ウォーレン大佐回顧録銘板

パイナップルはお好き?

 その夜の奇談クラブの話題は男女同権論についてだった。奇談クラブではいつも奇妙な話が話されるわけでは無く、むしろその話題の殆どは知的で穏やかで真面目な会話で構成されている。ニックがそれらの話の記録係りを努め、後に問題の残らない範囲の議事録を作成することになっている。その他の面々は各自の立場で収集した幾つもの話を披露するのが常だ。経済上の話が少し、科学上の話が少し、家族的な話が少し。だが、クラブの中心となる人物であるウォーレン大佐だけはいつも飛んでもないホラ話を繰り広げる。奇談クラブのメンバーの必死の努力も、ニックの徹夜を含む調査活動も総て虚しく、自称ウォーレン大佐の経歴も正体も未だ不明のまま、彼の語るホラ話の真偽も確認できずに今日に至っている。
 ウォーレン大佐は見事な銀髪で、立派な体格の人物である。流石に歳相応に皮膚の張りなどは失われ、奇談クラブの自分専用の椅子の上で居眠りをしていることが多くなってきてはいるが、それでも今でもなお精力的な人間には変わり無かった。
 彼は皆の話が女性の徴兵問題へと差し掛かった所でやおら居眠りから目を覚ますと、大佐専用の揺り椅子の上でパイプを構え直し、何時ものホラ話へと取り掛かった。

 ・・そうだとも、ニッキー。君の言う通りだとも。確かに女性と言うものは良い兵士になる事ができる。少ない食料配給下でも長時間の行軍に耐え、男性ならば死んでしまうような大量の出血にも抵抗することができる。男性兵士よりやや過剰に攻撃してしまう性向を除けば、そうだとも、確かに男性よりも女性は良い兵士になり得る。ニッキー、君はそれを医学上のデータから推測したのだろうが、私は自分の経験上からそれを知っている。無論、女性が兵士になるのには異存は無い。機械化された現代の軍隊にとって良い兵士と言えるのは、優れた体力というよりはむしろ・・
 いや、話の角度を変えよう。それよりも悪い兵士とはどんなものかということについて話してあげたほうが良さそうだな。
 そうだね、彼女の最大の特徴と言えるのは、まるで頭の上で炎が燃え盛っているかのような見事な赤毛だ。まあ、光線の具合にもよるが、それはそれは素晴らしいものでね。ある時は金色かと思えばある時は消えかけた石炭の中に見られる穏やかな赤色に、そしてそれは落陽の見せる鮮やかでしっとりとした赤へと目の前で変化する。まさに絶品だな。もちろん染料を使ったトリックなんかじゃない。ほんの時たまだが、天の与えたもうたものとしか表現できないものを持っている人間がいる。彼女の髪はまさにそれだった。
 そんな彼女が私の関与する兵士養成学校に入学したのだから、人生とは全く判らないものだ。そう、その通り、彼女こそは諸君等が先程から論じていた女性兵士の代表のようなものだね。我が訓練校の中でも男顔負けの体力があり、学力そして技術共に素晴らしい成績を納めたと言えば、その才人ぶりが判って貰えるだろう。
 瞬発力こそ男性に劣るものの持久力、耐久力ともに申し分無し。局地戦術論に至っては講座を開いて以来の優秀な成績を取った事を覚えている。模擬戦闘訓練では海千山千の経験を持つ教官達を相手どって一歩も引かなかった。教官達は全員一致で彼女が我が校随一の生徒であると認めていたな。
 ではどうして悪い兵士の例として彼女を挙げるかと言えば、彼女は兵士としては致命的な欠点を持っていたからだ。言い換えれば、この欠点さえ持っていなければ大概の者は良い兵士になれるのだよ。
 判ったとも、諸君、そう急かすものでは無い。

 彼女は一言で言えば、ドジだったのだ。

 どうしたのだね?
 諸君。そんなに呆れた顔をして。いや、確かに、世の中には不器用な人間というものは大勢いるものだ。この顔ぶれの中にも当然ながら混じっている。それを言えば何事にも器用な人間というのは滅多にいないという方が当たっているだろう。ある者は手先が器用でも恋には不器用。あるものは口先が器用でも、人の感情を察知するのは不器用と言う具合にだ。しかしだ、そう言った意味では彼女は不器用では無かった。むしろ驚くほど何事につけても器用だとも言える。だがそれにも関らず、普通の人間には考えられないような失敗を引き起こすのだ。

