その日も例によって、俺達はギルガメッシュの酒場で飲んでいた。今日のキリアはやけににやにやして酒場の隅に陣取り、何やら口の中でぶつぶつ言っていた。
にやにやしているキリアなんて物凄く気持ち悪い。
「おい、キリア。何か、あったのか?」
俺は耐え切れなくなって聞いて見た。こんな光景を見続けているぐらいなら、地下迷宮の中で悪魔たちとダンスを踊っていたほうがまだマシだ。
「なんでもないぞ。ドームよ」キリアはうわの空で答えた。
嘘だ。俺は断定した。
「なあ、じいさん。この間の旅の事なんだが」
ギルガメシュの酒場の中でも特大のジョッキを抱えて、野蛮人シオンが聞く。
「なんだ。シオン?」
キリアじいさんはあいも変わらず酒場の中を睨んでいる。
「どうして、月の人間達が俺達を殺そうとしていると判ったんだ?」
確かに。月に到着した時点ではキリアは奴らの存在理由も知らなかったし、どうして判ったんだろう。俺もそれを知りたい。
この質問はキリアをいつもの状態に戻したようだ。身体を乗り出すと目を光らせて話し始めた。
まったく、このじいさんと来たら、他人に自分の知識をひけらかせるのが三度の飯より好きと来ている。
また頭が痛くなるような話が始まらなければいいが。
念の為に酒を頼んでおこう。酒を飲めば頭痛は治まるだろう。うん、そうだとも。
「いい質問だ。シオン。あの月の都市の建物を見たな。シオンよ」
「凄かったな。あの豪華さには、俺達の街が逆立ちしてもかなわない」
シオンは野蛮人だが正直者だ。本当に感心したんだろう。あの街に。
しかし、それも今は瓦礫の山だろう。キリアじいさんが放った炎の魔神のお蔭で。
「あの直立した塔はティルトウェイトの照準器だ。左右の丸いドームは魔力の蓄積装置。特色のある輝きは建物の色では無く、魔法変換場の発光じゃ」
無言で聞き入るシオン。俺が無言だったのはジョッキの中の酒の最後の一滴をひどく乾いている俺の喉の奥へと収めるという大変に集中力が要る作業をしていたからだ。
「ひらべったい建物とその左右の紋章はマーラーテレポートの無限解放反発場の形成端じゃ。紋章というよりは変形した魔法陣じゃな。おそらく魔力源は地下にあったのじゃろう。」
考えているシオン。俺も考えている振りだけはしたが、それが無駄と判断した。戦士が賢い振りをしたからと言って、それを信じる奴はこの世にはいない。
「良く見ておれば、シオン。お前にも判ったはずじゃぞ。あの都市全てが攻撃のための街なのだと。そんな街に住む者達がよそ者を歓待などするわけがない」
「じいさん。あんた大したものだな」シオンが感心した。
本当に感心しているのだろう。あのシオンが酒を飲むのを忘れている。
いや、シオンはジョッキを持つとぐっと一息に空けた。やっぱりシオンだ。酒を飲むのだけは止めないな。
俺のジョッキはと言うと、とうの昔に空だ。頭の発熱を冷ますにはやっぱり酒が一番だ。俺の合図に酒場の給仕が飛んでくると、新しいジョッキを置いていった。
ぐうっとやって一息つくと、改めてシオンは聞いた。
「その、賢いじいさん。あんたが、どうして根源の神々に興味を持つのか、俺には判らんよ」
「根源の神々。それこそがこの世界の中心じゃからよ」
指でテーブルの表面を叩きながら、キリアの口調が真剣になった。そこに浮かぶのは、俺にはおなじみの表情だ。
「なあ。シオン。そしてドームよ。お前達はなんのために生きておる」
「酒を飲むためだ」と即答したのは俺。
「もちろん、酒を飲むためだ」これはシオン。
うんうん、だから俺はシオンが好きなのだ。
しばらくキリアじいさんは宙を睨んでいたが、気を取り直して話し始めた。
「では、質問を替えよう。お前達はどうやって生活しておる?」
これなら簡単な質問だ。俺にも答えられる。
「ダンジョンの中でモンスターを倒して、お宝を手に入れる」
「では、ドームよ。それ以外の生活の手段は?」
俺はちょっと言葉に詰まった。シオンの方をちらりと見ると、奴は頷いて後を続けた。
「例えば、酒場のバーテン」
うん、そいつはいい仕事だ。それならタダ酒がうんと飲める。
「ところがじゃ」
キリアは身を乗り出して話始めた。
「いいか、シオンにドームよ。顔を向けないようにカウンターを見てみろ。目の隅でそっと見るのじゃ。視線を回してはならん」
え?
