まさか、俺たちが宮殿から無事に脱出できるとは思わなかったのだろう。船は静かに見張りも無く、元いたところに放置されていた。好都合なことに、船を動かす奴隷たちも放置のままだ。
「キリア。もう宮殿から出たぞ。アンチマジカルフィールドも無い」
「おう、そうじゃ」
キリアはそう言うと、自分で自分に完全治癒呪文のマディをかけた。キリアは魔術師だが、若い頃に僧侶の呪文も習っている。だから魔術師呪文だけではなく、全ての僧侶の呪文も使える。マディはあらゆる病気やケガを一瞬で治す最高位の治癒魔法だ。便利だが、最高位の魔法なので、駆けだしの冒険者にとっては手が届かない魔法でもある。
すっくと立ち上がったキリアじいさんは、宮殿の中とは別人のような威厳に満たされていた。再び呪文が唱えられ、俺の体が光に包まれた。自分でも気づかなかったが俺の体は穴だらけで、指も数本折れていた。それらがまとめて修復される。狂戦士のオーラの名残で痛みも感じなかったし出血もしなかったようだ。それでもこれだけの傷を受けて、よく死ななかったな。俺。偉いぞ。俺。
二度と狂戦士にはなるまいと俺は固く心に誓った。あんなものになるには、命がいくつあっても足りない。
「さあ、帰ろうと言いたいとこじゃが、ドームよ。そうはいかん」
「まだ、何かやるのか。じいさん」俺はいささかげんなりしていた。
俺はともかく、自分がたったいま死に直面していたことがわかっているのだろうか?
このじいさんと来たら、足の一本が折れているぐらいが丁度良いのかもしれない。
「船の周りにもアンチマジカルフィールドじゃ。このままでは逃げられん。」
何? ここにもか。
「それで、シオン達に調べて貰っていたのじゃ。反魔法場は鎖のようにこの船を縛っておる。ロックトフェイトでワシらだけ帰還するという手もあるが、船を失うのは流石に惜しい」
だろうな。この船の建造費用だけで、ギルガメッシュ酒場の最高級の酒がいったい何樽飲めることか。俺はしばし、最高級酒でできた大海原という幻想に浸った。こう、角盃の先を切り落とし、その先を高級酒の海につける。それから角盃をぐびぐびと飲めば、まさに飲み放題。やがてさしもの大海原も飲み干されて、引き潮ができるかもしれない。
キリアの厳しい声が俺の夢想を断ち切った。
「そこでじゃ。反魔法力場を発生している建物を破壊せねばならん。そうしないと船は飛べん」
「わかった。どの建物を潰せばいい?」と尋ねたのは船室に荷物を置いてきたシオン。
「ここへ来る前に準備はしてきたよ」
そこで一息切ると、じいさんは破顔して続けた。
「いいか、見ておるが良い。破壊の呪文ティルトウェイトは単に爆発させるのだけが能では無い。さあ、真の魔法使いの力をとくと見よ」
キリアは両手を伸ばした。トランス状態に入り、悪魔語で何かをわめく。魔法の第1段階の精霊召喚の言葉は知っているが、こんな言葉を聞いたのは初めてだ。同時にじいさんは左の手でサインを作ると、ティルトウェイトを九発、立て続けに宙に放った。
一呼吸の間に全弾連続だぜ。最高位の破壊呪文を。まったく、器用なじいさんだ。
戦士の俺でも、これがどれほどとんでもない技かは判る。こんなことができるのは伝説の魔術師ワードナぐらいのものだ。まず悪魔語と精霊語を同時に喋る必要がある。九本の魔力の流れを同時に操り、それらが一瞬たりともお互いに触れないようにする。その他にも注意する点はいくつもあり、そのどれに失敗しても、超高熱爆発は術者の口の中で起こることになる。
キリアじいさんの超高熱爆裂呪文は爆発が広がらずにそのまま宙に固まり、そして一つの顔になった。そうだ、この顔は何かの古い本で見たことがある。文章は最初から読んでもいないが挿絵が印象的だったので覚えたはず。
思い出した。炎の魔神イフリートだ。
『キリアか。久しぶりだな』魔神が話しかける。
これも初めてのことだ。召喚された者が召喚者に話すなど滅多にあることじゃない。それにキリア。いったい何時、魔神となんか知り合ったんだ。
「ゴーモーノーン。契約に従い、お前の力を見せてくれ」とキリア。
『従おう。偉大なる契約の盟主の名において』びりびりと大気を震わせて魔神が答える。
「この月の、この船を除くすべての建物を燃やし尽くして貰いたい。お前の力の限り」
キリアじいさんの周りには雷電が閃いていた。
契約とは言っているが、実際には召喚者に隙があれば魔神は勝手に暴れ始めるだろう。強力な精霊の召喚には常に非常な危険がつきまとっている。まともな者なら絶対に手を出さないぐらいに。
キリアじいさんがどちらかと言えばまともじゃない方だってことは知ってるよな?
