「問題はな、太陽なのじゃ」
ギルガメッシュの薄暗い酒場の隅で、魔術師のキリアじいさんはそう俺に言った。
「太陽?」
キリアじいさんの難しい話にはいつもついていけない。頭を使うのは苦手だ。だからこそ俺は戦士をやっているのだし、おまけに今は酒がたっぷりと入っている。そう、酒さえ入っていなければ、俺だってもうちょっと賢い。 もっとも、素面のときの俺を見つけるのは、人魚が山登りをするのを見つけるぐらい珍しいが。
「そうじゃ、太陽なのじゃ」
きしみを上げる椅子に座り直し、もう一杯エールを飲むと、キリアじいさんは話し始めた。
キリアじいさんは酒は飲むが、酔っぱらっところは見たことがない。ノームという種族は酒に酔わないのかな。いや、まてよ。俺はじいさんのことをノームだと思い込んでいるが、もしかしたら恐ろしく年を取った人間という可能性もある。間違ってもエルフじゃないのは確かだ。
「わしがもう長い間、神を探していることは知っているな。ドームよ」
キリアじいさんは勉強家だ。まあ、魔術師なんて連中はどれも勉強家と相場は決まっている。戦士という連中がどれも酒飲みと決まっているのと同じ話だ。それを差っ引いてもキリアの研究熱心は度を越している。地下迷宮の中で古い魔導書なんか見つけようものなら、冒険の最中で怪物に襲われていることも忘れて読みふけったりする。まったくもって迷惑この上ない。
いまここでそいつを指摘するのはためらわれた。なにせここは酒場で、今は貴重なくつろぎの時間。口喧嘩なんか始めても仕方がない。いや、たまにシオンとやっているような拳と拳の喧嘩なら、酒のよいつまみになるが。ここはまあ適当に相槌を打っておくにかぎる。
「ああ、だけど神ならいっぱいいるじゃないか。カドルトやララの神じゃどうして満足しないんだ?」
「わしが求めているのは根源の神じゃ。
かって、ワードナのアミュレットをこの世に送り出した様な神じゃ。カドルトなどの様な小者じゃあない」
死者蘇生の神カドルトが小物ねえ。キリアじいさんだって何度もお世話になっている癖に。
「で、根源の神と太陽とどこに関係があるんだ?」
「そなた。太陽の力の源は何かと考えたことがあるかの」
太陽? それなら俺も知っている。
「大きなたいまつじゃないのか?」
ここでじいさんはしげしげと俺の顔を見つめてから、深い深いため息をついた。
はて、俺、何か間違ったこと言ったか?
「三角法を使って距離を測定したが、あれだけの距離を置いて、あれほどの光と熱を作るには松明じゃ駄目なのじゃよ。化学反応では無理なんじゃ。せめて核融合でなければ」
「核融合?」それは食えるのか、と聞きたかったがじいさんの顔を見て止めた。
どうせ、俺は口よりは腕が達者な戦士のドームだ。戦士にとって無知は恥ずべきことではない。戦士にとって無知とは、ああ、その、酒のつまみみたいなもんだ。両方揃った方が絵になる。つまり俺は戦士でしかも無知だから、まさにお話の中に出てくる勇者のようなものということになる。
俺が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのかに関わらず、キリアじいさんは続けた。
「核融合はティルトウェイトの呪文の基礎となっている力だ」
ああ、そうか。超高熱爆裂呪文ティルトウェイト。最高位の攻撃魔法で、敵の群れ一つ丸ごと焼き払うのに使うやつだ。あれなら判る。あれは丈夫な魔法の鎧にも大穴が開くほど熱いからなあ。死にたくなければティルトウェイトには近づくな、だ。
「で、そのティルトウェイトがどうしたんだい」
「判らないのか、ドーム。天の上に昼の間中ティルトウェイトをかけておける力というものが、どれほどの物になるのか。真に強力な魔法使いワードナーでさえ1日に使えるティルトウェイトは9回が限度だったのだぞ。ましてや太陽を形作る爆発の規模と時間、放出される熱量と魔力を考えてみよ。あれほどのパワーが維持できるのは真に根源の神だけなのじゃ」
「あるいは、魔術師の大軍勢かだな」俺は指摘した。
太陽の周りを魔術師の大群がぐるぐる回りながら爆裂呪文を掛けている絵が頭に浮かんで俺はげんなりした。その絵の中には戦士が活躍する場がなかったからだ。戦場の華は魔術師であり、戦士は常に盾役というのは少しばかり悲しい。
