歴史書銘板

その名はハンニバル

1)雑用奴隷の証言

 だから言ったのに。
 オラは舌打ちをしながら、眼下の山肌を息も絶え絶えに登って来る連中を見下ろしていた。
 それはみんな、かってはカルタゴの精鋭市民兵だったものだ。それが今は薄い空気に喘ぎながら、ボロボロの服を胸元にかき集めて何とか少しでも寒さを逃れようとしている遭難者の群れに過ぎない。
 兵の半数は餓え、残りの半数は凍え、さらに残りの半数は高山の病にかかっている。それでも背中に担いだ重い武器を手放さないのは立派だ。もっとも今ここで武器を失えば、明日の朝には死体になっているのだから捨てるに捨てられないというのが本音だ。
 今夜もまた山岳民族の襲撃があるだろうとオラは見ていた。物資を満載したカモたちがこんなところにまで登って来るなんて百年に一度あるかどうかのことだ。ヤツらは絶対に諦めない。
 幽鬼の群れの中央で、何とかまだ威厳を取り繕っているのが今回のローマ遠征の指揮を執るカルタゴの司令官ハンニバル・バルカその人だ。
 まあ、彼だけは食い物も服もたっぷりと使えるし、重い物はお付きの兵に持たせているのだから、元気なのも当然と言やあ当然だ。

 オラはそのハンニバル様の父親であるハミルカル・バルカ様の奴隷だ。その前はローマ帝国を中心にあちらこちらを放浪しただよ。奴隷だからご主人さまが死んだりすれば財産として売り飛ばされるのが定めなんだよ。
 中でもモーリア・ネイダ賢者の奴隷であったときは大事にされただよ。ネイダ賢者は色々なことを教えてくれたし、二人で長い間お喋りをしただよ。おかげで軍事に関してはオラの頭はちょっとしたものになっただよ。
 本当のことを言えば、ハミルカル様のブレーンはオラだったよ。旦那様のお世話の最中にちょっと小耳に挟んだ作戦に感想を漏らしてそれが大当たり。最初は余計な口をきく奴隷としてオラを鞭打ちしていたハミルカル様もやがてあらゆる作戦をオラに相談するようになっただ。
 オラの方がずっと頭が賢かったからだよ。

 ハンニバル様が将軍として独立したときにハミルカル様からお付き奴隷としてオラは譲られたんだよ。そしてこのローマ遠征に付いていくことになっただ。
 でもハンニバル様はまだお若い。ハミルカル様のようにオラの言葉には耳を傾けないだよ。ハミルカル様はハンニバル様にうるさく言ったけど、オラを信用しようとは思わなかっただよ。奴隷は奴隷、将軍は将軍、それがあの方の考え方だったよ。
 本当に馬鹿なんだから。ろくに戦いの指揮の経験もないのに、自分が前代未聞の大将軍だと思ってなさる。親父様が大将軍でも子供はただの人なのに、将軍の血が、なんて自分で嘯くのだからオラ心の中で笑ってしまっただよ。もっともその笑いを顔に出したら鞭打ちされるに決まっているから必死で堪えたんだよ。

 街道でローマの軍勢にぶつかったとき、オラの忠告も聞かずにハンニバルの旦那はまっすぐローマ軍にぶつかって行っただよ。背後につき従うカルタゴ兵が旦那は自慢でならなかったんだよ。
 オラは止めたんだけどなあ。
 旦那はローマから遠く離れて行動する精鋭ローマ軍団の強さを知らなかったんだよ。

 いきなりの遭遇戦だから象兵なんか用意する暇はないだよ。
 たちまちにしてカルタゴ兵の二割が死んでハンニバル様は焦っただよ。
 サグントゥム攻城戦のときは敵があまり強くなかったけど、今度の敵はローマ正規軍だからそうはいかねえだよ。敵ごとに力の強さが違うことをハンニバル様は知らなかっただよ。
 二割が死んだら軍隊は終わりなんだよ。
 オラ、すぐにカルタゴに引き返すように言っただど。軍事作戦で最初の計画が崩れたらまずやることは撤退だよ。でもハンニバル様の山より高いプライドがそれを許さなかっただよ。
 オラたちはそのまま逃げる機会を失って軍隊ごと山裾に押し上げられただよ。ローマ軍は深追いせずに、降りてきたらオラたちを殺そうと、陣を引いて待っていただよ。

