1)
今年の前極限環境生物学ゼミの冬休みは、雪山での調査になった。
調査と言っても何のことはない。学部の金を流用しての冬季バカンスである。
メンバーはゼミ生の俺と鬼口そして同じゼミ生の佐藤の三人に、ゼミの教官の浜口教授だ。
前極限環境生物学とは、極限環境生物学つまり100度以上の温度で生きる生物や高圧力環境下で生きる生物の学問に対して、その一歩手前、この場合は雪の中で生きる生物などの学問のことだ。
足は車キチガイの佐藤が提供した。佐藤の車はフォーパイフォーの大型車だ。何でも日本には数台しかないという車種らしい。運転許可を取るのにどえらく苦労したとの話だ。
行先の選定は今回のスポンサーである浜口教授が行った。
それが有名なスキー場のすぐ近くだと知って俺たちは小躍りした。教授もたまには粋な計らいをなさる。
その時の俺たちは愚かにもそう考えていた。
浜口教授が生物学の世界でマッドサイエンティストと呼ばれていることをすっかりと忘れていたのだ。
*
スキーのシーズンは国道は込むので、佐藤の案内で俺たちは裏道を進んだ。スノータイヤにしたフォーパイフォーにだけできる道行だ。普通の車ならすぐにスタックするだろう未舗装の道をぼりぼりべりべりと大きな音をさせながら進む。地面に深く積もった雪の下で何が潰れているのかは考えない。実を言えば考える余裕がないほど車は揺れた。
道半ばの峠に差し掛かった所で、一度車を止めて佐藤は地図と睨めっこした。どこから手に入れたのかは知らないが軍用のGPSがあるので道に迷う心配はない。
峠道の横はかなりの崖になっていて眼下の谷に川が流れているのが見える。その上に細雪がまだ降り続いている。風が身を切るように寒い。俺は両手をこすり合わせた。
ふと気が付いて車の中を改める。シートの隅々まで確かめて、運転席の下まで覗き込んだ。
「中山、いったい何をしているんだ?」
地図を読むのを邪魔されて佐藤が苛立たし気に文句を言う。
「うん、ああ、邪魔者が紛れ込んでいないかと思ってな」
俺は答えた。佐藤もその意味に気づいたようだ。なにせ俺の周りにあれが出現することはもはや学内でも知らぬ者はいない有様だ。俺や鬼口があれとは友人でも何でも無いことを、学内の連中に対してそれはもう涙ぐましいほど主張した。それなのにもはや俺も鬼口もあれの変態仲間に見られているのが、心底俺は悲しい。
佐藤には車の前部を開けてもらってエンジンルームも見せてもらった。やはりここにもいない。
今回はあれを撒けたと思うと、俺は嬉しかった。
寒い外から温かい車内に戻って一息つくと、後ろに積んでいる荷物に目をやった。
ええとこの青いスーツケースは俺ので、緑のは鬼口のだ。
「佐藤。お前の荷物は何色のだ?」
「ん、ああ、オレンジ色のだ」
「教授。教授の荷物は?」
一心に本を読んでいた浜口教授が顔を上げた。どこかのフライドチキン・チェーンの店先に立っている人形そっくりの顔がこちらを向く。
「白と黒のバッグだよ。白には私が読もうと思ってもってきた本が入っている」
ええと、白と黒とオレンジね。ではその奥に見える赤の縞模様の大きなバッグは誰のだ?
その赤のバッグはちょうど小柄な変態が一人は入れるぐらいの大きさだ。
俺は佐藤からガムテープを貰うと、鬼口に目で合図をした。そっとドアを開けて後部座席に廻ると、問題のバッグをひっつかみ、暴れるそれをガムテープでぐるぐる巻きにした。
鬼口がバッグを掴むと、それを眼下に見える谷底に投げ込んだ。バッグはさんざ崖に衝突した後に川の中に飛び込んで飛沫を上げた。
「これが本当の眼下の敵と言うやつだ」
俺は宣言したが、自分のセリフのつまらなさにちょっと恥ずかしさを覚えたのは秘密だ。
「何だ? ゴミを片付けたのか。不法投棄は叱られるぞ。さあ、急ごう。雪の中ですっかり体が冷えてしまった」
佐藤がそう言うと車を発進させた。
ほどなくしてスキー場についた。まずは腹ごしらえだ。
都会で食うときの二倍の値がするラーメンを啜り、車の上からスキー板を下す。
「明日からは調査で忙しくなるから、まず遊んできなさい。生きていればこその遊びだからね」
浜口教授はさらりと恐ろしいことを言ってのけ、俺たちを無罪放免で解放した。
自分は暖かな急づくりの特設喫茶店の中で本を読み始める。本の題名は総編集版日本昔話だ。
その前に浜口教授がこっそりと日本酒のチケットを買うのを俺は確認していた。
これで夕刻までは教授のことは気にしないでいいだろう。