話が難しいせいなのか、酔いがまわって来たからなのか、俺は眠くなってきた。ときどきじいさんはわざと難しい話をしているように感じる。きっと俺が酒をたくさん飲みすぎないようにと注意を逸らすつもりなのだとは思うが、たいがいは逆効果に終わる。
キリアじいさんは瞳をキラキラさせながら言った。
「魔術師の大軍があの爆発を作りだしているならば、そもそも夜の来る必要性が無い。太陽は1日中空に輝いているだろうよ。ドーム。
恐らく天のあの位置には根源の神がおり、ありったけの力でティルトウェイトをかけておるのじゃ、そしてその神が眠りにつくと夜が来るのじゃよ、ドーム」
「神学上の議論は俺にはどうでもいいんだ、じいさん。俺は酒が飲めればいい」
「気分転換に一緒に旅に出てみないか、ドーム。一人では寂しいのでな。酒は飲み放題じゃぞ。」
じいさんはニヤニヤ笑っている。珍しいなあ、キリアがこんなに上機嫌とは。
「ああ、いいよ。温泉にでも行くのかい。じいさん」
そういって俺はテーブルの上に崩れ落ちた。今日の酒は本当に良くまわる酒だ。まるでキリアが酒に薬でも盛ったかのようだ。
・・・揺れる船の上での二日酔いは最悪の物だ。特にまわりに波ではなく暗い虚空が広がっているとなると。
二日酔いと共に起き上がって見て、自分が船の上にいることに気付いたときは本当に驚いた。すぐに腰に手を回して愛用のオーディンブレードがあることを確かめる。船の大きさは中ぐらいの帆船、本来なら二十人が乗れるぐらいのものだ。でも甲板には人影が無い。その代わりと言ってはなんだが、どことなく妙な形をした道具があちこちに置いてある。いや置いてあるというよりは手すりに埋めこんである。
「お~い。誰かいないのか」俺は叫んで見た。
俺の声に答えて甲板の下で足音が動き、登り梯子からキリアじいさんの顔が覗いた。
「ドーム。起きたか? 気分はどうじゃ?」
最悪だよ。その言葉は飲み込んだままにした。
「キリア。ここは・・」
「旅に出ると言ったじゃろう。ドーム。船旅の最中じゃよ」
「どこへの旅だ。それに海はどこだ?」
船の外は見渡す限り漆黒の世界だ。またたかない星が遠くに見え、船の真上に太陽が輝いている。こころなしか、太陽の輝きが強いように感じる。
「聞いて驚くなよ。ドーム」キリアじいさんが上目使いに俺を見て言った。
「驚かないよ。早く言えよ。じいさん」
二日酔いの頭を抱えて、苛つく会話は願い下げだ。早く言え、キリア。きっとろくでもない話だろう。聞いたらすぐにじいさんを殴って、縛って、このマストのてっぺんから吊るしてやる。
「この船は今、地上遥か上だ。虚空の中を太陽へと旅をしている」
「・・・」
「根源の神を求めてな」キリアじいさんは付け加えた。
抜き様に放ったオーディンブレードを、キリアがするりと避けた様は大したものだ。
キリアときたら年寄の魔法使いなのに、身のこなしは剣士並なのだ。だが。逃さない。
とんでもない旅に俺を引きずり出しやがって。
じいさんは船の中央に立てられた太いマストの後ろに隠れた。もちろんこの虚空では風が吹かないので、帆は張られていない。何のためのマストかは知らないが、キリアが背後に隠れられるぐらい太い。
だが。無駄な抵抗だ。マストごとぶったぎる。俺の剣技とオーディンブレードの力を使えば可能だ。マストごときで逃げられると思うなよ。キリア。
俺が剣を大きく振りかぶったそのとき、マストの向こうからキリアじいさんの声が飛んだ。
「まて、ドーム。この短気者。わしを殺せば地上には返れんぞ」
嘘だ。キリアはハッタリをかけている。そうに違いない。
そうは思ったものの俺の剣先を止めるには十分な言葉だった。
そこへ畳みかけるようにキリアが言う。
「ギルガメッシュの最上等の酒が一樽載せてある。
それが空になるまででいいから、わしの話を聞く気は無いか?」
ふむ、酒。ギルガメッシュの最上の酒と言えば、滅多に飲める代物じゃない。
目の玉が飛び出るほどの値段なのだ。実際にそれを飲むために自分の目玉を賭けた男を俺は知っている。そう、俺自身だ。
だが、ここでキリアの口車に乗るのは俺のプライドが許さない。
俺は心を決めるとオーディンブレードを振り降ろした!