 そこでハンニバル様がトチ狂っただよ。いきなりオラたちはアルプス山脈を越えねばならないと叫び出しただよ。
 本人は凄い考えを思いついた気分でいたのだけど、オラ分かっただよ。ハンニバル様は敗戦のショックでおかしくなったんだと。相手が強すぎてまたぶつかるのが怖かったんだよ。
 アルプス山脈を誰も越えないのは皆それをやったら死ぬからだよ。ましてや登山の経験もない軍隊ができるわけもない。

 止めたんだけどな。オラ。それで返事の代わりに棒で殴られただよ。


2)山岳案内人の証言

 だから言ったのに。

 俺はため息をついた。
 ハンニバル様の行列の背後を登って来る小山のような化け物はインド産の象という生き物だ。象は本来は暑い平地に住む生き物だから、それがこんなアルプスの山の上にいるのは異様な光景以外の何物でもない。
 インド象は体の上に形ばかりのボロ切れをかけてもらっているが、そんなものでこの寒さが防げるものか。それ以前に、ここの薄い空気ではあの巨体には厳しすぎる。人間よりももっと、苦しんでいるはずだ。
 高山の病ってやつだ。俺は小さいときからここに住んでいるからもう慣れっこだがな。
 インド象は最初は四十頭ばかりいた。ピレネー山脈を越えるときに十頭が薄い空気と寒さのお陰で死んだ。それに食料不足が加わって、このアルプス越えではとうとう残り五頭にまで減ってしまった。きっとこの山を抜ける頃にはインド象は全部死んでしまっているに違いない。
 この象たちはもの凄く高かったはずだ。象使いも含めるといったいどれだけの金がかかったのだろう。カルタゴって国は海を抑えて金持ちだが、それでも堪ったものじゃないはずだ。
 その値段を思って、俺は心の中で将軍の顔に唾を吐いた。もちろん実際にはそんなことはできないがね。何と言っても俺の雇い主だ。
 それにこの高地では飲み水は貴重なんだ。雪はいくらでもあるが、それを口に含んだりしたら体が冷えて死ぬから駄目だ。貴重な薪を燃やさないと水は作れない。でも薪を使い尽くせば、今度は夜に寒さで死ぬ。
 ぎりぎりの行動原理。残虐な結末。生きるというのはここまで苦しいことなのかと、心の底から感じた。貴重な水だからその涙は自分で飲んだけど。

 ああ、ちくしょう。あのインド象と象使いを雇う金で、代わりに食糧を買っていればもう少しは増しな結果になっていたろうに。いや、それでも駄目だ。どれだけの食料をここまで持ち上げようが山の蛮族に奪われて終わりだ。この辺り一帯はやつらの縄張りなのだから。

 だいたい、ハンニバル将軍は山は素人じゃないか。
 俺は眼下でへばっている将軍様とやらを見つめた。
 だから山にくわしい俺が雇われたのだが、どんな忠告も聞いて貰えないんじゃどうにもならない。たぶん、俺が雇われたのはハンニバル将軍様とやらの考えじゃなくて、他の誰かの提案なんだろう。でなければあの自分は何でも知っていて何でもできると考えている馬鹿将軍が俺を雇う訳がない。
 俺は行く手に待ち構える山脈を睨んだ。それから問題点を一つずつ数え上げた。

 まず食糧が足りない。寒い場所では普通より沢山の食糧が必要となる。だから持てる限りの食糧を集めろと、これは口を酸っぱくして言ったのだが聞いて貰えなかった。ハンニバル将軍は山岳に住む民族から食糧を買えば良いと考えていた節があるが、それは無理な相談というもの。山が平地ほど食糧豊かなら、みんな平地には住まないだろう。彼らは売りたくても売る食料がないんだ。

