古縁流始末記銘板

涅槃

 古縁流第二十九代伝承者草野三郎は庭に下りてお日様のまぶしさに目を細めた。
 歳を取れば取るほどお日様はまぶしく感じる。あの仇討ちの旅の終わりより三十五年が経過している。三郎もすでに還暦を越えていた。降り積もった年月が三郎の頭髪に混ざった白髪と肌に刻まれた皺という形で表れてはいるが、修行で鍛えられた肉体はまだまだその頑健さを失ってはいない。兵庫之介に食いちぎられた左手には今は人の手を模した木の義手が嵌っている。
 この郊外にある自宅の庭の奥には、誰も立ち入りが許されない場所が存在する。そこは草木に囲まれた外からは見えない静かな一角だ。その中心には小さな祠が二つ、ひっそりと立っている。
 一つの祠には古縁流の師匠である本間宗一郎を祭ってあるのだが、祠の中身は空である。仇討ちの旅を終えた後にさんざと探したのだが、師匠の墓は見付からなかったのだ。それどころか師匠の最後を看取った者も居なければ、亡骸を見つけた者も居らず、あらゆる探索は何の手立ても得られなかった。
 もう一つの祠には長耳兎の遺骨が納められている。今三郎が必要としているのはそちらだ。
「長耳師匠。またお骨を少し貰います」
 声をかけてからうやうやしく祠の中から小さな箱を取り出す。箱の中には骨の欠片がいくつか入っている。義手の掌の上に、取り出した骨を一つ置き、短刀を当てるとすうと引いた。何の抵抗もみせずに骨の細片が剥離する。三郎はその骨の欠片を大事に布でくるむと懐に収めた。
 最近とみに体力の衰えの激しい妻の妙。長耳兎の神通力を含んだ肉で生き延びた彼女も、歳によるせいかその命の火は燃え尽きようとしている。お妙は三郎よりも年下なのだが過去に大病を患っているし、なにぶん三郎は古縁流の修行で鍛えられている。肉体の素地が違うのだ。
 ふと思いついて、大事に取っておいた長耳兎の骨を砕いて薬に混ぜてみると、これがまた実に良く効いた。長耳兎の神通力は骨にも宿っていたのである。だがしかしそれにも限界はある。徐々に薬の効き目は落ち、今では彼女はほぼ一日を床で過ごすようになってしまった。いかに努力を重ねようとも、寿命という人間の限界だけは決して歪むことなく存在しているのだ。
 すぐ間近にまで迫った来るべきその日を思うと、三郎はどうしても泣いてしまうのだ。

 乳鉢の中で骨の欠片をすりつぶすと乾燥させた薬草に混ぜ、粉薬に仕上げる。手慣れた作業だ。寝ている妙を軽く揺さぶって起こすと、その口の中に粉薬を入れ、湯で流し込んだ。軽く咳き込んだ後に、妻の頬にほんのりと赤味が差すのを見て、三郎は少しだけ安心した。
「あなた。いつもすみません」妙が小さくつぶやく。
「うむ。気にするでない」
 一言だけ返すと蒲団をかけ直してやる。すぐにまた妙は眠りについた。屏風の位置を調整し、風が体に当たらぬようにする。しばらく妙の手を握ってやっていたが、眠りが深くなったと見てそっと手を離すと、三郎は部屋の扉を閉めて縁側へと逃れた。ずっと傍に居てやりたいのだが、きっと泣いてしまうのは分かっていた。
 男は人に涙を見せてはいけないのだ。

 三郎が仇討ちの旅に出ている間に、妙を預けた遠い親戚は妙を疎んじるようになった。妙が密かに隠し持っていた師匠からの金子を見つけるとすべて取り上げ、挙句の果ては三郎が戻って来たときにばれぬようにと、妙を病にして殺そうと画策したようなのだ。旅先から三郎が送った手紙はすべて妙の目につくまえに焼き捨てられてしまっていた。
 仇討ちの旅から戻って来た三郎は親戚の家を訪れたが、事が露見するのを恐れた主は言を左右にして妙に会わそうとはしなかった。それどころか扉を閉めて三郎を家に入れようともしなかった。
 いい加減堪忍袋の緒が切れた三郎は刀を使って切り込もうかとも考えたが、それではお妙の面倒を見るどころではなくなる。ふと思いついて、親戚の家の外に生えていた木の小枝を一本採って来た。
 長い長い旅の間についに習得した師匠の技『警策』である。
 扉をけ破り、驚きに固まる主をその小枝で打った。
 激痛。激痛。さらに激痛。
 警策の技で打たれた体には痣一つ残らぬ。だが小枝に乗せられた気は相手の魂に食い込み、想像を絶する激痛を与える。あまりの痛みにまともに体を動かすことさえできない。地面に転がったままただ呻くのがせいぜいだ。大抵のものはその拍子に糞尿を漏らしひどい有様になる。
 家人の目の前で地面に転がり声無き悲鳴を上げる主人を放置して、三郎は奥へと進み、程なく再会の喜びに泣きじゃくる妻の妙を抱いて出てきたのだ。
 妙の体はすでに回復できる境目を越えて死へと近づいており、三郎の薬活の技ではどうにもならなかった。
 それから長耳兎が三郎を訪れ、その身と引き換えに妙を救ってくれたのだ。