広げた両手より大きな幅のマストに半分だけ剣を切り込んだまま、俺は酒樽を両手で抱えて飲み始めた。やはり上等の酒を無駄にするわけにはいかない。それに二日酔いには迎え酒が一番効く。
俺が酒を飲み始めるのを見て、これなら一安心とばかりに傍にキリアが座った。
「ようし、キリア。始めていいぞ。俺が樽を空にするまでだ」
「ドーム。つまりはこういうことじゃ・・・」
・・・さすがにキリアじいさんを殺せば帰れなくなると悟ったので、代わりに俺は毎日を酒びたりで過ごした。そのうちにじいさんに対する怒りも失せ、旅を楽しむ気分になった。
とはいえ、船の外の星の他には見るものもなかったが。じいさんは本当に良く喋った。おかげで、じいさんがこの旅のために十分な装備を整えたのは良く判った。最近のじいさんがあれほどケチに徹した訳も。
船はキリアじいさんが一から作り上げたものだった。キリアは暇に任せて説明してくれた。
手摺に並んでいるのはマーラー魔法が内蔵されたディアダム(司教冠)だ。瞬間転送の能力を持つこの高価な魔法アイテムがこれほどたくさん並んでいるのは初めて見た。これを全部売ればギルガメシュ酒場のツケが払えるのにとも思った。もちろん口には出していないが。
ディアダムの輪の中にはなにやら呪文を刻んだ金属の棒が通っている。
キリアの説明によるとこの棒はマーラーディアダムの効果を平均化するためのものだそうだ。1本のマーラーディアダムではすぐにパワーを消耗してしまう。だが、このように多数のディアダムから少しづつ力を放出すれば、ほとんど無制限と言える期間、ディアダムは持つそうだ。これが船の動力源というわけだ。この船は風を受けて海の上を進む代わりに、瞬間移動の魔法を使って虚空を飛ぶ。
船の中央に置かれているのは、静寂呪文モンティノを変形して船の回りの空気を固定する特殊な巻物だ。静寂呪文は本来攻撃魔法の一種で、敵の魔術師の周囲の空気を操作して呪文が唱えられなくするためのものだ。それがこのような応用ができるとは初めて知った。
じいさんの話によると、何度かこの虚空へ動物を送り込んで実験した結果、虚空には空気に類するものが無いことが判ったためだそうだ。試しに、船の縁に近付いてみるとたちまち息が苦しくなったので、その通りなのだろう。この船から顔でも突き出そうものなら、その場で窒息してしまう。
更に船の倉庫にはマジックアイテムに魔力を補充するためのマジックワンドが山積みになっていた。
実にもったいない。これほどのアイテムを無理して蓄えるぐらいなら、ギルガメッシュの酒場で酒を飲んでいた方がどれほど有意義なことか。その方がずっと気楽だし、ずっと楽しい。俺は溜め息をついた。まあ、酒ならここでもたくさん飲めるが。
キリアじいさんがあらゆる事態を想定して船を作り上げたことを知って、俺の考えも変わった。どうせ家に帰れないなら思いっきり旅を楽しんでやる。それが戦士の生き方ってもんだ。とにかく、酒樽だけは船の倉庫に腐るほどある。
日々、船は太陽に近付いているようだった。正確な距離や日程はキリアは教えてくれなかったが、毎日、少しづつ太陽の輝きが強くなって行くのが判る。それに伴い、太陽が落ち着いた安定した光では無く、不規則な明滅を繰り返すのが判るようになった。
「キリア。じいさん。なあ。どうして太陽があんなふうに見えるんだ?」
ある日、俺は聞いて見た。
「あれが太陽本来の姿じゃよ。ドーム。ティルトウェイトが掛けられておるのじゃから、本来は呪文の爆発に応じて、光はついたり、消えたりするはずなのじゃ」
「じゃあ、どうして、キリア。地上ではほとんど太陽は同じ強さなんだ。普通は瞬いたりはしないもんだぜ」
うん、とても不思議だ。だけどそれに応えるキリアの答えはもっと不思議だった。
「ドーム。光の速度が不定であることは知っているな?」
「光の速度?」
知っているわけが無いだろう。まったく。俺は腕のいい戦士だ。腕のいい戦士ってことは頭が悪いってことで、頭が悪いってことは色んなことを知らないってことだ。
「光子の速度じゃ。この世界では光の速度は個々の光ごとに異なる。」
「判らんぞ? キリア」
酒だ、酒だ。難しい議論で頭が熱くなってきた。こういうときは酒を飲んで、頭を冷やすに限る。
「目に見える光はたくさんの光の粒でできているのじゃ。ドーム。判らんでもいいから、おとなしく聞いておれ。光の速度は物理法則の根本じゃ。その光の速度が不定なのが、この世界の魔法の原理なのじゃ」