俺たちはリフトに乗ってスキー場の頂上を目指した。
*
リフトの最上段は上級者用のコースだ。俺と佐藤はそこそこ滑れるし、鬼口はあの巨体でも運動神経は抜群だ。
気持ちよく滑って途中の少し小高くなった丘で休憩していると、悲鳴を上げながら女性スキーヤーが滑り降りて来た。
なんだと思って見てみると、悲鳴を上げている女性の背中がこんもりと盛り上がっている。
吉村だった。後ろから手を回して女性の胸を鷲掴みしている。
「おい!」俺は二人の注意を引いた。
「吉村だ」ほとほと呆れたという口調で佐藤がつぶやいた。
「嫌っ。嫌っ。取って! 取って~!」女性スキーヤーが叫ぶが、かなりの速さで滑っているので誰も手が出せない。
「おい、中山。何とかしろ。友達だろ?」
俺はブンブンと首を横に振った。あまりの勢いに首の骨がゴキゴキとなる。
「冗談を言うな。あれと俺は無関係だ」
今度は男性スキーヤーが叫びながら滑り降りて来た。その腰に吉村がしがみつき、へこへこと腰を振っている。
「あいつは男も女も見境なしか」佐藤が呆れたように言った。
「それ以前にどうやってあんな短時間で上に?」
「変態だからな」鬼口がぼそりと言った。普段無口なこの男が喋ると説得力がある。
「そうか、変態だからか」佐藤が相槌を打った。納得したようだ。
吉村は変態中の変態なのだ。これぐらいの離れ業は鼻歌混りにやってのける。
次の女性スキーヤーが悲鳴とともに滑り降りて来たとき、鬼口が動いた。その巨体が驚くべき速さで雪の上を動くと、女性スキーヤーの背中から吉村を引きはがした。鬼口の手の動きは速すぎて見えなかった。
片手に吉村をぶら下げたまま鬼口がこちらに戻ってくる。
そうして俺たちの前の雪に吉村を押し付けると、むんむんむんと鼻息を噴きながら、手近の雪を掬い上げて開いた吉村の口の中にぎゅうぎゅうと押込み始めた。吉村は抗議したが、俺も佐藤も当の鬼口さえも無視した。
やがて吉村の口の中に雪がびっしりと詰まると、今度は耳の穴鼻の穴を問わず、雪の塊りを押しこむ。じきに鬼口の手の中には驚くべき怪力で圧縮されて氷玉になった吉村が生まれた。
それをゴロゴロと転がして鬼口は丘の端に進んだ。最後に俺の方を向いて、目で問いかける。
「やれ。やってしまえ!」そう俺が叫ぶと、鬼口は氷玉を丘の上から対岸の森へ目掛けて蹴落とした。
ごろごろと転がる氷玉の周囲に見る見る内に新しい雪がくっつき、どんどんと大きな雪玉へ成長した。
ところがそれはいきなり軌道を変えると、スキー場の中級コースへと向かった。
「なんだ。どうして向きが変わった」俺は疑問を口にした。
「見ろ。雪玉が通った後を。どうみてもチンポコの形をしている」佐藤が指摘した。
「むう。恐るべき変態軌道。中に変態が詰まっていると雪玉も変態になるのか」
俺は感心した。
いや、感心している場合じゃない。今や一軒の家の大きさと化した雪玉は中級コースを真っすぐに転がり落ちていった。
「大変だ」
俺たちは慌ててスキーを履きなおすとコースを全力で滑り降りた。
滑り降りた先で視界が開けると、俺たちは唖然とした。
大惨事だ。コースの周囲にばらばらと人々が倒れている。途中のリフト乗り換え場は半壊している。大雪玉の跡はそのまま先にある初心者コースへと続いている。
俺たちはこの惨劇の中を恐る恐る降りていった。どこか遠くでサイレンの音。倒れた人たちの呻き声。折れたスキー板。ねじ曲がったストック。割れたヘルメットまであった。
倒れている女性の中にはスキーウェアのズボンを脱がされている人までいた。変態雪玉がやったのか、それとも雪玉の中から変態の吉村がやったのか。
「これみんなアイツがやったのか」佐藤がつぶやいた。
「アイツって誰だ?」俺は答えた。「俺は何も見ていない」
鬼口も俺の言葉に頷いた。
「あ、あはは。そうだな。俺たちは何も見ていない」
佐藤も素早く俺の戦略に乗った。これほどの惨劇の責任を取れる人間はこの世には存在しない。
ロッジは割れた雪玉に覆われて半壊していた。消防隊や警察が大慌てて飛び回っている。
俺たちは待ち合わせておいた喫茶店に入って、ストーブの前で本を読んでいる浜口教授を見つけた。
「浜口教授。ご無事でしたか」
名前を呼ばれて初めて浜口教授は本から顔を上げた。
「何だ。まだ遊びに行っていないのか君たちは。そういえばどこかで大きな音がしたようだが、何かあったのか」
「雪崩が起きたんです」佐藤が嘘を言った。「教授。今の内に宿に移動しましょう。救助隊で道が混んだら動けなくなります」