 縁側に座り自分で入れた茶を啜りながら三郎は過去へと心を巡らせていた。
 まるであのときの騒動が昨日のことのようだ。あの強欲な親戚は、親戚の集まりで三郎と顔を合わせるたびに白目を剥いて失禁しながら気絶するようになり、とうとう最後には親戚の集まりには一切顔を出さなくなってしまった。
 そのときのあの男の顔を思い出して、三郎はつい思い出し笑いをしてしまった。

 仇討ちの旅より持ち帰った大白虎の皮の代金に下しおかれた金子を元手に、三郎は商売を始めることにした。
 なんと飯屋である。仇討ちの旅は五年も続き、仇である加藤兵庫之介は全国津々浦々を逃げ回った。自然と三郎も全国を旅する羽目になり、訪れた先で色々なものを見て、色々なものを食べた。
 綺麗なもの珍しいものを見る度に、これはお妙に見せてやりたいと思った。
 旨いもの珍奇なものを食べる度に、これはお妙に食べさせてやりたいと思った。
 だから三郎は行く先々で料理を学んだ。料理は素人ではあったが、刃物の扱いは達人であり、薬作りの扱いも達人であったので、応用はすぐに効いた。
 そういった各地の地元の料理を出す店を開いたのだ。これが評判になり、多くの客が訪れるようになった。
 そのついでに、店に各地の産物を置くようになった。これも評判となった。
 遠くの地から出稼ぎに来ている者も多ければ、遠くから嫁いできた者も多い。武家の間でも遠方との人の交流は多く、商売の相手は町人だけにとどまらなかった。
 これには黄金長者の手助けも大きかった。黄金長者は師匠と懇意にしていた大商人である。師匠によくよく頼まれたのか三郎にも何くれとなく気を使ってくれて、商売の手引きをしてくれた。
 たまに何かの護衛の用事を頼まれることもあったので、その辺りも黄金長者の計算の内だったのだろう。
 この頃には妙もすっかりと回復して三郎を手伝うようになり、店はどんどん大きくなっていった。
 ふと思いついて、各地の産物の仕入れのついでに各地の噂や情報も仕入れるようにしてみた。私設の地方瓦版である。これもまた売れた。誰もが故郷の話に飢えていたのだ。
 続いて手を出したのが薬屋である。
 ある日、師匠の知り合いを名乗る村の庄屋がやって来て、薬を作ってくれと依頼されたのが始まりだ。山野を駆け回り集めた薬草を元に、師匠直伝の薬を作った。それがまた効き目が凄いので評判になり、最後は小さな薬種問屋も開いてしまった。何せ薬の元となる薬草は三郎が山に行って取って来るので元手が要らない分、相当な儲けになった。
 その過程で、相異坊たち修験者とも繋ぎができてしまった。なにぶん三郎の足は恐ろしく速い。山で三郎に遭った時に頼んでおくと、次の日には酒でも米でも味噌でも醤油でも塩でも持ってきてくれるのだ。その支払いは大概がツケということになったが、気の良い三郎はそれを気にはしなかった。その代わりに修験者たちは珍しい薬草の生えている場所を教えてくれたり、自分たちで摘んできた薬草を持って来ることもあった。たまに相異坊がどこから持って来たのか古い時代の小判をくれたり、極めて稀だが鎌倉時代の小刀を持ってきて支払いとすることもあった。
 それらも実に良い値で売れた。

 幾つもの店を持ち使用人も増え自分の時間が持てるようになった頃から、三郎の下に厄介な客が訪れるようになった。
 なんと道場破りである。三郎は別に道場を構えているわけではないのだが、なにぶん例の大白虎の毛皮がお城ででんと自慢の一品になってしまっている。それを見た者は感嘆するとともに、どうしても誰がそれを討ち取ったのかという話になる。
 その結果、何某城下に大虎退治の剣士あり、という噂が流れてしまうことになる。無論、その剣士には手出しはならぬとの御触れが出ているのだが、たまに我慢できなくなった輩が三郎にちょっとした勝負を挑むという仕儀に至るのである。
 そんなとき三郎は困った顔で勝負を断るのだが、どうしても断り切れないこともある。
 ではどうするのか。
 この片腕では刀が触れませぬので。そう言い訳しながら柳の小枝を一本折り取るのである。
 大概の剣豪はこの段階で気が咎めて勝負を止めて帰るのだが、それでも大人げなく真剣を持ち出してくる馬鹿者もいる。
 そんな馬鹿者たちも自慢の刀が柳の小枝相手にへし折られると、頭を地に擦り付けるようにして降参することになった。
 それでも負けを認めぬ場合にはすぐに『警策』で糞尿の塊にされる結末を得る。
 ここに至るまでが仇討ちの旅の終わりより五年である。
 今ではどれも笑い話で、当時は恨みに思った腕自慢の剣士たちもそれぞれ出世し、たまに三郎を囲んで他の藩の土産話を語らう仲になっている。

