1)プロローグ
なんだい。あんたは。どいてくれないかな。そこに立っていられたんでは床を拭く邪魔なんだ。よいしょっと。このモップは俺にはちょいと重すぎてな。うまく使えないんだ。歳は取りたくないもんだ。海軍じゃマッチョで通して来た俺なのに、今じゃこんなヨボヨボの爺だ。
ああ、ああ。これでいい。すまないな。お若いの。何だか邪魔をしてしまったようで。
おや、俺を尋ねて来たんだって?
そいつは奇妙だな。もう何十年も、誰も俺のことなんざ気にしなかったのに。
パンジャンドラムだって!
単刀直入に聞くなあ、あんた。軍の秘密を尋ねるときには、もっとこう声を落としてきくものだ。
いいとも。話してやるよ。俺のところまで辿って来たってことは、本物の方のパンジャンドラムについて訊いているんだよな?
今まで誰にも話さなかったのは別に秘密だからどうだとかそんな話じゃない。誰も俺には尋ねなかった。ただそれだけの理由さ。
ワーズワース少佐にエマ、ゴメス、それに他のパンジャンドラマーたち。どれも懐かしい名前だな。一人を除いてみんな気のよい奴らだった。
今じゃ、あれを知るのはこの俺ただひとり。それもそう長くはないだろう。
さあ、ここに入って座りな。ちょっとばかし長くて、ちょっとばかり遠い昔の話だ。この老いぼれ頭じゃ詳しく思い出すのも、ちと、骨が折れそうだからな。
レモネードでもどうかな。今日は暑いから。コーヒーがいいならそっちの棚だ。勝手に作って飲んでくれ。おっと、ついでに、俺の分も作ってもらえるとありがたいな。
うむ。確かに俺はあの秘密兵器に関係していたよ。
誓ってもいい。あの運命の日に、俺は確かにあそこにいたんだ。
悪魔の車輪、パンジャンドラムと一緒に。
2)
パンジャンドラマーこそはこの世でもっとも過酷な職業だ。
1・9・4・3の夏。俺はそこに居た。それはもちろん第二次世界大戦の最中で、世間ではドイツへ向けての上陸作戦が何時行われるのかが噂されていた時代だった。飛ぶ鳥を落とす勢いだったナチスどももここに来て息切れしていたんだな。V2なんて珍妙な名前の新兵器でロンドンを爆撃していたが、それでもナチスどもの劣勢は止まらなかった。
当時の俺はイギリスへと送り込まれたアメリカの支援兵の一人だった。それほど真面目な兵隊じゃ無かったが、一応は除隊にならないだけの仕事はしていた。できれば本国に留まって危ない最前線なんかには出たくはなかった。他に志願兵は山ほどいたんだから、それほど難しい話じゃないはずなんだけどな、どういうわけか俺のところに命令が来ちまった。さんざんゴネた末に何とかイギリス駐留軍に回して貰ってね、意外と平和に過ごせたものさ。
でもな、物事ってのは願い通りにはいかないものさ。
