桜の季節は夜っぴて飲む。
夕方から会社の同僚で集まって花見をして、そのまま終電を無視して飲み続ける。深夜まで飲み続ける野外での宴会など、花見以外にはあるまい。だから俺はそこが気に入っている。
花見の場所は会社の近くにある桜の名所だ。ここには何千本という桜が植わっているし、桜並木もライトアップされていてとても綺麗だ。
もちろんそんな場所だから花見の場所取りは熾烈を極める。前の夜からビニールシートを敷いて一日座り込むなんてのはザラだ。
もちろんこの面倒な仕事は会社の新人の役目だ。だからどれだけ大変でも俺はちっとも構わない。
いつも花見はきちんと厚着をして出かける。桜の花が咲く季節は、下手をすれば雪が降ることもあるからだ。
そうして降って来た雪が止むと今度は雲間に月が出ることもある。そうしたら花見と雪見と月見のコンボができることになる。寒いことだけを除けばこの三コンボは見事なもので、これも堪らず酒が旨い。
冷酒も旨いが、屋台が出ていれば熱燗もまた旨い。
桜の木の下に敷いたビニールシートの上にだらしなく寝そべって、酒のカップを傾ける。買って来た焼き鳥を食い、花を眺め、皆で馬鹿話をしてから、また酒を飲む。
旨えなあ~。
綺麗だなあ~。
幸せだなあ~。
だから飲み過ぎた。ふと居眠りから目が覚めるとすでに終電もない深夜だ。周りにはカップ酒のカップや、一升瓶が転がっている。
いったいどれだけ飲んだんだ。俺は?
やれやれ。自宅は三駅ほど先だ。まあ酔い覚ましがてらふらふらと歩けばすぐだろう。
俺は起き上がった。足元がかなりふらつく。やっぱり飲みすぎだなと思いながら帰路へつく。
周囲は桜並木だ。ゴミがあちらこちらに散乱しているがそれは無視した。花見の後なんてどこもこんなものだ。驚くほど辺りには人気がない。桜の季節も終わりだから、徹夜で場所取りする連中ももう居ないのか。
ふらりふらりと千鳥足の俺の周囲に、夜風に吹かれてひらりひらりと桜の花びらが舞い落ちる。
風流だなあ~。
途中にあった自動販売機でカップ酒を買うと、ちびりちびりと飲みながら帰る。ちょっと早いが迎え酒だ。
そのとき、どしりと背後で音がした。
ぶんと何かが風を切る音がして、直後に俺の頭がどつかれた。俺は前のめりに転がり、一回転して地面に突っ伏した。
「痛たたたた」
いったい何が起きたんだ?
ぐわんぐわんする頭を押さえて後ろを向くと、そこに大きな影が立っていた。
街灯の光に照らされていたのは仁王立ちになった桜の木だった。
目をこすり、頭を軽く叩き、それから息を大きく吸ってから、またその影をよく見た。
それは枝の先に花を一杯に咲かせた、桜に似た大きな何かだった。
断じてこれは桜の木ではない。桜の木には目も鼻も口もないはずだからだ。まるでどこかのアニメのように桜の木の幹に顔らしきものがついている。
「お前に恨みは無いが、命を貰うぞ」それは言った。
断じてこれは桜の木ではない。桜の木は喋らないからだ。
「ええと・・さくら?・・に恨まれる覚えはない」
「だから最初から恨みは無いと言っている」
「じゃあ、何で俺を襲う?」
うん、分かった。俺は酔っている。それともこれは夢か。明日目が覚めたら変な夢を見たと笑い飛ばそう。
「よくぞ訊いてくれた。耳の穴をかっぽじって良く聞け」
桜に似た何かは腕を組んで言った。
「俺は桜のフグ吉」
爆笑してしまった。それから桜に似た何かが怖ろしい目つきで俺を睨んでいるのに気がついて押し黙った。
「聞くところによると桜の木の下には死体が埋まっているのが日本の伝統らしい」
「いったい何のことだ」
「誤魔化すな。有名な人間の小説家が言ったセリフだと言うではないか。それに俺の知り合いの桜の木の下にはどれも立派な死体が埋まっている」
「そうなのか」
桜の木の下は死体だらけ。本当だとしたら偉いこっちゃ。
「俺を見ろ」桜に似た何かは腕がわりの枝を両側に広げた。
「俺は大きく、美しく、立派な桜の木だ。だが俺の根本には死体が埋まっていない。だから他の奴らは俺を死体持たずと笑うのだ。朝から晩まで、春から冬まで絶え間なく笑い続けるのだ。俺はそれが悔しくて悔しくてたまらない」
ははあ。先が読めたぞ。
それ以上聞かずに、俺は一目散に駆けだした。一呼吸遅れて背後からどしどしと重い足音が追って来る。
追いつかれてたまるか。俺の輝かしい未来はまだまだ続く。人生の盛りのど真ん中で、どこかの桜の木の下に埋められるなんて真っ平だ。
だけど酔っぱらったままで走るのが一番いけない。すぐに息が上がって来た。背後の足音が少しづつ近づいて来る。
ひい。思わず声が出た。残念ながら悲鳴を上げられるほど息に余裕がない。
暗闇の中に光の輪を落としている街灯をいくつか過ぎたところで、向こうに人影が見えた。俺はその人影にすがりついた。
それは若いOLだった。突然の俺の出現にびっくりしたような顔をしている。彼女も酔っているのか、少し顔が赤い。
「さ、さくら、桜が」舌を噛んでしまった。
「落ち着いてください。いったいどうしたんですか」