 烏が鳴き群れて空を飛んでいる。日が暮れる前に山に帰ろうとしているのだろう。
 そろそろ店の番頭と丁稚小僧たちが仕事の報告に来る刻限だ。三郎は腰を上げた。
 普段は寝たきりの妙の世話は二人ほどいる下女に任せているが、先ほどから用事で外に出している。三郎は台所に立ち、買っておいた饅頭を用意し始めた。育ち盛りの丁稚小僧たちはいつでも腹を空かせている。そのことを三郎は良く知っていた。
 やって来る番頭たちもどれも丁稚小僧の時分からお妙が母親代わりになって面倒を見てきた者たちだ。その中の半分は懇意にしている与力の旦那の世話で、行き場の無くなった孤児たちを店で引き取ったという経緯がある。だから皆、お妙を母親と同じとみなし、その病状をひどく心配している。
 俺たち夫婦には子供は産まれなかったが、その代わりに一杯の子供たちが出来たなあ。そうお妙と話し合ったことがある。人生とは不思議なものだ。あの白一色に染まった吹雪の峠で死にかけていた俺が、今はここに居る。そしてその人生の後ろには多くの人々の支えがあったのだと、今では分かっている。

 自分にとって古縁流とは何だったのだろう。開祖がこの流派を開いてより五百年にもなる。そのすべてが十二王との飽きることのない戦いで彩られている。長耳兎師匠の言葉によると、今やこの世に生き残っている十二王は一柱も居らず、古縁流の剣士ももはや自分一人だけである。その自分ももう誰にもこの剣術を教える気はない。つまりは十二王も古縁流もすべて消え去ったのだ。
 あらゆるものは最後は滅んで終わるのか。なんと虚しきことよ。そう三郎は思った。そして、いや、と思い直した。それでいいのだ。もはやこの世は剣術というものを必要としていない。武士という存在ですらすでに用無しの時代なのだ。
 なればこそ。三郎は遠い目をした。剣術など消え去ればよいのだ。たとえそれが化け物すら滅す最強の剣術であろうとも。
 人を殺す技など要らぬ。人を生かす技だけあれば善い。
 以前にそう考えた三郎は自分の薬作りを書き残すようにしていた。いつの日か誰かの役に立つように。ただし古縁流の秘伝である体作りの薬だけは書いていない。それは人を生かすための薬ではなく、化け物を作り出すだけの薬だと判断したからだ。
 化け物を殺せるのは化け物だけだ。だからこそ古縁流の剣士はすべて化け物なのだ。

 表が賑やかになり、番頭たちが丁稚小僧を引き連れてご機嫌伺いに訪れた。妙も目を覚まし、布団に寝たままでしばらく皆と小さい声で話をしていた。ここに集まっているのは皆家族なのだ。
 丁稚小僧たちは山盛りの饅頭を前に目を輝かせ、日頃滅多に食べられぬ甘味を堪能している。番頭たちと一緒に三郎邸を訪れることができるのは一種の褒美なのである。
 三郎の店の各番頭はそれだけの実績を見せた段階でのれん分けがされるようになっている。独立のための資金は三郎が貸し、毎月の売り上げの中から返済するようになっている。全てを返済した時点でその店は番頭のものになり、新しく店主となることができる。だからのれん分けされた者は毎月頑張って売り上げをあげ、できるだけ早く独立しようとする。扱っている幾つもの商品の流通経路は三郎の店が持っているので、そこからまた小さく卸す形だ。結果としてのれん分けが増えれば増えるほど三郎の店も儲かる仕組みだ。
 各店の帳面に三郎はざっと目を通した。実際は見る振りをしているだけである。対外的にはこうして厳しく監視しているぞとの姿を見せておくのが善いのだ。長い仇討ちの旅の中で、三郎は人の心というものを知っていた。人の心は弱い。わざわざそれを増長させるような誘惑の種を撒くことはない。
 三郎が頷くと緊張した面持ちで見ていた番頭たちがほっと胸をなでおろした。
 そこで場を変え、それほど長く起きていられない妙を再び一人にする。
「三郎さま」番頭の一人が口を切った。「かかさまはだいぶお加減が悪いのでしょうか」
 かかさまとはいつ頃からか店の者たちが妙を呼ぶときの名前になっている。
「うむ」三郎は頷いた。「恐らく、明日か明後日」
 長い間病人を見て来た三郎の診立ては正確だ。例の薬が無ければ五年も前に死んでいただろう。
 番頭たちが俯いた。その中には必死で涙を堪えている者もいる。
「弥之助。用意だけしておいておくれ」
 番頭の中で一番信頼している一人を名指しする。己の名を呼ばれて一瞬びくりとしたが、その番頭は承諾の意味で頭を下げた。声を出せば泣きそうになってしまうのだ。
「さあ、ここで湿っぽくしていても仕方がない。皆、今日はお帰り」
 三郎は立ち上がった。番頭たちも丁稚小僧を引き連れてそれぞれ引き上げる。

 下女たちが帰って来て、妙の様子を見ると、三郎の命令で早々に自分たちの部屋へと引き上げる。妙はその時間の大部分を薬の力を借りて静かな眠りの中で過ごす。それが一番、苦痛が無いのだ。