「ん、そうかね。では行こう」
全員で佐藤の車に乗り込んだ。行先は教授が用意した秘湯の宿だ。
途中で俺は大事なことに気が付き、半分凍りかけた川に架かっている橋に差し掛かったところで佐藤に車を止めさせた。
車の中を調べる。今度は緑の縞模様のバッグだった。
鬼口が大きな石を探してきて、俺がそれにロープを結びつけた。それからジタバタ暴れるバッグを冷たい川の中に投げ込んだ。
しばらく俺たちは川の水面を見つめていた。最後の空気の泡が上がらなくなると車に戻った。念のためにもう一度車の中を捜索し、見慣れぬバッグがないのかどうかを確認した。
これでようやく今夜は温泉でゆっくりできる。
2)
物凄く積もった雪を掻き分けて車がようやく目的の宿に到着した。
日が暮れて来た辺りから大雪が降り始めた。周囲一面真っ白の中にぽつんと宿屋が一軒ある。大きさは中ぐらい。周りは雪に囲まれていてそれ以外の建物はない。
「ここは知り合いがやっている知る人ぞ知る秘湯の宿屋でな。コアでディープな温泉マニアだけが訪れる隠れ里のような宿だ」浜口教授が説明した。
「電気は自家発電だから大丈夫。それと小型の携帯基地局も自前で設置しているから携帯も使える」
至れりつくせりだ。玄関口では宿の主人らしき人が手を振っている。俺たちは挨拶もそこそこにさっそく宿へと入った。
今日は宿には他に客がいないようで、一人一部屋という豪華な割り当てになった。もっともさすがに気が引けたのでお給仕などは自分たちでやった。宿の人も二人しか出ておらず、宿の中は閑散としている。
夕食が出るまで風呂に入れと言われたので、俺と佐藤は野外温泉へと向かった。鬼口は浜口教授に部屋に呼ばれていたので置いてきぼりだ。少しだけ気の毒になった。
ここの温泉は旅館の裏手の渡り廊下の先にある自然泉だ。かけ流しの湯口の周りを大岩で囲んで作り上げた露天風呂で、江戸の昔から使われているとの話だった。
渡り廊下は結構長い。屋根が設えてあるが左右はふきっ晒しで吹き込む雪が冷たい。俺と佐藤は小走りで廊下を渡った。
ふと佐藤の足が止まった。旅館の裏手に止まっている車に気がついたのだ。
大きなタイヤのついた車高のある車だ。そのタイヤはトラックのタイヤよりも大きいし、何より鉄らしきスパイクが車輪の周囲に突き出している。エンジンを覆うカバーもまたでかい。太い煙突を思わせる排気管が左右に三本突き出ている。さらにその上に城の天守閣のように運転席が突き出している。
これならどこかの戦争映画にラスボスとして出ても違和感がない。そんな車だった。
「すげえ。何だこれ」車キチガイの佐藤が感心したように言った。「俺のより凄いぞ」
その声を聞いて旅館の中から手伝いの男の人が出て来た。
「凄いだろ。ここらはバスもタクシーも来ないから送迎に使えるようにと手に入れたんだ。なにせこのぐらいじゃないと、ここらで大雪が降ると動けなくなるからな。もちろんギリギリまでチューニングして魔改造してある」
「大雪って今ぐらいの? 俺ら、佐藤の車でここまで来たんだけど」
それを聞くと旅館の人は笑った。
「今日はどっちかと言うと穏やかな方だな。ここの大雪は旅館の天辺ぐらいまで積もる」
俺は呆れかえった。ここの雪は夏でも融けない万年雪というのは本当らしい。
佐藤がエンジンルームを見せてくれとねだると、旅館の人は喜んでみせてくれた。
「うおおっ!」佐藤が叫んだ。
「これ二千馬力?」
「戦車用のエンジンを魔改造してある。今では三千馬力だ」旅館の人は自慢そうだ。「タイヤも特注の鋼鉄スパイクつきのスノータイヤだ。それに合わせてフレームも強化してある。もちろん公道には出られないが、ここいらじゃ重宝するよ」
すげえすげえと叫び続ける佐藤を引っ張って俺は渡り廊下を先に進んだ。このままここにいたら風邪を引く。
廊下の突き当りは小さな小屋で脱衣所になっている。露天風呂には二か所に投光器が設置されていて、スイッチを入れると湯煙が光の中に浮かび上がった。
俺たちはすぐに裸になるともうもうと湯気の上がるでっかい湯舟へと飛び込んだ。
「あちちちち」当然ながら熱かった。
もっとも慣れるとこれが気持ちよい。寒い外気を浴びてから入るから余計に熱く感じるのだ。かけ流しの口から少し離れてどっぷりと首まで浸かる。
もの凄く気持ちがいい。体が溶けてしまいそうだ。
ここのサービスで酒とつまみも頼めるそうだが、それはもう少し様子を見てからだ。俺たちは一応は酒が飲める年齢だから、後は浜口教授の機嫌次第という所か。
