7)
少佐のくれた袋の中に入っていた指輪を売って、我々は食料と一夜の宿を買った。このような隙間風の入り込む納屋を借りるにしては、その宿代は信じられないほど高かったがその大部分は口止め料で、これで少なくとも敵に捕まることなく一晩眠ることが出来る。本来はここは盗人のための宿であり、宿の主人も我々をそう見なしていた。
季節はすでに秋に向かっており、外の闇の中ではこれから訪れる厳しい季節を予告するかのような冷たい雨が降っている。我々はようやく納屋の藁の上へと疲れ切った体を横たえることが出来た。家主にばれないように小さな火を起こして、久しぶりの食事を噛みしめていると、自分達のおかれた状況の余りの情けなさに涙が出そうになった。
それは部下達も同じ気持ちらしく、惨めに打ちのめされた表情を隠すでも無く、食い物を口に押し込んでいる。ここで私が泣き出せば部下達の張り詰めていた精神が崩れ、この小さな納屋の中でおいおいわんわんと皆で止めどもなく泣き続けることになるに違い無く、またそうなってしまった場合、体中の水分が全て出尽くしてしまうまで泣き止めることが出来ないのでは無いかとの非科学的ではあるが確信に満ちた恐れがわずかながらにあったため、私はかろうじて泣くのを踏みとどまることが出来た。
あの指輪は軍人精神の塊とも言うべき少佐のような人が持つにはあまりにも女性的で、推測して見るにそれは恐らく少佐の親しい人の忘れ形見か何かを、故人を忘れまいと少佐は肌身放さず持っていたに違い無かった。それを我々に恵んでくれたのはやがて少佐の部隊自体が敵に全滅させられることを少佐も十分に理解していたためであり、そうなると見も知らぬ敵兵達に死体を探られて結局はその指輪も持ち去られてしまうことになるからである。それぐらいならばこの惨めな集団を助けてやるのに使った方が良いとの少佐の考えであり、また一つには我々を自分達の死に場所に受け入れてやることのできないという罪悪感へのせめてもの慰めでもあったのだろう。
しかしそれでも私は、あの急ごしらえの要塞の中で死ぬことの出来る少佐を羨ましいと思った。ここで奇跡が起きて、ようやく生き残ったこの部下達とあの懐かしきグスニーオ要塞に帰り、いつまでもいつまでもそこを守り続けることができたならばどれほど幸せなことだろうとも思った。現実には我々はこの敵地の中で雨に打たれて冷えきった体を凍るような隙間風にさらしているわけであり、それはここしばらく続いていた食料不足で弱った体をひどく鞭打つことでもあった。
悪い予感というものはすぐに現実となるもので、グスニーオ要塞で要塞砲の砲撃要員を務めていた小柄な隊員の一人が青い顔で倒れるとそのまま起き上がれなくなった。全身が激しく震え、その額が恐ろしく熱いので、これは肺炎にかかったなと思ったが、持っている薬と言えば私の精神安定剤ぐらいのもので、医者も当然この規模の街にはまずおらず、例え居たとしても恐らくは敵軍の厳しい監視下におかれているのは間違いが無かった。戦争状態にある以上、全ての医者という医者には不審な人物を報告しろとの命令が出ているはずで、言葉になまりのある人間は真っ先に通報される可能性がある。取り敢えずの気休めとして、私の薬を少し飲ませた後は、様子を見ることにする以外に打つ手は無かった。
俺にこのグスニーオ要塞の要塞砲を使わせれば、どんな敵でも一撃で葬り去ってやると日頃から豪語していた男であり、またそれだけの技量を持った男でもあった。その技量も今の状況には全く役に立たず、それを言うならばグスニーオ要塞を出て以来、この男にとっては手足をもがれたとでも言って良い状態だったのだな、と思い当たった。この男だけは軍隊でつま弾きにされてグスニーオ要塞に送り込まれて来たのでは無く、時代遅れになったためにグスニーオ要塞送りとなった要塞砲についてやって来た男であった。
この男はグスニーオ要塞を出る時に、命をかけて愛していた自分の要塞砲を他の整備要員と一緒にネジの一本に至るまで奇麗に磨いてから出て来ていたが、きっとその砲もこの長雨の湿気を受けて、徐々に徐々に錆始めているに違い無く、それならばこの男の死と共に、長い間使われて来た要塞砲も今頃はグスニーオ要塞の中で死を迎えているのだなと私は勝手に納得した。
夜半、どこかで砲撃の音が小さく鳴っているのに気付いて、私は目を覚ました。高熱にうなされている男の呟きと、ぽんぽんと聞き方によってはクリスマスのクラッカーのようにも聞こえる小さな砲撃の音が、奇妙なリズムでお互いに相づちを打っているのを聞きながら、ああ、あれは少佐の部隊が砲撃を受けているのだな、と感じた。恐らくは少佐の歩兵部隊が夜襲に討って出た帰りを、待ち構えていた砲兵部隊に狙い撃ちされているに違い無く、これほどの距離を置いても砲撃の音がはっきりと耳に捉えられる以上、現実にはあの山は今頃、山の形が変わってしまうほどの砲弾の嵐を受けているはずであった。運良く闇に紛れて要塞までたどりつけたにしろ、如何に天然の障壁を形作っているとは言え、急ごしらえの要塞にそれほどの耐久力があるはずも無く、このままなすすべもなく重砲の苛烈な連続射撃を受け続けていれば、少佐とその部隊が朝までも生き残っていられる道理は無かった。