 次に蛮族たちの問題がある。この山に住む連中はみんな気が荒くて飢えている。そんな彼らの土地に余所者が大軍勢を引き連れて入り込んで来たのだ。これがうまくいくわけがない。
 案の定、襲われた。蛮族はこちらの軍勢に比べれば少数だが、山に慣れている上に、この土地の事を知り尽くしている。それに比べてこちらは山に不慣れな重装歩兵に騎兵だ。蛮族に取っては容易い獲物ということになる。岩陰に隠れて見張り、隊列が手薄になれば襲い、獲物を掻っ攫って素早く山肌を駆けて逃げる。馬は山を走れないし、こちらの人間では山に慣れた奴らには追い付けない。こうなれば、後はもうただ襲撃を延々と繰り返されるだけだ。
 それに対してハンニバル将軍が出した答えが、金を払って蛮族の土地を無事に通行させてもらうという手だ。これが最悪の手だというのは言うまでもない。この山にカモが大金持ってやってきたという噂が広まり、たちまち周辺の山という山から蛮族が押し寄せて来た。普段は敵対している連中までもが手を組んでこの山に不慣れな軍勢をカモにしようというわけだ。
 あらかじめ使節を送っておいてここらの有力な部族と話をつけておけばまだ何とかなったろうが、今となってはもう遅すぎる。

 最後に高地の病の問題がある。空気が薄くて寒いのに慣れていないせいで、象だけでなく多くの兵が病に倒れている。野営所でも作ってしばらく休ませれば何とかなるかも知れないが、そんなことをしていれば蛮族による被害が大きくなるだけだし、何よりもカルタゴ軍のアルプス越えを知ったローマ軍に出動の時間を与えてしまう。

 問題だらけだ。この行軍は。俺は深いため息をついた。山に追い上げられる前にすでに軍勢の二割は死んでいる。この山を越えるまでに、後どれだけの人間が死ぬことになるのやら。だが、ハンニバル将軍は退かないだろう。ここで退却なんかしたら、歴史に将軍の名が何と刻まれることか。
 俺はもう一度、服を体にきつく巻き付けた。これは死んだ兵士からはぎ取ったものじゃないが、他の兵士は皆そうしている。死体剥ぎをやった連中は生き残って、やらなかった連中はすべて死んだ。
 まあどっちみち、それをやったとしても、このままではやがてはみんな死ぬ。
 また一匹、インド象が倒れた。急がなくては。今ならまだ肉の分け前にありつけるかも知れない。


3)カルタゴ兵の証言

 だから言ったのに。
 俺たちは眼前に広がるローマの軍勢を見つめながら、体の震えを抑えるのに必死だった。
 戦場は初めてじゃない。だが、こんな厳しい状況は初めてだ。
 相手は名にしおうローマの軍勢。きらびやかな鎧に包まれて、盾を片手に、長槍をもう片手に、密集隊形ファランクスを組んでいる。
 こちらも同じ隊形だが、中身が違う。山越えで疲れ果て、山賊たちに襲われて傷つき、長い間の飢えでこうして立っているのもやっとだ。前列こそ武器を構えているが、後の連中なんか、ただの棒きれを持たされている。重くて持ちにくい長槍のほとんどはアルプス山脈に捨てて来た。
 目の前のあれが突っ込んで来たら俺たちはどうなる?
 祖国のために君たち若い命を捧げるのだ。カルタゴ・ポリスのお偉いさんの演説にうかと乗ってしまったのが間違いだった。いや、俺はそんな言葉を信じたりはしない。でも幼馴染たちが戦場に行くことになって、その家族に俺がついていって死なないように見守ってやってくれと頼まれてしまったからな。まったく、その昔に傭兵をやっていたからと言って俺にいったい何を期待するのやら。
 あれだけいたカルタゴ市民兵たちが、山を越えただけで元の軍勢の三割にまで減るなんて、こんな話は聞いていないぞ。おまけに生き残った連中の顔ときたらどれもやせ細った幽鬼の形相だ。凍傷で壊死した手足が臭う。たとえこの戦いに生き残ったとしても、いったいどれだけがその先の病気を生き残ることができるだろうか。
 あの将軍の顔を見たときに俺は戦友に言ったんだ。こいつは尋常ではないほどの馬鹿だぞって。
 皆が俺の言葉を笑ったがな。ほれ見ろ。俺が正しかったじゃないか。