湯気の向こうに大きな影が見えた。
「何だ。鬼口。先に入っていたのか」声をかけてみた。
「ウガ?」返事はそれだった。
もやが揺らめいた。
全身灰色の毛むくじゃらの怪物が俺と睨みあっていた。
ひいっ! その叫びは声にならず、代わりに俺の肛門からガスになって出た。ブクブクと臭い泡が湯の中に湧き上がる。
それが相手を激怒させた。
「ウガー!」襲い掛かって来た。
俺と佐藤は温泉から跳びあがって逃げた。
全裸の体に雪が冷たい。だがそんなことを気にしている場合じゃない。
渡り廊下を一瞬で駆け抜けて、旅館の裏手へと飛び込む。そこで浜口教授と鉢合わせた。隣に鬼口がいる。二人とも浴衣に着替えてお風呂セットを手に持っている。
「きょ、教授。でた。でた」と俺。
「お、鬼口がでた」と佐藤。
「なに! ついに出たか。雪隠れの里の雪男」浜口教授が跳びあがった。「鬼口君。ついてきたまえ」
二人は温泉目掛けて駆けて行った。
呆気に取られて、その後ろ姿を見送っていたが、冷たい風にくしゃみが出て初めて全裸であることに気が付いて旅館へと潜り込んだ。人目につかないように廊下を抜けて部屋に戻ると予備の服に着替えた。
「惜しかったな。あと一歩遅かった」
浜口教授が鬼口と一緒に帰って来た。
「教授、いったい?」
「ああ、君たちが出遭ったそれが今回のフィールドワークの目的の一つ、ホモ・ユキガクレだと思う」
「ホモ・ユキガクレ?」
「まあ、言ってしまえば雪男だな。ここ、一年中雪に埋まっている雪隠れの里は前極限環境生物の宝庫でな。未確認生物が山ほど生息している」
「まさか、教授。あれを捕まえるつもりなんですか!?」
冗談じゃない。あれはゴリラより大きかったぞ。
はっはっはと豪快に笑ってから浜口教授は言った。
「大丈夫だ。あれの捕獲は鬼口君が単位のAと引き換えにやることになっている」
浜口教授の隣で鬼口が頷いた。
鬼口は単位のことになると非常に弱い。何でもその取得に鬼口の命がかかっているそうだ。
その後は四人でまとまって温泉に浸かった。さすがにこれだけ人数がいると気が楽だ。なによりも鬼口がいればたいていのことは大丈夫だとの安心感があった。
食事はなかなか美味しかった。見たことのない山菜がたくさん使われた料理だ。真っ白なユキガクレ春菊や真っ白なユキガクレ椎茸などだ。それをユキガクレ兎でダシを取って鍋にしたものだ。世界広しと言えど、この宿でしか食べられない珍料理だそうだ。
腹いっぱい食べてそのまま蒲団に倒れこんで寝た。今日は何だか大騒ぎばかりだったような気がする。
*
目が覚めるとそこは尻だった。
俺の顔の前に下半身すっぽんぽんの吉村が尻を向けて寝ている。
朝っぱらから何てぇ光景を見せやがるんだコイツは。
誰も来ないうちにロープで縛って軒先につるした。
こうしておけばきっと雪男様が来て持ち去ってくださるだろう。
朝食のアナウンスがあったので食堂に向かうと、そこでは浜口教授の横で吉村がご飯を食べていた。
俺の全身から力が音を立てて抜けた。
「教授。それは?」吉村を指さす。
「うん? ああ、吉村君はフィールドワークを手伝ってくれるというので特別参加だ」
浜口教授は奇妙に吉村に甘いところがある。俺は説得を諦めて、大人しく飯を食い始めた。いつ吉村が変態行為を始めて食事を台無しにするのか分からない。食べられるときに食べておかねば。
鬼口が食堂に入ってくると一瞬目を剥いてから黙って自分の席に座り黙々と食べ始めた。俺も慌てて食べ続ける。やがて佐藤もやってきて同じように目を剥くと、何事もなかったかのように食事に加わった。
食べ終わるとパイプに火を入れてもくもくと煙を吐き出しながら浜口教授は話を始めた。
「ここ雪隠れの里はご存じの通りに万年雪に覆われているため、古来より特殊な生態系が発達している」
はい、教授、ボクはそんなこと知りませんでした。初耳です。教授。ボクたちを騙しましたね。何だかもうこの冬季バカンスは嫌な予感しかしません。
「今日はいくつか報告されている特殊生物の発見が目的だ。そのためにこうして餌を用意してやってきたわけだ」
エサ?
それは誰を示しているのですか?
俺はさらに嫌な予感がした。
「今日一日外でフィールドワークをする。君たちの単位はその成果にかかっていると思ってくれたまえ」
浜口教授はさらりと爆弾を落とす。
え?
獲物が見つからなかったら単位は無しなの?