やがて、薄い雨雲を通して夜明けの光りを感じ取ることが出来る頃、遠くで鳴り続けていた大砲の音が消えると共に、それに相づちを打っていた病人の男の呟きも消えた。
こうして我々グスニーオ要塞守備隊の生き残りは四人となった。
8)
この私も含めて全員の顔には死相が色濃く浮かんでいた。深く落ち窪んだ眼下に生気の無い皮膚、頬骨は高くでっぱり、吐く息にも元気が無かった。生きてはいる。だが我々はすでに死人であった。如何にあがこうとももはや運命からは逃れられぬとの思いが、皆の心を支配している。今までのことを思い返して見れば、グスニーオ要塞を出たときに我々が死ぬことは決まっていたのだ。
これからどうするのか皆で相談して、このままもう戻ることも出来ないのならばいっそのこと軍司令部からの命令通りに敵軍司令官の暗殺に向かおう、と言うことに話が決まった。僅か四人でどれだけのことが出来るか判らないが、取り敢えず敵の首都まではたどり着いて見せる覚悟であった。無理は承知の上でどこまでやれるかを見せるのが、常に軍のはみだし者として扱われてきたグスニーオ要塞守備隊のせめてもの意地である。
地図によれば、この先の森を突っ切って向こう側の街に出れば、そこから道路に沿って鉄道の通っている街までたどりつけるはずであった。鉄道は国の中央部へ一直線に伸びているので、それから後はさほどの問題もなく首都へと行き着ける計算になる。人の多い場所を通過すればそれだけ検問に引っ掛かって我々の正体がばれる可能性も高くはなるが、今の我々の体力では街を迂回しながら歩いて敵国の首都にまでたどり着けるとはとても考えられなかった。
季節は秋であったが、今年は例年になく冬の訪れが早いようである。森の木々の間を吹き抜ける風はその途中で湿った大地の上の水蒸気を拾って来るために恐ろしく冷たく、それは薄い衣を通して、まるでこちらの骨の髄を氷の刃で叩き切られるかのような苦痛を我々に与えた。空の雲行きもおかしく恐らくは雪、運が悪ければ雨になるのではないかと思われた。このような状態でみぞれ混じりの雨に打たれれば、ようやく生き残っている我々も肺炎を起こすことは間違いなく、一度肺炎にかかれば今までの例から見て死を免れえないことは明らかであった。死の恐怖を含む憂鬱な沈黙の中で一刻も早く森を抜けようと、全員が疲れた足に鞭を打って早足で歩いていた。
どこかで金属同士が触れ合うような音がした。それは銃の撃鉄を上げる音にも似ていた。その一瞬、この暗い森の中のどこかで、迂闊にも封鎖命令の出ている森を通り抜けようとする愚か者の頭を吹き飛ばそうと銃の狙いをつけている敵兵の姿が、私の心の中にはっきりと見えたような気がして、私は部下に警告しようとして振り向いた。私のすぐ後をついて来ていた部下が私の形相に驚いて足を止めた瞬間、いきなり巨大な熊が茂みから飛び出して来た。その熊は最後尾を歩いていた男に襲いかかると、男の首筋に鋭い爪の生えた大きな前足を振り降ろすのが見えた。
男の悲鳴と熊のうなり声、それに続いて部下達がとっさに引き抜いて発砲した拳銃の音が辺りを満たした。弾は当たらなかったようだが、この熊は以前に人に撃たれたことがあったらしく、銃声を聞くとそれまで口に咥えていた男を放り出して慌てて逃げ出した。映画や何かで見る熊とは違って、あれほどの大きな生き物がこれほどまでに素早く茂みの中を走ることが出来るというのを知らなかった我々は、すっかりと呆気にとられて、熊の飛び込んだ茂みをただ見ていることしか出来なかった。
本来ならば部下のかたきとばかりに熊の後を追いかけるべきなのだろうが、すでにそれだけの気力は無く、我々はそこに止まって被害の状況を確かめることにした。熊に襲われた部下の体をひっくり返して見て、これは駄目だと一目で判った。熊の爪と言うのは存外に鋭く、恐るべき腕力を誇る腕の先に長いナイフがくくりつけられていると考えればだいたい正しい。ぱっくりと男の胸元から腹にかけて服が切り裂かれ、砕かれた骨と血まみれの内臓がそこからはみ出していた。男はすでに虫の息であり、我々は打つ手も無く、彼が死んで行くのを見守っているしかなかった。何か声をかけようとも思ったが、このようなときに何を言って良いものか判別がつかず、我々はただぼんやりと、彼の命がその体から抜けて行くのを見ていた。