『従おう。偉大なる根源の神の名において』
ゴーモーノーンは儀式めいて言った。
ということは、こいつは根源の神のすぐ下に位置するほどの怪物ということだ。なるほどキリアは根源の神を探す途上で知り合ったのか。
「さあ、わしらは船の中に、さもないと奴に焼きつくされるぞ」とキリア。
俺たちは急いで船へと入った。
外ではゴーモーノーンが荒れ狂っている。あらゆるものが焼けていた。炎の魔神の周囲は無数の炎の竜巻が踊り狂い、その手が伸びたところからは紅蓮の炎が噴き出す。建物は焼け崩れ、そこから飛び出した人々がそのまま生ける松明となる。炎の竜巻がぶつかり合い、この船でさえびりびりと揺れた。俺はそれを見ていられなくて、皆の後をついて防御場に守られている船の中へと入った。
火炎地獄はあれ狂う。
俺たちはここへ来るべきではなかったのかもしれない。
月の民も、俺たちと敵対するべきではなかったのかもしれない。
俺たちは船を捨てて、帰還呪文で帰るべきだったのかもしれない。
するべきであったこと。してはならなかったこと。だが、もう遅い。始まってしまったからには。
船を包むアンチマジカルフィールドはなかなか消えなかった。その間に俺たちは月影たちの報告を聞いた。
キリアは王の態度を最初から怪しいと思っていた。キリアが機転を効かせたお蔭で、月影たちは貴重な情報を得た。宮殿の奥で見つけた金属板にはわけの判らない記号が並んでいたが、ビショップのボーンブラストが聖別を行うと、記号は並び換わり、読めるようになった。どうやら魔法で暗号化してあったらしい。文字は古代悪魔語に近いものだ。
キリアの言によると、どうやら、この月の民は根源の神々がわざわざここに配置した種族らしい。
その目的は二つ。
一つはあの太陽の巨神が何等かの事故で解放されたときそれを抑える役目。
もう一つは根源の神を探す者達を殺すこと。
これこそが彼らの存在理由であり、彼らの宗教であり、彼らの生きがいだった。この金属板は彼らの貴重な聖書なのだ。
そのため月の市街はその中に多くの反魔法力場発生装置、遠距離ティルトウェイト投射器、マーラー呪文を変形した空間湾曲破細装置なんかが装備されているらしい。戦士の俺には原理はしかとは判らないが、どうやら、キリアのこの新型船でも一撃で破壊されるほどの兵器らしい。
俺たちが無事に月につけたのも理由は一つ、俺たちが果して個人の冒険者なのか、それとも後続の部隊が来るのかを知りたかったからだ。
この月全体が大きな罠だったのだ。目立つところに置いて、近づいた者を容赦なく殺す。
キリアがうまく言い逃れなければ、着いた早々俺たちは惨殺されていただろう。
あるいは、俺たちよりわずかでも弱いパーティならば。
あるいはキリアのような恐ろしい魔法が使えなければ。
ここまで生き残ったのは幸運の連続だ。いつもの冒険のように。
やがて船全体が一際大きく揺れ動くと、ようやく自由になった。どの建物かは知らないが、反魔法場を作り出していた何かが破壊されたのだ。船を包んでいた反魔法が消え、船の奥深くから魔法の杖がうなる音が聞こえ始めた。船の命が蘇る。