道理で昨日は浜口教授が奇妙に優しかったわけだ。あれは死刑囚に出す最後の晩餐・・。
鬼口が苦渋の表情で呟いた。
「俺、単位が取れなかったら親に殺される」
それを聞いて俺と佐藤は顔を見合わせた。俺たちは単位に関してはそこまで追い詰められていない。浜口教授のゼミの単位は必修だから落とせば留年確定だが、それでも命を落とすよりはマシだ。それはつまり最悪の場合は鬼口を盾にして俺たちは逃げられるということ。
鬼口、すまん。お前は良い友だったよ。お前を犠牲にして俺たちは生き延びる。未来へ進むんだ。
「はっはっは。心配するな。あの場所の生物はいつもひどく飢えている。何にも出くわさないなんてことは絶対にない」
浜口教授は豪快に笑った。
うう、ちっとも安心できない。
3)
俺たちは宿で貸してくれた防寒服で着ぶくれながらの雪中行軍をした。
鬼口を先頭に雪をラッセルしながら、浜口教授、佐藤、俺そして吉村の順で進んだ。
俺の後ろで吉村が腰を押し付けてくるので、そのたびにアイツを殴り飛ばしながらの行軍だ。
「でもね、でもね、これボクの癖なんだ」吉村が抗議する。
「それが悪いっちゅうとんじゃあ!」手にした杖で殴る。
これの繰り返しだ。
吉村の順番を前にしようとしたが、今度はケツをこちらの股間に押し付けようとしてくるので同じことだと悟ってしまった。人間諦めが肝心だ。
どのみち最後尾だけは嫌だ。ホラー映画にあるだろ? 一行が目的地に着くと最後尾の人間がいなくなっている。そんな光景が頭に浮かぶからだ。
この奥深い山のどこかに深い深い穴を掘り、その中に吉村を閉じ込める。穴の入口には封印の呪符を張り、何者も出てこれないようにする。
よし、この案で行こう。
GPSを見ながら浜口教授が言った。
「よし、この辺りが目的地だ」
佐藤が地図を広げた。「教授、位置情報をください」
「GPSは効かんよ。奥雪隠れの地はGPSの電波が届かないんだ。ここはまだ電波発明以前の場所だからな」
さらりと浜口教授がとんでも理論を展開した。本当に教授なのか。この人。
「じゃあどうして目的地だと分かるんです?」佐藤が食い下がった。
「天空を埋め尽くす衛星からの電波が届かないそのこと自体が目的地という証明になる」浜口教授が断言した。
「ここ本当に地球ですか?」佐藤が呆れた。
「詳しくは知らん」
浜口教授はベロを出して見せると次の指示を出した。
みんな手にスコップを持って周囲を掘る。冷たい雪ばかりで何もない。
「教授。何も見つかりません」
「そんなことはない。探し方が悪いだけだ」
浜口教授はそう言うと、荷物の中から塩の袋を取り出した。
「前極限環境生物は擬態が上手だ。ここの生物は見事に周囲の環境に適応している。例えばここの雪に穴がたくさん空いているだろ」
皆が浜口教授が示す場所を覗き込んだ。穴が開いていると言われれば確かに開いているようにも見える。頃合いよしとみて浜口教授が塩をその上に撒く。
きゅうい。
きゅうい。
鳴き声がすると白くて長いものが穴から飛び出した。
「ユキカクレ・ミル貝だ。塩に驚いて飛び出してきたんだな」
「へえ」佐藤が感心するとその貝を穴から引き出した。それは佐藤が引っ張るにつれてぐんぐんと伸びて、おまけに太くなっていった。
ついには佐藤の身長より長く雪から飛び出し、それでもその先は見えなかった。
「万年雪という環境に適応したのだね」はっはっはと笑いながら浜口教授は説明した。
「ちなみにそれは肉食だから気をつけなさい」
浜口教授の警告は遅すぎた。貝が伸ばした口吻の先に牙が現れると、佐藤に噛みついた。悲鳴を上げながら佐藤が逃げ惑う。その隙をついてユキカクレ・ミル貝は素早く雪の中にまた潜り込んだ。
「このようにここは見たことの無い生物の宝庫なのだ」浜口教授は締めくくった。
「すごいね!」吉村が後を続けた。
その吉村の首筋に、白くて足の長い蜘蛛が張り付いていた。俺の手のひらほどの大きさだ。
「おや、素晴らしい、幻といわれたユキカクレ女郎蜘蛛だ」
「吉村、動くな。今採ってやる」
俺は荷物の中から採集カゴを取り出した。捕まえれば単位をゲットだぜ。
「ちなみに猛毒だ」浜口教授が指摘した。俺の動きが止まった、
「そいつはまず獲物の首に噛みつき毒液を注入する。それで獲物は即座に麻痺する」
ユキカクレ女郎蜘蛛が吉村の首筋に噛みついた。じゅるじゅると何かを注入する音がした。吉村の動きが止まる。
「続いて、消化液を相手の体内に送りこみ、内臓を溶かす」
ユキカクレ女郎蜘蛛が何かをすると、吉村の眼がとろんとした。その体が心なしかだるんと緩む。
「最後に相手の溶けた体液を吸って食事は終わりだ」浜口教授が締めくくった。
それと同時にちゅうちゅうと何かを吸う音がした。まさかと思って見ている皆の前で吉村の体が萎んでいき、代わりにユキカクレ女郎蜘蛛の腹が際限なく膨れ上がる。
あまりの光景に全員が凍りついた。その中で俺一人だけ、こう考えていた。
ちくしょう。コイツだけは俺の手で殺りたかった。
ユキカクレ女郎蜘蛛の膨らんだ体が割れ始めた。
「脱皮だ。実に珍しい」浜口教授が身を乗り出した。
ユキカクレ女郎蜘蛛の膨らんだ皮が大きく裂け、その中から吉村が現れた。吉村は地面に落ちている自分だったものの皮からメガネを取り上げると顔にかけた。
出来上がったのは元の吉村と瓜二つだ。
「なるほど!」浜口教授が手を叩いた。「変態は遷るとよく言われるが、つまりは蜘蛛が吉村君を食べ、その蜘蛛に変態が感染し、そして今度は吉村君に進化したというわけか。何という自然の神秘か。しまった。カメラはどこだ。うまく撮れればノーベル賞も夢ではなかったのに!」
いやいやいやいや、ありません。教授。それはありません。これではダーゥイン博士が泣きます。それにノーベル賞に変態部門はありません。
俺はそう言おうとしたが浜口教授に睨まれて言うのを止めた。この教授、どんな時でも目だけは笑っていない。
「あはは。そうですね。教授。自然の神秘ですね」
へらへらと俺は誤魔化す。変態進化論という名称が頭の隅に浮かんだが、敢えて無視した。
その後は周囲の雪の中を探すふりをした。鬼口だけは真面目に雪を掻き分けている。
そうこうしている内に雪の降りが本格的になってきた。おまけに風も出て来た。
風がどんどんひどくなると、やがて吹雪に変わった。
「教授。これはまずいですよ。今日は帰りましょう」俺は提案した。
「う~ん。まだ目的の生物が見つからないのだが、まあいいか。帰ろう」
浜口教授は重い腰を上げた。
やった。俺は小躍りした。荷物をバッグに収め、後ろを振り返る。
あれ?
