろう」
そう答えると藤兵衛は駆ける速さを上げた。
6)
女が忍んできた。
藤兵衛の寝ている下働きの部屋の中に入ると、後ろ手で襖を閉める。そのまま床の上に正座すると頭を床にこすりつけた。
「藤兵衛さま」
むくりと藤兵衛は起き上がると、行燈に灯りをつけた。
「うむ。どうした」
にこりと笑顔を作ると女に向けた。
「蓮華と言います。お金をお返しに上がりました」
女は懐から藤兵衛の金袋を差し出すとまた頭を床にこすりつける。
藤兵衛は一つ大きなアクビをした。
「取っておけばよいのに」
「使いようがありません。あれ以来、番頭さんは私を疑っております。金を故郷に送るにしろ、帳場に出して自分の身を買うにしろ、この中の一分でも使えばあたしは手が後ろに回ります」
「無ければ無いで苦しみ、あればあるで苦しむ。まことに面倒なものだなあ。金というやつは」
藤兵衛は手を伸ばすと金袋を懐にしまった。それを見て蓮華の顔がほっとする。烈火のごとくに怒られると思っていたのだ。彼女は盗みを働いたときに藤兵衛が起きていたことに気づいていなかった。
「誠にもって申し訳ありません。お金のことばかり考えていたところに藤兵衛さまがお金をバラ撒いていたので、それならばと、ついに魔が差してしまったのでございます」
「訳ありか」
当然のことを藤兵衛は口にした。遊郭に堕ちる女たちはどれも訳ありだ。それ以外でここに堕ちる理由がない。
「生活のために娘を女衒に売る親はどこにでもいます」
「恨んでいるのか?」
「恨んではいません。弟や妹たちが飢えて死ぬぐらいなら喜んで身を売ります」
蓮華はきっぱりと言った。
「それでも次から次へと苦難は訪れます。戦国の世は落ち着きましたが、今度はあぶれた野盗が村を襲ったのです。ご領主さまはそれを聞いて一言、年貢は負けぬぞと仰ったそうです」
説明する蓮華の顔は無表情だった。当然感じただろう憤りもさんざ泣き果てて枯れてしまったのだろう。
「妹はまだ売れる年齢ではありません。年貢は払いたくても払えぬのです。このままでは村からまた何人かが罰として殺されましょう。そこで何とか仕送りの一つでもできぬものかと心を砕いていたのですが、あたしはこの通り売れないお茶引き女郎。どうにもならずに」
「それで、つい、か」
藤兵衛はごろんと横になった。
「背中を揉んでくれ」
「え?」
「背中だ。凝っておる。それで此度のことは幕引きとしよう」
蓮華は前に出るとそっと藤兵衛の背中に手を当てた。初めて藤兵衛の体に触れ、まるで大きな岩のような男だと彼女は思った。
二日後、藤兵衛は帳場に呼び出された。
帳場は人払いがされており、店主と一番番頭だけが居た。
先に口を開いたのは藤兵衛だ。
「何用ですかな。店主どの」
店主は無言で切餅を差し出した。天正小判で都合五両ほど。
「藤兵衛さま。どうか何も言わずにこれを受け取って店を出て行っていただけないでしょうか?」
一番番頭が口上を述べた。
「や、これは異なこと。金を払うべきはこちらではないのか?」
「実は女将さまから聞き及んでおります。堺で起きた出来事を」
藤兵衛はしまったという顔をした。
「奇妙なことに太閤殿下はそのことについて何も述べておりませぬが、それでも街の噂というものは止められぬもの。猿を連れ大太刀を背負った大男が天下人を襲ったと、いとも面白おかしく皆が噂しております」
一番番頭は居住まいを正した。
「藤兵衛さまはすでにこの廓界隈では有名人。いづれは誰かが藤兵衛さまと噂を結び付けて、大騒ぎとなりましょう」
それもただの騒ぎではない。天下人襲撃なのだ。下手をすれば遊郭の人間すべてが一族郎党ひっくるめて磔になりかねない大騒ぎだ。
「いま藤兵衛さまがここよりいなくなればやがては噂も立ち消えましょうに。力づくで追い出すことも考えましたが、この街の乱暴者すべてを集めても藤兵衛さまには敵いませぬ」