男が死に、ようやく正気に戻った我々は、再び熊に襲われないように周囲を警戒しながら、半分凍りかけた森の堅い地面にかろうじて人間の死体が一つ入るだけの小さな穴を掘ると、部下の死体をそこに埋めた。きっとエサを求めて戻って来たあの熊は、地面に振りまかれた血の匂いをかぎ出して、結局はこの死体を掘り返して食ってしまうのには違いないが、今の我々に出来るのはこれで精一杯であった。
部下の死体は信じられないほど軽く、熊の胃袋を満たすだけの肉がその体に残っているのかどうかは疑問であった。その身が軽い分だけ、彼の魂は天国の門を通り抜け易くなるのではないかと想像して、私はほんの少しだけ自分を慰めた。
残りはわずかに三人。容赦無い運命が伸ばして来る手を感じながら、我々は粗末な墓の前に黙って立っていた。次に狙われるのはいったい誰になるのか、三人ともがそれに思いを馳せていたに違いない。その沈黙の中を、我々の背後でがしゃりと何か重い金属性のものが動く音がした。全員が一斉に銃を抜いて振り返った。しかし背後にあったのは枯れた落ち葉の集積と、冷たい風がその間を抜けて行く寂しげな林の醸し出す無機質な空間が広がっているだけであった。
我々には判っていた。その音は以前にも聞いたことがあったから。グスニーオ要塞の北の一角で夜の歩哨に立ったことのあるものならば必ず聞いたことのある音。グスニーオ要塞を今でも守り続ける幽霊騎士の立てる足音であった。そしてそれは、もはやその存在を隠すでも無く、我々を見張っていることを明らかにした死神の立てる音であった。
9)
まだ生きているとは言え、我々に残された時間があとわずかであることは直感で判っていた。運命の無慈悲な手は我々のすぐ近くにまで来ている。
今やその正体を表わしたグスニーオ要塞のジンクス、それはあの幽霊騎士が引き起こして来たものなのだろうか?
グスニーオを出た者を殺していたのは彼なのだろうか?
少なくとも、死んだ七人の人間はすべて不可抗力とも言える事故で死んでいる。では、あの騎士はその周囲に事故を引き起こす疫病神のような存在なのか。それともこれはすべて我々自身の運命によるもので、死ぬべき定めにある者のみがグスニーオを出ることになるのだろうか?
考えた末に私は結論を出す試みを放棄した。
だが残る三人、ここにいる我々が全員殺されてしまう前に、一刻も早く敵国の首都に着かねば、今までの我々の努力は全て無駄になるのだとは判っていた。いや、それを言うならば死んで行ったグスニーオ要塞守備隊の面々の命が全て無駄死にということになってしまうのだ。
何とかこの街で車を手に入れて隣の街にまで出れば、そこから列車を利用して一気に首都まで行けるはずであった。問題はその車をどうやって手に入れるかで、我々には全くその当てが無かった。戒厳令の敷かれている間は殆ど全ての車両が軍の管理下にあるわけで、そうとすれば当然ながら車泥棒に対する監視の目も厳しいはずである。自転車の類ならば、もう少し簡単に手に入るのだろうが、果たして今の我々の体力で隣街まで行くことができるのかは疑問であった。
食料不足に加え、この寒い時期での野外での強行軍が祟って、我々の頬からは肉がげっそりと落ち、最近では足がふらついて転ぶことも多くなって来ていた。部下の内の一人はいったん咳が出始めると止まらなくなり、ときどき真っ赤な血が混じった痰を吐いている。今度死ぬとしたらこの男であろうと、私ともう一人の部下は心ひそかに考えていた。
こうして手をこまねいていても何も解決はせず、また強烈な焦りが我々の心を支配していたので、我々は夜になるまで待ってから車を盗み出すことに決めた。ろくな下調べもしない、まさに行き当たりばったりとしか言い様の無い杜撰な計画ではあったが、すでに我々の心からは物事をより巧く行おうという気持ちは失せていた。生きられるという希望を失うことがこれほど自暴自棄な行動を生み出すということは、新たな発見でもありまた悲しき絶望でもあった。
闇に紛れて近づいた軍の車両集積場には不思議と人の気配が無く、それは最前線から遥かに遠く、敵兵を見ることなど全く在り得ないこの街では逆に当たり前のことなのかも知れなかった。軍の統制下にある状態で盗みを行って捕まれば、それは平常時には及びもつかぬ罰則を与えられることを意味するので、車泥棒自体が減っているのかも知れなかった。そのような状況なので、兵士の多くは夜ともなれば少ない給料を散財するために街の中央の歓楽街へと繰り出しており、それに取り残された見張りの歩哨が建物の付近に幾人か立って周囲を見張っているものの、それもまたおざなりなものであった。
我々が目星をつけたのは、やや小型の無蓋車両で、これはどうやら偵察に使うための軍用車両であった。外見から判断するに、この車は並んでいる中でも最も速度が出るように思えた。静かに盗み出すことが無理なのだから、後は強行突破しか手が無く、その目的にはぴったりの車である。これで追っ手を振り切り、朝までには次の街へ到着して始発の列車に乗り込むのが我々の計画のすべてであった。