「教授、帰り道どっちでしたっけ?」
俺の問いを浜口教授は豪快に笑い飛ばした。
「いったい何を言っているんだい? 中山君。ここ奥雪隠れの地ではGPSが動作しないんだよ。つまり私に分かるわけがないだろう」
「佐藤。コンパス持っているか?」
佐藤はポケットからコンパスを取り出した。
「駄目だ。針がくるくる回っている」
「つまり?」
そこから先は珍しくも鬼口が続けた。
「俺たち。遭難した」
「うわああああ!」真実に気付いて佐藤が発狂した。ここまで顔には出さなかったが相当ストレスが溜まっていたのだろう。
佐藤はいきなり俺を突き飛ばすと、吹雪の中を走り出した。
「止めろ。佐藤。無暗に動くな」
俺は止めたが無駄だった。
佐藤の後ろの雪の上に何かのヒレのようなものがいくつか現れ、佐藤を追い始めた。
「おお、絶滅危惧種のユキカクレサメだ」浜口教授が興奮して言った。「もちろん人食いだ」
浜口教授は佐藤の後ろ姿に大声で呼びかけた。
「佐藤君。ここで一人で帰ったら単位はあげないよ」
無駄だった。佐藤の姿はたちまち吹雪の中に消えた。
4)
鬼口が大きな雪の山を作り、俺がその中を繰りぬいた。さいごに吉村が全裸になってこの即席のかまくらに変態行為をしようとしたので、そのまま雪の下に埋めた。
「教授。かまくらができました。どうぞ」
浜口教授はかまくらの一番奥に入ると、ポケットから出した本を読み始めた。この人はどこまでもマイペースだ。
俺たちも中に入り、持ってきたコンロをつけてお湯を沸かす。
かまくらの中は結構温かい。昔の人の知恵は大したものだ。
外では吹雪がますますひどくなる。
「ほらこういうとき小話があるじゃないですか」
俺は提唱した。
「どんな話だい」浜口教授がまるで少年のように瞳をキラキラさせながら聞いてきた。
「遭難者がみんなで歌を歌っていたら訪問者が現れるんです。ジャスラックですが歌の著作権料を払ってくださいって言いながら」
「面白い。歌ってみよう」
浜口教授がそう答えると、見事なテノールでアルプス賛歌の一節を歌ってみせた。
「それは昔からある歌なので、ジャスラックの管理外です。例えば今流行りの歌です」
俺は軽くハミングしてみせた。
「何も 起こらない」鬼口が感想を漏らす。
当たり前だなと俺たちは笑った。
「NHKバージョンもあるようだね」浜口教授が続けた。
「でもここじゃNHKは映りませんよ。電波が届かないんだから」
「映るかどうかはNHKに取っては問題じゃないんだ。NHKが映る受像機があれば徴収に現れるという話だね」
「え、そんな無茶な。じゃあ俺のスマホにはワンセグがあるから駄目じゃないですか」
そこで全員で耳を澄ませた。外で荒れ狂う吹雪の音だけが聞こえる。
「あるわけないよね~」
また全員で笑った。吹雪の中に消えた佐藤のことは敢えて考えないようにした。
あいつと今の俺たちとどちらがマシな状態なんだろうかとも思った。
しばらく皆で話をしていたが、やがて眠くなってきたので凍死しませんようにとお祈りをしてから全員眠りについた。
明け方一番に目が覚めた。いつの間にか吹雪は止み、うっすらと外が明るい。
綺麗な女性が俺の上に屈みこんでいた。白い着物を着た女の人だ。長い黒髪が俺の顔にかかりくすぐったい。豊満なその胸が俺の胸の上にある。なんて素晴らしい感触。透き通った肌の中でそこだけ真っ赤な唇が近づいてくる。その意図は明白だ。
お母さん。俺はこれから男になります。
唇と唇が触れそうになる。女性の唇から漏れる冷たい息が俺にかかる。氷を思わせる冷たさ。
声が聞こえた。いつの間に起きたか浜口教授が本を朗読している。あの総編集版日本昔話の本だ。
日本昔話の一節が流れた。
「雪女は男に接吻をして冷たい息を吹き込み男を凍りつかせてしまいました」
わあ。ようやくのことに事態に気づいて俺は雪女の手から逃れようとした。だが体がまるで凍り付いたかのように動かない。
「でかしたぞ。中山君。彼女は学名ホモ・コルドネシス。通称凍れる雪女だ。もちろん大発見だぞ」浜口教授が説明した。
いや、そんな甘い状況じゃないんですけど? 教授?