天下人の精鋭の護衛丸ごとひっくるめても藤兵衛に適わなかったのだから当然と言えば当然だ。
「どうか、我らの願い、聞き届けてくださりましょうや」
無言の店主と一番番頭がまたもや深々と頭を下げる。
「うむ。ここを出ていくのには異存はない」
藤兵衛は言った。店主と一番番頭の顔がぱあっと明るくなる。
「だが、一つ頼みがある」
二人の動きが止まった。これはいったいどんな無理難題が出てくるのかと警戒する。
「なに難しいことではない」
藤兵衛は懐から金袋を出した。
「それは」
無くなったはずの金袋ではないかと一番番頭は言いかけた。
「うむ、今朝起きたら枕の中より転び出てな。どうやら酔ったはずみで自分で枕の中に隠しておったらしい。まあいきなり消えたものだから、いきなり出てきてもちっとも不思議ではない」
そんなことがあるものかと思ったが、一番番頭は賢明にも黙っていた。
「そこで頼みと言うのは」
藤兵衛は目の前においてある店主の小判に、自分の金袋の中身をひっくり返して加える。金銀の山ができた所で、それを店主の前に押し出した。
「これで女を一人身請けしたい」
「へ、いったいどの子で?」拍子抜けした一番番頭が訊ねる。
「蓮華という子だ」
「蓮華ですかい」
女というから店の売れっ子かと思ったが、蓮華はいつもお茶を引いている冴えない子だ。
今まで無言だった店主はこの話に飛びついた。
「ようございます。藤原様のたっての望みとあれば」
藤兵衛は満面の笑みを浮かべた。
「よし、話は決まりだ」
7)
「さて、路銀がいるな」
藤兵衛は頭をぼりぼりと掻いた。左の肩にはトクチが乗っている。右側には急遽旅支度をした蓮華だ。若女房風に仕上げてある。
「藤兵衛さま」まだ自分の境遇の変化についていけない蓮華が訊ねる。
「これからどちらへ?」
「決まっておる。お前の故郷だ。野盗が暴れているのだろう?」
「どうするつもりですか?」
「そりゃあ、退治するのさ。ついでにその領主とやらの頭を一つ殴ってやらねば気が済まん」
蓮華は藤兵衛が本気なのかどうか判別がつかなかった。
二人と一匹は木賃宿に泊まった。荒くれものや食い詰め者が泊まる掘っ建て小屋に毛が生えたような最低の宿だが、藤兵衛がついていれば蓮華も怖くはなかった。
藤兵衛がひょいと姿を消すとじきに両手に鳥と兎を持って現れた。それを蓮華に渡すとまた姿を消す。そして今度は両手に野草を持って帰って来る。果たして食べられるのかとも思ったが、藤兵衛は鼻歌を歌いながら野草を洗い、兎の皮を剥き、鳥の羽を毟ってただちに食事を作りあげた。
古縁流の修行は深山の中でたった一人で行うものが多い。木々があり緑がある場所ならば、伝承者は一人でも十分に生きていける。
猿のトクチが両手に椀を持ってお行儀よく食べているのを見て蓮華は微笑んだ。
夜は一組の蒲団で背中を藤兵衛に預けて寝た。その大きな体に包まれていると深い深い安心感が蓮華の中に生まれて来た。こんな男がこの世にいるのが信じられなかった。そしてその男が何が気に入ったのか自分と一緒にいてくれるのはまさに夢見心地であった。
果たしてこの人は私の故郷にまで一緒に来てくれるのだろうか。それが蓮華には気にかかった。
次の日、蓮華を木賃宿に残したまま藤兵衛は街に出た。
まず訪れたのは賭場だが、敢え無く入場を断られた。どうやらあの大納言賭場での勝負が裏の世界で噂になったらしく、秘かに藤兵衛の特徴を書いた廻状が回ったらしい。
何か仕事がないかと聞き回ったが、あいにく何もなかった。かくなる上は商家でも襲うかと考えた所でトクチにポカリと頭を殴られた。
「なにをする?」と藤兵衛。
「馬鹿なことを考えるからだ」
