オペレーション・アルゴ銘板

17)竪琴の夢

 霧が出て来たとき、イアソンは嫌な予感がした。たちまちにして、アルゴ号の周囲が霧に包まれる。
「厄介だな」イアソンはつぶやいた。
「船を止めた方がようがすね。暗礁にでも乗りあげたらことだ」険しい顔になった航海長が提言した。
「待って。ここは確か」霧の向こうを睨んでいた男装のメーディア姫が、自分の額をこんこんと叩きながら言った。
「以前に旅の商人に聞いたことがあります。何か厄介なものが居るって。蜜蝋を使えとか言っていたような」
「みつろう? 蝋をどうするんだい」イアソンが不思議がった。
「私にはわかりますよ。コルキスで巡礼たちが話をしていました」
 船首の女神像が話に割って入った。
 そこまで来てから、女神像とメーディア姫が同時に叫んだ。
「セイレーン!」

 間に合わなかった。

 霧の中から歌声が聞こえて来た。
 魔力に満ちて。
 死の誘いに満ちて。
 いつの間にかアルゴ号の周囲には海中から岩が立ち並び、その上に半分が人で半分が魚、ありていに言えば、人魚が座っている。歌声はその喉から発されていた。

 持ち場を離れた乗組員たちが舷側に殺到し、さしものアルゴ号の巨船もぐらりと傾いた。
 イアソンの傍を舵取りが駆け抜けて行き、止める間もなく船縁から海へと飛び込んだ。その小柄な体はたちまち波に揉まれて消えて行く。
「いかん!」イアソンが滅多に見せない大声で叫んだ。
「その場に止まれ! 野郎ども」
 一瞬、アルゴ号の乗組員たちの動きが止まる。だがその体はじりじりと前へとにじみ出るかのように船縁へと進み始めた。
「セイレーン。船人を食い物にする妖怪たち」メーディア姫が海を睨んだ。「彼女たちの歌には魔力があります。これを聞いた者の心を虜にしてしまいます」
「どうして俺たちは無事なんだろう」イアソンは当然の疑問を口にした。
「私は女性ですから、彼女たちの魔力は効きません」とメーディア姫。
 実は魔女だからとは言わないところに姫のおびえが見えているのだが、鈍いイアソンは気付かない。
「私は木彫りの人形ですから、彼女たちの魔力は効きません」と船首の女神像。
 実はもっと得体の知れない怪しげな存在とは言わないところに女神像の狡猾さが見えているのだが、思慮が浅いイアソンは気付かない。
「じゃあ、私はどうなんだ?」イアソンは尋ねた。「私は女性でも無いし、木彫りの人形でもないぞ」
「あなたは今や半分英雄なので、普通の人間よりは耐性があるのよ」メーディア姫が指摘した。少しだけだが彼氏自慢が入っている。
「それもそう長くは持たないようですけどね」
 女神像は答え、いつの間にか船縁を越えようとしていたイアソンの足を掬い上げると後ろに転がした。
「みんな動いてはだめよ」メーディア姫が懐から何かを出すと、船縁ぎりぎりで踏み応えている乗組員たちに向けて振り回した。たちまち、乗組員たちが硬直する。
 それは? というイアソンの視線による無言の問いかけにメーディア姫は答えた。
「旅の商人から買った魔法の杖よ。男ばかりの船に乗るのですもの。当然のたしなみよ。でも長くは持たないわ。大人数に使うようにはできていないのよ、これ。じきに魔法が解けるわ」
 船はきしみ音を上げて、セイレーンたちが群れる岩礁へと引き寄せられつつある。どうやらアルゴ号自体は男性らしい。
 イアソンは立ち上がった。さあ、どうする、と自分に問いかける。今こそ英雄の風格を見せる場面だ。相も変わらず魔法の歌を歌い続ける眼下のセイレーンたちを睨みつけ、その頭脳をフル回転させる。いまやセイレーンたちの歌の魔力はさらに強まり、英雄という名の殻に守られているイアソンでさえも、それに抗うことができなくなりつつある。