歩哨が交代する隙を狙って、我々はそっと車両集積場へと近づいた。見張りのいる建物からこの場所までは刺のついた金網があるだけで、もし彼らが注意深く見張っていれば我々の姿は丸見えのはずであった。我々は身を屈めると、できる限り素早く金網へと近づいた。部下の一人があらかじめ盗んでおいた大きな金切り鋏をコートの下から取り出すと、金網の一番弱そうな部分へとその先端を押し当てた。その時だ。いきなり強烈な光が真っ向から我々の顔を照らしだし、我々三人は路上で凍りついた。部下の一人が突然に体を折ると激しく咳き込み始め、もう一人は金切り鋏を投げ棄てるとその光の中に何かを喚きながら両手を振り回して飛び出した。一瞬、私は何が起こっているのか理解できなかったが、ようやくその光が近づいて来る車のヘッドライトであり、その車が手を振っている部下に向けて速度を緩めることも無くまっすぐに突っ込んで行くことに気がついた。
その瞬間、何が起こるのかを悟って私の放った警告の叫びは間に合わなかった。やはり、との後悔の思いと共に、鈍い音をたてて車と衝突し宙を舞う部下の体を茫然と見送った。私の目には鋭い爪の生えた運命の手がその哀れな部下の体をつかむのが見えたような気がした。まるで木の葉が地面に落ちるかのように、ゆっくりと音も無く地面に叩きつけられた部下の体は何度か跳ねた後にようやく止まり、その時になって初めて自分の時間感覚が異常になっていることに気がついた。すべては一秒にも満たない間の出来事だったのだ。
車がタイヤをきしませて止まると、その運転席からよろめく足どりで将校が一人降りて来た。
「な、なんと。なんと」酒臭い息を吐きながらその将校は言った。
「そちらが悪いのだぞ。そちらが。おい、歩哨。そこの歩哨、見ていたな。この男が道路に飛び出す所を」
そこまで大声で怒鳴ってから将校は、歩哨がここにくれば事件をうやむやにすることが出来なくなることに気付いて、大きく一つ舌打ちした。
私はただ無言で、地面に叩きつけられた部下を抱き上げた。部下がはねられたのを見た瞬間にすでに判っていたことではあるが、部下は死んでいた。衝撃で首が折れたのか、奇妙な角度に頭をねじり、その手は何かを掴もうとするかのように曲げられていた。車に跳ねられた瞬間に目を閉じたのか、その死に顔だけは不思議に穏やかであった。これでようやく楽になれる、まさにそのような心が現われている死に顔であった。ようやく激しい咳の発作が治まった、今やただ一人残ったもう一人の部下が、私の背後から友人の顔を覗き込むと、とうとう堪えきれなくなったのか、押し殺した小さな声で泣き始めた。背後の闇のどこかで金属の具足が立てる足音が一つ、小さく響いた。
「わしが悪いのでは無いぞ」
語気も荒く、そんな我々の姿を睨んでいた将校が喚いた。騒ぎに呼び寄せられた兵士が幾人か、驚いたような顔で将校の背後に控えていた。
「ええい、そいつを車に乗せろ。医者だ。医者の所へ連れて行ってやる。いいか、これはわしが悪いわけじゃないが、医者の所まで乗せて行ってやる。判っているだろうが、いきなり車の前に飛び出したお前達が悪いのだからな」
部下は死んでいたが、将校にはそれが判らないようであった。あるいは知っているが兵士の手前、敢えてごまかしているのかも知れなかった。私ともう一人の部下は黙々と動いて、死体を車に積むと、一緒に乗り込んだ。
事故現場を少し離れた所で私は将校に車を止めるように要求すると、その頭を背後から力一杯に殴りつけた。死んだ部下の体から僅かに残った持ち物を剥ぎ取ると、気絶した将校の横にきちんと服装を整えて横たえた。朝になれば、誰かが彼らを見つけるだろう。将校の体からも身分を証明できそうな物はすべて剥ぎ取って置いたので、しばらくは二人とも警察の厄介になるに違い無い。今やたった二人になってしまった我々グスニーオ要塞守備隊が、列車に乗り込むだけの時間は十分に稼げるはずだ。
我々は奪った車に乗り込むと次の街へと走り出した。
10)
いまだ開けぬ早朝の闇の中に車を乗り捨てると、私ともう一人は列車の駅へと向かった。この時間ではまだ乗客の姿は駅の中には見えず、貨物を満載した列車だけが重々しい音を立てながら朝もやの中で最初の力強い動きを起こしている所であった。
元より検問のことがあり、また列車のキップを買うだけの金も無かったので客車に乗り込む計画などは問題外であり、我々は貨物列車に忍び込む予定であった。発車前の見回りが来るのを待ち、その検査が終わるのを見計らってからその車両へと忍び込めば、終点に着くまで再び検閲される恐れは無いはずであった。そのために見張りに見つかる危険を侵しながら駅の中をあちらこちらと調べ回って、我々は首都まで直行する貨物列車をようやくのことに探り当てた。