微かに薄笑いを浮かべた雪女の唇が近づいてくる。それが俺に触れそうに・・。
「それ。ボクんだ!」
どこから現れたのか全裸の吉村が雪女に抱きついた。
何がお前のだ? 俺は頭の中で問うた。もちろん答えなんか聞きたくない。
「どうして全裸のままなんだ!?」
「遭難のときはこうして温め合うんじゃないの?」
やっぱりこいつとは話し合うだけ無駄だ。俺はげんなりした。
吉村は雪女の胸を揉み、手足をさすり、髪に顔を突っ込んでくんかくんかと匂いを嗅ぎ、首筋をべろりと舐めた。さらには雪女の着物の裾から手を入れありとあらゆる不埒な行為をした。
もしここにフェミニストがいたら、吉村を銃で撃ち、斧で頭を割り、電気イスにかけ、C4を仕掛けて爆破していただろう。そんな不埒な行いだ。
雪女が甲高い悲鳴を上げた。遠くでそれに応える唸り声がして、地響きを立てながら雪男が走って来た。
強敵の接近を知り鬼口が起き上がった。彼は俺の横を駆け抜け、迫って来る雪男を迎え討った。両腕を前に出しがっぷりと四つに組むと怪獣大決戦を始める。大きな力と力の激突に地面が揺れた。
「頑張れ。鬼口君。頑張れ。吉村君。その獲物たちはでかいぞ。これで単位は確定だ」
浜口教授が無責任に煽る。
足下に何かがぶつかり、俺はその辺りの雪を蹴り上げた。
男が二人、雪の中に埋もれている。
あ、と気づいてその懐を探る。身分証が出て来た。NHKの徴収員とジャスラックという名刺が出て来た。
どうやら昨夜ここまでやって来て遭難したらしい。
まだ生きていたが、あまり心が痛まなかったので二人はそこに放置したままにした。どちらも大組織だ。じきに救助隊が派遣されるだろう。
四者の戦いを浜口教授と一緒に眺めていると、いつの間にか雪男の集団に囲まれていることに気づいた。
たちまち毛むくじゃらの腕に抑えられて、俺たちはもっと深い雪の秘境の奥へと連れ去られた。
5)
盛大な焚火だった。
俺たちを歓迎するためのものだ。浜口教授、俺、鬼口、そして吉村はぐるぐる巻きに縛られて木の棒に括り付けられている。周囲で雪男たちがドシンドシンと足音高く踊っている。
これから歓迎会の料理を作るのだ。
「鬼口! 起きろ!」
声をかけてみたが鬼口はぐったりしている。その頭に大きなコブができている。そうだ。雪男の石のこん棒で思いっきり殴られたのだっけ。
浜口教授は縛られたまま目の前に本を置いて読みふけっている。この人はなんてぇ人なんだ。俺は呆れた。
「うがー!」雪男リーダーが叫んだ。
「うがが!」残りの雪男たちが一斉に応える。
背景では一人の雪女を他の雪女たちが慰めているのが見える。きっと吉村にさんざ変態行為をされた雪女だ。
可哀そうに。もうお嫁にはいけないだろう。
俺が括られている棒が持ち上げられた。あの・・吉村の棒の方が軽いと思いますが。それに鬼口の方が食いでがあると思いますが。もっとも浜口教授は煮ても焼いても食えないとは思いますが。
俺の抗議は無駄だった。焚火が近づいてくる。
万事休す。
そのときだ。
地鳴りがした。その轟きは徐々に大きくなっていく。次第に俺の周囲の雪男たちが騒ぎ始めた。雪男たちは狂ったように辺りを見回すと、その内の一匹がここから見える雪山の斜面を指さした。そこには白い雪煙が上がっていて、こちらに向かってどんどん近づいていた。
「うがら~」雪男たちが吠えた。
「ああ、あれは雪崩だね」いつの間にか本から顔を上げた浜口教授が説明した。
「こちらに向かっている。知っているかね? 雪崩の前面には圧縮した空気による衝撃波前線が形成され、恐ろしい威力を持っているということを」
教授! 余分な解説は要りません。これじゃ心静かに死ねないじゃないですか。
「雪崩にやられた死体がときにバラバラになるのはそのせいだね」
そこまで言うと、教授は自分を縛っていたロープをパラリと解いた。横に置かれていた自分のリュックをまさぐると次の本を取り出した。
「きょ、教授。本なんかいいから俺たちの縄をほどいてください!」
俺は叫んだ。
失敗だった。
雪男たちが自由になった浜口教授に気づき、こちらに向かって来たのだ。
教授が俺や鬼口のロープに触れるとロープが自然に解けて落ちた。いったいどうやったのか分からない。きっと浜口教授だからだろう。
俺たちは固まって雪男たちを迎え撃つ体勢に入った。頼みの綱の鬼口はまだふらふらしている。