「・・・・」
「例えば、整流した光の粒を使って、低速の光の粒を高速の光の粒で追い越すことで、テレポートするための亜空間への道が開ける。いわば大規模な制御された特異点の生成じゃ」
「・・・」
「精霊の召喚や、ラ・ハリト爆発の制御なども、どれも光の速さの不安定性が根本原則にある」
「・・」
「こら、ドーム寝るな」
ぽこりと頭を殴られた。
「・・・あああ、キリアすまん。まだ続くのか?」
「まあ、良い。ドーム。光の速度を一定にした良い例がダンジョンの中のアンチマジカルゾーンじゃ。あの空間では光の速度が一定になるように魔法的に制御されているので、一切の魔法が聞かなくなる」
「対魔法場か。あんたのような魔法使いにとっては悪夢だな」
ええっと待てよ。魔法を使って魔法が効かなくしたらその反魔法とやらはどうやって支える?
つまりそれは自分で自分の靴の先を掴んで自分を引っ張り上げるようなものだろ。
やってみた。自分の靴の先を掴んで思いっきり引き上げる。かなり難しかったが、少しだけ体が浮いた。なるほど。魔法でもこうやっているんだな。
「説明はこのくらいにして置こう。どうせ、お前は寝てしまうだろうからな。とにもかくにも、そういう訳で、太陽からの光はわしらの地上に届くころには、速さの差のために平均化されてしまうのじゃよ。それで明滅しないように見える」
「やっぱり、太陽はティルトウェイトなのかい?」
「そうじゃ、わしはこの現象は予測しておった」
「ふーん」
まあ、いい。詰まらぬ問題に頭を悩ませるのはよそう。どうせ俺は頭より腕が達者な戦士ドームだ。
キリアと世界の構造について議論するのは身体に毒だ。だから俺は退屈な船旅のほとんどを、酒を飲みながら奴隷達のマーラーギャンブルを見て過ごした。
え?
つまりこの船はマーラーディアダムのテレポート能力で移動する。テレポート移動で恐いのは、見えない場所へ飛ぶことだ。もしテレポート先に何かあったら、その物体と混ざってしまう。よく地下迷宮の中で、壁に人の顔が浮き出ているのは、質の悪い彫刻じゃなくて、マーラー魔法で脱出しようとした冒険者の成れの果てだ。テレポート魔法は便利だが、危険が一杯なんだ。
俺は虚空ってとこは、何も無い、本当に何も無い、だだっぴろい空っぽの場所だと思っていた。ところが実際には、俺が今までに見たことがないような奇妙なものが浮かんでいることがある。いや、大部分は本当に空っぽなんだ。空気さえ無い。でもたまに、大きな岩の塊や、何かの彫像、それに文字が描かれた石板なんかが浮かぶか飛ぶかしている。真っ黒い四角い何かが、俺たちの船を避けるように進路を変えるのを見たときは、度肝を抜かれたもんだ。
まあ、俺にはそれらの正体は判らなかったが、キリアじいさんは目を輝かせて見ていたな。でもやっぱり、船の進路の邪魔であることは確かだった。それも飛び切り危険な。
じいさんはその点も十分考えていたようだ。最初はこの船にはキリアと俺だけしかいないと思っていたが、実際には十人程度の奴隷が乗っている。どれもキリアが鍛え上げた魔術奴隷で、魔法の働きについて熟知している。
俺が目が醒めたときに辺りに人影が無かったのは、どうやら俺が暴れることを予想していたためらしい。キリアは眠っている俺から剣を取ろうとしたようだが、眠ったままの俺が切りつけたお陰で、じいさんのローブに新しい破れ目が出来ただけだった。戦士というものは武器は死んでも離さないのが習性なのだから、これはむしろ当たり前の結果なのだが。
さて、船が目的地にテレポートするときは、船本体のマーラー呪文を変形して、これらの奴隷を小さな密閉された別の船に乗せて虚空に送りだす。その奴隷は目的地に付き次第、辺りの様子を観察してから、マーラー呪文で帰ってくるわけだ。奴隷が帰って来なければ、何か障害物があると結論していい。奴隷は十人で、それぞれ交替制でテレポートすることになっている。ひょっとしてへそ曲りがわざと帰って来ないんじゃないかとも思ったが、自分達の座標が判らない以上、元の船に戻る以外、生き延びる道は無いわけである。キリアのみが現在の座標軸を知っている以上、反乱も不可能と言うわけだ。
どの道、主人の下から逃げ出した奴隷の返る所は街しか無いし、逃亡奴隷は見つかり次第殺される掟だ。奴隷にとっては、定められた期間を務めあげることのみが唯一の解放の道ということになる。
