少しばかり飲みすぎた。会社の忘年会に続く二次会。例によって上司の悪口で盛り上がった。気づけば深夜二時。さすがにこんな時間に電車はない。
散財のついでだとばかりに丁度そこにやってきたタクシーに乗った。
今年の冬は暖冬なのに何故かしら冷える。
「運転手さん。暖房強めでお願いします」
「一番暖かいのにしているんですけどね。今夜は冷えがきついのかもしれません」
「あ、そう。それならいいや。きっと景気と同じように冷え込んでるんだね」
二人でへらへらと笑った。オレは酒に任せた酔っ払いの笑い。運転手はお金のためのお愛想笑い。
「お客さん。景気良さそうだね。タクシーはもう駄目よ。全然景気よくないの」
「そんなにひどいのかい」
「ええ、そりゃもう。転々と職を転がった挙句、最後にたどり着いたのがこう景気が悪いんじゃ、堪ったもんじゃないね」
「どことも似たようなもんだよ。今日はね、会社の忘年会で一年に一度だけの景気の良い大盤振る舞い」
「いいなあ。サラリーマンって憧れますね。私もね高校ぐらい出ていたらサラリーマンになれたかも知れないんですけど」
「へえ。今時中卒って珍しいなあ。いや、決して馬鹿にしているんじゃないですよ」
「わかってますって」
またもや二人でへらへらと笑った。夜道をタクシーのヘッドライトが切り開く。
「まあ、両親が二人揃って死んじゃってね。本当は一家心中の予定がね、あっしだけが生き残ってしまったんですよ。あんな親でも子供を道連れにするのは躊躇われたんですかね」
「あんな親と言われても、どんな親かはこちらには分からないけど」
「いや、それがひどいもので、毎日殴るは蹴るは罵るは。正直二人が死んだときはほっとしたものです。いや、そのときあたしゃ全身打撲でベッドの上でうんうん唸っていたんですけどね」
「そいつは穏やかじゃないな」
「でしょう。その後がまたひどくてね。施設に入ったはいいが、すぐに養子の口が決まってね。高校に通わせてくれるって話だったのが行ってみれば大違い。何のこたない。農家の奴隷としてこき使われる羽目でしてね。早々に逃げ出して今度はあちらこちらで放浪生活。まあ、じきに一人で生きることを覚えましてね。歳をごまかして何とかやってきたわけなんです」
「ほう。そいつは偉い。いや、本当に。おっとこれは皮肉ではないよ」
「わかってまさあ。おっとここで右の道を行きますね。この時間帯なら渋滞はないからうんと近道なんでさ。少し飛ばしますよ」
「ああ、頼むよ。こっちはあまり土地勘がないんでね」
「十八になったときに取り合えず小さな会社に就職はできたんですけど、そこにあのバブル崩壊でしょ。あっという間に折角入った会社が潰れてね。いや、あの時はひどい目に遭いました。それからしばらくはバイトで食いつないでいたんですけどね。そうこうしている内に体を壊しましてね」
「ありゃりゃ。体は大切にせんといかんよ」
「ええ、本当に。結局ナマポ生活にまで落ちましてね。体がそこそこ動くようになるまで五年は掛かりましたか。あとはまああちらで半端仕事、こちらで半端仕事をしてしのいでいたんですよ」
「それは、大変だろうなあ」
「ええ、でもいいこともありました。ひょんなことで出会った女が、どうしたことかこんなあたしを気に入ってくれてね。所帯を持ちましょう。一緒に頑張って生きましょうって」
「へえ。そんな女性、いまどき残っていたんだ」
「本当に幸運でしたよ。二人で頑張ろうって。この個人タクシーを始めたのものその頃なんです。でも良いことは長くは続かないもんですねえ。その女房との間に子供ができたのはいいんですけど、ほら、何とかとか言う病気。あれに掛かってお腹の赤ちゃんともどもポックリと」
「・・・」さすがに相槌を打つ気になれない
「まあそういうわけで夢も希望もなくなって。あたしゃ自分のタクシーに乗って海に飛び込んだんでさ」
「うへえ」
「でもまあこうして生きているんで。後は何とか歳取って死ぬまでやれればいいかなと」
酔いのせいかちょっとしたイタズラ心が湧いた。何だかいきなりゲンの悪い話を聞かされて不快だったせいもある。
「変だな」
「え? 何が変なんです。お客さん」
「さっきから寒気が止まらない。このシート、変だぞ。濡れていないか?」
「ええ、まさか」
「潮の匂いがしないか」
「あっしは何も感じませんが」
「何だこれ、シートの上に海藻が落ちているぞ」
「海藻?」
「あんた、まさか。もしや。そのときに死んだんじゃ」
「いやだな。お客さんも人が悪い。あっしが幽霊だなんて言うんで。幽霊がどうやってタクシーを運転するんです」
「だからほら、このタクシーも同じように幽霊だったとしたら」
「タクシー幽霊の逆さまバージョンですかい。客が幽霊というやつじゃなくて、タクシーと運転手が幽霊だったという」
「ははは。からかっただけだ。悪かった。忘れてくれ」
運転手は凄い形相で振り返った。目が暗くなり頬が落ちくぼんでいる。
「ええ、忘れていましたよ。あたしはあの時死んだんだってこと」
その瞬間、オレの周囲からタクシーも運転手も消え、オレは時速六十キロで道路の上に放り出された。