「何も考えておらぬ」
「嘘を吐け」
「考えはしたが本気ではない」
「半ば本気であったろう」
「ばれたか」がははと藤兵衛が笑って誤魔化す。
「まったく、お主と来たらやって善いことと悪いことの区別がつかぬのか」
トクチは嘆息した。
申の王の方が藤兵衛よりもよっぽど良識がある。
「まったくお主と来たら、どこまで本気でどこまで冗談なのか、この儂にしてもちっとも分からん」トクチは不平をこぼした。
がははとまた藤兵衛が笑ったところでトクチが言った。
「それよりも儂に良い考えがある」
*
大道で藤兵衛が大声で口上を述べた。
「さあさあ、そこをお通りの皆さま方、剣の腕に自信はおありかな」
その横には烏帽子を被ったトクチが木刀を持って立っている。
「ここなる猿と立ち会い、この木刀で猿の被りたる烏帽子を落とした者にはこの一両を進呈する。挑戦のお代は一回につきたったの銀一粒。さあどうだ、皆の衆」
しばらく叫んでいると、どこかの若い衆が足を止めた。
「おい、兄ちゃん。そりゃ本当かい」
「本当だとも」とにこにこ顔の藤兵衛。「その代わりこの烏帽子をそちらにも被ってもらう。逆に猿に烏帽子を落とされたらそちらの負けだ」
「おう、いいぜ」
若衆は腕まくりをして銀を一粒、置いてある笊に投げ込む。木刀を掴むとやっと気合を入れてトクチに殴りかかった。
勝負は一瞬でついた。若衆の木刀をひらりと躱したトクチが若衆の頭の上の烏帽子を薙ぎ払ったのだ。
「くそう。もう一度だ」
またもや銀一粒。今度の若衆の攻撃は突きだ。それを寸の見切りで躱し、同じく突きで若衆の烏帽子を落とす。
都合五回、似たようなことが繰り返された。
「ちくしょう。覚えてろ。明日もここでやっているんだろな。逃げるなよ」
「へい毎度。待ってやす」
藤兵衛はさらりといなす。
次の日は大勢がやってきた。前日負けた連中が仲間をつれて押しかけて来たのだ。戦国も終わりかけの世の中、農民でさえ、槍を持って落ち武者狩りをしていた時代である。田畑を荒らす野武士もいるし、もしやまた大戦が起きたときには剣で立身出世をと考える者もいる。つまりは一般の人々の間にもそれなりに腕に覚えのある人間がかなりいるのだ。
トクチは大忙しである。やあとうと姦しい連中を相手に、木刀で見事な剣技を見せる。
「いや、負けた。なんてえ強い猿だ」汗だくで感想を漏らす相手に藤兵衛が酒の入ったぐい呑みを差し出す。
「そう腐らずにまあ一杯」
「おう、気がきくな。ちょうど喉が渇いていたんだ」
ぐいと冷酒を飲み干す。
「うめえ。もう一杯くれんか」
「一杯はお得意さんへの挨拶。二杯目からはお代をいただきます」
「ちぇっ。がっちりしているなあ」
男は銭を放った。
次の日は椅子や茣蓙が並べられ、今や見物人の方が多くなっている。蓮華も手伝いに加わって、つまみや酒を持って忙し気に立ち働いている。
人間よりも強い猿がいるという噂はさらなる噂を呼び、今や遠くからも挑戦者が来るような有様だ。
襲い掛かる木刀をトクチが寸で見切るたびに喝采が起き、相手の烏帽子が叩き落とされるたびに笑いが起こった。
「まさか猿が剣術をやるとはねえ」口々に言い合った。
「見事なものだ。どうやって仕込んだのだね」
「その内、戦にも出たりしてな」
「ありそうだな。どこぞの天下人も実は猿だとの噂があるぐらいだからな」
どっと笑いが巻き起こった。
刀狩りなどで秀吉の評判は多分に悪い。庶民は口でうさ晴らしをするしかなかった。
銀の小粒でうなる金袋を手に藤兵衛はニコニコ顔で酒を運んでいた。
*
こうして六日が経ったときに事件は起きた。
一人の武士らしき男が藤兵衛の前に現れたのである。
「卒爾ながらちとお尋ね申す。あの猿の飼い主は貴殿なるかな?」
「いかにも。挑戦なさるなら銀一粒」