なんだって?
俺とシオンはその言葉通り、そっと目の隅でカウンターを見てみた。視線は前方に向けたままだ。ぼんやりとした影が目の隅に見える。この酒場の給仕の影だ。
「そのままで、姿勢を変えるでないぞ」
キリアじいさんはそう言うと、自分の顔をその給仕の方に向けた。
俺は見た。
恐らくはシオンも。
目の隅にぼんやりと映っていた給仕が急にはっきりした姿になるのを。目の位置は一切動かしていない。錯覚では無い。
押し黙っている俺たちにキリアじいさんは説明しだした。
「見たじゃろう。幻じゃよ。すべては質量を持った幻じゃ。いいか、この世界で実体とも言えるものを持っているのは、このギルガメッシュの酒場にたむろしている冒険者達二十人のみなのだ。他の給仕や奴隷、更にはウィズアカデミイの教授連中でさえ、実はわしらの落す影にすぎん。わしらが見ていないと、あるいは聞いていないと、存在さえ難しいのだ。ドーム。シオン」
俺たちは黙っていた。たぶん、俺とシオンの無言の理由はそれぞれ違う。
「太陽は、というよりは太陽の役目をしている神は地平線より下になると眠る。月はわしらが、この酒場の外から見える所の分だけしか存在しない。後は空っぽだ。ダンジョンでさえも、冒険者が侵入することによってのみ、その存在を固定する。これがどういうことか判るか?」
俺もシオンも黙っていた。今度はどうやらシオンにも判らないらしい。ということは俺は逆立ちしても判らない。
「つまり、この世界はわしら冒険者二十人の為にだけ存在していると言うことじゃ。ここは冒険者をもてなすための世界なのじゃ」
「それならここが、俺たち、冒険者のための世界なら、どうしてそれに不満があるんだい。それはつまり俺たちが世界の神ってことだろ。キリア?
わざわざ根源の神を探す理由なんかどこにもないじゃないか」
俺は不思議に思って尋ねて見た。
「ところが、ここは完全に冒険者のための世界というわけでも無いのじゃよ。ドーム。
冒険者の顔触れは何時も変わる。わしらのようなベテラン以外はな。
では消えて行った冒険者はどこに行ったのじゃろう?
レベルドレインを食らって役に立たなくなった僧侶や、呪われてしまったビショップとかは?」
「それは死んだのでは。ダンジョンかどこかで」
これも違う。俺も心の中ではわかっているのだが。冒険者はそんな消え方はしない。いや、確かに俺の師匠のファイサルのように死んでしまった冒険者もいる。だが大抵の冒険者は死ぬんじゃなく、ただ消え去る。ある日突然、街から姿を消す。そしてそれ以降、何の噂も聞きはしない。
「ギルガメッシュの酒場はカントの寺院に保護されている死人の類も含めて二十人が定員じゃ。それ以上の冒険者が存在したという記録がない。どうしてその数以上に増えない。何が定員などという制限を作りだしている?」
また俺たちは黙った。
この議論はどこに行きつくのだろう?
「わしらは駒なのじゃ。ドーム。シオン。望むと望まざるを問わず、わしらは神々の駒なのじゃ」
やっと、俺にもわかった。俺の顔をじっと見ていたキリアにもそれは判ったようだ。
「そうじゃよ。ドーム。根源の神々はわしらを使ってゲームをしておる。そうに違い無いのじゃ。月に配置された、あの種族はそのゲームから駒が逃げ出さないための看守なのじゃ。この街とダンジョンはゲーム盤。ワシらはゲームの駒。駒の総数は二十」
「だとしても、俺はダンジョンでの冒険が好きだ。ここでこうして酒を飲んでいるのが好きだ」とシオン。
俺もそう思う。
「確かにお主らは冒険が好きな冒険者だ。だがそれは本当にお主らの本意なのだろうか?
