ファンタジー短編中編銘板

剣の夜、微笑みの月:V案件(後編)

 アンディを頭とする神学生軍団が到着するとこの小さな教会の中はいきなり賑やかになった。
 神学生軍団は総勢三十名。流石にこれだけの人数が教会に泊まるわけにはいかないので近くのホテルを借り切ることになった。教会はあくまでも司令部の役割をすることになる。表向きはこの教会で巡回神父の神学上の講演会があることにしてある。
 この学生たちの内二人ほどが人外の存在だ。残りは普通の人間だが、いずれもある種の力を持っている者たちだ。時代が違えば魔女や魔法使いと呼ばれることになる連中で、過去に対策局にスカウトされて神学生になっている。
 スカウトされて訓練を受けなければいずれ気が狂っていた連中だ。野放しの魔法とはそれほど精神の健康に悪い。
 教会の聖なる台の上に所狭しと並べられた武器を見ると、何かが間違っているという強い印象が沸き上がって来る。特にそれが若者たちの手にあると。
 武器は銃の類が半分で、残りはすべて刃物だ。それも奇怪な形をした刃物が多い。これらは対策局の伝統的な武器であり、最近作られた物もあれば百年前から使われている物もある。
 よくもまあこれらを持って税関を潜り抜けることができたものだと呆れた。神学生たちはノーチェックだったのだろうか。

 エマが甲斐甲斐しく若者たちの世話をする横で、私はアンディと作戦を立てた。
 吸血鬼たちが集まっているのは廃業したダンスホールで全体は円形をしている。ホールの中心は入口とは何重もの扉で隔てられていて防音構造になっている。その左右には控室や倉庫などが配置されている。
 建築されたのはなんと千九百年代だ。色々な法律が複雑に絡み合ってどうにもならなくなり最後にはニューヨーク市に委託され、そのままとなっている。改修しても破棄してもどちらにしろ法に触れる極めて厄介な代物だ。
 廃ダンスホールの正面は板張りで封鎖されている。あまりにも長い間そうされていたので、今では誰もそれをおかしいことだとは感じなくなっている。夜も昼も人通りがある場所なので、神学生たちを労働者に偽装することにした。ストリーホームサービスという会社の制服をでっちあげ全員分の用意をする。
 これらすべてを三日で用意したのだからバチカン対策局のニューヨーク支部はとても有能だ。



 用意ができた次の日に早速動いた。
 目標の廃ダンスホールへと急行する。予め周囲の店には作業の予定を伝えてある。正面にバンを二台止め、離れた場所にトラックを二台止める。作業員に扮した神学生たちはばらばらに集まり、様子を見ながら廃ダンスホールの正面扉を通って内側に集合した。
 積み上げた木箱の中から武器を取り出す。手に手に奇怪な武器を持ち、興奮に顔を赤らめた彼らの姿はどうみても怪しげなカルト集団だ。
 合図と共にダンスホールの舞台へとつながる扉の横に並ぶ。
 そこからは相当に派手な演出になった。正面扉の鍵は小型の爆薬で焼き切った。外を歩く群衆の注意を引く前に素早く全員でダンスホールの正面扉を開けてなだれ込み、扉を閉めた。一旦閉め切れば音は漏れない。ここは防音構造なのだ。
 もしかしたら警察には何らかの通報が行ったかも知れないが、そちらはもちろん根回し済みだ。

 吸血鬼の一番大きな弱点は昼の時間は眠りについているという事だ。正確に言うと眠りではなく一時的に死体に戻っているというのが正しい。どれだけ大きな音を立てようが眠りから起きはしない。その体を火で炙ろうが斧で切ろうがのろのろとしか動けないのだ。
 夜は向こうが無双する。昼はこちらが無双する。それはまさに喜劇的な逆転劇である。
 どうしてこれほど大きな弱点が存在するのかは対策局でも議論になったことがある。その時出た結論は吸血鬼が血しか摂取できないということだった。なにぶん血の大部分は水だ。血液は栄養自体は豊富だが、カロリーが低い。それを主食にする以上、カロリーの消費を抑えることは死活問題だ。ゾンビのように活動速度を落とす代わりに、一日の半分をほぼ冬眠に近い状態で過ごすように進化したのが吸血鬼なのだ。
 やれやれ、私たちはお伽噺の世界の住人なのに、科学というものは手厳しく制限をかけてくれる。
 もちろん、ここにも人間の警備員が何人か雇われていたのは夜の女王リビアの所と同じだ。自動小銃を構えた連中が音に驚いて飛び出て来たが、瞬きをする間に私が全員寝かせた。明日になれば胸に大きなアザをつけて痛みに呻きながら目覚めることだろう。
 人狼相手に喧嘩を売る方が悪い。
 吸血鬼の昼間の護衛には人狼が最適なのだが、今のご時世、大概の人狼は対策局に登録されているので、ここの違法な吸血鬼如きが雇えるわけもないのは不幸中の幸いというもの。
「殺さないのですか?」
 昏倒した警備員たちを指さしながらアンディが言った。
 ああ、アンディ。君は神学生なのだよ。私は心の中で嘆いた。慈悲というものを持ちなさい。
「殺さない。そのままにしておきなさい」
「でもこいつらは人間なのに吸血鬼に味方しているのですよ」
「吸血鬼にされた中に彼らの家族が居るのかもしれない。彼らにもどうしようもない理由で警備をやっているのかもしれない。同情の余地はある」
 私の返事を聞いてアンディは沈黙した。大変によろしい。アンディはとても素直で、おまけに頭の回転が良い。