 本当なら、この場所には象の大群が布陣するはずだった。大きくて立派な強い象だ。そいつを四十頭あまりずらりと並べて、ローマの歩兵を蹴散らすというのがあの間抜け将軍の作戦だった。ところがどうだ。蓋を開けてみれば象は全部アルプスの雪の中で死んで、わずかに三頭が残るばかり。それも俺たち同様にやせ細り、今にも倒れそうだ。
 だいたい、象なんか戦場で役に立つものか。俺は知っているんだ。
 傭兵として雇われた前の戦場で見てしまったからな。
 あいつら、槍の一本でも体に刺さったら、背中の象使いを鼻で叩き落としてさっさと逃げちまう。人間の代わりに死ぬまで戦うなんて嘘だよなあ。あいつら賢過ぎる。少なくともハンニバルの言葉を信じてしまった俺たちよりはずっと賢い。
 それに馬が象の匂いを嫌うだって?
 だから戦闘に有利だって?
 馬鹿じゃねえか。
 軍馬は人間を殺すように訓練されるほど賢くて気が荒いんだぜ?
 嫌な臭いがしようが何だろうが、気にするような軍馬がいるものか。人間だって同じだろ。相手が臭いからって近づかない兵士なんかいるものか。むしろこんな臭い奴は殺せとなるに決まっている。

 ああ、嫌だ、嫌だ。俺たちはこれから死ぬんだなあ。
 おっと、何だ。ヌミディア騎兵の奴ら、動き出したぞ。ハンニバルの馬鹿が何か叫んでいるぞ。ははあ、騎兵が勝手に暴走したのか。ヌミディア部族はカルタゴの属国じゃないからな。あいつらこのまま逃げるんじゃないだろうなあ。


4)ヌミディア騎兵の証言

 だから言っただろうが。俺は小さく舌打ちした。
 ローマ軍団の兵の前に、カルタゴ軍団は小さく固まってしまっている。頼みの象兵が全部やられてしまっているのだから、ローマの軍団を止めるなんてできっこない。だいたい、象が全部無事だったとしても、何の役にも立つものか。象が戦場で役に立ったことなんかない。
 決まっているだろう?
 おっと、俺がヌミディア騎兵だからって象を目の仇にしているわけじゃないぜ。
 馬は象の匂いを嫌うなんて風説はいったいどこから出たんだ?
 だいたい、野生の馬をけしかけるならともかく、訓練した馬が敵の臭いなんか気にするものか。もちろん、俺たちの馬だってそうだ。

 馬は風だ。
 馬は勇気だ。
 馬は力だし、疾走する槍だ。
 そして、俺たちヌミディアは馬と人が一つになったものだ。そんな俺たちの誰が敵を恐れるものか。

 まったく、あのハンニバルと来たら、お付きのものの忠告も聞かずに無理させるものだから、象は全滅だし、生き残った兵は二割だ。残りはみんな死に果てたし、生き残った奴も骸骨同然の有様だ。
 あいつの親父なら、もうちょっとマシだったかな。
 ハンニバルと来たら、相談役の元将軍の親父が死んだのもそうだが、その後に親父の参謀役を全部追いだしちまったのがもっと良くなかったな。まあ、甘やかされたお坊ちゃんってのはこんなものか。
 それに比べてうちの隊長は偉かったな。あの山登り野郎の言うことをちゃんと聞いて、食い物も馬の飼料も山ほど持ちこんだからな。前払いのほとんどはそいつと毛布の代金で消えたが、お陰で俺たちはまだ生きていて元気だ。
 それにローマの奴らも、少しばかり変だ。もっと動きが良い軍隊のはずなんだが、布陣が遅い。おまけに動こうとしない。
 きっと俺たちがアルプス越えしたんで、辺境に出ている軍団を呼び返すのが間に合わなかったんだな。急ごしらえの連中なら、あの動きの悪さも何となく判る。この点だけはアルプス越えのよい所だな。敵の隙を突くことができた。
 もっともお陰でこちらの軍も戦う前から壊滅寸前だが。