貨物列車の検閲を線路脇の草むらの中で待っていると今度は駅の周辺がいきなり慌ただしくなった。これはさてはあの将校が目を覚まして大騒ぎしたなと心の中で舌打ちした。少しばかり我々の立てた予想より事が露見するのが早すぎて、それ故に非常にまずい事態になってしまったと言える。
こんなことならば、車を奪った時点で将校を殺しておけば良かったのだが、気絶した将校の体をまさぐっている内に財布を見つけだし、その中に色あせた写真が入っているのを見たために彼を殺せなくなってしまったのである。それは家族の写っている古い写真であり、恐らくはまだ若かった頃のその将校と妻、それに子供達の写真だと思えた。再び起こった咳の発作で顔を赤く腫らした部下も、将校を殺すのには反対した。車にはねられた部下はもともと死ぬべき運命だったのであり、むしろこの将校こそが我々の運命に巻き込まれて殺人という行為を冒してしまった被害者であると彼は説明した。だからと言って部下を轢き殺された怒りが消えるわけでは無かったが、ではこの将校を腹いせに殺せば気が納まるのかと自分に問うて見て、そうでは無いことに気がついた。
私が腹立たしく思っていることは、自分の周囲の人間が次々と死の世界へ引きずり込まれて行くことであり、それに対してまったく無力な自分に対してより深い怒りを感じているのであった。そうと判った瞬間に私は拳銃を降ろし、将校への怒りをきっぱりと忘れ去った。彼の財布の中に金がいくらかでも残っていれば、その気持ちはもっと早く静まったのであろうが、彼はどうやらその全てを酒に注ぎ込んで来た後らしく、財布の中にはわずかな小銭が残っているばかりであった。
しかし、こうなれば全ては後の祭りであり、我々は大急ぎで計画を変更した。この騒ぎでは見張りの目を掠めて発車直前に列車に乗り込むことはまず不可能であり、となれば貨物列車が動き出すまで待ってから、まだ速度が上がらぬ内に列車に飛び付いて乗り込むしか方法が無いということになる。勿論、そのような行為は危険ではあるが、危険であるだけにそんなことをする者が居ようとは誰も考えないのは間違いなく、この方法ならば少なくとも敵の目をごまかすことができるものと我々には思えた。
線路は駅を出てすぐに曲がり角に差しかかる。そこならば駅からは死角になっていて、我々が列車に乗り込むのが見張りには見えないはずであった。またおそらくは、列車はこの曲がり角を抜けてから本格的な加速を開始するはずであり、少なくともこの場所まではゆっくりと進むはずであった。これは我々に取って二重の利点と思えた。一つ気になるのは列車の中に見張りが配置されるかも知れないということであり、もしそうであれば我々が敵国の首都に着くまで列車の中で発見されずにいることは不可能であると言えた。しかしこればかりはこちらの希望でどうなるわけでもなく、今や残り少ない我々の運を天に任せる他は打つ手が無かった。
不思議なことに駅周辺を探索しているのはほとんどが警官であり、本来ならばここで出て来るはずの兵隊達の姿は見えなかった。もしかしたらこれはこの戦争最後の激戦となるだろう首都攻防戦を控えて、敵国の兵隊の全てが我が国の首都辺りに集中しているせいかも知れず、そうだとすれば我が国が降伏するのもそう遠い話では無いものと思えた。残された最後の一人の部下と敵の基地へ出かけて降伏するという案が頭の隅を掠めたが、そうなればそうなったで、きっと捕虜収容所の中で惨めな、そして周囲に永遠の謎を問い掛けるような不思議な最後を遂げるのだろうな、との思いが続いて浮かんで来た。すでに八人の命を食らった狂暴な運命の輪は今も私と残されたたった一人の部下の周囲でじりじりと包囲網を狭めているに違いなく、それぐらいならば死んで行った部下達に申し訳が立つようにと、このまま作戦を続行することにした。
汽笛と共に、目的の列車が動き始め、私は夢想から目覚めた。冷えきった手足をこすり、線路の曲り角の草むらの中に身を潜めて、その時を待った。線路の鉄のレールが共鳴による僅かな振動音を発し、続いて目の前を列車の先頭が轟々たる音を立てて通過した。まだ速度を上げていないとは言え、その圧倒的な重量感は本当にこれを人間が作ったのかと疑いたくなるようなもので、しばらくの間、私と部下は麻痺したように列車が通り過ぎて行くのを見つめていた。引き伸ばされた時間感覚の中でようやく我に返ると、私は列車を慌てて見つめ直した。飛び付くならば列車の後部が良く、丁度手頃な手すりがついた車両が一つ、今まさに通り過ぎようとしている列車の横腹にちらりと見えたので、それに目星をつけた。数を二つほど数えてから草むらから飛び出すと、私はその手すりに飛び付いた。同時に私の後についてきた部下もそれに飛び付き、しばらくの間、二人が手すりをつかんで空中にぶら下がる形になった。遠心力が働き、体が外に投げ飛ばされそうになるのを私は必死で堪えて、列車がカーブを抜けるのを待った。