「これで動けるな。だけどどうするんだ、キリア。船を上昇させたら、たぶんだが生き残っている魔法塔のどれかに撃墜されるぞ」シオンが指摘した。
「それも考えておるぞ。わしらは上には飛ばない」とキリアじいさん。
「意味がわからん」とシオン。もちろん俺もだ。
「わしらはこれから下に飛ぶ」キリアじいさんは床を指さしてみせた。「行き先は月の裏側じゃ」
「岩の中に出たら瞬時に岩と同化して死ぬぞ」
「大丈夫じゃよ。シオン。わしを信じろ」キリアじいさんは嘘をつくときの癖でウインクしてみせた。
俺たちはキリアの言葉に従い、一端、月の裏に出ることにした。月都市の武器はまだ全部は破壊されていない。そして月の武器はそのほとんどが俺たちの大地方向、つまりは上に向けて設置されている。だからいきなり大地の方向に飛び出せば、この船でも一撃で撃墜されてしまうだろう。
いや、これは全部キリアの言葉だ。俺には何が何だかわからないが、まあ、こういうときのキリアの判断には間違いがない。ただし、あまり従順に話を聞いていると、極めて厄介な所に送りこまれることになる。
「準備は整った」キリアが宣言した。
「宮殿から兵隊たちが出てくるぞ!」見張りをしていたシオンが叫んだ。「魔術師もかなりいる」
「ではぐずぐずしている暇はないな。皆、何かに掴まれ、跳ぶぞ」
俺たちは船の壁に張り付いた。
「跳ぶ前に言っておく。失敗したら、その、あの・・すまん」
おい! キリア! 自信があったんじゃないのか?
「出航!」キリアが船を起動した。
一瞬の暗闇。何かの発光。その色は今まで俺たちが見た事がない色であり、マーラーテレポートが終わったらすみやかに記憶の中から消え去る色でもある。現実世界の外にだけ存在する色であり、現実世界の中には存在してはいけない色だと、俺は理解している。
そして永遠の一瞬の後に、俺たちは月の裏側に飛び出した。
巨大なお椀の底の裏を俺たちは見ていた。
お椀の内側には月の都市。ここはその地面の遥かに下。お椀の外側だ。
やはり月の大地はあばただらけだったが、そこには他に何も無かった。いや、例外的に塔が何本か突き出ている。それを見つめていて塔の本当の大きさがわかった。今まで俺が見てきたことのある塔の何十倍の大きさだ。塔の先端に微かな発光。それ以外は何もない。建造物も生き物の影も。
「月はまるで酒の杯だなあ。残念だよ。あの酒。持って来なくて」
これは俺だ。本当に、心から、そう思う。こんなときでも酒の心配かと言われても困る。何と言っても俺はただの戦士なんだぜ。
もっとも月の杯の方も中身は空っぽだ。半球形をした空のお椀が、内側を俺たちの住む大地に向けている形だ。確かに月は何時も同じ面しか見せないから、見えない後ろ半分は無くても判らない。
うむ。これは良くない。この杯の中を並々と満たすはずの酒はどこにいった?
もしやあの太陽の巨神が飲んでしまったのか?
だからあの巨神は話が通じなかったのか?