怯えながらもここで逃げないとは度胸のある女の人だ。心の中で少し感心した。もし俺が痴漢だったらどうするつもりなんだろう。
「桜の木が襲ってくる。後ろから」
ようやくそれだけを言ってから、俺は後ろを振り向いた。
そこには何もいなかった。その代わりに左右の桜並木の中に列を乱すかのように一本余分な木が生えている。
「あれだ。あの桜の木が襲って来たんだ」
彼女はその木に近づいた。
「止めろ。近づくな。危ないぞ」俺は止めた。
「大丈夫よ」彼女はペチペチと木の幹を叩く。彼女の頭の上の幹が少しだけ割れて目が現れると、左右を睨んでからまた消えて、元の幹に戻る。彼女はまったく気づかない。
ひい。また声を漏らしてしまった。
「おじさん、酔いすぎよ。気をつけてね」
ペタペタと足音を立てて、彼女は向こうへと歩き始めた。
桜の木にまた目が開く。それは俺をじっと見つめていた。
俺は後ずさりをすると、その場を足早に歩き始めた。まだ息が切れているので走れないから仕方がない。
こいつは人目を気にしているんだ。だから彼女が見えないところに行くまでこいつは動かない。俺はそう睨んだ。
距離を稼ぐなら今だ。もし俺の方が彼女より早く遠くに行けば、こいつは彼女の方を追うかもしれない。情けない話だが、それでも俺はそう計算した。いまは自分の保身が大事だ。
やがて恐れていた足音が背後から迫って来た。こいつは何としても俺を諦めるつもりはないらしい。
そんなに俺の死体が欲しいのか。少しだけ腹が立ってきた。
今度は息が上がらないように小走りに走る。桜並木はどこまでもどこまでも続いている。そしてその無限地獄の中で、後ろの足音は徐々に近づいて来る。
このままではまずいことになると焦り始めた頃になってようやく、前方が明るくなり国道に出た。深夜とは言え、ヘッドライトを光らせて車が行き来している。
背後の気配が消えた。
助かった。心の底からそう思った。
深夜でもやっているラーメン屋を見つけて中に入る。
湯気を上げる麺を啜っていると背後に視線を感じた。素早く振り返ると窓の外で素早く何かが動いた。慌ててラーメン屋を出ると、街路樹の横になぜか桜の木が植わっている。
あいつだ。
ラーメン屋が営業中の看板を消した。夜も深まり、街の中にどんどん人気が無くなっていく。これはまずい。俺の背中に冷や汗が流れた。このままでは俺とヤツの二人になってしまう。いや、一人と一本か。
ここで警察を呼んだらどうなる?
駄目だ。誰がこんな話を信じるというのだ。俺でさえいまだに信じない。
しばらく街路を無茶苦茶に走ってから、周囲を探した。
あった。赤い警告灯がついている消防署だ。
飛び込んでがっかりした。どこかの火事に出払っているのか誰もいない。
奥の部屋を勝手に探って、目的の棚を見つけた。実は俺の会社はこういったものを納品している。だからその棚の奥に破壊消火用の斧を見つけたときはやったと思った。
躊躇わずにガラスを割った。意外と大きな音はしない。斧はずしりと手に重く頼もしかった。
斧を手に持って外に飛び出す。今誰かに見つかったら逮捕は免れないが、まあ知ったこっちゃない。
街の夜は人気がなく、寂しい。
満点の星空の下、俺はそこに立ち、待ち構えた。
影を縫ってゆっくりと近づいて来たヤツは静かに俺の前に立った。
「勝負だ。フグ吉!」俺は戦いの雄たけびを上げた。
「ちょこざいな。だがそれでこそ俺の死体にふさわしい」
枝が振り下ろされる。俺は斧を使ってそれをブロックし、返す斧でその枝に傷をつけた。
奴は叫んだ。
俺も叫んだ。
足を払われ、お返しに根を切り落とす。顔を叩かれ、代わりに葉を何枚か毟り取った。
「ぬう。往生際が悪い」フグ吉は言った。
「やられてたまるか」俺は返した。
今の俺はラーメンを食って無敵だ。負けるものか。
ヤツの幹に無数の傷をつけたが、いずれも浅い。こっちもヤツの枝にさんざん殴られてアザだらけだ。
どちらの体力も限界に近付いているのを感じた。これが最後の攻撃だ。
「死ね!」叫びながら振り下ろした俺の斧を、ヤツの枝が薙ぎ払う。弾みで俺の手から斧が弾き飛ばされた。
くそう、こんなに酔ってさえいなければ。俺は歯噛みした。ここまでやって俺は負けるのか。
「これで終わりだ」フグ吉が勝利を宣言した。
大枝が振り上げられる。それが俺の上に落ちかかった。これで終わりだ。俺はそう覚悟した。
その瞬間、風が吹いた。遠くの山から吹きつける荒々しい風。
春一番。桜の花を散らす風。
フグ吉の動きが止まった。その周囲に風に散らされた花びらが派手に舞い落ちる。
「今年の花見は終わりだ」ヤツはそう言うと踵を返した。
「逃げるな。卑怯者!」
だがフグ吉は振り返りもしなかった。俺を背中に見て、ヤツは最後の言葉を発した。
「来年、また会おう。次こそは仕留めてみせる」
「それはこっちのセリフだ」俺は言い放った。
酔夢の一夜は終わった。
次の日から俺はジムに通うことにした。
来年のこの日この夜この時刻、俺たちは再び戦うのだ。