事の起こりはやっぱり女の取り合いであり。俺ともう一人の戦友は一ヶ月に渡って通い続けた兵隊相手の酒場の女たちをついにくどき落とし、ようやく夜の海岸の散歩への約束を取り付けたところだった。そこへ割り込んで来たのはやつら、お高く止まったイギリスの兵士たち。俺たちヒラの兵隊なんてどこの国でも変わらないものなのに、何故だか知らないが俺たちをヤンキーと見下す奴等だ。俺も俺の友達も、毎夜のごとく酒場に通ったお陰で財布の中身は空っぽ、お寒い限りであったので、その夜が酒場女を口説き落とせる最後の機会でもあったわけだ。だからここで引くわけには行かない。俺は奴等を意気地無しの腰抜けと呼び、奴等は俺たちをアメリカ出身の田舎者と呼んだ。
どちらの言葉も真実であったのが良くなかった。頭で否定できないなら、拳で否定するしかない。
最初に殴りかかったのがどちらだったのかは覚えていない。実を言えば一ヶ月もかけて口説き落とした女の名前も今ではすっかり忘れ去ってしまっている。覚えているのは、あの夏、俺がパンジャンドラムに出会ったこと。
そうそう、喧嘩の話だったな。俺と奴等の殴り合いに引き寄せられるかのように、暇を持て余していた両軍の兵士たちが集まって来た。誰も喧嘩の理由なんか訊かなかった。退屈を紛らわせてくれるものならば何でも、俺たちは歓迎していた。アメリカ兵の標的はイギリスの奴等であり、イギリス兵の標的はアメリカ兵だった。もしそこにドイツ兵でも居れば、もちろんそいつがタコ殴りにされて終わっていたわけだが。
ゴメスはイタリアから移民して来た男で、兵隊になる前はボクシングの重量級の選手だったという触れ込みの大男だ。それはどうやら本当の話だったようで、ゴメスの振るうハンマーを思わせる拳の前にたちまちにイギリス兵が壁まで吹っ飛ばされて動かなくなった。てんやわんやの騒ぎの末に誰かが、恐らくはイギリス兵だとは思うが、ゴメスの脳天に椅子を叩きつけた。これには流石のゴメスの野郎も耐えきれずにお寝んねと相成った。まあそれでもゴメスのお陰でその夜の喧嘩は俺たちの側の勝利に終わり、俺は鼻歌混じりに約束の女を連れて、酒場からご退場することが出来た。
ここまでは良くある話だ。だが、問題はその次の日だ。
どういうわけか駐屯地から本部への連絡員に任命された俺は、その日、オンボロのバイクを駆ってイギリスの田舎道をいい気分で飛ばしていたんだ。森の中に入ったところで、道の向こうに急ごしらえのバリケードが張られているのが見えた。そのときにおかしいと思うべきだったんだが、俺は少しばかり戦争ボケしていたらしい。バリケードの側まで行ってからバイクを止めると、迂回路は無いかと調べるためにバイクを降りてしまったんだから。たちまちにして隠れていた奴等が飛び出して来て、大勢で俺を押さえつけた。それが昨晩の酒場の奴等だと思い出すのに随分とかかったよ。だが終いに俺は自分がどういう状況に追い込まれたのかを理解した。
俺を捕まえた連中の首謀者はワーズワースという名前だった。ワーズワース少佐。兵士専用の酒場に将校が来るなんてのがそもそもおかしいのだが、奴は一風変わった男であり、それ故に俺を巻き込むことに何も躊躇しなかった。
奴が俺を何に巻き込んだかって?
もちろん、あの悪夢の兵器、転げまわる地獄の車輪。パンジャンドラムさ。
奴等は俺をロープでぐるぐる巻きにすると、俺を荷物か何かのように車に積んで走りだした。
喚いたかって?