 そろそろか? そろそろだ。

 隊長の突撃の合図だ。向うの騎兵を置いてけぼりにして、さっとローマ歩兵の横に回って、さっと弓矢を射かけて、さっと逃げる。この繰り返しだ。山の上でさんざ俺たちがやられた作戦を、今度は俺たちがやるんだから、戦ってのは奇妙なもんだ。
 平地の騎兵を倒せるのは同じ騎兵だけだ。そして同じ騎兵同士なら腕の良い方が必ず勝つ。おまけにヌミディア騎兵に勝てる騎兵はこの世には存在しない。

 さあ、行くぞ。俺たちは吹き渡る風。誰にも追い付けない。


5)老齢退役兵の証言

 だから嫌だって言ったんだ。

 いくら元老院の命令だからって。
 いくら報奨金狙いの女房の命令だからって。
 いくら街を守るためだって。

 俺は老齢退役兵だぜ。長い間外地で戦ってきて、ようやくローマの一級市民の権利を貰って、ようやく平和な暮らしができると思っていたのに。
 今年で何歳だと思ってるんだ。鎧に兜に槍。重い、重い、重い。歳取った体には重労働だ。鎧の中は汗まみれだ。ああ、水が飲みたい。
 いいな、お貴族様たちは。ローマ百名家の連中は今頃元老院の建物の中でワインを飲みながら勝利の知らせを待っている。辛い仕事はいつだって俺たち貧乏人だ。兵役をこなして一級市民と言ったってそれだけで金が湧いて出るわけで無し。スズメの涙の軍人年金じゃ、毎日の酒さえ買えやしない。まあ、愚痴ってばかりもいられねえな。周りを見渡せば、似た様な老人ばかりが揃ってらあ。
 まったく。若い連中が他に出払っていなけりゃ俺たちが引っ張りだされるはずも無かったんだが。どこの馬鹿野郎だ。アルプス越えなんかやりやがった連中は。ローマ市から平地を歩いて来るだけでもこんなに疲れるのに、山越えたあ、よっぽど元気が余ってるんだろうな。少しはこっちにも分けて欲しいもんだよ。まったく。
 お陰で予定していた兵団がどこか遠くに行ったままだって?
 まあ、今は誰も兵隊なんかやりたがらないからな。ローマはいつでも兵隊不足だ。ローマ市全部からかき集めても、たったこれだけの軍団しか作れねえ。しかも前にいる連中はともかく、後に並んでいるのは老人に子供ばかりだ。それに、ああ、ありゃ、片手が無いどころか片足が無い連中まで混じっていらあね。
 無茶苦茶だろ、この軍勢。
 ああ、嫌だな。援軍が来るまで、何とかこのまま睨みあいが続いてくれればいいが。
 おっ。何だ、ありゃ。
 騎兵だ!


