物語というものは、夜に産み出される。夜から夜へと人の心は羽ばたき、その過程できらめく無数の思いという燐粉を、この黒のキャンバスの上へと刻んでゆくのだ。
巨体に似合わぬ繊細な心の持ち主であるラングは、夜空を見つめながら、そんなことを考えていた。
またもや満月の夜だ。ふたたびラングはファガスの家を訪れ、先月と同じ状況を見守っていた。
ファガスの家に住んでいるのは、主人たるファガスと執事のバイスターの二人きりだ。
やがては魔術師ギルドが徒弟制度に従って、弟子となる人物を押しつけてくるのだろうが、それまではこの生活が続くだろう。
実を言えば、二級魔術師に弟子が来ることは少ない。普通の二級魔術師には、弟子を取るだけの生活の余裕がないからだ。自分自身の大きな工房を持ち、街を運営する評議会と契約を結ぶぐらいの存在となる一級魔術師ともなれば、また話は別だが。
ベスの場合は特殊な例外だ。ヴォネガット魔法大学のブロンズベロー学長の強力な推薦がなければ、ラングも弟子を受け入れることはなかっただろう。そもそもラングが舎監を務めている学生寮が丸焼けになった事件のときに、学長に対して弱みを作らなければ、このような目にあうこともなかったのだとは、ラングも理解はしていた。
しかし、自分の監督している気の良い学生たちが、炎を上げる建物の中に閉じこめられていると知れば、誰でも同じ行動をしただろうと、ラングは信じていた。
「まあ、見てくれよ」
友の前で素晴らしい成果を見せる喜びを満面にたたえて、ファガスが手を振った。その声にラングは夢想を断ち切られて、現実に戻る。
テーブルの上には大きな箱がおいてある。その箱の中には例の指輪が八つ、奇妙な仕掛けと共に並んでいる。
これを除けば、前回の満月の夜と変わらない光景だ。顔ぶれも同じ。テーブルの上ではパット少女が、デザートの果物のムースに銀のさじを差しこんだ姿勢のままで、眠ってしまっている。その背中の上に毛布をかけているのはベスだ。
バイスターがひそひそと何かをベスと相談している。どうやらパットは今夜もファガスの家に泊まることになっているらしい。
それらを背景にして、ファガスは得意げに自分の仕掛けについて説明している。
「指輪の一つ一つを別の仕切りに入れて、上から糸で吊るしたんだ。
指輪自体に印をつけても、印ごと複製してしまうかも知れんからな。これならば、本物の親指輪の下には七つの子指輪が落ちるはずだ。そうしたら残りを潰して金塊に変えてしまえば良い。これで溜まっている薬草屋への支払いもできるぞ」
ファガスはうれしそうに両手を擦り合わせた。
「問題は親指輪の製作だな。これが結構、材料の選定が難しくてね。
何、しかし、最初の一つめが完成したのだから、製作工程に問題はないはずだ。材料のうちで一番値の張る黄金だけは、いくらでも手に入るわけだから、懐もさほどは痛まないというものさ。この次はもっと大きめの指輪にしよう。いや、腕輪がいい。そうすれば満月の晩ごとに、投資した分の七倍の金が手に入ることになる」
「君のその楽天主義はいつか君の足を引っ張るぞ」
ラングが注意した。
「例の方程式を持って帰って、1ムーンほど考えつづけたのだが、どうも良くわからん。わたしは理論魔法学は得意じゃないんだ。ルーン円盤の記述方程式の一部が、ネグサスの魔術方程式の一部と似通っていることは理解できたんだが、いかんせんわたしが到達できたのはそこまでだ。どうして無から有が創造できるのか、その謎が解けない」
「うん、実を言えば、俺も理論の部分は理解できない」
ファガスが相当苦労しながら真実を吐いた。ファガスは嘘とは相性が良いが、真実とはそも相容れない存在なのだ。
「だけど、この指輪はうまく働くし、どこにも問題はない」
「本当に問題はないんだろうな?」ラングは疑問の目で、金の指輪の入った箱を見つめた。
「きみの悲観主義にはほとほとあきれる」ファガスは鋭く言った。
「それより、この実験が終わったら、ファガス魔法具製作所に投資してみる気はないか?