チェスの駒のように予め決められた役割を演じているだけではないのか?
見せかけの自由。見せかけの意志。
あの月と同じく、うわべだけ本物の人生に似せた、実は空っぽの人生ではないのか?
そう考えた瞬間からわしには我慢できなくなった」
キリアじいさんは怒ったように言った。
「考えても見よ。ドームにシオン。
ワシらは冒険の為に存在しておる。冒険に出ねば、ワシらも人知れず消されるじゃろう。残った者は消された奴の事なぞ覚えてもいまい。
考えても見よ。二人とも。
根源の神々の住む真の世界を。こんな、影の世界、手抜きの世界でなくてな。そこはきっと素晴らしい所じゃろう。生まれながらに押し付けられた目的も無く、自分の心で、自分の意志で、自分の生き方を決められる世界。
好きな場所に行ける。素晴らしい光景を見ることが出来る。殺伐としたダンジョンでは無くてな。
バーテンでも。噂に聞く本屋という職業でも。好きな生き方が選べるのじゃ。
ああ、ドームよ、シオンよ。それはどれだけ素晴らしい人生か。
わしはあきらめんぞ。根源の神々を捜し出す。そして・・・」
その先は聞けなかった。キリアの目が俺の背後に注がれる。
「そして?」俺とシオンは同時に言った。
「二十一じゃ」キリアはつぶやいた。
「二十一?」なんだ?
そこで、俺はキリアが酒場のドアをじっと見つめているのに気が付いた。
振り向いた俺は、そこに天使を見た。
彼女の名はスーリ。職業は僧侶。髪は美しい金髪の巻毛だ。白のローブに金の縁取り。血の様に赤い宝石のはまった首飾り。一目で俺は彼女が気にいった。
彼女は流れのレベルの高い僧侶だった。当然の成り行きで、ギルガメッシュの酒場で一番の俺達のパーティに、彼女はしばしば参加するようになった。気難しくて頑固者のキリアじいさんも、俺が彼女に味方するのを見て、しぶしぶパーティへの参加を認めるようになった。
ああ、なんと表現していいかわからない。彼女は日増しに素晴らしく見え、日増しに可愛らしく見えた。グレーターデーモンに雄雄しく立ち向かう彼女。優しい後光に包まれて味方を治療するスーリ。レイスの邪悪なる手をすり抜け、メイスを振り上げる彼女。
自分が恋へと落ちて行くのが俺にはわかった。
こら、戦士ドームよ。しっかりしろ。
彼女もそんな俺に好意を寄せてくれた。ダンジョンの中の戦闘で傷ついた俺に真っ先に治療の呪文を唱えてくれたり、いつも背後を守ってくれたり、そんな小さなことだが俺にはとても重要だった。
こうして俺達はより親しくなり、そして、遂にある日、俺達はベッドインした。
俺は幸せの絶頂だった。
心ときめく一夜が開ければ、素晴らしい朝になるはずであった。
本当ならば。
だが、次の朝、俺が目を覚まして見ると現実は違った。
ベッドの上で俺は身動きもならなかった。
なぜだ?
まるで自分の身体じゃ無いようだ。これでは死体では無いか。かろうじて首だけは動かせるものの、首から下が動かない。いや、ダンジョンの中では死体も動くものなのだから、死体を例えにするのは間違っている。
うむ。体から力が見事に抜けている。幸いにも心臓だけは動いているようだが。
ベッドの脇にスーリが立っていた。身体に妙な服を着ている。
少し考えて思い当たった。これは司祭のローブだ。黒を基調としたローブ。金の縁取りは同じだが、血の赤が散りばめてある。間違いない。以前に見たことがある。以前に倒したことがある相手、邪神に仕える者の呪われしローブ。
「スーリ」
「あら、ドーム。やっとお目覚めね。随分、待ったわ」
「スーリ。これは・・」
「無駄よ。あなたの身体の力は全て封鎖したわ。声だけは出せるようにしたけど」
「スーリ。なぜ?」
なぜだあ? そんなに怒らせるほど、俺は下手だったかあ?