雪崩が近づいてくる。その白い煙の中心に、それはいた。
雪崩に負けない轟音を轟かせながら、巨大なスパイク付きタイヤが回転する。その怪物車は雪崩の中心を真っすぐに突っ切って、周囲に派手な雪煙を上げながら、突進してきた。
そして迫って来る雪男たちをまとめて弾き飛ばした。手足が好き勝手な方向に向いた雪男たちの体が宙に舞う。巨体の雪男に比べてもまだその怪物車は大きかった。
怪物車はそのまま焚火の周りをぐるりと一周して雪男どもをつぎつぎに撥ね跳ばす。それを見た雪女たちが一斉に逃げ出す。
車が止まった。不安定にアイドリングしている。
「早く乗れ!」
運転席から佐藤が顔を出すと怒鳴った。
恰好良いぜ、佐藤。惚れてしまいそうだ。
全員で車に乗りこんだ。何か忘れているような気がしたが、考えるのは後だ。
三千馬力エンジンがエキゾーストノートを吠える。六本の排気管から一斉に真っ赤な炎が噴き上がる。
「バーについているベルトで体を固定しろ! こいつはものすごく揺れるぞ」
怒鳴りながらも佐藤がアクセルを踏み込んだ。
車の巨大なタイヤが凄まじい速さで回転を始め、前に立ちはだかった雪男リーダーを挽きながら弾かれように車体が飛び出す。
横から飛びついてきた雪男の顔に鬼口がパンチを叩きこむ。
「助かったぜ。佐藤」俺は怒鳴った。エンジンの凄まじい排気音で怒鳴らないと声が通らない。
「彼女に電話したら、浪人したら交際を止めると言われたんだ。俺は絶対に単位を落とせない」佐藤は弁解した。
あの後旅館に何とか辿り着いた佐藤は彼女に電話して、結局宿の主人から車を借りて俺たちを探し回っていたらしい。
「単位 落とせない 同志」鬼口は佐藤の肩を叩いた。
「でもお前、サメに追われていたんじゃないのか」
「ああ、これか」
佐藤は足下からサメのヒレを取り上げると俺に投げて寄越した。確かにサメのヒレだ。ただしそのヒレの下には小さなトカゲのような生物がついていた。
「ヒレだけ立派な陸上サメだな。噛みつくから注意しろよ」
佐藤はギアを押し込んだ。そのついでに崖に車を向ける。
「さあ行くぞ。揺れるからバーにしっかりと掴まれ。舌を噛んだら死ぬぞ」
言うなり佐藤はまたもやアクセルを踏み込んだ。化け物のような加速が俺たちを襲った。慣性を受けてぐんと体が後方に引かれる。顔が歪む。慌ててバーにしがみついた。車から落ちたら死ぬ。死ぬ。もう一度言うが、絶対に死ぬ。
車はぐんぐんと速度を上げる。その余りの速さに俺の本能が叫んだ。
「佐藤。ブレーキ! このままでは全員死ぬぞ」
それに対する佐藤の返事を聞いて俺は絶望した。
「この車にはブレーキはない。ついでに言うと、速度計の一番下が時速三百キロに切ってある」
三千馬力は人間六千人とまとめて綱引きができる力だ。その力に乗って、俺たちのこの車は雪山を突進した。
道のあるなしなど関係ない。岩盤にスパイクを食いこませ一切減速することなく進む。大木に真正面から突っ込んだが、鋼鉄のバンパーに衝突されて、あっさりと大木の方が折れた。
雪の崖を垂直に駆け上り駆け下り、空中を飛び、木々をへし折り、岩を砕き、炎の排気煙をまき散らしながら俺たちの車は進んだ。
車が通った後には凄まじい自然破壊の光景が広がっている。白い雪の斜面の中にえぐれた地面の跡だけが真っすぐに伸びている。その前方に立ちはだかった物はすべて砕かれて終わった。
俺は少しだけ漏らした。こんなこと誰にも言えない。
周囲から雪が消え、普通の街の光景になったところで車は自然に停止した。
「ガス欠」佐藤が宣言した。
「助かった」俺は車からまろびでた。
派手に吐いた。俺の横で鬼口も吐いている。その横で当の運転手の佐藤も吐いている。
「大漁大漁」上機嫌で浜口教授が車の後ろから何かを引きずり出した。
車のどこかに引っかかっていた前限界環境生物たちだ。ユキカクレキツネにユキカクレオオカミ、ユキカクレネズミにあの猛毒蜘蛛までいる。これで俺たちの単位は安泰だ。
俺はほっと胸を撫でおろし、それからまた吐いて吐いて吐きまくった。
どこの馬鹿だ。こんな車を作る奴は。
テレビでニュースをやっていた。
スキー場を怒れる雪男の大軍が襲ったらしい。率いていたのは例外的に小柄な雪男ということだ。そこまで来て何を忘れて来たのか思い出した。
だから今もヤツはあそこにいる。