藤兵衛は手を差し出した。差し出した藤兵衛の手のひらの上にその武士は小判を一枚置いた。
「これでお願い申す。ただし真剣にて」
「真剣?」
「真剣でござる」
藤兵衛はトクチの所に行った。
「こちらはそれで構わんぞ」ひそひそとトクチは言った。
「あの武士、結構できるぞ。足運びに隙がない」
「構わん。素人相手に剣を奮うのは儂も少し飽いできたところだ」
「そうか」
トクチにそれだけ返すと藤兵衛は武士に声をかけた。
「良いそうだ」
武士が刀を抜いた。すらりと澱みのない動きで白刃を日の下に晒す。美しい波紋に光が躍る。一目で分かる名刀である。
周囲の観客がどよめいた。
「真剣だ」
「真剣だぞ」
「おいおい、猿が死んじまうぞ」
武士が刀を右に構え、ずうと前に出る。動きながらも体の芯が少しもぶれない。
藤兵衛はそれを見ながら頭をぼりぼりと掻いた。掻きながらも数本の針がその手の中に握られる。
武士の喉から気合がほとぼしった。その体が弾かれたかのように前に出ると、神速の斬撃がトクチを襲う。
切られた。
誰もがそう思った瞬間、トクチは前に跳んでいた。その体の小ささを利用して武士の懐に入ると、横をすり抜け様に相手の頭に木刀の一撃を食らわせた。
衝撃を受けて武士の体が前のめりに崩れ落ちる。額を一筋の血が流れ落ちた。
その体をいつの間にか動いた藤兵衛が支えていた。
「お見事」そして後を続けた。「だが其方の負けだ」
「心得てござる」
それだけ言うと武士は帰った。
次の日、またもやその武士は現れた。怪我をした頭に布を巻いている。もう一人、別の武士を連れていた。
きちんと月代を剃り、上等の衣装に身を包んだ、それでもひどく眼光の鋭い男であった。
「今日はこちらの御方でお願い申す」
新しい男をちらりと見て、藤兵衛はトクチに近づいた。
「儂はかまわんよ」とトクチ。
「今度のは強そうだ」
「おヌシほどではあるまい」
「違いないが」
「今度は助太刀は無用ぞ」
助太刀とは藤兵衛が針を投げようとしていたことを指している。つまりは藤兵衛は釘を刺されてしまったわけだ。
トクチは落ち着いている。神通力で相手の心を読むトクチが落ち着いているのならば問題はあるまいと藤兵衛は思った。
その男は一両を差し出した。少し躊躇った後に藤兵衛はそれを受け取った。
その場で着物の両袖と袴の両端を紐で縛ると、男は刀を抜き正眼に構えた。
「いざや」一言だけ言った。
トクチも木刀を正眼に構えるが、自らは動かない。剣の腕が同じでも上背がある男の方が極めて有利だ。トクチの身長ではむしろ相手の足を狙った方が良いのだが、一度もそうしたことがない。トクチは奇妙に剣の格式に拘るところがあるから、今度も正面からまともに戦うだろう。そう藤兵衛は思った。
息を吐く音だけ漏らし、男が襲い掛かった。袈裟懸けに刀を振り下ろす。トクチが跳び、着地ざまにもう一度跳んだ。つい先ほどまでトクチがいた場所を鋼の刃が切り裂く。そのまま刃は軌道を変えてトクチを追う。ここでようやくトクチの木刀が動き、追ってくる刃を弾いた。
仕切り直し。再び両者の間が開き、そこで停止した。
否。じりじりと男の体が前へ出ていると藤兵衛は見てとった。他の誰もそれに気づいていない。足の指先の動きだけで前に出ているのだ。相手が気づかれないように間合いを一寸縮める。これは秘伝に属する技だと藤兵衛は感じた。
一寸の間合いの深さ。剣の勝負ではたったそれだけで人は死ぬのだ。
だが神通力で相手の心を読むトクチには通用しない。
一寸の間合いが詰んだ瞬間、今度は男の突きがトクチを襲った。連撃だ。無数の突きがトクチを襲う。そしてトクチはそのすべてを毛ほどの厚みを残して後ろに引いて避けた。