考えて見れば、ひどい話だ。しかし、この野蛮な世界では良くある話でもある。
やがて、当番役の奴隷が帰って来るかどうか、残った奴隷達の間で賭けが行われるようになった。俺も一口乗って見たが、あまり面白くない。どうやら自分の命がかからないと、この賭の真の面白さは判らないらしい。
キリアはフェアな男だが、ある意味ぶっ飛んでいる。おまけに根源の神に関してはそのぶっ飛びかたが尋常じゃない。でなければこんな惨い方法を考えだしたりはしないだろう。マーラーテレポートは冒険者でさえ命がけで行う魔法の一つだ。失敗すれば蘇生魔法も効かない。高位呪文の中では一番恐ろしい魔法と言ってもよい。
これでキリアが道連れを欲しがった理由の一つも判った。万一のときの護衛が欲しかったということだ。
目的地の判らないマーラーテレポートは非常に恐い。いつ何時、耐えられなくなった奴隷が眠っているキリアを殺しに来るかも知れない。
そもそもの出発点の座標が判らなければ、結局は虚空で餓死することになるにしても。人の心は脆いものなのだから・・・
じいさんの説明を聞いている内に、俺はもう一つのことにも気付いた。船の航続距離にも限度があることをだ。
船本体の航行用マーラーディアダムは殆ど無制限の力を持つが、奴隷達は消耗品なのだ。虚空を探る奴隷がいなくなれば、船の航行は非常に危険だ。
実際には、長い旅路の間に奴隷が帰って来なかったのは一度切りだった。奴隷たちの間にはこの旅は見た目よりも安全なのだという弛緩した空気が流れ始めていた頃だったので、出かけた奴隷が帰ってこないことにも最初はみな楽観していた。ところが定められた時間から大きく時が経過しても奴隷が帰って来ないことが確定すると、奴隷達の間に不穏な空気が流れたが、結局は俺の剣と顔を見て納まった。
太くて堅い樫のマストに剣を半分切り込んだ俺の腕を見て、どうやら逆らっても無駄と知ったらしい。
それとも俺の怒った顔がそんなに怖かったのだろうか?
まさか、野蛮なシオンの奴じゃあるまいし。俺の顔はそんなに怖くない。
だよな?
まあ、船旅の様子はそんなものだ。目的の太陽についたのは、旅に出てから三十日目の事だった。
それは本当に壮大で恐ろしい眺めだった。正直言って、自分の目でこの光景を見るまでは、じいさんの話を本気にはしていなかった。だが・・・。
虚空に浮かぶ巨大な神、そしてその神を繋ぐ虚空自身から伸びているこれも巨大な鎖。鎖の端は何も無い空間に埋まっていて、神が身動きをする度にその鎖がきしみをあげる。鎖の端が繋がっている辺りの星座が、その動きにつれて歪む光景は人生観を変えるには十分なものだ。
空間そのものに固定されている。それが直感の生み出す答だった。
神は、深い彫りの顔立ちも、毛深い身体も、普通の人間となんら変わりがなかった。その大きさを除けば。
ポイズンジャイアントの比では無い。山よりもまだ大きい。それにその身体を包む信じ難いほど強烈な神のオーラ。
恐るべき量の魔力が惜しげも無く、辺りに撒き散らされている。
船の奥のどこかで何かの魔法道具が立てるうなり声が大きくなる。今や船の周りは紫の発光に包まれていた。
魔法保護場だ。空気をとどめる力。船が虚空で凍るのをとどめる力。虚空を流れる隕石の欠片から船を守る力。そういったもろもろの魔法の力。
倉庫に積まれたマジックワンドの力を吸い、それらは限界になるまで酷使されていた。魔法保護場が無ければ、船は根源の神の魔力により瞬時に焼き尽くされていただろう。
俺も奴隷も、そしてキリアでさえも、呆けたように宙を見ていた。
神は己を縛る鎖にティルトウェイトを浴びせ続けていた。
今まで見たこともない様な大きさのティルトウェイト爆発が独特の光輝とともに神の身体の上に膨れ上がる。
火球はこの船より遥かに大きかった。
いや、このティルトウェイトならばメイルストロームの街でも瞬時に蒸発させてしまうだろう。これを見ていると背筋に汗が這うのを感じる。
これが根源の神なのか。これが真の神なのか。これが世界を創造し、そして恐らくは滅ぼすものなのか。
ここに来て、俺はキリアじいさんが根源の神を求める理由が判った。
世界にこれほどの力が存在するとは。この力に比べれば人間が到達したと驕り高ぶっているものはいったいなんだと言うんだ?