 ぽっかりと開いた沈黙の時間。
 まるで嵐が去った後の静けさのようだった。

 三郎は開け放した縁側に座り、広い庭の上にかかる月を見ていた。すぐ横に行燈が一つ置いてある。半月は空にかかり、少しだけ雲が出始めている。北極星が輝き始める。その周囲を廻るは北斗の柄杓星である。
 北斗は死を司る。ふとそんな言葉を思い出した。
 遠くで鳴る寺の鐘が小さく聞こえる。
 どれだけそうしていただろうか。

 風が吹いた。

 おなかがすきそうろう。

 掠れた声が聞こえてきて、三郎はぎょっとした。この声は、この言葉は、昔聞いたことがある。そこで一気にあのときの、地獄廻りの記憶が蘇った。
 闇の中にぎらぎらした目をした無数の小さな人影が浮かびあがる。まばらな蓬髪。極限まで痩せた体とは対照的に膨らんだ腹。ぼろぼろの腰巻だけの姿で、それらは歌い始めた。

  お腹が好き候。
  お腹が好き候。
  何か食わしてくだされ。
  何か食わしてくだされ。

「餓鬼!」
 言うが早いか三郎は家の中に駆け込んだ。床の間にかけてある戦国大太刀を右手で引っ掴むと、鯉口を切りながらそのまま外へ飛び出す。長い鞘だけを後に残して、引き出された刀身が行燈の灯りを反射して小さく長くぎらりと光る。
「むん」
 気合と共に手首から先が義手になった左手を振った。そこから何か小さな物がいくつも飛び、庭に設置してある石灯籠へと次々に飛び込む。それぞれの石灯籠に火が上がると、庭が照らし出される。
 庭は餓鬼の群れに覆い尽くされていた。

  お腹が空き候。
  お腹が空き候。
  匂うぞ。匂う。食い物じゃ。
  匂うぞ。匂う。食い物じゃ。

 かって深山で独り籠りの修行をしたとき、鼠の呪物に惑わされ、迷い込んだ地獄で見た餓鬼どもだ。あれは夢でも見たのかと自分でも無理に納得していたが、今やそれは目の前にあった。
「餓鬼ども。この草野三郎に何用ぞ!」
 抜き身の大太刀を頭上に持ち上げた。まるでそれを後光であるかのように頭の上にかざす。
 それを見て、餓鬼たちが怯えた。怯えながらも歌い続けた。

  お腹が空き候。
  お腹が空き候。
  この際、人の肉でもよか候。
  この際、人の肉でもよか候。

「そうか。俺を食いに来たのか」
 三郎は大太刀を振るった。戦国大太刀の重さは二貫目はある。両手で振り回すのもきついはずのそれが、三郎の右手に握られて光の軌跡となって空を裂いた。不思議なことに刀が風を切る音はしなかった。
 前に出ていた餓鬼の首が数体まとめて切り飛ばされる。それらの首は地面に転がるや否や、黒い霧となって地面に吸い込まれた。残った首無しの体も同じだ。たちまちに分解すると消え去った。それはこの世の生き物の死にざまでは無かった。
 餓鬼の群れの背後から、巨体を揺らしながら何かが現れた。
 背の高さは人間の大人の二倍。闇の中でもさらに黒く見える漆黒の体。だが一番の特徴は、その肩の上に載った馬の頭だ。
「乱暴は止めよ。草野三郎」
 餓鬼たちがその巨人の周りに縋りついた。
「ワシの名前は十二王の呼懐。今は地獄の獄卒長の馬頭で通っておる」
「その十二王が俺に何の用だ」
「お前の妻、草野妙を連れに来た」
 衝撃だった。どうしてここに妙の名が出る。なにより、このとき初めて三郎の腹に冷たいものが居座った。自分はどこでどのような死に方をしようが構わないが、お妙だけは静かに家で死なせてやりたい。それが三郎の望みであった。
「妙は連れては行かせぬ」
 三郎は大太刀を構えた。
「これでもワシは随分と待ったのだぞ。本来なら三十五年も前に妙は冥界に召喚されているはずだったのに、長耳め、余計なことをしくさりおって」
「古縁流の因縁にどうして妙を巻き込む」
「待て、待て、待てい」馬頭が三郎の言葉を遮った。「何を勘違いしておる。これは古縁流とは何の関係もない冥界のお役目じゃ。それにワシは古縁流との決着など何の興味もない」
 そこで言葉を切って、馬頭は三郎を見つめた。
「お主、古縁流の古事について何と聞いておる?」
「そちらの神様の頭をこちらの開祖が殴ったと聞いておる」
 しばらく沈黙が落ちた。
「やれやれ、それは半分真実で半分は嘘だ」
「どういうことだ」
「確かに神様はいたし、そちらの開祖がそれを殴ったのも事実だ。だがその神様というのはただの木像だ」
「木像?」
「ええい。どうやら一から話した方がいいな」
 馬頭は庭石の上に腰を下ろした。餓鬼たちはそれを少し離れて見ていた。



 当時の十二王はそれぞれの管理する動物が殺しあわないように取り決めを作っていた。その印として架空の神様の像を作り、それに誓いを立てていた。ところがそのうち十二王の中にはその神像に生贄をささげる者が出て来た。白禍や岩鉄たちである。