もちろんさ。口には何も巻かれていなかったからな。賭けてもいい。奴等は俺が喚き散らすのをたっぷりと楽しんでいた。これから何が起こるのかを、誰もが知っていたのだから。
車の行き着いた先はイギリス軍の秘密兵器研究所だ。そこは見た目はただの牧場、但し、迂闊にそこに近づく者は誰でも無警告で逮捕される。俺のように。ワーズワース少佐は俺のことを逮捕したスパイだと監視員に説明し、その研究所の門をあっさりと通り抜けた。いや、彼はこの研究所の隠れた支配者であり、実際には誰も彼に逆らえなかったのだから、これも彼一流の演出だったのかも知れない。
基地の誰もが知っていた。新しい犠牲者が来たのだと。
とにかく俺は、やっとロープを解かれたかと思うと、その牧場の中央に引き出された巨大な車輪の前へと引きずり出された。そう、車輪だ。これこそがパンジャンドラム。地獄の車輪。転げまわる恐怖。破壊の申し子。
俺は唾をごくりと飲み込んで、この巨大な車輪の化け物を見つめた。
パンジャンドラムは2つの巨大な鋼鉄の車輪を結合したものだ。形はタイヤを二つ、横に並べたものだと思えばいい。高さは俺の約三倍。磨きこまれた鋼鉄の車輪は、恐ろしく太い一本の軸で結合されている。車輪の動力は、車輪の横に無数に取り付けられた噴射装置、それをロケットと呼ぶのだとは後で知った。
黒く光る鋼鉄の威圧感、そしてその車輪に取り付けられているのは大人の腕で一抱えの太さもある巨大なロケット。
車輪の周囲にはこれもたくさんの鋼鉄の刃が突き出している。装甲鉄板で作られた巨大で不恰好な刃がデタラメな配列とデタラメな角度で突き出している。
「紹介しよう。我が軍の誇る新兵器、パンジャンドラムだ」
ワーズワース少佐が芝居っ気たっぷりの動作で手を広げると、その鋼鉄の車輪に向かって敬礼した。それから彼が指を鳴らすと、俺の周りを取り囲んでいたイギリス兵たちが一斉に俺に飛び掛かり、俺は再び身動きできない状態にされた。
「いったい俺をどうするつもりだ」
俺は口から泡を飛ばしながら喚いた。
「どうもしやしないよ」
ワーズワース少佐はにこやかな笑みを顔に浮かべながらこう続けた。
「君を我が軍最強の兵器に乗せてあげようと思い立ってね。こうして招待申し上げた次第だ。君の言う腰抜けのイギリス人が実際にはどんな戦いをしているのかをご理解差し上げようと思ってね」
俺は喚き、少佐の祖先に関して罵り、軍の上層部にお前を訴えてやると脅し、最後には泣いて許しを請うたが、全て無駄に終わった。イギリス兵たちは慣れた手つきで車輪の中央にハシゴを架けると、俺をその戯けた兵器の中央へと乗せた。車軸の中央にはちょうど人が一人乗れるだけの空間があり、その中に溶接された椅子に座らされて初めて、俺はそれが操縦席であることを知った。
「いいか、一度しか言わないから良く聞きなさい。操縦方法を忘れたら死ぬことになるからね」
ワーズワース少佐は歌うように言った。
「足のペダルは車輪の方向転換に使う。但し、今回は絶対踏まないように。いいか、絶対にだ。万一、パンジャンドラムが回りそこねて横倒しにでもなれば、君の回りでロケットの炎が踊ることになる。一応、熱遮蔽はしてあるが、そんなもので防げる炎じゃない。判ったね?」
そこまで話してから少佐は俺の瞳を覗き込み、十分な恐怖がそこに浮かんでいることを確認した。
ああ。ワーズワース少佐。やつは本物のサディストだったよ。いや、本物の悪魔だったと言ったほうが正確か。
それから少佐は俺の肩のストラップを結びながら説明を続けた。
「いいかね。右手にあるのはアクセルだ。これはいくら引いてもいい。何なら握り締めていても構わないよ。それから左手にあるのはブレーキ。これもいくら使っても構わない」
ああ、そのときの奴のニヤリと笑った顔を見たら、神様だって腰を抜かすさ。
「さあ、以上でパンジャンドラムの操縦法は終わりだ。実に簡単だったろ?」
少佐は俺の首の周りの最後のストラップを結びながら話を締めくくった。軽く俺の肩を揺すって、きちんと体が固定されていることを確かめる。
ここまで来てようやく、俺は少佐の顔をよく見る余裕が出てきた。
少佐の顎の一部が腫れているのはゴメスのパンチを食らったせいか?