ようやくカーブを抜けると、今度は列車が速度を上げ始め、私は焦りと共に汗でぬるぬるした手に一層の力を込めて手すりにしがみついた。自分でも思っていた以上に体力が落ちていて、なかなか手すりから上に体を引き上げることが出来ず、それは部下にとっても同じことで、こちらも青い顔をして手すりを握り閉めている。ここでもし手が滑りでもしようものならば、たちまち地面に叩きつけられて死ぬことは明らかであり、万一ぶら下がった足がそのすぐ下で力強く回転している車輪に巻き込まれでもすれば、これもまたたちまちにしてぶつ切りの轢死体が一つできあがることになる。
私は一つ決心すると、だんだんと力が抜けて行く手に見切りをつけて、足で列車の壁を強く蹴った。息詰まるその一瞬、反動で手すりから手がもぎ取られそうになったが、そのお陰でようやくのことにもう一方の足を手すりの下側に引っ掛けることに成功した。ここまで来れば後は簡単である。足が滑らぬように祈りながら体を引き上げると、ドアの鍵を開け、それから列車の中へと這いずるように転がり込んだ。すばやく列車の中を見回して敵がいないことを確認すると、私は扉の隙間から手を伸ばして部下の体をつかんだ。
その時だった。いきなり咳の発作が部下を襲い、力の抜けた彼の手が手すりから離れた。今までろくに繕われることも無く酷使されてくたびれ切った部下の服が、私の手の中で音を立てて裂けると、驚きと死の予感に断末魔の悲鳴を上げながら、部下は視界から消えた。
世界が闇に包まれた。一人ぼっちになるということが、これほどまでに恐ろしいことだとは予想もしなかった。いつか来るだろうと思っていた瞬間が今訪れ、そして遂に次に死が訪れるのは自分だとの認識が生まれた。自分だけは最後まで生き残るだろう、私はそう心の隅で信じていた。そのように信じていたが故に、今まで発狂せずにいることができた。だが今や、最後の砦は崩れさった。
もはや誰も、私と死との間に横たわる者はいない。
茫然とした気持ちを無理に抑えこみ、列車の扉から顔を突き出してみると、遠くの線路の脇、先ほど彼が落ちた辺りに小さな赤いボロ切れが横たわっているのが見えた。例え部下がまだ死んでいないとしても直に死ぬのは間違い無く、医者を呼んでやろうにもこの列車が目的地に着くまでは外部との連絡の取りようが無かった。私はただ一人、頭を抱えて、車両の隅に座っているしかなかった。
もはや、胃がしくしくと痛むなどという段階は当の昔に通り過ぎていて、薬を飲んだからといって胃の痛みがやわらぐということは無くなっていたが、それでもまだ私は薬を飲み続けていた。薬を飲み続け、それがもたらす踊る小人や桃色の雨の幻覚と共に居なければ、永遠に続くかと思われるこの旅の中で私の繊細な精神は間違い無く崩壊していただろう。今やその永遠も僅かに後一人の死で終わりとなる予定であり、手持ちの薬も小さな小瓶が一つだけになってしまっていた。
どこかすぐ近くで金属のこすれ合う音が聞こえたが、私はそれを無視した。
11)
列車が止まる衝撃でそれまで壁にもたれ掛けさせていた体が前に倒れて、それでようやく目が覚めた。体がひどくだるく、心臓が何かの手につかまれているかのように痛んだ。たった今まで恐ろしい悪夢を見ていたのか、この列車の中の寒さにも関らずに体が寝汗でびっしょりと濡れているのが判った。体というのは現金なもので、目が覚めてみると今度は寒さで震えが止まらなくなった。
どうやら列車は目的地に着いたらしい。車両の扉を僅かに開けて左右を見渡すと、思った通りに列車は駅についており、駅の建物の向こうに大きな都市らしきものが見て取れた。苦労して標識を見つけ出すと、ここが間違い無く敵国の首都であることが判ったので、私はそっと列車を抜け出した。当然あるべきはずの車両の検閲も無く、駅員の目を盗んで駅の雑踏の中に紛れ込み外に出ると、奇妙にこの街は騒がしく、そして平和だった。
しばらく駅の案内板を調べた挙げ句、どうしても見つからずに業を煮やして何人かの通行人に尋ねた後に、ようやく軍司令部の所在地を見つけ出した。なまりのある奇妙な風体の人間が軍司令部の場所を聞き回っていたなどという噂が広まる前にと、私は聞き出した場所へ向かって早足で歩いた。着いて見るとそれは実に巨大な建物で、建物の壁そのものは直接に爆撃されても大丈夫なように重い丈夫な石材で構築されていた。小さい窓がその石の壁の中に並び、所々に突き出した通風孔から、朝の冷たく澄んだ大気の中に微かに白い蒸気が吹き出していた。この建物こそ、この戦争の一方の中心であり、また今ではこの国と我が国を合わせた中でも最も安全な場所であると言える。最前線はすでに我が国の首都へと移り、反撃の望みは今や私一人なのであるから。