6)カルタゴ軍参謀の証言

 だから言ったのに。
 私は頭を抱えた。ハンニバル将軍は幔幕の中で正体もわからず眠りこけている。連日連夜の大宴会の疲れだ。ここはまだ敵地だというのにまったく。
 あの大勝利の後、ここに野営地を作った。それ以来、ハンニバル将軍は一歩も動かなくなった。
 一番最初に現れたのは近場の地方豪族たちだ。さんざ媚びを売ってから、こちらの陣営の中を舐めるように見て帰っていった。
 続いて商人たちが貢物と野営地での商売の権利を請いに来た。賄賂に気をよくした将軍はさっそくその商人に専売の権利を与えた。お陰でこちらの会計士はてんやわんやだ。補給品を買うためにカルタゴから持って来た金貨が飛ぶように消えていく。
 最後にはもっと遠くの国から使者がやって来るようになったが、それでもハンニバル将軍は一歩もここを動こうとしない。

 いや、動けなかったんだろう。
 アルプス越えで七割の兵が死んだ。どれもカルタゴ関係の国から参加した傭兵たちだ。カルタゴ軍は傭兵制度という形を取ってはいるが、その実体は正規軍に近いものだ。つまりは戦争の度に各部隊が出兵費用を決定する権利を持っているに過ぎないただの軍隊だ。だから戦で兵が死んだ場合はそれなりの慰謝料を払わないといけない。今回の戦では大変な数の兵士が死んだ。ハンニバル将軍は、国に帰れば、彼らの遺族に対する莫大な慰謝料の支払いが待っている。
 傭兵の命は安いものだが、それでも無視できるほど安くはない。少なくとも残された遺族が生きていけるだけは出さないといけない。もしそれを出ししぶったりすれば、二度とまともな兵は集まらない。それはつまりほとんどが傭兵でできているカルタゴ軍がまるごと消滅するということだ。恐らくハンニバル将軍の名前ではもう誰も兵は集まらないだろう。
 故郷のカルタゴ政府が戦死者の遺族に今頃何と言っているのかは想像がつく。ハンニバル将軍が帰って来たら払う、だ。将軍が帰って来るまでは戦死者の正確な情報も判らないし、将軍の財産も支払いの原資として計算しているだろう。
 要は、我々はローマに負けはしなかったが勝ちもしなかったってことだ。いや、死者の数から言えば、こちらの方が被害が大きい。もともとの国の大きさを考えれば、向こうは小指を失い、我々は腕を一本失ったに等しい。
 だが、我々は形ばかりとは言え、ローマ軍には勝ったんだ。だから、ローマ市へ入城して、そこから戦利品を奪えばいい。それで慰謝料を払えばいい。

 そう思うだろ?

 たしかに、普通はそうだ。どこでもそうする。戦争の目的の大部分は戦利品だからな。
 しかし今回の戦は勝ちはしたが、こちらの兵は山越えでボロボロだ。一方、ローマそのものは健在だ。
 兵団という形で都市の外に引っ張りだす兵を集めるのは大変だ。だが、一たび街が襲われるとなれば、戦いを嫌がる人々も家族を守るために否応なしに兵隊になる。おまけにローマという街は、外縁部こそだらしなく広がったただの街だが、街の中心部に近づけば近づくほど城塞都市としての性格を帯びて来る。入り組んだ建物の間の舗装道をバリケードで塞げば、もうそこは立派な城壁の迷路だ。そんなものを前にしては、わずか数万の兵など、あっと言う間に食われてしまう。
 おまけに攻城兵器なんか我々は持って来ていない。いや、持って来ていたとしても、アルプス越えの際に捨ててしまっていただろう。これが土木工事大好きのローマ兵なら、攻城兵器なんかその場でたちまちの内に作り上げてしまっただろうが、あいにく我々はカルタゴ傭兵だ。そんな能力はない。