酔っぱらっていたから。そして酒を盗み飲みしたからあそこに縛りつけられていた。なるほどこれなら筋が通る。神々の間でも酒の盗み飲みは重罪らしい。俺も気をつけよう。
「これで、世界は手抜きじゃとわしが言ったわけが判ったかの?」と俺の夢想を断ち切るかのようにキリアが言う。
「つまるところ、この世界は真なる世界に似せた極めて質の低い偽の世界なのじゃ。天空にかかる太陽は太陽ではなく、夜空にかかる月は月ではない。だからこそわしは、これらを創造した根源の神々を追い求める。真なる世界への手がかりはそこにしかない」
はいはい、わかりました。いつものようにこのドームの負けですよ。キリアじいさん。負けでいいから、これ以上の議論は止めてくれ。おや、シオンは今、何を隠した?
「月は大きな盃。それはある意味正しい。月は大地の放つ『望む力』を受け止める。そしてその力はあの塔からどこかに送られる。まだワシらの知らないどこかへ。あの塔の示す先に根源の神々がおる」
「まだ行くつもりかい? じいさん」
キリアは肩をすくめてみせた。
「船の燃料は帰りの分でぎりぎりじゃ。何の用意もなしに塔の先を目指すわけにはいかん」
冷静そうに見えるが、キリアが危ういところでこの判断を下したのは俺には分かっていた。本当なら何もかも捨てて出航したいところだろう。熱情と合理の間でのせめぎあい。
「では、帰ろう。我らが故郷へ」
キリアが自分の未練を断ち切るかのように号令を下した。船は虚空を進み始めた。
結局、シオンがかなりの量のマゾン酒をこっそり盗んで船に持ち来んでいたことが判り、帰りの船旅は非常に快適なものとなった。俺たちは今も赤い光が閃く月を眺めながら一杯やった。あの光の下では、まだあの炎の魔神が暴れているのか。多くの人々が死んでいるのだろうな。だけど不思議とそれほど心は痛まなかった。彼らはただ冒険者を殺すためだけに存在するのだから。敵は敵だ。敵に同情ばかりしていたのでは戦士なんか務まるわけがない。
キリアじいさんも何故か上機嫌だった。変だなあ。
「おい、キリア。結局、根源の神々の探索には失敗したんだよな?」
「そうじゃよ。ドーム。結局、会えなかった」
「じゃあ、どうしてそんなに機嫌がいいんだ?」
「知りたいか?」
「知りたい」
いやもしかしたら俺は知りたくない。じいさんが上機嫌ということは何かまた飛んでもないことが進行しているってことだ。キリアじいさんは俺のそんな気持ちを無視して続けた。
「月の民のような種族が配置されているのは、根源の神々に到達することが、可能な証拠じゃ。だからこそ、彼らはそれを阻止する。ドームよ。わしは手ごたえを感じているのじゃ。それにな」
「それに?」嫌な予感がする。
「わしは彼らの王に本名を告げた。キリア・イブド・メソとな。おまけに彼らの都市にひどい被害を与えた」
「与えている、が正しい言葉だろうな」
戦士らしくない言い方かな? これは。現在進行形だ。そしてそれはいつ終わるかわからないと来ている。
「そうかもな。ドームよ。そこで彼らはどうすると思う?」
キリアじいさんのにやにや顔が鼻に付く。
「わからん」とは俺。
きっとその答えは聞かなければ良かったと思うに違いない。でも聞くのを止められないし、キリアの口を塞ぐ手段はない。このじいさん、首を胴体から切り離してもきっと話し続ける。
「お前が人に殴られたらどうする? ドーム」
「殴りかえすさ。もちろん」
そこまで言ってはっとなった。まさか、キリア。
「そう、そうじゃよ。ドーム。彼らは来るじゃろう。わしの所へ、草の根を分けても、わしを探し当てるじゃろう。貴重な根源の神々の情報を持って。向うから。何度でも。何度でも。わしは来た者を捕まえて、その情報を得ればいいだけじゃ。ドーム! 根源の神々は近いぞ!」
いつもキリアはこうだ。まったく。このじいさんと来たら。懲りるということを知らない。
おお、根源の神々よ。キリアを止めたまえ。
じいさんの足の一本が無くなるぐらいならば、俺は目を瞑るつもりです。