ちっぽけな人間をやっているのが厭になるには十分な動機だ。
それともう一つ、キリアがどれほど無謀な望みを追っているのかも。根源の神に比べれば俺たちは虫ケラ同然、ですら無い。力の差はもっと大きい。伝説の魔術師ワードナでさえ、この神に比べれば塵芥の如しだ。
爆裂呪文の強烈な熱と光輝に晒されて鎖は一時的には弱るものの、すぐに再生した。鋼鉄が再生するのは初めて見たが、それはまるで生物のように打ち震え叫び成長した。それに加えて、ときたま自分自身の魔法無効化に失敗した神が自分の身体を焦がし、轟くような吠え声を上げる。
神の意志を込めて轟く声は、その度に船の魔法保護場を赤く燃え上がらせた。船の奥の保護場を作り出している装置のうなり声が変調するのを聞いていると、恐ろしい想像を抑えることが出来ない。
もし、今、何かの手違いでキリアの道具の一つが壊れたら
「キリア。帰ろう。俺達の手に負える代物じゃない」
これは本音だ。戦士ドームともあろうものが臆病風に吹かれるとは情けない、と思うかも知れないが、俺は少しも恥ずかしいとは思わない。この光景を見てしまった後では。
「なにを言う、ドーム。ここまで来たのはなんのためじゃ。後、一息のところに根源の神が」
「キリア。しっかりしてくれ。キリア。じいさん。あんな神とどうやって対話するんだ。奴にとっちゃ、俺達なんて蚤以下の存在だ。この船だって気付いているかどうか」
「気付かせれば良い。ドーム。わしの邪魔をするな。邪魔をするなら殺す」
キリアの目に恐ろしい光が浮かんだ。こんな目をするときのキリアは本当に恐ろしい。
キリアは年齢不明のじいさんだ。積んでいる経験値も経験レベルもしかとは判らぬが相当の物に違いない。俺の力を持ってしても実際は勝ち目が少ないことを、俺は良く知っている。最初に俺が騙されて船に乗ったと知ったとき、キリアとやりあったのは半分本気で半分冗談だった。だが、今、ここでキリアを止めれば、このじいさんは今度こそ本気で戦うだろう。死にたくなければ、この俺も本気を出すしか無い。
どちらかが、いや、2人とも死ぬのは間違い無い。
それにキリアはひとりぼっちの俺にとっては本当の親の様なものなのだ。師匠のファイサル亡き後に、まだひよっこの俺を、ダンジョンの中で一人前以上の戦士に鍛えたのはキリアじいさんなのだから。ここでじいさんを止めるのは、そのたった一人の肉親を殺すことに等しい。
結局、俺は折れることにした。
長い間、試した後にじいさんは自分のティルトウェイト魔法で神の注意を引くことに成功した。俺にも判る。じいさんの渾身の力のティルトウェイトは神のものには劣るとは言え、これほどの呪文が人間に出来るとはとても思えないものだった。じいさんの本当の力が少し見えた。いつものじいさんはその本当の力の十分の一も使っていない。
神は俺達に気付いたようだ。叫ぶのを止めて、じっと俺達の船を見つめた。たったそれだけで、神の視線に触れた船の魔法保護場が燃え上がった。今度はあざやかなオレンジ色だ。
船の奥のうなり声が一際高くうなった。奴隷達があわてて船の機関室に飛び込む。保護場を作る魔法変換器がいかれたら、全員死ぬことを良く知っているのだ。
神は目を細めて、今や甲板上に二人残された俺とキリアを見つめた。そして・・
「わしをここより放て。」
神の強烈な声。存在の重み。至上の命令。世界がその目的のために作られ、そして形作られたもの。すなわち、神への奉仕。
身体が鞭で打たれたようにしびれる。これはまずい。精神干渉系魔法? いや、それより何かもっと奥深いものだ。そう、これは畏怖、そして畏敬だ。