まさかこんなに無茶な計画が進行しているとは、命令を下した一部の人間を除けば敵味方を問わず誰も知らないはずで、その一部の人間に限ったとしてもグスニーオ要塞守備隊は全滅したと考えているのは間違い無く、そのためかどうかは判らないが、建物の周囲に配置されている警備員はそれほど多くは見えなかった。
いざ、ここまで来て見ると、敵司令官の暗殺などという行為がまるで夢物語に思われて来て、それに加えてたった一人で周囲はみな敵というこのような状況に立ってみると、必死の覚悟で来たはずの私の勢いがたちまちにして萎えてしまうのを感じた。
どこから侵入すればいいのかということを、敵軍司令部の建物の正面にある公園の中のベンチに座ってぼんやりと考えている内に、これではまるで巨大な象に挑む蟻と同じだなという思いが心の中にわいて来て、あまりの事態の馬鹿馬鹿しさに今度は戦術を考える気も失せてしまった。一人で万軍に対抗できる戦術などというものがあるのならば、戦争で負ける人間は誰もいなくなる理屈だ。現実はそんなに甘くは無い。
いつまでもここにいるわけにいかず、また冷たい風が容赦無く残り少ない私の体温を奪って行くのに音を上げて、正面から敵の司令部を訪ねてみようと決めた。捕まるにしろ殺されるにしろ、少なくとも熱いお茶の一杯ぐらいは死ぬ前に貰えるかも知れない、そんな思いが頭の中を掠めた。
胃がさらにきりきりと痛み始め、どうせこれが最後だからと薬を全部飲み込んで薬瓶を空にすると、私は意を決して軍司令部の建物の中へと足を踏みいれた。
「そこで止まって下さい。身分を証明するものをお見せ願います」
歩哨が喋りながら近づいて来ると私の前に立った。
しばらくポケットを探る振りをした後、どううまく演技しても騙し通せる道理は無く、そもそも手持ちの拳銃一丁で厳重な警備を強行突破できるはずも無いと考えて、これだけは隠し持っていたグスニーオ要塞守備隊隊長の身分証明書を出して男に見せ、軍司令官に会いたい旨を申し付けた。歩哨はしばらく考えた末、司令部内部に連絡を取り、私が内心驚いたことに司令部の中へと案内してくれた。身体検査をされた時にはひやりとしたが、拳銃を納めて腰に巻いていたはずのホルスターはどうやら目が覚めた時に列車の中に落として来てしまっていたことに気付き、この幸運に少しばかり気を良くした。今まで大事な拳銃を無くしたことにも気付かないほど興奮していたのかと思うと、これでも自分は軍人なのかと少しばかり情けない気分にもなったが、それよりもどうやって、いや、何を使って敵司令官を暗殺すれば良いのかとも心配になり、最後に果たして自分は敵司令官を本当に殺したいのかどうかと考えているのに気付いて茫然とした。
よくよく考えて見れば、自分は軍人ではあるが今まで人を殺したことが無いことに気付き、改めてどっと冷や汗が吹き出した。人を殺し、殺される、それを前提とした軍隊生活が嫌だったからこそ、薬を飲むようになり、それ故にこそグスニーオ要塞へ配属されることになったのではないか。どうして今までこの事実を忘れていたのだろうと不思議に思う一方では、自分はあれほど無残な部下の死を取り乱すことなく平然と見て来たのであるから、きっと敵司令官の暗殺も眉一つ動かすでもなく実行できるのではないかとも思った。
軍司令官の部屋への続き部屋に案内されると、そこのソファーの上に座って待つようにと指示され、そのまま一人そこに取り残された。
ドアの横では司令官の秘書を務めているに違いないわし鼻の青年が夢中でタイプライターを打っている最中で、彼は私に監視の目を向けようともしなかった。
私には何がどうなっているのか判らず、きっとどこかでひどい誤解があったのだなと思っている内に、久しぶりに柔らかい敷物の上に座ったことと、程よく暖房された暖かい部屋の空気のお陰で、猛烈な眠気が私に襲いかかって来た。それはこれから人を殺さなくてはならないという緊張感を覆ってあまりあるもので、実を言えば今まで体験したことの無いほどの激しい眠気であった。ここで最後の仕事を目の前にして寝込んでしまうなどというのはもちろん問題外の行動であり、私は必死に目をこすりながら何とか意識を保とうと努力した。この眠気が先ほど大量に飲んだ薬のせいであるという認識が頭の隅に浮かんだが、それも眠気との戦いに忙殺されて消え去った。
とにかく、拳銃が無い以上、どうやって軍司令官を殺すのかが最も重要な問題であり、それには何か重たいもので頭を殴るのが最も手っ取り早いと結論した。尖った物があればもっと良いのだがと考えた所で、床に落とした視線の先に尖った金属が見えた。それは良く磨かれた如何にも切れそうな古風な剣の先であり、視線でその元をたどってみると、目の前に立派な金属製の騎士の鎧が置かれていることに気付いた。敵軍司令官の趣味の置物であろうか。良く磨かれた剣は今回の目的にぴったりであった。