 何も思いつかなかった。

「イアソン!」メーディナ姫が叫んだ。
「イアソン!」金縛りにされながらも船員たちが叫んだ。
「イアソン!」女神像も叫んだ。
 絶対絶命。窮地に陥ったイアソンは手近にあった樽を頭の上に振りあげると、眼下で歌い続けるセイレーンたちに投げつけようとした。
 背後から伸びた嫋やかな手が、イアソンの腕を止めた。繊細で色白な女性を思わせる手であったが、それがついているのは美しい男の体であった。男は手に竪琴を持っていた。
「暴力はいけません」その男は言った。
 男の首筋には何かの噛み跡がある。女神像が自分の胸を守るかのように抑えた。
「お前は誰だ」
 それに答えたのは胸を隠したままの女神像だ。
「わたしは知っていますよ。この船の密航者です」
 異邦人がその彫刻を思わせる顔立ちの上に眉根を寄せた。
「それは違います。私は密航者ではありません。最初から正当な権利を持ってこの船に乗っています。私の名前はオルフェウス」
 イアソンは思い出した。アルゴ探検隊が集めた五十人の英雄の一人。竪琴の名手のオルフェウス。しかし、彼は英雄たちがアルゴ号から逃げ出したあの時以来、この航海では姿を見せなかったので、てっきり一緒に船を去ったと思っていた。
「誰とも話をしたくなかった。だからこうして」
 オルフェウスの繊細な指が竪琴の上を滑る。美しい調べが流れ、イアソンの視界が霞んだ。
「人払いをしていたのです」
「食事のときと、私の胸を触りに来るときだけは、船室から出ていたようですけどね」
 女神像は非難すると、真っ白で尖った歯をむき出して見せた。
「人を色魔のように言うのは止めてください。ただあなたは私の無くなった妻に良く似ているのです」
 女神像の非難を無視してオルフェウスは船首に立った。船首の女神像の手の届く範囲からは慎重に距離を取っている。
 オルフェウスが竪琴を鳴らした。
 セイレーンたちの歌が中断し、世界がしんと静まり返った。その中を竪琴の調べだけが流れる。
 美の支配。そういう言葉があるとすれば、それがそうであった。波さえも音を立てるのを止めた。
 一連の調べが止んだとき、音楽が終わったことが信じられずに誰もが息をするのを忘れていた。それは楽園からの追放であり、一人荒野に置き去りにされる悲しみでもあった。それほどまでにオルフェウスの演奏は美しかった。
 だが、一瞬の合間を置いて、セイレーンたちの反撃が始まった。
 ありったけの魔力を込めて大合唱が繰り広げられる。歌は物理的な実体を持って、投網のように人々を捕縛した。金縛りが解けた船員たちがその衝撃で海へと落ちそうになる。
 オルフェウスの次の演奏が始まると再びセイレーンの歌が断ち切られる。だがそれは乗組員たちにとっては解放ではなく、また別の呪縛に縛られることに他ならない。
 オルフェウスの竪琴が止むとセイレーンの歌が始まり、セイレーンの歌が止むとオルフェウスの演奏が始まる。その度にイアソンも含めて乗組員たちは右へ左へと引きまわされた。
 そうこうしている内に、両者の歌の調子が変化してきた。もはや人を魅惑する魔力の調べではなく、歌は別の輝きを帯び始めている。セイレーンの歌声とオルフェウスの竪琴の音は両者で響きあい、絡み合い、より次元の高いものへと昇華した。
「これは」女神像が感嘆を漏らした。「芸術です」
「魔法はそれ自体が芸術だけど」メーディア姫も感想を漏らした。「これは最も純粋な芸術。存在それ自体が奇跡と呼ばれるべきものだわ」
 ようやくオルフェウスが竪琴を演奏する手を休めると、すべての歌が終わった。アルゴ号の乗組員たちもセイレーンたちもみな涙を流している。
 思わずイアソンは立ち上がって拍手をした。一瞬遅れて、皆が拍手をする。惜しみない賛美がオルフェウスとセイレーンたちへと注いだ。もし、海や空に拍手ができたら、それらも拍手をしていたことであろう。
「船長。ボートを一隻ください」オルフェウスがイアソンに言った。
「僕はここで降ります。この音楽はまだ未完成です。僕はここで彼女たちと音楽を完成させます」

 セイレーンたちがオルフェウスを歓迎するのを遠くに見ながら、イアソンは頭の中でリフレインする音楽が少しずつ記憶の中から消えて行くのを残念に思った。時は無情だ。どのような感動も長くは続かない。もう一度味わいたければ次の演奏の場面に行きあたるしかない。
 イアソンはオルフェウスが語った最後の言葉を考えた。
 オルフェウスはいつの日にか、セイレーンたちとの歌を完成させるのだろう。それば神々の間でも有名になり、やがては冥界の王ハデスの耳にも届くのだろう。
 ハデスには前例がある。ハデスの妻のペルセポネは人生の半分を冥界で過ごし、人生の半分を地上で過ごす。もしオルフェウスの歌がハデス神を感動させれば、死んだオルフェウスの妻も地上で暮らすことを許されるかも知れない。
 イアソンは傍らに立つメーディア姫を見た。自分はオルフェウスのように、妻となる女性を生涯愛することができるだろうか?

 答えはまだ未来という名の闇の中にあった。