いまなら、投資金額に対して、1ムーンにつき、五倍の返還があるぞ」
「すごい利率だな」ラングはやや呆れた口調で言った。
「何、親友のためならなんでもないさ」ファガスはしらりと言ってのけた。
ラングは太い指を伸ばすと、箱の上に張られた魔法防御場を弾いてみせた。
見えない壁。防御場本体を薄く包む反発場だ。防御場そのものは、短時間ならばその上に山が載っても耐えられるほどの強度を持っている。炎、冷気、雷撃、そのどれも通しはしない。
うまく行っている。ラングは信じられない面持ちで、テーブルの上の金の指輪をにらんだ。
いまのところ、トラブルの報告はなしだ。大地にいきなり火山が盛り上がることもなければ、海が割れて太古の巨人が現れることもない。
驚くべき平和。そのことがラングにさらなる違和感を感じさせた。
光が空に駆け上る。一瞬だけだが、満月さえも褪せて見えるほどの光が、夜空一杯を満たす。
「フェンリル教徒か」ラングはつぶやいた。「まだ、あそこの丘に陣取っているのか」
お茶を注ぎにきたバイスターがラングの疑問に答えた。
「ファガス坊ちゃまときましたら、今度は何とあの連中から丘の家賃を受け取っているのでございますよ」
それを聞いて、あんぐりとラングの口が開いた。こんな馬鹿な話は聞いたことがない。フェンリル教は邪教すれすれの宗教なのだ。自ら関り合いになりたいと思うような者はいない。もし、まともな精神ならば、の話だが。
「どうした? ラング。口の中を洞窟探検して欲しいのか?」
ファガスが茶化した。それから珍しくも真面目な顔になると付け加えた。
「しかたないだろう? その指輪を作るのに色々と物入りだったんだから。確かにとんでもない奴らだが、金払いの良いのだけは救いだな」
「まったくきみという奴は」ラングは敢えて、後を言わなかった。
「黄金ができるまでの間だ」ファガスは言ってのける。
無駄だ。金儲けに関して、ファガスと議論することほどの無駄は、この世には有りえない。ラングはその大きな手を、これも特大サイズの自分の頭に当てた。
心を切り替えよう。これぐらいで落ちこんでいて、ファガスの友達がつとまるものか。
ラングは金の指輪の入った仕切りを見つめた。
満月だ。そのときが来た。
乾いた音が響いた。
「黄金だ。黄金だ。やったぜ!」ファガスが小躍りして喜んだ。「ほら見ろ、ラング。計算通り、またうまくいったぞ!」
「一つ教えてくれんかな?」ラングは箱の中を指差した。「なんでこんなにたくさんある?」
全員が箱の中を覗きこんだ。バイスター、ベス、そして少し遅れてファガス。
「ええと、いくつあるんだ? 計算では親指輪一つに子指輪が前回と今回を合わせて十四個のはず」ファガスは指摘した。
「もっとたくさんあるのは間違いないですね」箱の中をながめていたベスが答えた。
「あたいにも見せて」騒ぎを聞いて、眠りから覚めたパット少女が箱を覗きこんだ。
その手を伸ばすと、箱の中をかき回す。
「あ、こら」ファガスがその手を抑えた。「駄目だ。ピー。かき混ぜるな。どれが親指輪かわからなくなる」
「その必要はない」ラングが重々しく言った。「ついにわかった。そこにある指輪の数は六十四個だ」
「どうしてわかるんだ?」ファガスは箱を抱えこみながら言った。その隣で押しのけられたパット少女が頬を膨らませる。
「あたいより、金の指輪のほうが大事なんだ!」
少女の訴えは完全に無視して、ラングは淡々と説明した。
「最初の親指輪は自分と同じ親指輪を七つ産む。それで合計八つの親指輪ができる。その次は、八つの親指輪がそれぞれ七つの親指輪を産む。これで合計六十四個だ」
ラングの説明に、ファガスが叫んだ。
「ちょっとまて、じゃあ、子指輪はどこに行ったんだ」
「最初から子指輪なんてものはどこにもないんだ。ファガス。
いいか良く聞け! ドラウプニルの指輪は、自分とそっくり同じ指輪を産む。素材だけではなく、魔法構造までコピーしてしまうんだ。できあがるのは常に親指輪。それのくり返しだ。指数関数的増殖だ。賭けてもいいが、次の満月には五百十二個の指輪が産まれているぞ」