 一例を挙げて見よう。
 彼女は射撃の名手で、特に抜き撃ちの速さと来たら、並み居る教官達でさえ舌を巻く程だったと言えよう。いや、抜き撃ちは兵士の正規の訓練項目とは言えないが、拳銃を扱ったものならば誰でも、西部劇に出て来るような早撃ちにあこがれるものだからな。ついでにつけ加えると、うちの訓練校の射撃教官ならば誰でも、宙に抛り投げたコインが地面に落ちるまでに、全ての弾丸を間違いなくコインの真ん中に撃ち込めると言っておこう。そうだとも、最初の一発がコインに穴を開け、残りの弾は全てその穴を通過すると言うやつだ。それが出来ないような射撃教官は、この私がじきじきに他の学校に放り出すことにしている。さて、彼女の腕前はそれに輪をかけたもので、両手で同時に拳銃を扱って同じ事をやれたものだ。
 では何が問題なのか?
 そうとも彼女は素晴らしい抜き撃ちを実演する事が出来た。だがそれもホルスターのカバーを閉めたままでは不可能と言うものだ。彼女は拳銃を抜こうとして、それから、拳銃が抜けない事に気付くという有り様だったのさ。私も再三、自分のおかれている状況を常に頭の中に捉えていろと注意はしたのだが、その注意とやらが、いざ事に当たるとどこかに忘れて来てしまうようなのだ。どんなことでも人一倍にこなすのに、肝心な時になると決まって最大の失敗を引き起こす。
 一事が万事この調子で、部隊間の集団戦闘訓練でも相手の部隊を壊滅状態に追い込んだ後に、必ず自分の部隊も壊滅状態に追い込んでしまうので、彼女についた渾名はなんとカラミティ・ジェーン。そう、疫病神ジェーンさ。こんな異名がついた生徒は後にも先にもジェーンだけだったな。ああ、そうか言っていなかったな。彼女の名前はジェーンと言うんだ。
 そんな彼女の武勇伝の中でも特に凄かったのはパイナップル騒動だったなあ。まあ、待ちたまえ、ニッキー、そこの棚から私の名札のついたブランデーを取ってくれんかね?
 ああ、有り難う、これで良しと。
 ええと、どこまで話したかな。そうそう、パイナップルだ。パイナップルと呼ばれる手榴弾は表面に縦横の刻みのついた小型の手榴弾であり、破裂の際にその破片で周囲の人間を殺傷するというものだ。破砕焼夷系の手榴弾とは違って、内部にほんの僅かな火薬しか含まれていない。だから爆発する前に上にクッションを載せて人間の体重で押さえれば、そうだな爆発の衝撃でちょっと空中に浮き上がるぐらいで済むことになる。もっともそうするだけの時間と心の余裕があればの話だが。破片を防ぐクッション無しの状態でこれに当たれば当然のことながら致命的な結果を招く。試してみるのは止めた方が良さそうだな。
 こいつは極めて有名な手榴弾だから諸君も聞いたことがあると思う。見た目は本物のパイナップルに良く似た模様をしているな。もっともこれを食べるような愚か者はまずいないがね。もし、いたとしてもすぐにいなくなる。そういうわけだ。
 ついでに教えておくと最近ではこの刻み目が内側についたものが出回っている。外側がゴツゴツしていると何かに引っかかって事故が起きるものでね。ところが相手に与える威圧感から刻み目が外についているものも人気があるので、まあどちらがいいかは状況によるな。
 さて、当然ながら、我が訓練校でもそれらの取り扱いを教える。ああっと、ニッキー、訓練校の名簿を調べても私の名前は出て来ないから念の為。私のように特殊な機密に関与している人間はあのように目立つ所には本名を載せないものだからね。ましてや引退した事になっている私がまだ現役と知れたら、各国の機関が安んじて活動できないと言うものだろう。私はあくまでも顧問、それも秘密の顧問だ。