だとすれば悪いのは俺じゃない、ゴメスだ。
助けてくれ。俺は哀願したが無駄だった。俺はサーカスのナイフ投げの的であるかのように、パンジャンドラムに縛り付けられていた。動かせるのは足の先、それと手首より先だけだった。俺を縛り付けているベルトは椅子に埋めこまれているもので、どうやらこの車輪はこういった格好で操縦するものらしかった。一人で乗り込むことはできても、一人で降りることは決してできない。
今や俺の中の嫌な予感というやつは全身一杯に広がっていた。この乗り物は、いや、この兵器はまともじゃない!
「最後に言っておく。パンジャンドラムはご覧の通り、車輪につけられたロケットにより回転する。車輪の回転は周囲のフィンを通じて地面に伝わり、めでたくもパンジャンドラムは無敵の行進を開始するという仕組みだ。ロケットの本数は本来は車輪一つにつき七十五本、両輪合わせて百五十本。ついでに言うならば今回使用するのはその内の僅か十本だ。しかも燃焼時間は十秒間に抑えてある。いいか、たったの十秒間だ」
ワーズワース少佐は人差し指を俺の顔に向けると言った。
「十秒間だ。もし君がそれに耐えられたら、俺を腰抜けと笑ったことを許してやる」
少佐がハシゴから降り、俺は一人、パンジャンドラムの中に残された。ドアが目の前で閉まり、俺はドアの前面についているガラスに血の跡らしきものが残っていることに気がついた。
戦慄が俺の体を走り抜けた。やつらはまともじゃ無い。俺は新兵器の実験台にされようとしている。俺は必死で身体をねじると、手首に食い込むストラップを外そうと腕を引いた。皮紐が手首の薄い皮膚を裂き血が少し流れ出した。
その時だ。どんという衝撃音と共に、窓の左右が明るくなったのは。火花が四方に激しく噴出するのが判り、周囲の光景が揺れ、そうして巨大な車輪が動き始めた。
パンジャンドラムが回り始めたのだ。それは俺が見守る内にどんどんと回転を強めた。同時に恐ろしい加速が俺を椅子に押さえつけ、パンジャンドラムは鋼鉄の刺を地面に食い込ませながら、前進を開始した。
鋼鉄のきしむ音が混ざったロケット噴射の轟音が周囲を満たす。椅子が激しく揺れる。ガラスの中の風景がぐんぐんと迫り、そして歪んだ。俺の顎は衝撃でがちりと噛み合わさり、頭が前後に激しく揺らされた。車輪が何かにぶつかって跳ね上がり、その恐ろしい重量をかけて再び地面に食い込んだ。俺は何が何やら判らなくなり、必死で椅子にしがみついた。踏んではならないと言われていた足元のペダルに足がぶつかり、揺れる視界の中、必死の思いでそれをどけた。左手がブレーキに触れ、俺はそれを力一杯に引いた。
それが良くなかった。
パンジャンドラムを回転させるのは車輪についた巨大推力を誇るロケットだ。ブレーキはそのロケットを止めるわけではない。一度火のついたロケットは燃料が尽きるまで決して止まらないからだ。
ブレーキはロケットを止める代りに、車軸にぶら下がった操縦席、つまりは俺のいる場所を車輪に押さえつける働きをする。その結果、車輪の回転はわずかに納まり、その減った回転力の全てが操縦席を回転させるのに使われる。
俺の周囲の世界が一変した。重力の向きが変わったと思ったら俺はぐるんと空中で回転し、そしてまた回転した。まずいことに俺は夢中でブレーキを握りこんでしまったために、今や操縦席は車輪と一体になって回転を始めた。
俺の身体は遠心力で上下に引っ張られた。髪が逆立ち頭が上に凄い力で引っ張られる。尻は逆に座席へと押し付けられ、拷問台の上にいるかのように体が無理に引き伸ばされる。俺は絶叫し、絶叫し、絶叫した。世界はもはや俺の周囲で回転する川と化し、背骨がぎしぎしと鳴った。血が頭と足先に押し付けられ、視界が真っ赤に染まる。耳の中では血が轟音を立てて脈打ち、鼻から血が吹き出した。俺は自分の胃袋がひっくり返る衝撃と共に、自分のゲロの中で気を失った。
2)地獄の車輪
ベッドの上で一週間俺は苦しみ続けた。俺はこの最初の試練を見事に越えて、ワーズワース少佐の部下、有り体に言えば、奴の奴隷に編入されたってことさ。