「白禍?」
「お前も遭ったことがあろう。白虎だ。かっては本物の虎だったのだがな、その昔に古縁流に殺されておる。あの者の神通力はその皮を被った者を虎にすることだ。あやつの皮は我ら冥界が手に入れて使っておったのだが、今はお主の知っておる通り、首を斬られてただの毛皮に変じておる。
 岩鉄の方は猪の王よ。これも当の昔に古縁流にて討たれておるがな」

 生贄と言っても神が欲しがったのではなく、十二王の一部が勝手にやっていたことだが、それに怒ったのが古縁流の開祖だ。ヤツは十二王が集まっている場に殴り込みをかけ、木像を真っ二つにしてしまったのだ。そしてこれ以降人間に手を出す者は儂が相手をすると宣言した。この時から、それに反発した十二王と古縁流の間で長きに渡る闘争劇が始まったのだ。

「卯の王の長耳などは一切関わらなかったようだがな」馬頭は言った。
「長耳殿か」三郎は感慨深く言った。
「そういうわけでワシはその件には何の思い入れもない。だが不思議なことに十二王と古縁流はこの広い世の中でも必ずどこかで出逢ってしまうようなのだ。もしかしたら神様は本当に居るのかもしれんな」
「迷惑なことだ」
「さて、そこでワシの用事だ。過ぐる世で草野三郎よ。お主、一度地獄を訪れたことがあろう」
「確かに」三郎は答えた。餓鬼たちもそこで見かけたものなのだ。
「そのときお主は一匹の鬼を殺しておる。ただの鬼ではない。地獄の獄卒のお役目についておる鬼だ。その罪が廻り廻って今このとき、お主の妻に廻ってきたということだ」
「その罪は俺のものだ。どうして妻が払わねばならぬ」
「お主のような人間にはこれが一番堪えるだろうとの上の判断だ」
「上とはあのヒゲ親父か」
「閻魔大王と呼べ」
「ううむ。なんたる卑怯」
「誉め言葉と受け取っておこう」
 馬頭は立ち上がった。
「ではお妙を連れて行くぞ。邪魔をするな」
「するに決まっておろう」
 三郎は再び大太刀を構えた。餓鬼たちが三郎の殺気に反応してざわめく。
「やれやれ、愚か者め」
「貴様を真っ二つにすれば話は収まるのか?
 よかろう。自ら捨てた修羅の道なれど、我が妻のお妙を連れ去らんとするならば、我いまひとたび修羅とならん」
 三郎の体から気焔が噴きあがった。滅多に怒る男ではないが、妻のことになると一切のタガが外れる。それが三郎という男であった。
「待て。このせっかちめ。お前の相手をするのはワシではない」
 馬頭は手を出して待ての合図をした。馬頭の手は綺麗な指が五本揃った人間のものに見えた。馬頭の命令に従い、背後から餓鬼たちが何かの輿を担いで進み出る。
 大人一人が入れるほどの大きさの真っ黒な輿だ。餓鬼たちはそれを馬頭の前の地面に置くと、素早く背後へと引き下がった。
「それは何だ?」と三郎が問う。
「お前の相手だ」
 そう答えると馬頭は黒い輿の上に手を這わせた。輿が左右に割れ、中身が顕わになる。
 戦国大太刀を抱きかかえるようにして座っている人間の亡骸。
 その顔は。
「お師さま!」三郎は叫んだ。