 その事件の起きた日、夕食を終えた私は校長室の横にある特別顧問室で訓練校に関る実に様々でうんざりするような書類の後片付けをやっていた。特殊諜報機関の大佐と言っても、やることは大概が事務処理であることは諸君の想像通り。特に機密事項が多くなればなるほど、作成される書類の量は多くなる。これは奇妙な話ではあるがね、私の知る限りは事実だ。どちらの諜報機関の事務処理能力が高いかで勝負の大半は決まると言っても過言では無いな。勝負はお互いの机の上で決着が着くんだ。その書類を巡って実際に諜報員が撃ち合いをするのはあくまでも瑣末な事柄でしか無いのさ。
 そうしてその夜も遅くまで私が仕事をしていると、誰かがドアをノックするではないか。正直に告白すると、ドアを開けて一瞬だけだが私は茫然とした。ドアの前に立っていたのはジェーンだったが、何を驚いたって、訓練校の味気ないトレーニングウェアに包まれていても、彼女の良く発達した見事なプロポーションがはっきり見えたからなんだ。彼女の炎を思わせる赤毛と意志の強さを秘めた整った顔立ちと合わせると、彼女がどうしてモデルでは無く兵隊稼業なんかを選んだのか私は不思議に思ったものだね。そして私がもっと驚いたのは彼女の手に握られたものだ。そうその通り、なんとそこには手榴弾が握られていたのだよ。
 衝撃の瞬間が過ぎ去るとすぐに、私は肌身離さずに持っている銃を取り出すと彼女に向けた、いや、向けようとした。その瞬間、もし彼女が床に座り込んでわっと泣き崩れなかったら、間違いなく私は彼女を撃ち殺してしまっていただろうな。女性を殺すなんて男の風上にもおけないと諸君は思うだろうが、私の生きている世界はそういう世界なんだから判って貰いたい。いや、理解して貰えなくても軽蔑しないでいてくれればそれで良い。それ以上のことを望むのは僭越と言うものだろう。私はてっきり彼女が敵対機関の送り込んで来た暗殺者で私を爆殺に来たものと勘違いしたんだ。
 判るだろう?
 仕事は非常に忙しかったが、彼女の相談に乗らないわけには行かなかった。第一、真夜中に赤毛の美女に部屋の前で泣かれる事ほど体面の悪いものは無いからな。下手に放置しておけば次の日にはどんな噂が校内を流れていることやら。私は慌てて彼女を部屋の中に入れると事情を聞いた。