 何重にもなったドアをあけ放ちながらダンスホールに飛びこむ。厳重に目張りをされ、一筋の光さえ入らないようにされているホール一杯に、吸血鬼が積み重なって寝ている。
 マスクをつけた神学生たちが手にした武器で吸血鬼たちを破壊し始めた。長い鉄棒などは可愛い方でアンディなんかはチェーンソーを振り回している。古式豊かな白木の杭などは必要ない。要は吸血鬼の肉体を破壊して、その中の呪われた血を外に流し出してしまえば良いのだ。
 一応ここに来る前に全員腹一杯に聖水を飲んできている。吸血鬼の血が多少かかったぐらいで呪いは移らない。神学生たちは容赦なく武器を振るった。
 体を切断されると流石に吸血鬼でも目を覚ましたが、動きは亀のように鈍い。地面を這って他の吸血鬼の体の下に潜り込もうとするが、いずれも果たせずに破壊された。
 銃声が外に漏れたらさすがにまずいので銃は敢えて使わない。
 私はざっと計算した。ここにいるのは全部で二千体という所か。予想される吸血鬼の数より明らかに少ない。
 私は積み重なった吸血鬼の間を歩き回った。一つ一つ顔を確かめる。とうとう最後には全部の吸血鬼が破壊されたが、吸血鬼のボスであるリチャードはどこにもいなかった。
 ヤツの寝床はどこか別の秘密の場所にあるということだ。あるいは群れが複数あることになる。
 神学生たちが手早く吸血鬼の死体を麻袋に収めると、外のトラックへと運び始めた。廃材を撤去しているように見せるために、折れた木材なども目立つようにして運び出す。それを監督しながら私は考えていた。
 残りの吸血鬼たちはどこに居る?
 そして肝心のリチャードはどこにいる?
 全員に撤退の合図を出した後、私は教会に戻った。

 その三日後だ。エマが誘拐されたのは。



 エマの寝室に置かれた一枚のカードに書かれていたのはお決まりのセリフだ。
 指定の場所に指定の時間に一人で来い、というアレだ。警察には知らせるなとは書いていなかったが、もちろん警察と相談するような話ではない。相談なんかしたら警官が全員吸血鬼にされかねない。
 すでに満月は過ぎ去っていて人狼の力は衰えている。おまけに今回は向こうもそれなりの準備を整えているだろう。何よりもエマが人質になっているのは痛い。うん、不利な条件ばかりだ。
 無論、どうしようも無ければエマは見捨てる。それが対策局のやり方だ。だが私のやり方ではない。氷のように冷たい生き方を是とするのなら、そもそも私はファーマソン神父にはなっていない。
 カードの事はアンディには秘密にしておいた。もし知られれば来るなと言っても来るだろうから。
 幸い私には切り札が一つある。これで何とかしよう。

 深夜十二時にカードに書かれていた住所を訪れた。指定された地下鉄駅に入り、入ってはいけない場所に入り、開けてはいけない扉を開け、潜ってはいけない場所に潜り込む。まるで自分が盗賊になったような気分を感じた。
 小さな小さなランタン型の玩具のライトを一つだけ腰に吊るしてある。人間ではこの程度の明かりだと何も見えないが人狼には十分だ。それは吸血鬼も同じで、やつらは暗闇でも目が見える。これから起きるのは闇に生きる者たちの闘争なのだ。
 武器は大きなナイフが一本。波型の刃がついたヤツで、刃には薄く銀が引いてある。はぐれ狼が相手に雇われていた場合にはこういう武器がないと埒が明かなくなる。
 吸血鬼には銀はそれほど効き目がないが、それでも十分に役に立つ。吸血鬼の本体はその呪われた血だ。その血の周りに粘土のように変質した肉がついているのが吸血鬼というものなのだ。
 吸血鬼は普通の人間の十倍程度の怪力を放つことができるし、その肉体は銃で穴は開くがどこを撃っても致命傷にはならない。ただし、傷が塞がるのは満月の晩の人狼ほど速くはない。だから傷をつければ血は流れる。大量の血が肉から離れてまき散らされてしまうと、吸血鬼は自我を失って死に至る。心臓に杭を打つというのはそのための方便だ。
 だからこのナイフでも十分に吸血鬼は殺せる。一振りで首を切り落とせば良いし、私にはそれができる。弾に限りがある銃は持ってこなかった。残りの装備で武器になると言えば厚手のベルトだけだ。