 目にしたものの衝撃に一瞬固まった後、三郎の老いたる体にさらなる炎が燃え上がった。
「おのれ、馬頭。お師さまの体を弄ぶとは!」
「弄んではおらぬ。大事に使わせてもらっておるよ」
 馬の頭の唇が歪んだ。
「我が神通力を見せてやろう。これが何か分かるか? 草野三郎」
 馬頭が自分の体をまさぐった。
 馬頭がどこからか取り出したのは小さな木像であった。一部が欠けていて、そこに継ぎが当たっている。
「これが件の神像だ。我が神通力はこれを依り代として発動する」
 馬頭はその神像を師匠の亡骸の懐へと入れた。続いて何かをつぶやき始める。
 ふと三郎はあることに気が付いた。
「おかしいではないか。貴様が崇める神がお前の神通力の依り代となるだと。まるでそれではその神がお前の僕のようではないか」
 理解は瞬時に訪れた。
「そうか。分かったぞ。黒幕は貴様だな。自分の神通力を高めるために偽の神を作り上げ、他の十二王を騙して生贄を捧げさせたのか」
 馬頭がにやりと笑った。そのついでに馬の歯茎がむき出しになる。
「ほう。鋭いではないか。三郎」
「長い人生の中で色々と見て来たからな。それに貴様、冥界の使いと言うのは嘘だろう」
「その部分は半分は本当よ。お前の妻の妙に対する冥界からの召喚状が出ているのは事実だ。だがまあ、残りの半分はやはり十二王としての意趣返しだな」
「十二王ではなく貴様の個人的な意趣返しだろう。そもそもこの古の縁起も裏で糸を引いているのは貴様ではないのか」
「その通りだ。あの馬鹿の虎や、間抜けの牛を騙すのは面白かったぞ。やつらがせっせと生贄を捧げてくれたお陰で今や我が神通力は至高の極みに達しておる」
 馬頭が手で印を組んだ。
「見よ。三千世界のあらゆる英雄豪傑すら召喚する我が神通力。『反魂』」
 黒い気が凝結した。
 師匠の亡骸が揺れ、そしてゆらりと立ち上がった。半分しかない乱れた髪、焼けただれた顔、枯れ木かと見まがうほどの細く皺だらけの体。一人の凄惨なる幽鬼がそこにいた。
「さぶろう・・」
 声だけは昔のままだった。
「お師さま!」
 師匠はずるずると手の中の大太刀から刀身を引き出した。引き出しながら口だけは別物として喋る。
「三郎。良く聞け。儂は今、馬頭めの反魂術の中にいる。儂の思いに関わらず、この体は馬頭の命令に従うことになる」
「お師さま。止めてください」必死に懇願する三郎。
「止められぬのだ。だから三郎。ただちに逃げよ。反魂術を掛けられた者は術者から遠くには離れられぬ」
「逃げられませぬ。逃げればお妙が連れて行かれます」
「そうか」
 師匠は大太刀を構えた。
「では戦え、三郎。儂をバラバラにするしか儂を止める方法はない」
「は、は、は。楽しいぞ。憎き古縁流の最後の二人が殺し合いとは」
 倒れた輿の上にどっかと座り込んだ馬頭が大きく笑いながら手を叩いた。
「さあ、本間宗一郎。お前が持つすべての技を使って三郎を殺せ」
 その言葉に応じて、師匠がずいと前に出た。
「三郎。覚悟を決めるのだ。儂を斬れ。斬ってこの術から解放してくれ」
 三郎は唇を噛んだ。そして大太刀の柄を握りしめた。
「分かりました。お師さま」
 異様な光景であった。
 二人は目まぐるしく位置を変え、しかと見えないほどの神速で戦国大太刀を振る。ときおり大太刀同士がぶつかる金属音はするが、それ以外の音は一切しない。剣が風を切る音がしないのだ。風切り音が無いのは二人が真の意味で風を切っている証拠であった。
 無音の中の衝突。激突。そして衝撃。
 やがて師匠の剣が止まった。
「ここまでついてくるとは偉いぞ、三郎。鍛錬は続けていたようだな」
「生活の道として山を駆けて参りました」
 師匠はじりじりと三郎との間合いを詰める。
「剣の稽古もしたか」
 三郎もじりじりと師匠との間合いを外す。
「お師さまの顔を思い出すたびに刀を振っておりました」
 師匠の動きが止まる。その体がやや前傾姿勢となる。
「皆伝の技はどうじゃ?」
 三郎の動きも止まった。刀をやや上に向けて構える。
「お師さまの教え通りに修行して参りました」
「そうか、良いことだ。ではその皆伝の技が参るぞ。三郎、心せよ」
 師匠の体が一旦引いた。八相の構えに入る。
「初の斬撃、落雷」
 言うが早いか技を放った。
 最初に放つのは囮の袈裟切り。その斬撃が切り終えた時には刃はすでに上向きに返り、より速い逆袈裟切りが来る。化け物じみた膂力と鍛え抜かれた体術のみが成せる技で、この返しが人のものとは思えぬほど速い。最初の袈裟切りを避けたと少しでも油断すると死ぬ。もっとも普通の剣士相手では最初の袈裟切りを避けることもできはしないのだが。
 硬い音がした。三郎は師匠の放った袈裟切りに上から同じ袈裟切りを放ち、そのまま大太刀を被せたのだ。師匠の返りの逆袈裟切りの大太刀が三郎の大太刀にぶつかり火花を散らす。
「初の斬撃、落雷」三郎も技名を唱えた。師匠に習った通りの作法だ。
「よくぞ止めた。三郎。見事だ」
 師匠が褒める。そう言いながらも師匠の体は勝手に動き次の技の発動姿勢に入る。
「ええい。遊ぶな。本間宗一郎。もっと強い技を出せ」馬頭が喚いた。
「無粋な奴だ。馬頭め。久しぶりの師匠と弟子のじゃれ合いだと言うのに」