 彼女の泣きながらの告白により、問題の手榴弾はその日の訓練に使われたものだった事が判明した。我が訓練校では自主独立の気風を大事にするために、何事も訓練生が自分で様々な雑用を行う事になっている。彼女の握っていた手榴弾だが、これは訓練で使われたもので、言って見れば不発弾だったわけだ。まれに手榴弾の中には不発のものが混じっている。信管が不良だったり、激発用のバネが壊れていたりと原因は様々だ。もちろん、戦場のただなかで不発の手榴弾に出会うことは命に関る重大な問題だ。こちらの手榴弾が不発なら死ぬのはこちら。敵の手榴弾が不発ならば死ぬのはあちら、とまあそういうわけだ。さて我が校では、訓練に使用した手榴弾が不発の場合は、それに当たった訓練生が自分で処理する規則となっており、当然ながら彼女はこの手榴弾の処理を試みた。
 手榴弾と言うものはピンを抜き、レバーを上げるとバネの力で内部の信管が発火し、一定時間が経過した後に爆発する。一端、ピンが引き抜かれレバーが上げられた後は、レバーを戻したとしても爆発を止めることは出来ない。つまり、不発となった場合の処置とは完全に爆発させることなんだ。分解して信管を除去することも理論的には可能だが、誰もそれはやらない。安全装置が解除された状態では、分解中に爆発する危険が非常に高いからだ。
 問題と言うのはこうだ。手榴弾を処理することになった彼女はそれを爆発させるために遠くから銃で撃つ事にした。そうすれば大概の爆弾は衝撃で誘爆するものなんだ。彼女が射撃の名手である事はすでに言った通り。見事に弾丸は手榴弾に命中し、それで片がつくはずだったんだ。だが、手榴弾は爆発しなかった。何発命中させてもだ。
 ここまで来て、彼女はまたもや自分がトラブルに填まり込んでいる事に気付いた。そういつもお馴染みの、他の訓練生から密かに陰口を叩かれているあのトラブルだ。ほら、疫病神のジェーンがまたやったわよ。同じ部屋の友達にそう言われることは容易に予想が出来た。次の日には誰もが事件を知っているだろう。不発の手榴弾一つ処理できなかったとね。彼女は美人でしかも才能があったために良い意味でも悪い意味でも注目を引くタイプだったんだ。
 この頃の彼女に取って、疫病神との渾名は脅迫概念となりかけているぐらい重大な問題だった。
 さて、こうなってしまうと意地でも自分独りでこの不発弾を処理してしまわないといけないのは明らかだ。
 かと言って、銃で撃っても爆発しないようなものをどうすれば良い?
 元より、爆弾処理用の特殊装備が無ければ分解は不可能だ。分解自体は可能でも、分解中に爆発する危険が大きい。爆薬というものはえてしてそういう奇妙にひねくれた性質を持っているものなんだ。顔を近づけて手榴弾を分解している最中にドカン、これは自殺の方法としてはそれほど悪くはないかも知れないな。
 特殊装備を借り出したりすれば全ては公になってしまうのでこの方法は使えない。
 となれば?
 そこで彼女が最初に思い付いたのは高熱で手榴弾をあぶる事だ。手榴弾の表面が真っ赤になるほど炎であぶれば、内部の火薬は間違い無く発火するだろう。
 どうすれば手榴弾を熱くする事ができる?
 答えは訓練校の焼却炉にあった。
 焼却炉は訓練校から出るゴミを一手に処理している施設で、ほんの時たまだが爆発物がゴミに紛れ込んでいることがあるために、頑丈なコンクリートと耐熱レンガで構成されている。そこで爆発させれば、恐らくは大した被害も出ないだろうと彼女は思ったらしい。これは事実で、先ほど説明した通りに、破裂型の手榴弾は爆発力自体はそれ程強くは無いんだから、彼女の考えは正しかったわけだ。
 問題となるのはただ一つ、手榴弾は焼却炉の炎の中でも爆発しなかったことだけ。さらにつけ加えるならば、彼女が手榴弾を燃やすために過剰に押し込んだ燃焼剤の中に、どういうわけかこれも爆破訓練用のナパームジェリーが混入していたという悲しい事実がある。結果として焼却炉は過熱し、膨張し、そして崩壊した。いかに耐熱設計されていてもこれほどの燃料を押し込まれるとは予想外だったようだな。まあ、焼却炉ごと爆発しなかったのが救いと言えば救いだが。
 無責任な人間ならばここで手榴弾の事はすっぱりと忘れて、誰にも見つからない内に自分の部屋に戻ったろうが、彼女はそうでは無かった。放置したままの手榴弾を、焼却炉の残骸を片付けようとした誰か他の人間が知らずに踏んで爆発でもしたら、いったいどうやって責任を取れば良い?
 黒焦げになった手榴弾を灰の中から取り出して彼女が泣きそうになった事は想像に難くない。今や彼女に取り付いている疫病神は黒焦げの手榴弾として形を持ち、彼女の目の前に現われたのだからね。
 だが泣いてばかりいても物事が解決するはずが無いので、次に彼女は訓練校の中の工作室へと鍵を開けて忍び込んだ。工作室の奥には巨大な圧搾機がある。訓練校で使う様々な器材を作り出すためにだ。
 発注内容から機密が漏れる事が想定されているせいで、この手の器材を外部に発注することは禁じられていることは知っているかな?
 我が校では特殊な器材は総て自分達の手で作っているわけだ。
 彼女はその巨大な圧搾機の台の上に手榴弾を置くと、積み上げた部品箱を爆発に対する盾に使い、圧搾機のスイッチを入れた。発想としては良かったが、ここでも問題が一つあった。この油圧式圧搾機は専門の人間が使うことを想定しているので、スイッチを入れる手順を間違えると、見事に、そして完膚無きまでに圧搾機自身が破壊されるという問題だ。あの素晴らしい、そして非常に高価な圧搾機が破壊されたと報告された時の私の絶望のうめき声を聞かせたかったな。
 だが圧搾機の破壊など、それに続く彼女の報告に比べれば何程のことでも無かった。結局は我が訓練校の自慢の設備の大半がスクラップへと変わり、そして相変わらず問題の手榴弾は傷だらけと言えども変わり無しと来ている。考えて見れば彼女は大した才能を持っているとも言えたな。これだけの施設の破壊を誰にも気付かれる事無く、しかも手際良く行ったのだから。出来ることなら彼女が敵国の訓練校に入ってくれていればもっと良かったのだが。
 とうとう最後に自暴自棄になった彼女はその憎むべき手榴弾を素手で掴み上げると、深夜に私の部屋を尋ねたというわけだ。訓練校の直接の教官でも無いのに、こうして特別に部屋を貰って活動している正体不明の私ならばこの混乱を何とか静めてくれるのでは無いかと期待してね。私に目をつけるとは彼女の勘も大したものだったな。ああ、そうだとも、私は実にエレガントにその問題の手榴弾を処理した。
 彼女の手からそっと手榴弾を取り上げて見て、私にはそれが爆発しなかった理由がすぐに判った。きっと彼女は最初からずっとパニック状態にあり、その結果、その明白な事実を見落としていたのだろう。
 目を丸くして見ている彼女の前で私は、慣れた手つきでその手榴弾を分解して見せた。爆発の危険は勿論無かったさ。何故かって?
 どういう悪戯なのか、それとも何かの手違いなのか、その手榴弾には火薬が入っていなかったんだ。中身は空っぽ。パイナップル手榴弾を持ち慣れた者ならば重さの違いですぐにそれと気付く。まあ、その重さの大部分は金属性の外殻の重さで、火薬の重さの分はほんの僅かなのだがね。
 さて、その後の処理は簡単なものだ。まず最初に、慎重に誰も傷つけないように配置した時限爆弾を訓練校の各所で爆発させる。それと同時に、たまたま夜中にトイレに起きて来ていた彼女が謎の人影を見て悲鳴を上げ、偶然その場に居合わせた私が、我が訓練校に忍び込んで破壊活動を行っていた敵国のスパイを追って銃を乱射した。残念ながらその敵国のスパイは爆発の騒ぎに紛れて見張りの誰の目にも止まることなく逃げ去り、訓練校の皆はその晩いっぱい消火活動に狩り出され、ようやくスパイのことを報告したのは朝日の昇るころだったと、まあそういうわけだ。
 その晩の騒ぎも大変だったが、破壊された設備の改修予算の申請にはそれから数日にも渡る徹夜が必要となった。お陰で設備は最新のものに置き替わったし、敵に狙われるのは我が訓練校が優秀なのだと上層部が思ってくれたために、その他の予算も大幅に増やされた。怪我人が一人もでなかったのは不幸中の幸いだったな。
 まあ、徹夜の書類仕事は辛かったが、楽しくもあった。彼女が毎夜、手伝いに来てくれたからね。もっとも私がせっかく作り上げた書類の上に彼女が飲み物をこぼすなどの些細なアクシデントはあったがね。
 ああ、これで私の話は終わりだ。ニッキー、何か質問はあるかね?