 問題は待ち構えている吸血鬼の数だ。昼の吸血鬼はどれだけいても脅威にはならないが、夜は違う。そして今は深夜だ。

 通路の先から匂いがした。腐った血の匂い。廊下の先に吸血鬼が二人いる。
 彼らも私に気が付き、こちらに近づいて来た。
「ファーマソン神父だな?」一人、いや一匹が口を開いた。
 向こうはその気だったが私は会話をする気は無かった。元より話し合いに来たわけではないから。
 すばやく二人の間を駆け抜けざまに、ナイフを振った。一人はそのまま大人しく倒れたが、もう一人は飛ばされた自分の首を掴み何とかもとの場所に戻そうとした。だが頭と体が切断されているためそれには失敗した。しばらく自分の腹に自分の頭を押し付けていたが、やがて倒れて動かなくなった。血が流れ過ぎたためだ。
 そのままトンネルを進む。抜けた先は古い地下鉄の廃駅だった。相当広い。
 ニューヨークにはこの手の廃駅が放置されたままになっている場所がある。その昔、金持ち専用として作られた駅である。そのまま地下鉄計画は頓挫したが、埋め戻すなどという手間をかけるはずもなく、そのまま放置されている。
 廃駅の中は豪華な内装が廃墟の雰囲気を漂わせながらそのまま残っている。黄色の非常灯がいくつか左右に灯っていて薄闇を作り出している。本来通電はされていない施設だが、きっと吸血鬼にされた電気工事士の仕業だろう。
 光が無くても生活できるのに、光をつけるのは大概がボス吸血鬼の趣味だ。自分たちが暗闇を這いまわる地虫だというイメージを受け入れたくないのだと思う。

 その広い空間のすべてを今は吸血鬼たちが埋めていた。どれも古びた服を着て、やつれた顔の中に白い牙だけが目立っている。
 高位の吸血鬼たちは貴族趣味の習慣を離さないが、この種の底辺吸血鬼はあくまでも労働者、言わば働きアリだ。人間扱いもされないし吸血鬼としてもまともな扱いはされない。急速に拡張している吸血鬼のグループによく見られる現象だ。
 この場にいる吸血鬼の総てが微動だにせずに部屋の中央を見つめている。そこにあるのは一際高くなった演説台だ。
 演説台の上にエマがいた。吸血鬼馬鹿息子のリチャードがその横に立ち、彼女の首にその手をかけている。高位吸血鬼の爪はカミソリよりも鋭い。ヤツがその気になればエマは一瞬で死ぬ。
 リチャードの目がこちらに向いた。
「本日のゲストのご登場だ。皆の者、拍手!」
 その場にいた全員が一斉に拍手を行い、廃駅の中がいきなりの轟音で満たされた。
 頃合いよしとみてリチャードが手を上げると、今度は一瞬で静寂が訪れた。吸血鬼が見せる完璧な全体主義は見ていて気持ちが悪い。彼らは一つの群れが丸ごと一個体なのだ。
 吸血鬼の本体がその体の中を流れる血であることは説明したな?
 この群れの全員の血が同じものなのだ。そしてその血が一番濃いのがリチャードの体に詰まっているモノということになる。
「さあさあファーマソン神父。こちらに来たまえ」
 吸血鬼の群れが左右に分かれ、演説台までの道が開いた。むせ返るような吸血鬼の腐った血の匂い。気分が悪くなるというより殺意が沸き起こる臭いだ。
 吸血鬼たちに睨まれながらその間を進む。ここにいるのは全部で二千人という所か。数か月前には彼らもごく普通の人間で、それなりに楽しい人生を送っていただろうに。今は血に飢えた目をしたただの獣だ。牙を剥きだして私を睨んでいる。
 怖かったかって?
 まさか。吸血鬼を恐れるなんてことをしたら人狼の名折れだ。
「おっと、そこで止まりたまえ」
 リチャードの声に合わせて私の周囲を吸血鬼が取り囲んだ。前に出ている吸血鬼たちの手には銀の武器が輝いている。これだけの銀の武器を新しく準備したとしたら、相当に銀の価格が上がったことだろう。
「分かっていると思うが下手な動きをしたらこの女は死ぬ」
 得意げにリチャードは宣言した。
「神の御名において、その神に仕える女性を返してくれないかな?」
 一瞬、私の言葉に群れの半分が後ずさりした。人間であったときにキリスト教に関わっていた連中だ。彼らは十字架や神という言葉に対して忌避反応を見せる。だが残りは別の宗教かそもそも信仰心を持っていなかった連中だ。
 やれやれ、わずかでも信仰を持つ者がたった半分だけとは世も末というものだ。
 リチャードは私の軽口に敏感に反応した。
「馬鹿を言うな。お前はここで死ぬんだ。となればこの女を誰に返せばいい?」
 思わず笑みを浮かべてしまった。吸血鬼の五大長老たちならそんなことは言わないだろう。特に夜の女王リビアは。彼女は私を良く知っているから。
 人質は絶対的な力の差を引っ繰り返すことができる手段の一つだ。だがそれはあまりにも危うい手段と言える。それはひとえに私が出会ったばかりのエマの命を自分よりも大事にするという前提に基づいているからだ。
 人質を諦めさえすれば、ここに私を殺せる者はいない。そして私に殺せない者もいない。
 もしリチャードがもっと賢い吸血鬼だったら、私に意趣返しをしようなどとは考えずに、どこかの人口密集地の中に逃げ込んで百年ほど大人しくしていたことだろう。だが彼はそうせずに、こうして私の前に居る。
 となると残る問題はただ一つ。私がエマを諦める気がないということだ。