 ぶつぶつと師匠が文句を垂れた。技が劣っている方が即死する闘いをじゃれ合いと言ってのける師匠はどこかおかしいと三郎は思ったが口には出さなかった。
「弐の斬撃、独り独楽」師匠が宣言した。
 本来は技を放った後に相手への手向けとして技の名を伝える。だがお師匠さまは自分の技を放つ前にわざと技名を言っていると三郎は気づいた。三郎に次の技を教え対処させるためだ。
 独り独楽は螺旋を描く斬撃だ。その狙いは相手の刀であり、剣が描く螺旋に巻き込まれた相手の刀は最後には遠くに弾き飛ばされる。
 師匠の大太刀が突きだされる。それは螺旋を描きながら三郎へと突進した。三郎もまた戦国大太刀に螺旋を描かせる。二つの技が正面からぶつかりあった。お互いを巻き込みながら大太刀が描く螺旋はどんどん速くなる。速さの競争に負けた方の刀が弾き飛ばされる。一見互角に見えるそれは師匠の方に分があった。師匠は両手で剣を振るっているが三郎は右手一本なのだから。三郎は足りない動きを柔軟な手首と鍛え抜かれた筋肉で必死に補う。
 二つの螺旋は極限にまで達し、そしていきなり消滅した。二人は後ろに飛びずさり、螺旋の生み出した風が二人の周囲の地面に奇妙な文様を刻む。どちらも刀は握ったままだ。
「無駄だよ。三郎」
 師匠は自分の眼に刺さった小さな金属片を払い落した。独り独楽の最後に三郎が密かに放ったものだ。
「今の儂は死人だ。この眼は元より見えてはおらぬ。それに毒の類も効きはせぬ」
「まったくいつもの事ながら古縁流は姑息な手を使いおって」勝負を見ていた馬頭が不満を漏らした。
「黙っておれ。馬頭。お前には勝負の機微は分からぬ」師匠が釘を刺した。
「口だけは達者だな。だがお前の体と技は我が術の操るところよ。さあ、本間宗一郎。もっと強い技を使え」
「逃げてくれ。三郎。冥界に報せが来た以上、お妙はもう長くない。せめてお前だけでも生きのびておくれ」
「それだけはできませぬ」三郎は大太刀を構えた。
「参の斬撃、ススキ刈り」
 師匠は剣を横に薙ぎ払った。一見単純な横打ちだ。だがその実態は違う。全身の筋肉が生み出すいくつもの力を絶妙の呼吸にて剣先にて束ねたものなのだ。この斬撃は生半に止められるものではない。かと言って後ろにでも下がろうものならば、驚くべき距離まで伸びるその斬撃範囲に巻き込まれて胴を切断される。
 三郎は戦国大太刀の切っ先に義手を当てると、垂直に立てた大太刀でその斬撃を受けた。木でできた義手にヒビが入り、体が一間近く吹き飛ばされかけたが、かろうじて受け止めた。三郎の手の中の大太刀はこの衝突に悲鳴を上げ、甲高い音を立てながら激しく振動する。
「よくぞ、これを止めた。三郎。見事ぞ」
 大太刀を引き戻しながら師匠が感心したように言う。
「ええい。本間宗一郎。何をしておる。お前の最強の技を使わんか」
 しばらくの間、師匠の動きが止まった。何かの力が綱引きをしているようだと三郎は感じた。馬頭が慌てて何かの呪文を唱える。
 しぶしぶという感じて師匠の両腕が上がった。師匠の顔に苦渋の表情が浮かぶ。
「終の斬撃、迷い星。三郎、この技は受け止めることはできぬ。逃げてくれ」
「嫌です。三郎は強情なり」
 三郎はそう言うと、片手で戦国大太刀を大上段に構えた。
「終の斬撃、迷い星」今度の技名は三郎の口から出た。
「なに!」馬頭が驚愕した。
 二人の頭上で剣先が揺れた。夜空を彷徨う迷い星を探すかのように。
 二人同時に技を放った。
 古縁流最終奥義迷い星。その真髄は虚空虚閃。虚ろな空を虚ろな閃光と化した刃が斬る。それは剣の理を極限まで凝縮した技。斬るということのみを純粋に取り出したもの。この技の前ではいかなるものでも斬れぬものはない。
 二人の軌跡が交差した。二人の剣の理がお互いの座を巡ってせめぎ合った。斬ると、斬られるが食い合いをした。
 世界が弾けた。
 二人はお互いに剣を振り下ろした姿勢のまま固まっていた。師匠の後ろの石灯籠が真っ二つになり、三郎の背後の家の屋根が丸ごと切断されてずれ落ちた。
 だが二人はどちらも無事だ。
「相打ちにはならぬのか」馬頭が感想を漏らした。「だが、三郎。お前は片腕だし、本間宗一郎は死者ゆえに疲れは知らぬ。さらに言うならば宗一郎に持たせた刀は地獄で鍛えられた金神鋼よ。さあお前の刀が後何度の打ち合いに耐えられるかな」
 その言葉を裏打ちするかのように三郎の戦国大太刀が小さな悲鳴のような音とともに中央から折れた。
「ははは。やはりな」馬頭が実に嬉しそうに笑った。「さあどうする。後が無いぞ、三郎」
 馬頭が手を振った。
「さあ、本間宗一郎。もう一度だ」
 その言葉に応じるかのように、師匠の両腕が上がった。それは大上段の構えへとたどり着いた。
「終の斬撃、迷い星」
 それに応えて三郎の折れた大太刀も上がった。無言の内に今度は正眼に構える。
「死ぬ覚悟がついたか」と馬頭。「本間宗一郎。やれい」
 天空に向いた師匠の剣先がふらりと揺れた。