 ・・半信半疑のクラブ会員達の視線の中で、ゆうゆうとパイプに刻み煙草を詰めると、ウォーレン大佐は紫煙を宙へと吹き出した。それから懐から取り出した時計を睨むと、座っている椅子の肘掛けを軽く叩いた。部屋のドアにノックがあり会員の一人が返事をすると、ウェイターが見事なプロポーションの赤毛の女性を部屋に招き入れた。部屋中の視線が一斉にその女性に集中した。
「ジェーン。相変わらず時間通りだね。感心な事だ」
ウォーレン大佐がにっこり笑うと、椅子から腰を上げた。
「彼女は今ではモデルを本業としておってね。まあ、戦場で命を落とすよりはこの方がずっと良い」
 その大佐の言葉からたった今までクラブの中で行われていた会話を推察して、赤毛の女性は厳しい目つきで大佐のお喋りを責めた。それから優雅な物腰で振り返ると、大佐に連れられて部屋から出て行った。

 しばしの沈黙が皆の上に降りた。皆が皆、今の出来事を考えている。しばらく経ってからニッキー、こと、ニッケルが神経質そうに眼鏡を拭いてかけ直すと、一つ咳払いをしてから言った。
「なあ、みんな。今の話をどう思う?」
 がやがやと部屋に議論が舞い戻った。話題は当然、今回のウォーレン大佐の話が本当だったのかどうかだ。一部に赤毛の女性とウォーレン大佐の関係について議論しようとの声があったが、これは黙殺された。二人を見送ってから戻って来たウェイターのジョーンズが部屋の中の会話を聞いてそっと片方の眉毛を上げた。このウェイターもまた、この奇談クラブの名誉会員として認められている。そうでなければどうやってクラブの秘密を守ることができよう?
「ジョーンズ。君はどう思う。大佐を送っていて何か気付いた事は無いかい?」
 ニッケルが聞いた。
 皆の視線が注目する中、異例の事態にためらいながらウェイターのジョーンズは再び片方の眉毛を吊り上げて見せた。それから静かに落ち着いた声で答えた。
「ニッケル様。私はウェイターです。ウェイターと言うものは職業上の倫理として、お客さまについての論評はしてはならないことになっています」
 それから部屋の中の面々に浮かぶ失望の表情に気付いて続けた。
「しかしながら、奇談クラブの一会員としての私の立場と致しましては、ニッケル様の問いには答えねばならない義務もあると存じます。
 ただ一つだけ、ささいなことですが気付いたことがあります。
 この部屋に至るまでの廊下に、部屋を出てまっすぐ奥に進んだやや右よりの絨毯ですが、その下を配線が一本、走っております。本来ならば通るはずの無い配線ですが、三番目の部屋の改装の間だけ電力を送るために設置したものです。そのために、絨毯のその部分だけはほんの僅かですが盛り上がっております。元が毛足の長い絨毯ですので、殆どのお客さまはこのことに気付きも致しません。それだけの事で何の問題も無いのですが」
 一座の注目の中、一瞬の間を空けて、ウェイターのジョーンズは続けた。
「あの御婦人はそこで見事につまずかれました。ええ、それだけのことで御座います」