 これ以上子供たちが死ぬのを見たくない。それが偽らざる気持ちだ。

 しかし困った。この距離ではいかに私が素早く動いてもリチャードがエマを殺すのを止めることはできない。何とかなると思ってここまで来たが何ともならない。

 仕方がない。ここで使いたくは無かったが切り札を出すとしよう。

「さあつまらんハッタリは通用しないぞ。お前は死ぬ。今ここで。我が僕たちにばらばらに引き裂かれて」
 リチャードが笑った。唇が割れ、長く伸びた白い牙がむき出しになる。
 長い間監禁されていた馬鹿息子。何も学ばずに歳だけ取った間抜けな吸血鬼。
「いいか良く聞け。俺の伝説はここから始まる。かって闇の世界を支配しかけたタイラントは失敗したが、俺は失敗しない。この群れが最初の一歩だ。一年後にはこの国を。十年後には世界を俺をモノにしてやる」
「タイラントか」私はため息をついた。「愚かな男だったよ。虚しい夢を追って、つまらん悲劇を起こした」
 ああ、確かに酷い話だった。どうしてあいつはああ愚かだったのか。私は彼を良く知っている。
「愚かではないさ。ただ失敗しただけ」
「愚かだったよ。この私がそう言うんだ」
「タイラントは人狼だったと聞く。同じ人狼のお前が英雄タイラントのことをそんな風に言うのか」
「英雄だと? 英雄なんかであるものか。大勢の人外の者たちを惑わせ、煽り、そして死に向かわせた。あれが英雄だなんて誰がお前に言ったんだ?」
 私はもう一歩リチャードに近づいた。群れの中央の位置。リチャードに飛び掛かるには遠すぎるが、切り札の力が働くには十分だ。
 リチャードはじっと私を見つめた。
「お前はタイラントに会ったことがあるのか?」
「あるとも言える。無いとも言える」
「意味が分からないな。喋ったことはあるのか?」
「喋ったことはないな」
 もう一歩。
「なにせ鏡を見ながらお喋りをする趣味は無いのでね」
 リチャードの動きが止まった。その瞳が大きく開く。
「ダーク・タイラント」
「その名は捨てた」私は返した。そうだとも。今の私はファーマソン神父。
 リチャードは後ずさった。
「嘘だ」
「どう思うかは君の勝手だ」
 そこまで来てようやくリチャードに勢いが戻った。
「ハッタリだな。お前はタイラントなんかじゃない。タイラントが対策局の犬になどなるものか。俺を騙そうとしてもそうはいかないぞ」
 リチャードは私を指さした。
「お喋りは終わりだ。さあ、しもべたち。そいつを殺せ!」
 リチャードが叫んだ。銀のナイフを持った連中が私に飛び掛かる。同時に私の頭の中で呪文が放たれた。
 そう、あの呪文だ。別の事件の解決のために、バチカンの古文書保管室から持ち出した例の呪文。
 こんな所で使う羽目になるとは。
 この数週間私の頭に食らいついていた呪文が解放された。速やかに呪文の内容が頭の中から蒸発する。物凄い解放感だ。ただし使うのは呪文の前半分だけ。悪魔を抑えるための精霊の召喚部分だ。

 光の精霊 マドウフ・ベイル

 空中に光り輝く精霊が呼び出された。それは千の太陽の輝きよりも遥かに明るかった。光で作られた天使の姿から無数の光の翼が空中に伸ばされた。一瞬早く私は自分の目を覆い、床にしゃがみこんだ。
 純粋な光。浄化の光。神の光。天地創造を引き起こした原初の光。
 それは顔を覆った手を貫通し、瞼を通り抜け、視界を純白の一色で満たした。
 廃駅中にありとあらゆる悲鳴が轟いた。
 吸血鬼たちの体を光が貫く。太陽の何倍も強い光は、彼らの呪われた血を蒸発させ、その体をただの乾いた肉片へと変えていく。
 焦げる臭い。焼ける臭い。乾いた臭い。
 周囲を満たすのは無秩序に痙攣する死にゆく肉体。いや、それは正確ではない。彼らはとうの昔に死んでいる。
 やがて静寂が訪れた。私は立ち上がり目を開いた。それでも視界はまだ真っ白なままだ。強烈な光で網膜がダメージを受けている。だがそれもすぐに元に戻る。人狼の回復力は普通ではないのだ。例え満月の晩でなくても。
 真っ白な精霊、人の形をした存在が私の目の前に浮いていた。もはや輝いてはいないがそれでもまだ眩しい。その体を彩っていた無数の光の羽はすでになく、今は二枚の羽だけになっている。神はチリから人間を創り、炎と風から天使を創った。そして光を集めてこの精霊を創ったのだ。