「月・・・、と言えばお判りかしら?」
「月?」
もしや?
「そう、あなたがたが破壊した月。今でも私達の都市は燃え続けているわ。私の家族も一緒に」
「スーリ」
「どうして罪もない人々まで燃やしたの?
私たちは貴方たちを歓待しただけなのに、帰って来たのはあの恐るべき炎の魔神だった。
私たちは復讐を誓ったわ。私は家族の死体に誓ったの。特にあのキリアだけは許さない」
こんなときでもスーリは美しい。たとえ怒った顔をしていても。
「でも、あいつは駄目。隙が無いわ。この地上にこれたのはわずか数人。えり抜きの数人。でもどうしてもあいつを倒せない」
スーリは唇を噛みしめた。
「だから、あなたにお願いするのよ。あいつを倒して。そうすればあなたを見逃してあげる」
沈黙が落ちた。
俺がスーリのためにキリアを殺すだと?
まさか。
スーリはしばらく俺を見つめていた。俺の心が変わるのを待っているのだろう。
力の限り努力して見たが、身体を縛る見えない力は緩まなかった。ああ、俺に魔法が使えたら、この状態でも何か強力な呪文を唱えることができたのに。いや、もしそうなら彼女は俺の口も塞いでいただろう。
「いいわ」スーリは肩をすくめて言った。
「どうせ期待してはいなかったわ。あなたにはあいつを裏切れない。心から慕っているのね、キリアを」
止めてくれ、そんなセリフは。背中が痒くなる。俺はあのじいさんには心底悩まされているんだ。
そんな俺の心情にお構い無く、スーリは続けた。
「でも、無駄よ。可愛いあたしのドーム。ここに魔法陣を描いたわ」
ちらりと床を見てみる。床は奇麗にかたづけられていて、奇妙な文様が描かれている。
これは確か。何かの召喚陣。召喚の呪文は外側に召喚のための呪文が並び、中央に召喚される神や悪魔のシンボルが描かれる。どの召喚でも外側に並ぶ呪文列は同じものだから一目でわかる。
問題は何を召喚するつもりなのかだ。そして何のために召喚するのかだ。
「見たことない? ドーム。これは愛の邪神モルゴドの魔法陣よ。あなたはここで私の虜となるの」
そうだったのか。愛の邪神モルゴトは狂気の王ニルギドの化身の一柱だ。とすればスーリは狂気の愛の魔法を俺に掛けようとしている。たぶんだが一度この魔法にかかると、俺は愛に縛られて相手の言いなりに動くようになる。
「昨夜、あなたと寝たわ。ドーム。後はあなたに愛してると言わせればいいの。この魔法陣の上で」
スーリが笑った。
女性がこれほどの邪悪な笑いをするとは、俺には今まで想像もできなかった。
だが、それでも彼女は美しかった。まるで天使の様に。
「私のために、キリアを殺してくれるわね。ドーム?」
厭だ。
確かに俺は怒ったときはキリアを殺そうとすることもある。特にじいさんが俺を自分の道具として使ったときには。
だが、他人のためにキリアを殺したりはしない。たとえスーリの望みでも。
そこまで考えて俺はようやく理解した。なぜ、キリアが根源の神を探し求めているのかを。
根源の神の意志に従い、この世界のシナリオに沿ってしか生きられないということがどういうことなのかを。
自由こそが人の目的。自由の無い世界は死んだ世界。行動のすべてが強要されたとき、人と人形との違いはなくなる。そしていまスーリはそれの強烈なやつを俺に食らわせようとしている。
「スーリ。止めるんだ」俺は叫んだ。
「止めないわ。ドーム。私の家族の仇」
スーリの髪が逆だった。スーリの意志が、強烈な憎悪が俺の顔を打った。
「止めないわ。ドーム。冒険者など、この世界から消えればいいのよ」
スーリが両手を上げて呪文を唱え始めた。
魔法陣の上が暗くなり、狂気の邪神の気配が魔法陣の中から感じられた。
近付いて来る。どことも知れぬ異界から。
ニルギド神の一族は、人の心を狂わす。あらゆる狂気を司る神々だ。愛の邪神などというものが存在するのなら、愛そのものは狂気の親戚ということになる。確かにそうだ。愛のためなら人は己が命さえ捨てる。それが狂気の行いでなくていったい何だというのか。
愛の邪神を呼ぶスーリの姿が輝く。その姿を見ていると強烈な欲望が胸を締め付けた。
欲しい。スーリが欲しい。それは俺の奥深いところからスーリの呪文に呼応して噴き出してきた。
あの肉にかぶり付き骨を噛みくだいて自分の物にすれば、スーリは永遠に俺の物。
俺は頭を振り、この考えを追い出した。邪神の力の影響がもう出始めている。
いったいいつまでこれに抵抗できる?