やっと自分の計算の間違いを飲みこんだファガスは、破顔した。笑いが止まらないという表情で宣言する。
「そのどこに問題があるんだ? 良いことづくめじゃないか。これで次ぎの親指輪を作る手間が省けたわけだ。満月の晩ごとに指輪は八倍に増えるわけだ。いやっほう。俺たちは大金持ちだぞ」
「そのまま行けば、来年にはこの地方一体が、金の指輪で足の踏み場も無くなるぞ。さ来年にはミッドガルド界そのものが指輪で埋まる」ラングはうめいた。
ファガスは揉み手をしてみせた。
「その点は大丈夫だ。増えた分だけを潰して金塊にすればいい。後は指輪が外に出まわらないように、うまく管理をすればいい。やっほう。大成功だ! こんなにうまく行くとは、まるで嘘のようだ」
そう、確かに嘘のようだ。ラングは悪夢を見ているような気分だった。金の指輪の無限自己増殖。そんな馬鹿なことがあるわけがない。
懐から特大のパイプを取り出すと、口に咥えた。
生っ粋のトラブルメーカーのファガスが、これほどの成功を収めること自体、何かどこかの歯車がおかしくなっていることの証明であった。
それがどこかわからない。そのことがラングを余計に不快にさせた。
無意識に手を振り、炎を呼び出す。パイプから思いっきり息を吸った。冷たい夜気に、乾いたタバコの微かな刺激臭が混ざっている。
火はどこだ?
はっと事態に気づいて、ラングはテーブルの上をまさぐった。
ない! やはり、魔法の防御場が跡形もなくきれいに消えてしまっている。
これは冗談ごとではない。ラングが使っている魔法防御場は、王国の軍隊が使っているものと術式はほぼ同じだ。それが消滅するということは、王国の軍隊が素っ裸で戦場に立っているのと同じことを意味する。もし誰かが魔法の防御場を消滅させる方法を発明したとすれば、それは大変な問題だ。現在のミッドガルド界を成り立たせている軍事バランスが根底から覆ることとなる。
誰かが、だって?
その誰かは決まっている。ファガスだ。そしてファガスが作り上げたこの金の指輪のせいだ。
ラングは椅子から立ち上がりかけた。
そのときだ。がさがさと派手な音を立てて、人狼のフェラリオが真っ裸の人間の姿で森から飛び出して来たのは。いつもの穏やかな表情はどこに落としてきたのか、恐怖を顔一杯に浮かべている。
フェラリオは、前も隠さずに、ラング達の前に走って来ると喚いた。
「まただ。満月は落ちていないのに、突然、変身が、と、解けちまった。森に入りこんだ野犬を追っている途中で。も、もう少しで逆に食われるところだった。」
そこまで一気に言ってから、そばにあったワインの瓶をつかむと、喉を鳴らして飲み干した。
ラングが椅子から立ち上がった。
「わかったぞ!」大声で怒鳴る。「ついにわかった!」
「迷子になったヒツジを見つけたいなら、いまの声の大きさの半分でも十分だ!」ファガスが耳を抑えて怒鳴りかえした。「いったい何が言いたいんだ? ラング」
ラングはそれには取合わず、もう一度空中で手を振った。
生まれるべき炎が生まれない。夜の空気は静かなままだ。
「見ろ! ファガス。魔法が使えない。ここには魔力が存在していないんだ」
今度こそ、さしものファガスの目も大きく見開かれた。
「魔力がないだって? そんな馬鹿な」
ファガスの行動は素早かった。さっと家に走りこむと、何かを持って飛び出してきた。丸い金属の玉だ。その上についたボタンを押しこむと、森の中に投げこんだ。
静けさがあたりを支配した。
「本当だ。爆発しない」ファガスが目を丸くした。
ラングはファガスをつかみあげた。吊り上げられたファガスが足をばたばたさせる。
「こら、ラング、下ろせ!」ファガスは喚いた。
「いま、何を投げた?」ラングが厳しい声で聞いた。
「そりゃもちろん、護身用の携帯爆弾さ。周囲の魔力を吸収して爆発するやつだ。オーリッカ湖共同生活組合からの注文品さ」
ファガスの説明に、ラングは目を剥いた。