私は秘書の注意を引かないように静かに手を伸ばすと、その剣が取り外せるものかどうかそっと引っ張った。剣は重く、そして私の動きに抵抗した。
鎧が動いて初めて、それが実は置物などでは無く、中身の詰まった騎士そのものであることに私は気付いた。それはグスニーオ要塞の幽霊騎士だった。恐怖に痺れた私の手の中から剣が離れると上にあがり、そして私の首筋へと触れた。頚動脈のすぐ上に。
そうして、その幽霊騎士は人間のものでは在り得ない静かな声で私に語りかけた。
「帰ろう。グスニーオ要塞へ。汝が役目は終わった。
我が剣と我の持つ天より授かりし権利により、汝をグスニーオの守護騎士に任命する。
騎士の高潔な魂の如く、心正しく務めよ。行い正しく務めよ」
それから騎士は剣を私の左右の肩に交互に当てると剣を鞘に納め、その代わりに金属の小手をはめたままの手を差し出して来た。
「帰ろう。素晴らしきグスニーオ要塞、我等が麗しの住処へ。
今の時期のグスニーオは雪に覆われ、冬の静かな白のきらめきの中に永遠の静寂を広げている。その美しさこそ、グスニーオの本質。
やがて吹雪の風に乗って、遥かな昔から我等の故国を狙っている敵達が時を駆け抜けてやってくる。我等は共に冬の戦いを行わなくてはならぬ。過去、現在、未来、あらゆる時に渡って永遠に行われ続ける戦いを。
グスニーオが陥落すれば、我が故国の命運は尽きる。
今も、そしてこれからも、我々だけが真の敵から故国を護ることが出来るのだ」
「そうです。隊長。帰りましょう。グスニーオへ」
いつの間にか、幽霊騎士の横に立った私の部下の一人が言った。
「要塞を護ることこそが、我が国の守りの要である!」
赤い顔をした軍事顧問が怒鳴った。
「帰りましょう。隊長。我々はここには不要な存在です。我々の居るべき場所はグスニーオ要塞だけです」
もう一人の部下が私の手を取ると立たせた。
「懐かしのグスニーオへ。さあ、帰りましょう」
ドアが勢い良く開いた。一枚の書類を手にした軍司令官が怒りながら出て来た。
「ええい。君。この降伏文書の写しは誤字だらけでは無いか。これを党本部に送れと言うのか。政治家どもがこれを見て私に何と言うか、君に想像がつくか?
それに日付が間違っているぞ。日付が。あの国が降伏したのは先週の木曜日のはずだぞ」
そこまで怒鳴ってから、ソファーに倒れこむようにして眠っている、擦り切れた服を着込んだ惨めな男に気付いた。その容貌はどことなく骸骨を連想させた。
「これは誰だね。今日は面会の予定は無いはずだが」
書類を受け取りながら、自分が責められたことにどぎまぎしながら秘書が答えた。
「受け付けの話によるとグスニーオ要塞の隊長だそうです。司令官のお仕事が終わるまでは誰も邪魔してはならないとの命令でしたので、ここで待っていて頂いたのですが」
「グスニーオ要塞だと?」
軍司令官は一瞬、ぎょっとして目を剥くと、慌てて自室に戻り、拳銃を持って引き返して来た。
「馬鹿者。君の物知らずにも限度がある。グスニーオ要塞というのは敵の要塞だ。
そう言えば、そこの守備隊は戦争中に何か特殊な作戦に送り込まれて全滅したと聞いていたが」
秘書に命じて警備兵を呼ばせると、司令官はそっと手を伸ばしてソファーの上の男を探った。それから、銃を構えて走って来た警備兵に慌てるなと手を振って合図すると、自分の手にした拳銃の安全装置を元に戻した。
「心配無い。死んでいる。どうやら心臓麻痺だな」
それから司令官は男の服から取り出した薬瓶を目の前に持ち上げるとそのラベルを読んだ。
「これが原因だな。分量を間違えると危険な薬のはずだ。医者の注意を守らなかったのか」
「あるいは何かの抗議のつもりでここで自殺したのでしょうか?」秘書が言った。
「そうかも知れんな」軍司令官が答えた。
グスニーオ要塞は建造以来、一度も敵に落とされたことの無い不敗の要塞である。グスニーオ要塞の作りは堅固で、天然の地形をうまく利用した、要塞としては実に優れた構造を持っている。しかし現在のグスニーオ要塞は主要な交通路から外れ、あくまでも辺境の守りという程度の意味しか持ってはいない。数々の伝説に彩られたグスニーオ要塞にもやがてはただの遺跡に過ぎなくなる日がやってくるのであろう。
だがそれは、まだもう少しばかり先の話である。
今でもそこには守備隊が駐在し、国境を守り続けている。グスニーオ要塞の崩れ掛けた北の塔には、深夜になると遥か昔の戦いで死んだ騎士の幽霊が出るとも伝えられている。また、風の無い蒸し暑い夜には前の戦争で死んだ兵士達が酒盛りをしている姿が見られることもあると言う。男達の人数はきっかり十人である。