軍籍では一応イギリス支援の特殊部隊に編入ってことになっていた。これは後で判ったことだがな。
本当ならゴメスの野郎こそここに居るべきなんだが、あいつは要領がいいから、ワーズワース少佐の罠からまんまと逃げおおせたのだろう。
パンジャンドラムってのはイギリスのサミュエル何とか言う名の作家が書いた物語に出てくる怪物の名前だ。最初にこの兵器のアイデアを思いついたのはイギリスの将校の一人で、それを見たワーズワース少佐がアイデアを引きついで発展させたという話だ。
目標は迫り来るDデイに行われるフランス海岸への上陸戦だ。
ナチスの野郎どもはフランスの広い海岸線を隙間無く武装しやがった。どこもかしこも鉄条網に覆われているし、硬いコンクリート製のトーチカまで埋まっている。そこにハリネズミのように武装したドイツ兵が立てこもると、ちっとやそっとじゃ上陸できない。
トーチカって知っているか? あんた。
分厚いコンクリートと鉄板で囲まれた建物だ。空から飛行機で爆撃しようが、海の上から戦艦で撃とうが、穴なんか開きはしない。唯一効き目のあるのが歩兵での突撃だが、機関銃で武装したトーチカには近づくだけで命取りだ。船で簡単に輸送できるような軽戦車もただの餌食だ。トーチカには対戦車砲も置かれているからな。
そこで登場するのがパンジャンドラム。こいつで目の前の鉄条網を切り裂き、トーチカを串刺しにして、歩兵か戦車が突入する隙を作ろうって計画だ。
だが、パンジャンドラムには大きな欠点がある。パンジャンドラムはものすごい乗物酔いを引き起こすってことだ。真っ直ぐ動いているときはともかく、ちょっとでも操縦席が回転を始めるともう駄目だ。どんな人間でもこれには耐えられない。人によっては、パンジャンドラムに乗った後の眩暈と吐き気で病院から出られなくなることもある。
技術屋の連中は何とかして操縦席の回転を止める方法を見つけようとしたが、それは部分的にしか成功しなかった。転がり始めは何とか安定するんだが、一度全力回転に入れば、操縦席は即席の遠心分離機へと変ずる。それほどパンジャンドラムのロケットの出力は強力だったんだ。俺もいままでの人生の中でいろんな機械を見てきたが、あれほどの短時間にあれほど大量のエネルギーをまき散らす機械は、パンジャンドラムぐらいのものだろう。
この問題に対して、ワーズワース少佐はまったく別の解決方法を見つけたんだ。そいつは少佐の懇意にしている軍医が調合したもので、どこの国でも間違いなく違法となるような劇薬を幾つも幾つも混ぜ合わせて作った代物だった。
ゲラゲラジュースと俺たちは呼んでいたな。
こいつを飲んだ人間は、奇妙に気分が良くなって突然ゲラゲラと笑い出す。その発作が治まると、薬の本来の効果が発揮される。つまり、上下の感覚がまったく消失し、続いて左右の感覚が完全に消え去る。結果はへろへろでまっすぐ立つこともできない人間のでき上がりだ。その代わりに、この人間は全力回転しているパンジャンドラムの中でも、へらへらと笑い続けることが可能となる。頭の働きそのものにはほんの少ししか影響しないんで、十分にパンジャンドラムのパイロットが勤まると、まあこういうわけだ。
ゲラゲラジュースの成分に関しては、色々と兵士のあいだでも噂されていたよ。俺はその味から考えて、悪魔の小便と、酔っぱらいの吐いたゲロ、それに陸軍の古参兵が三年間ずっと洗わずに履き続けた靴下が原料ではないかと想像した。
俺の話を聞いたパイロットの一人は、いやワーズワースのことだ、それよりももっと非人道的な何かが入っているに違いないと断言した。
ではそれは何かと俺が尋ねると、奴は青い顔をしていきなり沈黙してしまった。奴が何か知っていたのかどうかは判らないし、俺は知りたいとも思わない。あれから何十年も経った今に至ってもだ。
ゲラゲラジュースに関しては、ちょっとばかりびっくりしたものを見たことがある。
ある日、訓練が早めに終わったので、俺は酒ビンを引っつかんで、訓練所の近くの森の中に散歩に出たことがあった。ところが森の中まで来たときに、何か大きくて細長いものが道の向こうからやって来るのを見掛けたんだ。
何だと思う?