「根源の神よ。わしの声を聞け」
俺は本当に驚いた。いい根性だ。この状態で口が聞けるとは。つまりは神に逆らっていることになる。
じいさんの精神力も俺が考えていたものより格段に上と言うことだ。
「わしをここから放つのだ」と再び神。
神が狂っていることに気がついたのは、そのときだった。何かを唱えている。魔法の持つ独特の詠唱リズム。最大級攻撃魔法ティルトウェイト。己を助け出す可能性のある者たちを丸ごと焼き払うその狂気。
虚空に火球が湧き出た。すべてを焼き、蒸発させ、吹き飛ばす。地獄の火炎。
強烈な火の玉が船に迫って来る。これはいままで見たこともないほどのティルトウェイト爆発だ。神自身の身体に匹敵するほどの大きさの。
船が耐えられる訳がない。
マーラーテレポート駆動は移動は瞬時だが、起動に時間が掛かる。このままでは逃げられない。
「ロックトフェイト!」
じいさんが緊急帰還呪文を叫び終ったときには本当に俺はほっとした。
・・・再び、この酒場で酒を飲めるのはいいことだ。本当に。
キリアじいさんの帰還呪文ロックトフェイトで装備のほとんどと船それに奴隷達を失ったものの、ウィズ保険組合はかなりの部分を保証してくれた。
履いていたズボンは吹き飛んだが、愛用の剣だけは好運なことに残った。
不幸中の幸いとはこのことだ。注意深い冒険者はそう簡単にはへこたれないものなのだ。
「んで。じいさん。結局、あれはなんだったんだ?」
俺はエールのジョッキを両手で抱くようにしながら聞いた。
「根源の神じゃよ。というかその一人だったものじゃ。あのとき鎖に彫り込まれていた古代文字を読んだのじゃが、あれはかって根源の神々に属していたものじゃ。
一人で他の神々を支配しようとして結局は敗れ、あのようなことになったのじゃ。
ティルトウェイト以外の全ての呪文を奪われてな。」
「まだ、じいさん、あの神だか悪魔だかのところに行く気なのかい。」
「いや、駄目じゃ。あの神は完全に狂うとる。他の神々への道は別に探さねばのう。」
そして、寂しそうにつぶやいた。
「また、一からやり直しじゃ」
「いつかは見つかるさ、じいさん」
いかん、俺としたことが少し同情してしまった。キリアじいさんに同情は禁物だ。今回のことにも同情すべき点などどこにもない。そうだろ?
「いつかはな」
キリアは、そう、つぶやくと、今度は本格的に飲み出した。
まったく、これもへこたれないじいさんだ。俺は苦笑した。
だが・・・。
エールが入ったジョッキを傾けながら、酔いのまわった頭の片隅で俺は思った。
あの巨大なティルトウェイトをくらった船はどうなったろう?
あの手摺に繋がれていた多くのマーラーディアダムは?
ディアダムは神の身体に比べて非常に小さい。恐らく神の目には見えないだろう。
それにあの巨大な火球が船の全てを焼き尽くしただろう。奴隷達と一緒に。
だが、相手は根源の神の一人だ。どのような力を持っているかは判らない。あるい虚空に散らばった無傷のディアダムの一つに気が付くかもしれない。
もし、飛び散ったディアダムが神の手に渡り。
もし、狂った神にそれを使う知性があり。
そして・・・もし、そのディアダムがあの神の巨体を鎖からテレポートで外せたとしたら・・・。
太陽がこの世界から消えたら、この世界は一体どうなる?
いや、「もし」の数が多すぎる。
それに俺は戦士だ。戦士が世界の終りを考えてどうする? そんなことは魔術師に任せておけばよい。
今夜はとにかく飲み続けよう。
・・・そう・・・朝日が昇るまで。