「スーリ。止めろ。俺はお前を愛してはいない」俺は叫んだ。
「無駄よ。ドーム。あなたは私を愛しているわ。誓うのよ、ドーム。偉大なるモルゴドの御前で」
「スーリ。止めろ」
そうだ。確かに俺は彼女を愛している。これは俺の本心か、それともスーリの魔法か。
「誓うのよ。ドーム。『ドームはスーリを愛する。永遠に』と」
部屋の中に風が吹き荒れる。
魔法陣の中に赤い電光が閃き、何かが息をひそめて待っている。誓いの言葉が発せられるのを。
それは強烈な存在感を漂わせている。それに触発されて、俺の中のスーリへの愛が膨らむ。
こいつの前で誓えばおしまいだ。恐らくは短い一生の間、スーリの言いなりだろう。
スーリの命令の通りに、愛のために他の冒険者を殺し続けることになる。
「言うのよ。ドーム。『ドームは』」
その時だった。何かが、俺の頭の中に語りかけて来たのは。力強い炎のような意志が。純粋で、強烈で、揺るぎないものが。その声も、スーリと似たような言葉を言った。
「言うのだ。戦士よ。『戦士ドームは』」
俺の耐える力も限界だった。俺は後者の声を選んだ。
「戦士ドームは・・・」
俺の声は吹きすさぶ風の音を圧して響き渡った。何かが俺の声を増幅している。契約を明確なものにするために。
「言うのよ。ドーム。『スーリを愛する。永遠に』」
「言うのだ。戦士よ。言えば、これより先も私はお前の下にある。永遠に」
遂に俺はその声の主を知った。なぜかは知らぬが、全身を強烈な歓喜が襲った。それは骨の髄を満たし、世界に溢れ出るほどの歓喜が俺を貫く。
俺は。とうとう俺は、自分が真に愛しているものを知ったのだ。
もう躊躇わなかった。
「誓おう。戦士ドームの名において。戦士ドームは」
スーリの目に勝利の光が浮かぶ。ああ、スーリ。今まさに裏切られようとしているのに、君は美しい。
「我が剣を愛す!」俺は言葉を結んだ。
雷鳴が轟いた。王国中に聞こえたに違いないほどの轟音が。
スーリは事態に呆然となった。素早く振り向いて、もしもの時のためにオーディンブレードを隠しておいた棚を見る。
我が魂、我が愛剣のオーディンブレードがいきなり胸の上に出現した。
我が剣が。
金属の刃、宝石が埋め込まれた鍔と柄。刀身には冷たい青い炎が巻き付き、それ自体の魂の輝きに照らされて。
光る魔力に取り巻かれて。
嵐のような異現象に包まれて。
世界の渦の中心で叫んでいた。
力の抜けたはずの俺の腕が剣の呼び声に引かれて自然に上がり、剣の柄を握りしめた。剣より流れ込む白熱の力が身体の呪縛を打ち砕く。人間のものではない活力が、手に足に五体に溢れかえる。
そして、俺はベッドの上に仁王立ちになって叫んだ。
「戦士ドームは、戦士の魂たる、その剣、オーディンブレードを愛する」
それから付け加えた。
「永遠に」
その言葉に答えて、今度は剣が答えた。部屋じゅうに響く不思議な声で。
「その剣。われオーディンブレードはその魂たる戦士ドームを愛する」
最後は殆ど叫びだった。
「永遠に!」
俺は大声で笑った。狂戦士の力に満ちて。だが今度は自分を失うことはなかった。遂に俺は剣と一体になったのだ。剣に認められたのだ。
白熱の力はもう流れては来ない。俺自身が炎そのものだから。大きく振り上げた剣にはオーディンブレードの力だけではない、目を覆う強烈な赤の光輝が宿っていた。周囲に無数の幻の剣が舞い踊る。それを握りしめる腕と共に。持主たちの雄たけびと共に。
これこそが、いままでにこのウィザードリイ世界に生きては消えていった戦士達の叫びだ。戦いの中に消えていった戦士たちの魂なのだ。
