風に呼ばれて目が覚めた。
俺は静かにベッドから降りた。
暗い部屋の中に、窓辺から差し込む月の光が四角い領域を作り出している。まるでそこに立てとでも言わんばかりに。そこは明るく輝く世界の主役が立つべき場所。
だが、俺は忍者。光では無く、影こそが俺の居場所。
俺はそっと影の側へ立つと、壁際に畳んでおいた黒布を顔に巻き付けた。
闇の中の更なる漆黒、それが俺だ。
そして俺は、月明りの照らす街の中へ、風の主を探して忍び込んだ。
何か人を不安にさせるような微かな匂い、大気に混じる酸の様な殺意。
ここメイルストロームの街でも、狂王トレボーの城のある街でも、この世界に存在する夜の街は非常に危険だ。
偉大なる、そして狂える魔術師のキリアの言葉によると、そのどれもが一つの街の異なる顔に過ぎないそうだが、俺に判るのはこの一点、夜の街は危険だということだけだ。
怪物たちは太陽の光が嫌いだ。
ドームの話してくれた狂える太陽の巨神が実在するものならば、その光を嫌うのは…畏怖か、それとも恐怖か?
だが深夜になり、冷たき月の光のみが街路に注ぐときともなれば、怪物達は暗いダンジョンから上がって来て、獲物を漁ることもある。
建物の壁の窪み、暗闇漂う家々のシルエットの重なり、街路に開いた地下への亀裂。
怪物達はそんな所に潜み、不用心な冒険者達を狙う。
この街に来てはやがて消えていく冒険者の行き先は奴等の胃袋の中だ。
怪物たちが出てこないときでさえも、その代わりを埋めるかのように盗賊が徘徊していることがある。あるいは二重の意味で腐敗した警備兵がそぞろ歩きしていることさえある。殺し屋も、殺人鬼も、酔った冒険者でさえも。
夜は危険だ。裏切り、策謀、悪意、衝動が、夜の街を彩る。ここはそんな街だ。
だが、その危険が俺を奮いたたせる。ここは俺の街、そして街を覆う闇こそは忍者の潜む領域。影こそは忍者の故郷。だからそこに入り込む奴等には容赦はしない。
俺は街路の人影を伺っている怪物の背後にそっと立つ。
そして鋼鉄の剣よりも硬く鍛えられた手先を、怪物の心臓へと突き立てるのだ。
はっと殺気を感じて振り向く怪物の仲間、俺はそいつの顔を影から見つめながら、すでにあの世へと旅だった仲間の死体の陰から死の手を延ばす。更なる致命傷の一撃を浴びせるために。
最後の一匹は半狂乱だ。
仲間の死体に向けて月光に鈍く光る錆びたメイスを振り上げる。だがすでに俺はそいつの背後に立っていて、回した腕で首をねじ切る。
そして俺はもう腐敗を始めた死体を置いて、再び街の闇の中へと戻る。
この地上では怪物の死体はまたたく間に腐る。朝までには骨も残るまい。夜と忍者だけが知る、暗い街の秘密。
またもや風に呼ばれた。
誰かが俺を呼んでいる。微かな期待と共に俺はそれを追う。
黒き飛鳥となって、俺は闇の中を飛び参じる。
何度、あいつを求めて、こうして夜の街を徘徊したことだろう。
失われし、我が命。我が力。あるべき本当の姿。
いくつもの怪物の死体が俺の足の下で潰れる。
街路の石畳みの床からしみ出して来た亡霊が、俺の手刀の下に小さな悲鳴を上げて消え去る。地獄からさまよい出てきた一人ぼっちの悪魔もまた、何も判らない内に故郷へと送り返される。 死をまき散らして俺は走る。声の主を探して。
ああ、そして俺は行き着いたのだよ。風に呼ばれたその場所へと。月の落とす白の領域の中にあいつは立っていた。
独りぼっちで。白き冷たき風を友として。
そして俺はあいつの前に立つ。渇望に胸を踊らせながら。
あの瞬間がまたもや目に浮かぶ。遠い遠い街の、深い深い地下迷宮の奥で、不完全に詠唱された帰還の呪文ロックトフェイト。あの捩じれた次元断層が、一人の忍者を幾つにも分けた。その強さ故に死にはしなかったが、砕かれた無数の断片となって数多の次元に飛び散った。我が分身。我が本体。
俺は手を延ばし、失われた人生の瞬間を掴もうとする。
だが、あいつは俺の手を避け、静かに首を振る。
…過ぎ去りし時はすでに戻らずと…
月が陰り、闇が世界を覆い、また戻る。
再び光に照らされた世界に、後に残るは風の音ばかり。
そして俺は泣いたのだ。別れを告げに来たあいつのために。