「君は一体いつになったら私が忙しいと理解してくれるのだろう。なあ、ダークよ」
 光の精霊は不満を漏らした。
「その名前はもう捨てたんだ。今の名前はファーマソン・W・ライトだ」
「それは驚いた。君が宗旨替えをするとは」
 精霊は静かに中空に浮いたままだ。意地でもこの汚らわしい現世に足を触れるつもりは無いらしい。
「とにかくこうしょっちゅう呼び出されたのでは私もたまらない」
「前に呼び出したのはもう二百年も前になると思うが?」
「たった二百年だろ。私に取っては瞬きするだけの時間だ。もう呼び出さないと誓ってくれ」
 私はその願いを無視した。要らない誓いを乱発するのは自分を不利にするだけだ。
「文句があるならテウルギア・ゴエティアに言ってくれ。あんたはあの本と契約したのだから」
 精霊は片方の眉を上げて見せるとブツブツと口の中でつぶやいた。
「とにもかくにも助かったよ。マドウフ・ベイル」
 精霊は周囲を見渡した。
「吸血鬼か。彼らも変わらんな。いつでも無目的に増えて、無意味に焼け死んで行く」
「仕方の無いことなんだろうな」
「仕方の無いことだ」精霊は答えた。
 精霊の翼が震えた。魔導書から借りた力での召喚は長くは続かない。そろそろ時間切れのようだ。精霊は光の中に吸い込まれるかのように空中の一点へと収束して消滅した。
 光の精霊が消えてしまうと廃駅の中を満たしているのは元の薄闇だ。非常灯だけが細々と点いている。周囲には骨と肉の残骸が積み重なっている。

 ああ、えいくそ。これでまた苦労して古文書保管室への入室許可を取り直さないといけない。私は悪態をついた。

 演説台の上にはエマが一人倒れている。
 この群れのボスのリチャードは一人で逃げたらしい。やはり吸血鬼長老の直系だけあってあの光の洪水の中でも死にはしなかったようだ。だが瀕死の重傷であることは間違いない。光の精霊の力は半端なものではないのだから。
 私は演説台に上り、倒れているエマを調べた。
 体に傷はない。だがエマの意識は飛んでいる。調べていくうちにその首筋に傷跡を見つけた。並んだ二つの噛み跡。

 エマは吸血鬼になりかけていた。

*☆

 昼になり、アンディ率いる対策局の軍団が作業にかかった。
 その半分は教会に配置し、半分は例の廃駅に後始末に向かわせた。吸血鬼の死骸というものは存外にしぶとい生命力を持っている。綺麗に焼いて灰にしてから聖水に浸して川に流すまでは安心できない。
 ベッドに寝かされたエマは軍団の中の医学生に任せた。
 夜になり廃駅に出かけていた軍団員たちが帰って来ると食堂で夕食を取り始めた。アンディが簡潔に報告を上げる。
 廃駅の中は綺麗に片付き、あのとき慌てて支線に潜り込もうとした生焼け状態の吸血鬼たちも見つけ出して片付けた。
 エマは依然として昏睡状態から覚めていない。
 問題は逃げ出した吸血鬼のボスであるリチャードだがこちらは行方不明である。さすがに高位の吸血鬼はあの程度の時間の光では死なないらしい。だがそれでも相当な重症であることは間違いない。しばらくは活動できないだろう。

 一人自室で物思いにふけっていると窓辺に影が訪れた。夜の女王リビアの訪問だ。
「ダーク?」
「ファーマソンだ。いい加減覚えてくれ」
「短い呼び方の方が好きなのよ」
 リビアは抗議した。ナイトガウンの黒いドレスを着ている。コウモリになって移動する際に服はどうなっているのだろうと思ったが、特に質問はしなかった。どの種族にも秘密はあるものだ。
「リチャードの群れを滅ぼしたようね」
「本人は逃がしたがね。現在捜索中だ。何か心当たりはないか?」
「残念ながら。もし何かあったらまた教えてあげるわ。それと約束は守ってもらうわよ。リチャードを殺してはだめ」
 再びコウモリになって去りかけたリビアを私は呼び止めた。
「なに?」
「ちょっと見てもらいたいものがある」
 彼女を眠り続けるエマの下へ連れて行った。アンディが目を丸くして突然現れたリビアを見つめる。無理もない。若いアンディにはリビアの魅力的な肉体は目の毒だ。それに彼女には大量にまき散らしている性フェロモンと露出を目的にデザインされたとしか思えないドレスという強い味方がある。
 エマの首すじを確かめた後にリビアは首を横に振った。
「吸血鬼化は止められないわ。相当進行しているし、それにこれはリチャードが直々に噛んでいる。つまり高位種の眷属化ということ。それだけ希釈されていない強い呪いなのよ」
「何か方法はないのか」
「完全に変異を終える前に噛んだ吸血鬼、つまりリチャードを滅ぼすこと」
 昔ながらの規則だ。だが残念ながらそれは駄目だ。リチャードは殺せない。エマ一人のために吸血鬼大戦を起こすわけにはいかない。
「あるいは」彼女は言いよどんだ。
「あるいは?」
「もっと強力な呪いで上書きをするのね」
「強力な呪い」
 吸血鬼の呪いを越えるもっと強い呪い。それには一つだけ心当たりがある。だがそれはどちらにしろエマの人間としての生を終わらせることになる。



 リチャードはエマを噛んでいる。つまりはリチャードが次の吸血鬼を作るためにはエマの変異を完了させなくてはいけない。呪いの移行には色々と複雑な魔法上の規則があり、これもその一つだ。吸血鬼が一度狙った獲物に執着する理由の一つでもある。
 私はアンディに指示を出した後に待った。

