イアソンも、そしてアルゴ探検隊の面々も、この旅で鍛えられたことが一つある。
それは虎視眈々と状況を睨み、機会があり次第に動くこと。とくに、じっとしていれば迫って来る怪物に殺される場合などがそれだ。
アルゴナウタイたちは誰も縛られてはいなかった。ロープがかかっていては変身の際の変形で骨が折れたりして死ぬケースがあるためだ。キルケーは変身魔法の大家だ。それはつまり、アフターケアも万全ということ。生贄の動きを封じるには周囲を獰猛な猛獣で固めるだけで十分。
しかしその猛獣たちはいま、もっと恐ろしい怪物に立ち向かっているところだった。
ヘラクレス。怒りに燃える怪力無双の殺人狂。
ライオンが、豹が、トラが、大蛇が、ゴリラが、そして名も知らぬ異形の化け物がヘラクレスへと飛びかかる。それを迎えたのは、いかなる刃物も切り裂けないネメアーのライオンの皮に包まれた神の怪力を誇る男。そして山脈の背骨さえをもへし折り砕く地獄の棍棒。猛獣たちの皮膚が裂け、肉が弾け、骨が砕ける。脳漿が飛び散り、血が霧となって空中にまき散らされる。
この闘争に巻き込まれまいとイアソンたちが飛び退く。
「そろそろじゃ」キルケーがヘラクレスを指さしながら宣言した。「その本性の姿になるがよい」
ヘラクレスの巨躯から嫌な臭いのする蒸気が吹き出した。見事な体を支える筋肉が震え流動を開始する。骨が変形し皮膚が水のように流れ始める。
キルケーの変身の魔法薬がたっぷりと入った料理を食らって、さしものヘラクレスも変身を開始した。父神ゼウスから引き継いだ魔法の抵抗力も、普通人なら致死量を遥かに超える分量の魔法の薬には負ける。
変身のすべてが終わったとき、そこにいたのは、依然として大きな体をした一匹の豚だった。体にライオンの皮が巻きついている。もはや物を握ることのできなくなった豚の前足から棍棒が落ちた。
「手こずらせおって」
キルケーが満足気なため息を吐いた。
「さあ、ヘラクレス。妾が主人じゃ。これからは妾の言うことを聞くように。さすればいつの日にか、人間に戻れるやも知れぬ」
キルケーの不幸なところは、ヘラクレスという人格を知らなかったこと。
究極に膨らんだエゴを持ったヘラクレスには、お世辞は通用しても、論理は通用しない。
ヘラクレス巨豚は豚ではあるが、それでも普通の豚とは違うところが一つある。
神の怪力は健在だということだ。
巨豚が吠えた。恐るべき憤怒と頑固さと無知を示して。
かってパンドラの甕から飛び出してどこかに逃げ出した災厄たちは、ヘラクレスの中に宿っていた。
大殺戮が始まった。
イアソンたちがアルゴ号へ行きつくまでは難しくはなかった。
誰かが密林を引き裂き踏みつぶし平らな道を作ってくれていたからだ。途中で二度、木々の脇に隠れて、前方から急ぎ足でやって来る怪物たちをやり過ごす必要があった。スキュラ、カリブ、黒い岩の殻に包まれた何か。転がる海水の塊。蠢く海藻の集合体。名も知れぬ怪物たち。ギリシア中のどの本にも記録されたことのない怪物の数々。
アルゴ号は元の所にあった。イアソンの姿を見て、女神像がほほ笑む。
「お帰りなさい。宴会はどうでした」
「もっと楽しめると思ったんだがな」とイアソン。
すぐに命令を出した。アルゴ号の船腹から長いオールが突きだして、船を離岸させる。
島の奥が明るくなる。館があると思わしき場所で大きな火の手が上がっているようだ。
「パーティは続いているようですね」重々しく向きを変え始めた船の舳先で女神像が感想を漏らす。
「良い子はもう寝る時間だ」
軽口を叩きながらもイアソンは気が気でない。ヘラクレスとキルケー、どちらが勝つにしても、どちらもアルゴ探検隊の敵でしかない。二人の衝突が終われば、すぐにでも追手がかかるだろう。後はアルゴ号が故郷に帰りつくのが先か、追手がやってくるのが先か、時間の勝負だ。
「イアソン」女神像が声をかけた。
「なんだ?」イアソンは振り向いた。
女神像を無視してはならないことを、イアソンは学習していた。彼女こそ、この船一番の知恵者だ。
女神像は浜辺を指さした。
「あそこに浮いている筏に火をつけなさい」
「火を?」
「それで私たちの勝ちです。ヘラクレスは後を追って来れない」
イアソンの目に理解の色が浮かんだ。すぐに火矢が用意され、放たれる。筏は燃え上がり、やがてばらばらになった。
帆が上がり、アルゴ号は再び海原に飛び出した。