どれも同じ距離まで刃は近づいたが、連撃の最後だけは違う。わずかに姿勢を崩してもう二寸だけ、奥へと入る。これを予測していたトクチは相手の剣先を横に逸らし、代わりに木刀で薙いだ。
狙うは相手の手首だ。最後の突きが深く入っただけ引くのが遅かった。
情けない音を立てて男の手首が折れる。だがそれを意に介さずに男は残った腕で地面に落ちた刀を掴むと立ち上がろうとした。
その顔の前にずいと太い腕が差し出される。その手の中にあるのは酒をなみなみと注いだ椀だ。
「そこまで」藤兵衛の声がした。「そこもとの負けなり」
トクチが一歩後ろに下がり、木刀を地面において座り込む。こうなれば打ちかかるわけにはいかない。
観客から喝采が湧いた。
男は一瞬よるべなき怒りを目に燃やしたが、次の瞬間その肩から力が抜けた。
どっかと地べたに座り込むと椀を受け取り一気に冷酒を喉へと流し込む。ふうっと大きく息を吐き、絞るような声で呟いた。
「それがしの負けにござる」
供の男が進み出ると、座り込んだままの男の折れた腕に添え木を当てて固定する。
「猿ながら、真に見事な腕前。たしかに強い」
無事な方の片手で自分の頭を掻きむしったので整えた髷も何もなくなってしまう。
「ええい。こうなれば自棄だ。皆の衆。儂の驕りだ。存分に飲んでくれ」
わあっとまたもや歓声が沸いた。
後は飲めや歌えやの大宴会が大道で繰り広げられ、それは夜になるまで続いた。
*
藤兵衛とトクチは料亭にいた。向かいには武士二人。一人は腕を包帯で吊っている。
蓮華は先に宿に返されている。
男たちは柳生と名乗った。戦国時代から雨後の竹の子のように出て来た剣術指南の中でも有力な一派である。彼らはその分家に所属する人間で、本家を盛り立てるためにあらゆる活動をするのが仕事だ。
「そういうわけで我らにその猿をお譲り願いたい」
男たちは頭を下げた。
「無理だ」藤兵衛は答えた。「トクチは俺が飼っているのではない。俺の大事な友であり、一緒に旅をしているだけなのだ。金のために友を売る奴はおるまい」
驚いたことに男たちがトクチを欲しがるのは師範代に迎えるためだ。
猿に師範代を任せ、訪れる武芸者や道場破りの相手をさせる。その猿が強いとなれば、あの道場は飼っている猿さえ剣術の達人であるとの噂が流れる。その宣伝効果にはそら恐ろしいものがある。
この時代、どの剣術の流派も大名家の剣術指南役を目指して鎬ぎを削っていたというのが背景にある。戦国の世が終われば剣術の重要性は低くなる。どこもやがて訪れるだろう戦国の終焉と新しい平和な世を予感し、安寧の立場を手に入れるのはこのときしかないのだと深く理解していた。
それで猿が剣術をやるとの噂を聞きつけ、半信半疑ながらその腕を確かめに来たとそういうわけだ。
「ここまで猿を鍛えるその苦労は生半なものでは無かっただろうとは分かっております。ですがそこを曲げて敢えてお頼み申し上げます」
男たちはまた頭を下げた。
一人がもう一人を突くと、奥からずしりと重そうな箱を持って来た。
「どうかこれにてお願いしたい」
「奇妙だな」と藤兵衛。
「奇妙ですか?」
「これだけ出すなら最初から俺を殺して猿を奪った方が話が早かろう」
「とんでもございません」
一人が青くなった。
「これほどの猿を育てる藤原様の腕が猿以下ということはありません。それに一目見ればあなた様の強さは分かります。なにより」
「なにより?」
「先日、太閤殿下の行列を猿を連れた仁王様が襲ったとの噂があります。並みいる護衛の武士たちを人間とは思えぬ強さで叩きのめしたとの噂が」
しまったという表情が藤兵衛の顔に浮かぶのを見て、男たちの疑惑が確信に変わった。
「幸い死人は一人も出ず、太閤殿下からはこの事みな忘れよ一切構うなとのお達しが出たこともあり、表向きは事件は終わっております。ですが、これに乗じて藤原さまを探す者たちは数知らず。
