妖怪考銘板

座敷童考

 日本人で「座敷童」と聞いて知らない者はいないだろう。それほど有名な妖怪である。

 一応説明をしておく。
 座敷童とは旧家などに出現する童子の姿をした存在で、これが出現すると幸運が舞い込み家は栄えるという。だから座敷童が出るという旅館があると、その幸運の恩恵に預かろうと客がひっきりなしに訪れるようになる。
 座敷童の恐ろしいところは、その幸運に喜んだ家長が家を盛り立てる努力を怠ると、座敷童はその家を見限り出ていってしまうことである。座敷童に見放された家はたちまちにして没落する。

 福の神座敷童。

 だが、オカルト的に考えてみればこれは大変に奇妙な話である。
 神も魔も基本的に自ら運を作り出すことはない。人の運とはその人が持つ福徳に依存している。福徳とはあの世のお金のようなもので、現世のお金と同じく何もないところから湧き上がるものではない。毎日の地道な善行によってのみ福徳は少しづつ積まれていく。そういう類のものなのである。
 では七福神などはどうなのだ、彼らは福を振りまいているではないか、と言われる向きもあるかもしれない。実は七福神でさえも福徳は作れない。基本的には彼らはどこかから福徳を奪ってきて、それを他の場所でばら撒く存在なのだ。そのためこうして福徳を奪われた地方によっては彼らを七悪神と呼んで恐れているところもある。
 世の中には運が良くなるお札や秘宝というのがあり、それも霊験あらたかによく効く場合がある。実はこれも同じ理屈で、福徳を生み出しているわけではなく、そのグッズを持った人の福徳を現世のお金に変換しているだけに過ぎない。いわばキャッシュカードと同じ働きをしているわけで、じきにその人の福徳は使いつくされ、破滅が訪れることになる。福徳というのは悪運を寄せ付けないことにも使われているので、福徳を使い尽くすと病気や事故で人生が終わることになるのだ。
 このようにこの世界の基本的な法則というのは実に実に世知辛いものなのである。

 ではどうして座敷童にだけこういった幸運を作り出す能力があるのだろうか?
 ここに人々の誤解がある。

 座敷童の伝承をよく考えてみるとある点に気がつく。
 座敷童が去って家が潰れたという話はあるが、座敷童が訪れて幸運が舞い込み富貴になったという話はないのだ。
 座敷童の伝承はすべて富貴な家に座敷童が訪れることから始まる。座敷童が真に福をまき散らす存在ならば、貧乏な家に座敷童が訪れそれを富貴にする話がなくてはいけない。だがそれはない。

 そこから生まれる結論はただ一つ。

 座敷童は寄生妖怪である。それは富貴な家に憑りつき、その家の福徳をすべて運に変換して食い尽くす。そして食い尽くした家から出ていくのである。その結果が、座敷童が出て行った家が衰亡するように見えるのである。
 福の神だなんてとんでもない。座敷童は貧乏神の一種なのである。