まあ、物として見れば、珍しいものじゃない。ただの人間だ。もっと正確に言えば、パンジャンドラムのパイロットの一人だ。そいつも俺と同じに、食堂から酒ビンを失敬して、森の散歩へと出ていたんだ。
この話でもっとも奇妙なのは、そいつの姿じゃなくて、そいつの姿勢だったんだ。そいつは奇妙なことに、道の上を歩いているんではなかった。そいつは何と、道の上を逆さまに歩いていたんだ。木の梢をな。ゲラゲラジュースを飲んだ人間は上も下も判らなくなる。その野郎は、上も下も判らないままに道を歩いていたんだよ。
よくもまあ、そんなへろへろの状態で、木の枝の間から見える、青空の中に落ち込まなかったものだと思うよ。そうなれば、どういう結果が生じただろう?
ゲラゲラジュースが切れるまで、青空の中をどこまでも、上へ上へと落ち込み、それから正気に戻って今度は物理学的に正しい自由落下を開始するのだろうか?
ニュートンの時代に、このゲラゲラシュースがなかったのは幸運だったな。もしそうだったら、彼とリンゴは揃って発狂しただろうから。
実を言えば、この話をしたのはあんたが初めてだよ。ワーズワース少佐がこのゲラゲラジュースの副作用を知れば、少佐のことだ、また新しい兵器を開発しかねなかったからな。
空飛ぶゲラゲラ兵士隊。冗談じゃない。その役をやらされるのは、間違いなくこの俺だ。沈黙は金なり。そうだろ?
まあ、そういうわけで、パイロットの乗り物酔いの問題が解決したので、パンジャンドラムはもう少しで実用可能なところまで漕ぎ着けていた。
後は哀れなパイロットたち・・・パンジャンドラマーの訓練が完了するのを待つだけだった。
3)エマ
エマが配属されたのは、ようやくこの基地での訓練に慣れてきて、イギリス野郎どもとも仲良くなった頃だった。
一言で言えば、彼女は地上に降り立った天使だった。知的なその顔立ち。誰にでも分け隔てなく与えられる笑顔。そしてもっとも魅力的だったのは、何よりも豊満なそのバストとヒップ。
いや、いまの時代、女性に対してこんな風な見方すると批難されることなんだろうけどな。坊や。当時はごく普通だったんだ。
だいたい、荒くれの兵隊どもに、それ以外の何が必要だっていうんだ?