「馬鹿者。ファガス。オーリッカ湖の連中と言えば、裏でゲリラ活動をやっていると噂のやつらだぞ」
「変だな。俺のところに注文に来た連中は、そんなこと一言も言わなかったぞ。善良な一般市民に見えたのに」
「護身用に爆弾を注文するような連中が、善良だと?」
「はて、ラング。俺たちはいったい何を調べようとしていたのだっけ」
その言葉に、ラングはファガスを投げ出した。その通りだ。いまはこの魔力消失の原因を探るのが先だ。
バイスターが急ぎ足で、家の中からルーン円盤を取り出して来る。ラングは一心にそれを覗きこんでいたが、やがて記述の一部を指で叩いた。
「ここだ。魔力の起動と術式の入力部。最初に起動された瞬間に、周囲の魔力をかき集めているんだ。そしてそれを物質に変換する。結果がわかっていれば、何とか解読もできる。こいつは周囲のマナを集めて、それから黄金を作り上げているんだ」
「それに何か問題があるのか?」ファガスは言った。実際には答えはわかっていたが。
「問題があるかだって? ファガス。大ありだとも。この世界のすべてはマナで動いているんだぞ。ところが、この指輪は無限に増殖し周囲のマナを食い尽くす。マナがある限り指輪は増える。それが止まるのは、マナのすべてが枯渇したときだ。始祖問題の逆だ。世界の滅亡問題だ。マナのすべて、そしてマナを生み出すウロボロス・リングを食い尽くす、マナで駆動する金の指輪ドラウプニル」
そこまで言うと、ラングは椅子にくずれ落ちた。大ぶりに作られた椅子だったが、その重量と衝撃にはうめき声を上げた。
「なんてものを作ってしまったんだ。ファガス。ルーン円盤の色が赤なのも不思議はない。これは魔法で存在する世界に対する最終兵器だ。ドラウプニルの指輪は世界からマナを吸い尽くす驚くべき魔法武器なんだ」
「しかし、しかし、これは1ムーンに一回しか増殖しないんだぞ」
ファガスは、つっかえつっかえそれだけを言った。
「安全装置が組みこまれているんだろう。あるいは単純に魔力密度の問題か。再生に必要なのは時間じゃなく、マナなんだ。十分な魔力密度があれば、それは無限に、そして瞬時に増えるぞ。安全装置は大丈夫なんだろうな? ファガス」
冷たいものが、それも恐ろしく冷たいものが、ファガスの背中を流れ下った。
安全装置だって?
もしや省略したあの記述式のことか?
そう言われれば、思い当たる節はある。指輪の増殖回数制限に絡めて、増殖を止めるための機構が組みこまれていたような。面倒なので、その辺りはまとめて除去してしまったような覚えがある。魔法の材料は決して安いものではない。余分な魔法は余分な費用を意味するのだ。
これは大変な話だ。もしこの指輪を空から撒いたりでもすれば、それだけでミッドガルド界は指輪に汚染されてしまう。世界の魔法がすべて枯渇するまで、指輪の増殖を止めるすべはない。
手中の毒蛇。いつかどこかで聞いた予言は正しかった。
いや、これは毒蛇なんて生易しいものではない。まるで小型のフェンリル狼だ。言ってみれば指輪の形をした魔法の餓狼だ。無限に増えて、すべての魔法を喰い尽くす。
ファガスはラングの顔を見上げた。
恐い顔。
厳しい顔。
このことを話せば、きっとこの場で、ラングはファガスの手から指輪を取り上げてしまうだろう。
「ああ、大丈夫だとも」ファガスの口から言葉はすらすらと出てきた。
「本当にか?」ラングは念を押した。
「もちろんだ。ラング。俺を信じろ」
「信じられん」ラングは断言した。
「いいか、ファガス。ただちにそいつを壊すんだ。
わからないのか? 魔力が消失している範囲がどこまで広がっているのかしらないが、ウロボロス・リングが増殖して、この魔力消失現象が元に戻るまでにはしばらくかかる。
魔術師ギルドがこれに気づかないわけがないだろう」
ファガスは無言だった。
ラングの手が伸びて、その体をつかみあげると、上下に振った。
「やるんだ? ファガス。それともわたしがやろうか?」
「待て」ファガスは言った。「わかった。指輪は壊す」
結局、ファガスは嘘をついた。