 一番よくなかったのは、ハンニバル将軍がヌミディア騎兵にローマ市への侵攻を命じたことだ。たしかに元気なのはあいつらだけだったが、そもそも土地勘のない都市へ騎兵を侵入させるなんて自殺行為だ。行き止まりの路地へ誘いこまれて矢を撃たれたら、例え最強の騎兵でさえも何することも無く全滅する。都市攻略に騎兵が使えるものか。
 案の定、ヌミディアの連中、怒って帰ってしまった。
 どこに帰ったかって?
 もちろん、故郷へだ。ハンニバル将軍と来たら、あの大勝利の手柄は騎兵たちの頑張りのお陰なのに、彼らを誉めるどころか命令違反で処罰するなんて言ってしまったものだから、もうヌミディアの連中はかんかんだ。それに輪をかけるかのように今度の命令だ。
 それは切れる。
 絶対に切れる。
 その場でハンニバル将軍が殺されなかったのが不思議なぐらいだ。ああ、もし私が彼らでも同じようにしただろうな。
 あのバカ将軍。本気で今回のカルタゴ大勝は自分のアルプス越えというアイデアのお陰だと思っているんだろうな。ヌミディアの連中を連れて来ていなかったら、全滅だって有りえたのに。
 参ったな。騎兵はいない。歩兵はボロボロ。援軍はない。敵は強大かつ堅牢。もうすぐこちらの食糧は尽きる。一つだけ良い知らせは、まだローマの動きが無いことだけだ。
 ああ、だから、言ったこっちゃない。

 私はここで死ぬんだろうな。そう思う。あの将軍のおかげで。
 でも後世の人々は、将軍のことを名将とか軍神とか稀代の策士とか呼ぶんだろうな。
 一般人は結果しか見ないからな。小国カルタゴが大国ローマに勝利を収めたのはハンニバル将軍の知略のおかげであるとか何とか言って。
 ああ、嫌だ。嫌だ。このまま逃げ出してしまおうか。


7)十年後、雑用奴隷の再証言

 だから、昔、オラは言ったよな?
 あのバカ将軍に。
 攻めるか、退くか、はっきりしろって。
 十年だぜ。十年。もう故郷の顔なんか忘れちまったぜ。
 まあ、でも、さしものオラも、もうすぐ交代させて貰えるさ。次に故郷から来る連中が、きっとオラに代わってくれるだよ。
 でも増援ってわけじゃないんだろうな。あくまでも置き換え、だ。
 まあ、判らんでもない。本国の連中に取っちゃここの状況なんて伝聞でしかない。金がかかる遠征隊としか思っちゃいない。それも戦利品が入るまでの辛抱と考えていたのに、なんと十年が経っているんだから。これ以上の増援なんか出すわけがない。
 余程鈍い連中以外はここでの戦いが実際には何であったかはもう気づいている。出かけて行った兵士はほとんど帰って来ない。聞かされる戦果は毎回同じ話ばかり。アルプス越えの大勝利の話だ。
 結局のところ、この遠征隊は延々とカルタゴの富を吸い上げてローマ市近郊でウロウロしているだけの遊兵に過ぎないんじゃないかって。この遠征費だけでもカルタゴに取っては莫大な負担に違いないだよ。
 おまけにここで本気でローマを攻めようとするなら、この十倍の人数でもまだ足りないと知ったら腰を抜かすだろうな。なんせ最大級の要塞なんだから、このローマ市ってやつは。
 バカ将軍が愚図ついている間に、ローマは防備をガチガチに固めちまっただよ。近づいただけで大岩が空から降って来るし、堀は思いっきり深くされて、おまけに逆トゲまで植わっている。
 これじゃあ、オラだって判る。もう無理だって。
 こうして粘っていれば他の都市国家が反乱に加わるだって?
 冗談だろ?
 ローマの力は落ちていないし、それにだいたい、ローマはそこまで周囲には恨まれていないだよ。一度中に取り込まれてしまえば、なかなかに居心地のいい国だしな。食い物は一杯あるし、お楽しみもわんさかだ。異人種でも手柄を上げれば受け入れるし、他の変な国よりはまともだよ。そう、カルタゴよりもさ。なんというか、そら、文明化されているんだよ。
 ローマに攻め込もうなんて馬鹿いるとしたら、蛮族のガリア人ぐらいのものだよ。そのガリア人たちだって、今はローマに従っているし本当にそんなことをするとも思えない。
 だいたいもしローマ市を占領できたとしても、カルタゴの力ではローマ帝国そのものを占領なんかできはしないだよ。となるとどうするんだろう。いつまたローマ人が反乱するのかビクビクしながら、ずっと占領政策を続ける?
 いやいや、そんなこと、無理も無理、大無理というものだよ。
 恐らくハンニバル将軍が考えていたのは、ローマの軍隊を都市の外で撃ち破れば、軟弱なローマ人はただちに負けを認めて、賠償金を差し出して平和を請う、なんじゃねえかな。
 だけど世界一の先進国で、おまけに超大国のローマが、小国カルタゴにそう簡単に屈するはずが無いだよ。そりゃそうだ。帝国全土に散らばる兵士を集めたら、それだけでカルタゴの人口越えてしまうような国が、負けを認めるわけがないだよ。
 そこのとこ、判らなかったのかね、うちの将軍は。
 ああ、いやだ、いやだ、今日もまた実りの無い会議で日が暮れる。本国からの締め付けは厳しくなるばかりだし、いつローマの軍隊が都市から飛び出して来るのか知れない。
 オラももう逃げ出したい気分だよ。