 今夜の月は半月だ。人狼の力を奮うには少しばかり不足する。
 ムーンカルトの薬草を煎じて一息に飲み込む。うえっ。いつもの事ながら酷い味だ。だが体が暖まり、月の力が少しだけ戻って来た。これは我が一族に伝わる秘薬である。
 深夜になり、風が吹いた。眠り続けるエマの前に、どこから侵入したのか黒い小さな影が集まると、人の姿になった。
 吸血鬼のリチャードだ。顔が焼けた皮膚に覆われ斑になっている。まだ十分には回復していないようだ。
「エマ」一言名前を呼ぶと、リチャードはエマの首に顔を近づけた。
 私は潜んでいた影から飛び出るとナイフを振った。
 リチャードの腕が上がり、鋼鉄よりも硬い爪が私のナイフを受け止める。私は素早く体勢を入れ替えるとエマを背後に隠した。
「どこまでも邪魔なヤツだな。お前は」憎悪を剥き出しにしながらリチャードが叫んだ。
「それを聞けてうれしいと言ったら喜んでもらえるかな?」
 私はニヤリとした。相手がその笑みを見たかどうかは分からないが。
 リチャードは目にも止まらぬ速さの攻撃を放ち、そのすべてを私は一本のナイフで受け止めて見せた。
 なるほどこいつ、爪に銀を塗ってある。
「俺の邪魔をしてお前に何の得がある?」リチャードは言った。
「仕事でね。お前こそ、あれほど大勢の人間を吸血鬼に変えて心が痛まないのか?」
「人間などただのエサだ」
 やつは言い放った。リビアとの約束が無ければこの場で殺していたのに。その代わりに私は一段階ギアを上げてナイフを使った。
 リチャードの両腕が一瞬でささらに刻まれ、血が噴き出す。大丈夫だ。これぐらいでは吸血鬼は死なない。弱るだけだ。
 リチャードに取っては自分より遥かに強い相手と対峙するのはこれが初めてなのだろう。これが私なら相手が強ければ全力で逃げる所だが、リチャードは何とか自分の自尊心を守ろうとしてその場に踏みとどまった。そこをさらにナイフでもう一閃。ヤツの右の手首から先が消失した。
 リチャードは絶望を顔に浮かべながら後ずさりした。
「さあそろそろ終わりといこう。次は首を切ろうじゃないか」私は言った。
 もちろんハッタリだ。リビアとの約束でこいつを殺すことはできないが、こいつはそのことを知らない。
 私は一歩前に出た。ナイフを振り上げる。その刃にぎらりと光が反射する。
 銀の三日月。死の象徴。
 ようやく恐怖が自尊心を越え、リチャードがコウモリに変じて逃げ出した。換気口の隙間にコウモリたちが吸い込まれる。
 私は神父服の隠しからスマホを取り出した
「アンディ。用意はいいか?」
「イエス・マスター」
 うん、良い返事だ。若者はそうではなくてはいけない。
 街の中の要所要所に暗視ゴーグルをつけた神学生たちを配置してある。中にはそんな道具が要らない者たちもいる。
 私はエマにかかっている毛布を直して報告を待った。
 じきにドアにノックがあり、アンディが顔を出した。
「マスター。見つけました」アンディは持ってきたタブレットを見せた。「ここです」
 リチャードが逃げ込んだ場所は、これも一等地だ。どこまでも贅沢なヤツだ。地図の情報ではそこは高級レストランだったが、ここは現在も営業中となっている。そこにコウモリが飛び込めば騒ぎが起きる。それともレストラン全体が奴らの巣なのか?
 迷っていると、スマホにコールがあった。対策局のニューヨーク支部からだ。アンディの報告への返答として、スマホの画面に地図と建物の概要が表示される。
 これでようやく、リチャードが何を寝床にしているのかが判明した。

 核シェルターだ。



 この国にはサバイバリストと名乗る者たちがいる。
 かって東西冷戦が続いていたとき、全面核戦争をいかに生き残るかに腐心していた人間たちの事だ。彼らは郊外に本格的な核シェルターを用意し、いざ事あるときにはそこに逃げ込むことを夢みていた。
 このレストランの昔のオーナーもその一人だ。いつ核戦争が起きても良いように、レストランを建築する際に地下百フィートに核シェルターを埋め込んだ。それも安物の気休め核シェルターではなく恐ろしく真面目に作られたヤツだ。それにかかった金額は莫大なものになっただろう。
 シェルターの外殻は三重の装甲鉄板で構成されている。戦車の防御に使用されているヤツだ。鉄板の間には衝撃吸収ジェルと遮熱ジェルが挟んである。入口のドアは停電状態でロックされるやつで、ここも対戦車砲でさえ撃ち抜けない強度がある。
 上部に突き出た複雑に折れ曲がった鋼鉄のパイプは排気口だ。シェルター内で空気ボンベを解放した際に余分なガスを放出するのに使う。
 もちろんこの核シェルターは今では使われていない。扉を開くための鍵はとうの昔に失われている。上に高級レストランが載っているので掘り出すこともできはしない。恐らくはこの地区が大規模に再開発されるときまで最低百年間はこのままだろう。
「困りましたね。マスター。この扉も壁も溶接バーナーぐらいではそう簡単に穴が開きませんよ」
 なるほどコウモリになって排気パイプから出入りできる吸血鬼にとっては完璧な要塞というわけだ。ここに立て籠もられたら手が出せない。
 だが問題はない。今回はリチャードを倒す必要はないのだ。
 私はアンディに指令を与えた。