未来はあってもせいぜいが一、二週間。その先はと言うと、さあ分からないっていう返事が返って来る時代だったからなあ。
どうして彼女がこの基地に配属されたのかはわからない。もっと上の軍のお偉方のそばで、秘書を勤めていてもおかしくない女性だったんだから。
そりゃもちろん。彼女が配属された途端に、基地中の男たち全員が恋に落ちたさ。
言うならばこれは、飢えたオオカミの群れの中に羊を追い込んだみたいなもんだった。だけど、これだけオオカミが多くちゃ、お互いに抜け駆けする暇なんて無いってものさ。
おまけにワーズワース少佐が、エマを不用意に悩ませた者には特別なお仕置きを考えていると宣言するに至っては、それ以上の混乱はおきようがないってもんだった。
エマはしばらくの間、基地のあちらこちらに顔を見せていたが、やがてワーズワース少佐の秘書の地位へと落ち着いた。まあ、妥当なところだな。
ワーズワース少佐は女性にはまったく関心が無いようだった。頭の中はパンジャンドラムで一杯だったんだ。寝る暇も無く、パイロットの育成や、パンジャンドラムの強化や量産ばかり考えていた。
性格はともかく、仕事はできる男だったよ。確かに。
何が面白いのかエマは、俺たちパンジャンドラムのパイロット連中のたまり場によく顔を出した。ケーキを焼いたと言って持ってくることもあれば、クッキーを焼いたと言って持ってくることもあった。手ぶらでごめんね、なんて言いながら、止まっているパンジャンドラムの間を散歩していることもあった。
俺もエマに恋した一人だから、これは願ったり叶ったりの状況だった。それは他のパイロットも同じであって、ここに熾烈な競争が繰り広げられた。
そうだな。彼女がパンジャンドラムの操縦を見にきているとなれば、良いところを見せようと操縦にも力が入る。つまりこれはパンジャンドラムの回転数が上がるということで、それはパンジャンドラムの操縦席の回転数が上がることに直結する。
そうして操縦席ごと散々に回転した挙げ句に、パイロットはよろよろとパンジャンドラムから這い出してきて、お大事のエマが見守る中で、盛大にゲロを吐くことになる。
これを二、三度やったところで、パイロットが良い格好をしようとする傾向はすっかりと治まった。どんなに頭の鈍い奴でも、それが逆効果であることだけは理解したのだ。
その次に巻き起こったのが、エマを食事に誘うことだったな。こんな山奥に気の利いたレストランなんかあるわけがなかったから、自ずからそれはピクニックへの誘いとなった。
俺も散々それをやった口だ。二人で近くの山に登り、遠くの景色を眺めるんだ。眼下に横たわった基地の上には、たくさんの刺の生えた車輪が転がっていた。パンジャンドラムだ。この距離から見ても、それはそれは異様な姿をしていた。
エマははしゃいでいたな。カメラを出して景色を写したりしていたが、基地を背景に俺と写真を撮ろう言い出したときは驚いた。これはさては彼女が俺に惚れている証拠だな、なんて勝手なことを思って俺は内心にやりとしたものだったな。
うん。エマの作るサンドイッチはうまかった。あんな旨いサンドイッチはそれまで食べたことがない。
俺たちはいい雰囲気だったが、残りのパイロット連中が紳士協定を組もうと言い出した。この戦争が終わるまでエマには手を出さないという協定だ。誰とくっつこうが、そいつは戦争で死ぬ可能性が高い。エマを未亡人にするぐらいなら、生き残った奴が改めて立候補する方が良い。そういった主旨だった。
冗談じゃない。ここまでエマに近づいたのに。
でも結局は俺もそれに賛成した。紳士協定に入らないと訓練中に事故に見せかけて殺される、そういった雰囲気があったからだ。実際に紳士協定に入ることを拒んだ野郎もいたが、その代表であった野郎が事故で死ぬと、残りの連中も考え方を変えた。
やれやれ、お楽しみは戦争が終わった後か。