なにぶん藤原さま一人を味方につければ天下人その人にも対抗できる道理。なればこれを探さないという手はありませぬ。
されど彼らが探しておりまするは猿をつれた大男。すなわちここで猿を我らにお譲りくだされば、残るはただの猿一匹とただの大男一人。さすれば人の目を引くこともござりますまい」
そこまで聞いてからトクチは藤兵衛の袖を引いた。
「よく考えたい。しばし一人にしていただけるか」藤兵衛は告げた。
二人が出ていくと、トクチと藤兵衛はひそひそと話し始めた。
「藤兵衛。儂を売れ」
「何を言う。トクチ殿」
「いや、あやつらの心を読んだが嘘は言っておらぬ。心底儂が欲しいらしい。そして儂もここらで行くべきではないかと思う。儂が山を下りたは剣の技を磨くためというのもある。これぞ渡りに船というものだろう。あ奴らと行き、剣の技を習ってこようと思う」
「ここで俺と道を分かつというのか」
「人生は出会いと別れというものよ。少なくともこの千年はそうであった」
「そうか。トクチ殿は俺よりすっと年上であったな」
藤兵衛は沈黙した。トクチはその心を覗き、驚くべき悲しみで満ちているのを知った。ぼそぼそと冷たい雨の中をとぼとぼと歩く少年がそこにいた。
これほど自分のことを思っていてくれたのかとトクチは感動した。古縁流の剣士と十二王が親友になれるなどとは想像もしなかった。
少し考えてから、藤兵衛はポンと手を打った。
「確かにな。いつまでも一緒に居れるわけでもなし。縁があればまた会えるであろうしな。よし分かった。トクチ殿を売り飛ばそう」
「やけに楽しそうだな。おヌシ」
「そんなことはない」
トクチは感心した。さきほどまでは藤兵衛は心の底から別離を悲しんでいた。次の瞬間にはそれを飲み込み、もう次の未来を頭の中に思い描いている。
こんな人間がいてよいものか。だが、だからこそ、トクチは山を下りたのだ。藤兵衛に会って初めて、遥か昔に忘れ去っていた人間への興味が蘇ったのだ。
「それにこのままでは馬に蹴られてしまうからな」とトクチは続けた。
「馬?」と藤兵衛。「もしや午の王が近くに来ているのか?」
「そうではない」申の王は嘆息した。「おヌシはまったく朴念仁だの」
トクチはいきなり藤兵衛にぎゅうっと抱きしめられた。大きな体に大きな手。そしてそれ以上に大きな心。こんなに温かい抱擁は初めてだ。
「会うは別れの始めか。寂しいな。トクチ殿」
「なに、剣術にも飽きたらこっそり逃げ出してまたおヌシに会いにいくさ」
トクチも力の限りに藤兵衛の体を抱きしめた。
この先、藤兵衛と蓮華の関係がどうなるかはトクチにも分からぬが、もし二人がくっつきでもしたら藤兵衛の放浪癖も多少は収まるかもしれない。藤兵衛の子供たちがたくさんできたら、自分には新しい家族ができたのと同じではないのか。そうトクチは考えていた。
*
木賃宿の入口に大きな影が落ちた。その姿を認めて蓮華が飛び出してきた。
「藤兵衛さま」
もしかしたらもう帰って来ないかもしれない。自分はここで捨てられたのだと悲しんでいたのは秘密だ。
「待たせたな。路銀は十分にできた」
その手の中には布で包まれた大きな箱があった。
「明日の朝から出かけるぞ。今日はゆっくりと休むがよい」
「あの、お猿さんは?」
「トクチは行ってしまった」
「行ったってどこへ・・」
そこまで言ってからはっとした。藤兵衛の顔にちらりと悲しみの翳がよぎったからだ。
『姉様は行かれてしまった』
そのむかし姉が売られたときに言われた言葉が横切った。
お猿さんは売られてしまったのかしら。
蓮華のそんな考えを知ったかのように、藤兵衛の顔に笑みが浮かんだ。
「なに、あやつがもっと強くなった頃にきっとまた会えるさ」
「そうですね。きっと」蓮華はただそれだけを言った。