 次の日、急遽そのレストランを一日だけ貸し切りにした。バチカンの資金が潤沢なのがありがたい。
 神学生たちに派手にパーティをさせ、騒音をごまかした。
 機材は私が運びこんだ。機材の総重量は三百ポンドに達するが、特別製のストラップで肩から吊るして歩き、重さを感じさせない足取りで店を訪れた。
 パーティからそっと抜け出し、裏手に回る。偽装された地下室の壁を手早く崩すと、その先に地下深くへと続く階段が表れた。懐中電灯片手にそれを降りていくと、やがて核シェルターの扉が見えた。
 弟子のアンディは結構器用だ。持って来た機材を使って、あっという間に扉の周囲を溶接した。装甲鉄板に穴を開けるのは無理でも扉が開かないように鋼鉄の板を溶接するぐらいは簡単にできる。吸血鬼がいかに十人力だろうが、この扉を開けるのは無理だ。

 次の段階だ。
 対策局のニューヨーク支部に連絡を入れる。
「ファーマソン神父だ。覗き屋につないでくれ」
 対策局は多くの人材を抱えている。その中には迂闊にも超能力を開花させてしまった者たちもいる。そういった人物を探し出して片っ端からスカウトするのも対策局の役目だ。
 覗き屋というのは透視能力持ちの人間たちの通称だ。透視能力と言ってもその適用範囲は狭く制限が多いのだが、今回のように場所が正確に特定できる場合はかなり役に立つ。
「こちら覗き屋のボブ」
 向こうの声がスマホから聞こえてきた。
「対象はその核シェルターの中に居ます。大きな棺桶が部屋の中央にあり、その中で寝ています」
 最後のピースが嵌った。吸血鬼は自分が最初に変じた場所の土を棺桶の中に敷いて寝床にすることが多い。つまりはここがリチャードのスイートホームということになる。
 次の作業場所はレストランの上だ。指先の力だけで鋼鉄のパイプをよじ登る。昼の日中に目立つ行動だが、ストリーホームサービスの制服の絶大な威力のせいで注意を引くことはなかった。
 パイプの先端に着くと、腰に結び付けておいたホースを持ち上げて鋼鉄のパイプに突っ込んだ。合図とともに速乾性コンクリートがポンプの力を借りて流れ込み始めた。二時間ほど流し込んで作業は終了した。
 吸血鬼の最大の弱点は昼間だ。外でこれだけのことをやられても決して目が覚めない。それは高位の吸血鬼でも変わらぬ弱点だ。

 アンディ一人を横に残して、日が落ちるのを核シェルターの外で待った。
 小さな叫び声がどこかシェルターの中から聞こえて来た。それから扉が強烈な力で殴られ始めた。扉がびくともしないのを確認してから階段を上がり、壊した地下室の偽装壁を新たに塗り直した。
 コンクリートで塞いだ換気口の方からも出ることはできない。狭いパイプ内にコウモリに変じて潜り込んだとしても、内部を埋めるコンクリートを打ち抜くことはできない。如何に化け物の肉でできていようがそこまでの力はコウモリには無い。
 やがて核シェルターの中の酸素が尽きればリチャードは動くこともできなくなる。吸血鬼は酸素が尽きたぐらいで死ぬことはないが、それでも無酸素状態では動くことはできなかろう。魔法法則は科学法則とは交わらないモノだが、また同時に科学の法則を完全にキャンセルすることはできない。
 リチャードが自慢していた無敵の要塞はいまや逃れることのできない鋼鉄の棺桶となってしまった。
 偽装壁を元通りに塗り直して、私たちは深夜のレストランを後にした。

 これにてミッションは完了。後残る問題はただ一つ。



 二日経って、ようやくエマが昏睡から覚めた。酸素が尽きたリチャードが休眠状態に入り、その支配が緩んだのだろう。
 エマはやつれている。眼の下に青い隈が出来ているし、首筋に残る二つの噛み跡が痛々しい。