魔法陣の中に愛の邪神モルゴドの姿が見えた。そいつはいまや怯えていて、自分を守ろうとするかのように手を上げていた。
今こそ神を滅ぼすべきとき。俺は剣を揮った。
まるで、世界の重みそのものが剣に宿っているかのようだった。
俺の身体と剣に満ちる爆発的な力にも関わらず、剣はひどく重かった。モルゴドはそれほど強い。それは人間の持つ愛の狂気をすべて含有し、膨れ上がっていたから。
だがそれでも、今この瞬間だけは、オーディンブレードの勝ちだった。モルゴドの強烈な魔力そのものを容赦無く切り裂きながら、剣はモルゴドの存在そのものを断ち切っていった。永遠の一瞬一瞬に神の生命を削りながら、剣の刃が食い込む。
おお、愛の邪神モルゴド。冷たくあざ笑うモルゴド。人の魂を食うモルゴド。
そのモルゴドが電光に打たれ、苦しみ、透明な質量に満ちた身体を引き千切られながら、今や暗黒の渦へと化した魔法陣へと飲み込まれていく。
俺と剣と、そして恐怖に顔を引きつらせたスーリはそれをただ見つめていた。彼女の首飾りの赤い宝石が音もなく砕けるのが見えた。
俺の魔力に満ちた一撃は邪神モルゴドをその魔法陣ごと、異界に叩き来んだ。神を打ち滅ぼす。今まで、どんな魔法使いにも出来なかったことだ。
世界は反転し、正常へと戻った。呼び出された魔力が消散し、代わりに静寂が訪れた。
後に残ったのは放心状態のスーリだけだ。
「スーリ」俺は剣を引き、手を差し出した。
応える代わりにスーリは短剣を取り出した。
「スーリ。止めろ!」
「止めないわ。ドーム。キリアじゃない。今判ったわ、最大の敵は、ドーム、あなたよ」
「スーリ。無駄だ」
俺は戦士で、スーリは僧侶だ。戦えば結果は目に見えている。
「あなたほどの戦士を倒せるなんて思わないわ。ドーム。でもあなたは私を殺せないわ。あなたは私を愛しているから。たとえモルゴドがいなくても」
その通りだった。スーリの言う通りだった。俺には彼女を殺せない。
「スーリ。君にも俺は殺せない。君も俺を愛している」
スーリはそれを聞いて笑った。
「うぬぼれ屋ね。ドーム」
そして、スーリは短剣を手に俺に飛びかかって来た。
俺は短剣をこの胸で受けてやるつもりだった。それで彼女の苦しみが少しでもやわらぐならば。
俺は死ぬつもりだった。そう、俺は。だが俺は剣だ。そして剣は俺だ。永遠に。
俺の意志に逆らって、上を向いたオーディンブレードは、スーリの心臓を寸分の狂いも無く貫いた。
オーディンブレードは震え、たったいま作った傷を広げようと身をよじった。モルゴド神を倒すために魔力はすべて使い尽くしていたが、それでも食らいついた相手に最大の傷をつけようと、剣の刃で蠕動を開始した。それにつれて剣の周囲の肉が弾け飛ぶ。
いかん。俺は剣をスーリの胸から引き抜いた。
血がどっと床に溢れる。この衝撃の光景の中でも、俺の中の戦士の一部が冷静にスーリの、相対した敵のダメージを推定する。剣は正確に心臓を貫いている。切断された心臓からの胸腔への大量の出血。急激な血圧の低下によるショック症状。心臓の完全な機能破壊。完全な絶命まで残り十秒。
口の端から血を流しながらスーリがつぶやく。
「やっぱりね。ドーム。あなたは戦士よ。心から女を愛せはしないわ」
その言葉は俺の心を切り裂いた。真実のかけらが含まれていたから。
モルゴドの力の前で、俺は剣を、オーディンブレードを選んだ。スーリより。
慌てたさまのキリアが俺の部屋のドアを開けて入って来た。