 虚空虚閃。次の瞬間、師匠は何もない空間にいた。目の前には三郎が浮かんでいる。胸の張り裂けそうな思いとは別に、大太刀は閃光と化した。真っすぐに三郎を目掛けて振り下ろされる。その刃が三郎に到達するかのように思えた瞬間、三郎の姿がかき消えた。代わりにそこにあったのは闇を湛えた黒い穴。それは周囲のすべてを吸い込む。閃光と化した師匠の剣も例外ではない。その穴の中でどこまでもどこまでも『斬る』という行為は続き、それはいつ果てるとも知らぬ永劫の牢獄と化した。
 これはと驚愕した瞬間に、師匠は現実に引き戻された。
 最初に認識したのは自分の手の中に握りしめられた大太刀。その先に微かに触れるかのように三郎の折れた大太刀がある。それは師匠の大太刀に逆らうことなく、いやむしろその後押しをするかのように短い刃を滑らせている。
 触れたものすべてを両断する究極の剣の理の体現である迷い星。だが相手が少しても逆らうようなら斬ることもできるが、逆に寄り添い後押しをしているのではいかな剣の理とは言え斬れるものではない。いや、むしろ斬れないのが剣の理というものだ。
 だが、このようなことができるわけがない。師匠の直感が告げた。目にも見えない終の速さの斬撃をそれ以上の速さで合わせて初めて成立する所業なのだ。終の皆伝者ですら不可能なことを三郎はやってのけている。
 誘導された師匠の大太刀は三郎の体を寸の見切りで逸れ、背後の屋敷の一部をさらに切り裂いた。その瞬間、師匠の大太刀に寄り添っていた三郎の大太刀がくるりと手の中で反転した。柄頭が前に来ると、避ける間もなく師匠の胸へと叩きこまれた。
 柄頭が打ち込まれた師匠の胸の中で何かが派手に砕ける音がし、続いて強烈な衝撃が師匠の全身を貫いた。
 師匠の体が崩れ落ちる。同時に馬頭が跳びあがるようにして立ち上がる。その権幕に周囲で取り囲むようにして見ていた餓鬼たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
 地面に蹲った師匠は臓腑を絞り出すようにして声を出した。
「三郎、今の技は何ぞ」
「終の技の先にあるものです。この世のあらゆる剣の技を受け、導き、相手を殺すことなくただ返す。敢えてこれを名づけるなら、覚の技、涅槃」
「見事ぞ。三郎」師匠はそう言うと、力なく地面に倒れ込んだ。
「お師さま」
 三郎は倒れた師匠へと駆け寄り、その驚くほど軽い体を抱き上げた。
「まさか終の技の先があるとは、思いもしなかった。よくぞ修行を積み続けた。偉いぞ、三郎」
 師匠は満面の笑みを浮かべた。幽鬼のような師匠の顔にさらに凄みがかかる。そんな笑顔であった。そして師匠ははっと気づいて元の無表情に戻った。
「済まぬの。三郎。儂の笑い顔は怖かったろう」
「そのようなことはありませぬ。我が親の笑顔を怖いと思う子供は居りませぬ」三郎は答えた。「この三郎、師匠に褒められて心の底より嬉しゅうございます」
 師匠は骨と皮ばかりの手を伸ばし、無言で三郎の頭を撫でた。
 その懐から木片がばらばらと落ちる。三郎の刀の柄頭が砕いた例の神像だ。
「これで馬頭の反魂術も終わりだ」と師匠。
「そうだ。馬頭」
 三郎が今更のように思い出した。
「術が破れた以上、馬頭めも終わりだ。ほら、見て見よ」
 師匠が馬頭を指し示す。一人立ちすくんでいた馬頭の鼻から大量の血が噴き出した。ゆっくりと、驚くほどゆっくりとその体は崩れ落ち、地面に横たわった。反魂術は世界の理に反する術。その強力な術が破れた反動をまともに受けたのだ。さしもの十二王でも生きていられるわけがない。
「名乗りを挙げよ。三郎。我が流派の因縁の戦いはこれですべて終わった」
「お師さま」
「最後に善いものを見せてもろうた。弟子が師匠を越えていくのがこれほどまでに嬉しいものだとは儂は初めて知った。きっと又造師匠も儂を見て同じ気持ちだったに違いない。それを知って儂は満足だ。そうだ、とても満足だ」
「お師さま」
「心配するな。三郎。お妙さんは儂があの世にまで大事に送り届ける。冥界の者どもに手出しなぞさせるものか」
 そのまま師匠は口をつぐんだ。その体がさらに萎み始め、三郎の手の中でたちまちに乾いた骨へと変わる。反魂術が尽きれば、それはただの古い骸となる。
「お師さま」
 唇を噛み締め三郎は立ち上がり口上を述べた。
「第二十九代古縁流覚の伝承者草野三郎。いま、ここにて十二王すべてを倒し、古の縁の解けたるを告げる」
 吹きすさぶ風がその言葉を運び、世界の隅々まで運ぶのを見届けてから、草野三郎は折れた大太刀を置いた。


 草野三郎。妻のお妙が死し後、さらに五年を生きる。
 隠居し、近所の子供たちに手習いと簡単な剣の稽古をつけて残りの余生を過ごす。その生涯波乱万丈にしてなおかつただ一途なり。
 屋敷の庭の奥にありたる二つの祠、常に三郎の手厚い世話を受けるも、三郎死し後その祠も取り壊される。家人の話によると、祠の中はどちらも空であったという。





古縁流(古流秘剣術目録宿祢宗純版第二巻より抜粋)
 古縁流、いにしえのえにしと読む。古き戦場の流派にして、紛うことなき秘剣なり。
 その本懐は、神に逢うては神を斬り、鬼に逢うては鬼を斬り、友に逢うては友を斬り、師に逢うては師を斬る。
 この世に無敵の剣術なれど、今や誰も継ぐ者なく、知る者も絶え果て、五百年二十九代にして消え去りしものなり。
 古伝にて十二王の縁起あれど、真偽未だもって定かならず。