「エマ。大丈夫か」私は尋ねた。
 もちろん大丈夫じゃないことは分かっている。
「ファーマソン神父。何があったんです?」
 私は今までにあったこと全てを話した。対策局の秘密保守規定は一切無視した。エマはこれからある決断をしなくてはならないのだから、隠し事は無しだ。
 私は鏡をエマに渡した。自分の顔の悲惨な状況をしげしげと見てからエマの顔に絶望が浮かんだ。
「良く聞きなさい。エマ。君は吸血鬼になりかけている。君を噛んだ吸血鬼はまだ生きており、君は止めようもなく吸血鬼になるだろう。恐らくは後二週間ほどで」
「止められないのですか」
「止められない。一つ告げておく。君が吸血鬼になった場合、君の身柄はここニューヨークの吸血鬼のボスである夜の女王リビアに預けられることになる。彼女が君の面倒を見てくれるだろう」
「吸血鬼。私途中まで覚えています。あの化け物たち。あんなものになるのは嫌です。死んだ方がマシ」
「吸血鬼もそう捨てたものではないぞ。うまく世を渡れば永遠に生きられる」
「普通のものは食べられるのですか?」
「食べられない。血は飲めるが」
「ではフライドチキンとはお別れってことね。それと夜にしか出歩けない。あの昼間の公園の散歩は二度とできない」
「そういうことになるな」
 私は言葉を切ってエマを見つめた。エマの言葉には強烈な苦痛があった。彼女は吸血鬼というものを正しく理解している。
 それから私は続けた。
「エマ。君にはもう一つ選択肢がある。だがそちらも吸血鬼になるのと比べてどれほどマシというわけではない」
「それは何です?」
 私は言いよどみ、そして続けた。
「吸血鬼の呪いをより強い呪いで上書きすること」
「より強い呪い?」
「エマ。私は人狼なんだ。それも古い古い、最古の血筋の人狼なのだ。人類が文明を持つより前から私の一族は生き延びて来た。私の受けている呪いの強さは吸血鬼の呪いの比ではない」
 沈黙が降りた。色々な事柄がエマの頭の中を飛び交っているのを感じた。それからようやくエマは口を開いた。
「それってつまりあたしに人狼になれってこと?」
「人狼に成り立ての頃から正しく訓練すればむやみに人を襲う化け物にはならない。それは私が保証する。寿命も長いし、病気やケガの類とは無縁になる。ただし」
「ただし?」
「満月の晩にはどうしようもなく体が燃える。抑えきれなければ狼女に変身することになる」
「理性を失うぐらいに?」
「それは訓練次第だ」
「誰があたしを訓練してくれるのですか?」
「私だ。君は私の直系眷属ということになるから」
「あなたが私のパパということ」
 私は一瞬返答に詰まった。
「そうだ」
 確かにその通り。彼女を人狼にすれば、その瞬間から私が彼女の父親ということになる。いや、直系眷属の絆にはそれ以上のものがある。
「いつも一緒にいてくれるんですか」とエマ。
「そうなるな。少なくとも最初の百年間は」
「決まり」
「何が?」
「あたし、人狼になります」
 私は最後の言葉を投げかけた。
「引き返せないぞ。そして君は自動的にバチカン対策局のメンバーとなる」
「ということは自動的にバチカンのあらゆる秘密に触れることができるのですね。もう、最高。早くやってください」
 エマは幸せそうに笑った。その笑いには、自分の本当の気持ちを隠している嘘の匂いがした。人狼の鼻は鋭いのだ。だが私はそれを無視した。
 エマには言わなかったことが一つある。エマはリチャードに噛まれたから吸血鬼に変じたエマはリチャードの一部となる。どれだけ厳しく監視していてもいつかエマはリチャードを解放するために全力を尽くすようになるだろう。そのときには、私はエマを殺さないといけなくなる。
 どのみち、彼女には人狼になる以外に道は無かったのだ。
 だが大事なのはその道を自分で選んだということ。

 私は躊躇った。ものすごく躊躇った。実を言えば、他の人間を人狼にするのは初めてなのだ。私の肩に今掛かっている重荷に、新たにエマという重さを載せてもよいものかどうか。彼女を正しく導くことができるのかどうか。私は自信が無かった。
 なにぶん私は一度自分自身を導くのに失敗しているのだ。
 もし、エマが人を食い散らかすだけの怪物になってしまったら、私はその責任を取らなければならないだろう。つまりその時もエマをこの手で殺すことになる。
 覚悟とともに私はエマの手を取り、少し躊躇った後に彼女の小指を軽く噛んだ。

 呪いを移すやり方で。
 今まで一度もやらなかったやり方で。

 血がしたたり、エマの顔が痛みに微かに歪んだ。それから血は止まり、傷は忽ちに塞がった。今度はエマの首すじの噛み跡から新たに黒い血が噴き出し、それはたちまちにして勢いを失うとやがて止まった。吸血鬼の呪いに染まった血が人狼の呪われた血に押し流されたのだ。その後は首すじの傷跡も完全に消えた。同時にエマの顔からやつれた感じが拭い去られ、頬に赤味が戻って来る。
「何だかすっごくお腹が空きました。ファーマソン神父」
「どこかのレストランでステーキでも食べることにしよう」
 最初の変身の後の強烈な飢餓。彼女の全身の細胞は今エネルギーを大量に求めている。早く何かを胃の腑に納めないと、彼女は周囲の人間を手当たり次第に貪り食うことになる。
 きっとそのレストランのシェフは驚くことになるだろう。大食いの神父と大食いの尼僧がレストランの冷蔵庫を空っぽにするのだ。

「アンディ」
 私は扉の外に声をかけた。アンディが入って来る。
「バチカンに帰ろう。チケットを取ってくれ。彼女の分もだ」

 帰りもあのジェット戦闘機に乗るのだけは、絶対に嫌だ。