8)さらに十年後、雑用奴隷の最後の証言

 だから、言わんこっちゃない。オラはもう開いた口が塞がらないだよ。
 二十年だぜ、二十年。故郷離れて幾星霜、なんて言葉があるが、本当にやっちまうなんて。ローマと睨みあってうろつくこと既に二十年。こんなところで手をこまねいているだけで何もしないなんて。
 確かに居残り組には特別手当が出るが、しまったなあ、無理を言ってさっさと故郷に帰っていればよかっただよ。挙句の果てはスキピオだっけ、そんな名前の奴が出て来ちまった。
 強そうだな。今度のローマ軍。二十年前とは大違いだ。前のときは老人ばかりだったが、今度のは若い奴らだろうな。ああ、ハンニバルのご老体、またもや象なんか揃えちまってさ。象なんか役に立たないって。全然懲りてないや。
 まあ、本国でも人間の兵は集まらないようだから、象でも集めるしかなぁったのは分かるだよ。二十年前はカルタゴ兵はほとんど死んだしな。それも戦じゃなくて、山の中で。それ知ったら人は集まらんわな。傭兵だって命は惜しい。この二十年、やって来る補充の兵と来たら、本当の食いつめ者ばかり。まともな兵隊なんか一人もいやしないや。
 この戦終わったら、本当に国に帰れるのかなあ、オラあ。
 みろよ、あれ、ヌミディアの騎兵たち、今度はローマ側についているぜ。二十年前の戦のときはあいつらのお陰で勝ったのに、ハンニバル将軍と来たら、ちっともあいつらを大事にしなかった。挙句の果ては敵のローマ人が大金であいつらを雇っちまった。二十年前になんで負けたのか、敵の方が良く知ってらあね。
 待てよ、ということは、今度負けるのはオラたちかい。ちょっと待ってくれ。冗談じゃないだよ。
 死にたくはないなあ。


9)お付きの少年兵の証言

 だから言ったんだよ。まあ、小声でだけど。
 将軍のお供で故郷を出てから二十年。懐かしのカルタゴを出るときには少年だったオレも、今じゃ立派なおっさんだ。よく考えたらこの人の身の周りの世話は、全部オレがやってきたんだよな。
 しかしまあ、この人は何なんだろう。まあ、それほど惨い将軍じゃなかったとは思うよ。でも良い将軍でも無かった。
 オレもそれなりに勉強したし、軍議の席にも出た。まあ、小姓として、酒を配って歩いただけだけど。だから判るんだ。ハンニバル将軍がどれほどの愚策を繰り返したのかを。
 戦略家としては駄目。戦略目標がまともに立っていない。どうすればローマを負かしたことになるのか、何も見えていなかった。ぐずぐずと二十年もさ迷った挙句、敵に再起の時間を与えてしまった。

 戦術家としても駄目。ヌミディア騎兵の強さが判らずローマに奪われるし、最後まで象兵に頼ろうとして失敗したし。
 もうこの遠征軍は駄目かも知れない。
 でもそうなれば、久々に故郷に帰れる。もしカルタゴがまだこの世に残っていれば。