まあそんなわけで、俺たちのぐるぐる回る日常も、終わりへと向かって着実に進んでいった。
4)お披露目
宿舎で寝ているところをいきなりワーズワース少佐に呼び出された。ベッドの上で眠りこけていたはずの同僚が薄目を開けて俺を見ている。自分は呼び出されないと知って、また眠りに落ちる奴を睨みながら、少佐の部屋に向かった。
用件は少佐のお出かけのお供だ。車の中で簡単に事情を説明された。
パンジャンドラムに使われている技術には特殊なものが多い。巨大な鋼鉄の車輪もそうだし、ロケットもそうだ。だからもしドイツのスパイがイギリスの工場を監視していれば、イギリスが何か秘密の作戦を進めているのはすぐにばれてしまう。
そこで立案されたのがこの囮作戦だ。偽のパンジャンドラムを作り、ドイツのスパイの見ている前で、わざとこの兵器が失敗作であることを見せ付ける。イギリスは失敗作の兵器に力を注いでいるぞ、と思わせるのが目的だ。
ワーズワース少佐と俺は途中で揚陸艦に乗り換えて、実験場に選ばれたイギリスの海岸へと向かった。
揚陸艦の中には小さなパンジャンドラムが載せられていた。高さは約十フィート。本物のパンジャンドラムの半分の大きさだ。しかもこいつは無人で、おまけに車輪の周囲に生えているはずのフィンがない。
これはパンジャンドラムの劣悪なコピーだと思った。あの兵器が持つ本来の威圧感も危険な雰囲気も無い。ただの出来の悪い玩具だ。
俺が感想を漏らすと、だからこそ敵の目を欺く役に立つのだとは、ワーズワース少佐の言だ。
揚陸艦は進み、前方に砂浜が見えてきた。
俺は目を見張った。砂浜は人で一杯だ。そうか、今日は休日で、おまけにここらの浜辺には敵の飛行機も飛んでは来れない。絶好のバカンス日和なのだから人が出るのは当然だ。
これだけの見物客の前で何をするつもりだと思う俺の目の前で、ワーズワース少佐が命令を下した。
揚陸艦が砂浜に乗り上げると、銃を持った兵隊達が飛び降り、群集を遠ざけ始めた。これからここで起こることを見ては駄目だし、他人に話しでもしたら国家反逆罪で逮捕するぞと、将校の一人がメガホンを使って叫ぶ。
舞台は整った。
ワーズワース少佐の合図で、偽パンジャンドラムが砂浜に引き出された。電気ワイヤが引かれ、起動装置を持ったワーズワース少佐が揚陸艦へと駆け上がる。それを見て残りの兵隊達も身の危険を感じたのか思い思いに隠れ家を探し、さらにそれを見て、のんびり見物をしていた民間人たちも逃げ出した。
うん、イギリスの国民は空襲慣れしている。危険には敏感だ。
偽パンジャンドラムが動き出した。車輪についた無数のロケットが火を噴出して、車輪が轟音と共に回転を始める。
あれ、と俺は思った。ここでパンジャンドラムは前進するはずなのに進まない。ああ、と遅ればせながら俺は理解した。偽パンジャンドラムには車輪の周囲にフィンが無い。だから車輪が砂地で滑って前に進まないのだ。
その内、バランスを崩した偽パンジャンドラムが横向きになり、砂地の上で回転を始めた。ロケットの一つが外れて飛び出し、海の彼方に消えていった。もしあれが人ゴミの中に飛び込んでいたら、大惨事となっただろう。俺は揚陸艦の船縁に隠れたままそんなことを考えていた。
偽パンジャンドラムの一つがさらに横倒しになり、今度は不気味に振動した後で、車軸ごと折れた。砂を蹴散らしながらぐるぐるとその場で回転し、それから派手に炎を上げて熔け崩れた。ロケットの噴射炎はそれほどに高温なのだ。
あちらこちらで爆発が起こり、砕けた鋼鉄が飛び散り、砂浜に無残な跡を残した。見物客は逃げ惑いながらも興奮に目を輝かせ、写真を必死で撮っている。
実験は大失敗だ。そして作戦は大成功だ。
帰り道の間中、ワーズワース少佐は上機嫌だった。そして俺はひたすら気分が悪かった。 あのパンジャンドラムの中にもし人がいたらどうなっていただろうと考えると、喜ぶ気にはなれなかったのだ。