「これ、しっかりしろ。スーリ」キリアはスーリの上に屈んだ。
いいところに来てくれた。キリアじいさん。
「キリア。治療の呪文を。このままではスーリが」
「ドーム。無駄じゃよ」キリアの声は冷却呪文マダルトより冷たかった。
「これ。スーリ。答えなさい。月からの刺客の人数は?」
「キリア。この狸じじい」スーリは血のついた唇で笑いながら言った。
顔が青ざめている。死にかけていてもスーリは美しかった。
「何もかも知っていたのね。知っていてドームに近付けさせたのね」
「ああ、毎日、月を観察していたでな。お前達のマーラー移動装置の閃光は良く見えたわい。隠密活動をするなら遮蔽装置ぐらいは開発するべきじゃったのう」
「私が思っていたよりずっと賢いのね。勝てないわ。私たちじゃ…絶対に…残念ね。キリア。それにドーム」
「じいさん。何している、治療の呪文を」
俺は焦った。死までの余裕はもうない。
「月の地下には根源の神への道があるわ。少なくとも手がかりはね」
スーリはそこまで言って、息絶えた。
「キ・リ・ア。なぜ?」
狂戦士の怒りが俺を再び覆い出した。今度の敵はキリアそのものだ。結局、俺はスーリの望みを果たすことになる。
「何故?何故!スーリを見殺しに」
腹の底から、力が湧き上がって来た。俺は吠えた。
「オオオ…」
「馬鹿もん! ドーム!」
キリアの大音声は部屋を揺るがした。それを受けて窓のガラスが破裂した。俺までがウオークライを忘れて、吹き飛んだ。
信じられない。狂戦士と変化しかけている俺を止めるとは。
ぎらぎらと光る目をしたキリアが俺の前に伸び上がった。そうか、気迫だ。そして狂気。誰にも追い付けないほどのキリアの狂気。
俺の怒りの狂気。スーリの復讐の狂気。そしてそれを遥かに越えるキリアの狂気。
執念。渇望。揺るがない意思。スーリがどうやっても勝てないと、認めたもの。
「考えろ。ドーム。スーリは僧侶じゃ。どうして自分の傷に治療の呪文をかけない!」
あ? 俺の動きが止まった。確かにそうだ。
「見よ。ドーム」キリアが床を指さした。
俺は見た。
そこに横たわるかってはスーリだったものを。人の形をしたキラキラと光るガラスのかけらが、ゆっくりと大気の中に溶けて行く様を。あれほどスーリの血の流れた床に、今はしみ一つ残っていない様を。
「スーリは実在の者では無い。ダンジョンのモンスターと同じく冒険者を殺すためだけに存在するのだ。スーリに自由な意志は無い。決められた通りに喋り、決められた通りに笑う。人形なのだ」
「違う。スーリは…」
「彼女には影は無い。わしは確かめた」
「キリア。違う。彼女は…」
「わしらを殺しに来た刺客だ。ドーム」
「違う。違う」
「スーリの最後の言葉を思い出せ。ドーム」
「・・・」
「スーリはわしらを誘っておる。月の地下は罠だらけじゃ。きっと」
「・・・」
「わしらは生まれながらの敵同士なのじゃ。冒険者と月の民は」
「じいさん」俺は言った。
「何じゃ。ドーム」
「あれは二十一人目という意味だったんだな。あの夜。スーリの現れた夜」
「そうじゃ。ドーム。わしは数えておった」
「そして、俺達の仲間はギルガメッシュの二十人だけ。そういうことだな。キリア」
「そうじゃとも。ドーム」じいさんは確信に満ちて言った。
「スーリは二十一人目。本物の冒険者ではあり得ないのじゃ」
結局、俺は敵を倒したわけだ。それだけ。いつもダンジョンの中でやっていることと変わらない。スーリは敵。ただの敵だ。
だけど、畜生!
どうして涙が止まらないんだ?