古縁流始末記銘板

剣の道

1)

「何事だ!」
 古縁流第二十八代伝承者の本間宗一郎師匠が声を荒げるのは珍しいことであった。
 客間に上がった途端に黄金長者とその用心棒の左内が畳に頭を擦りつけたからだ。
 左内はともかく黄金長者はあり得ない話であった。幕閣ですら黄金長者に金を借りるためには土下座をするという噂である。その主が逆に頭を下げているのだから、これほど恐ろしいことはない。
「本間様にお願いがあります」
 黄金長者がその姿勢のまま続けた。
「ええい。頭を上げい。何事か」
 師匠が言う。かなり苛立っている。もちろん、難事の匂いがするからだ。
「この左内めを本間様の弟子としていただきたいので御座います」
 そういうと黄金長者は頭を上げた。佐内の方はまだ頭を畳に擦り付けたままだ。
「この佐内、剣の才能は十分にあると思いますが」
「ならぬ」師匠が答えた。「儂は弟子は取らぬ」
「またそのようなことを」黄金長者は改まった。「本間様が弟子を欲しがっていることも、またこのたび新しくお弟子を取りましたことも、この黄金長者よおく存じておりまする」
 ごまかされまいぞとの光がその目にある。黄金長者の名は伊達ではない。その情報網の広さも深さも底が知れない。たまにこやつは人の心を読んでいるのではないかと師匠は思うことがあった。
「あれは仕方なくじゃ」師匠がぶつぶつと言う。

 新たなる弟子とはひょんなことで師匠の下に転がり込んできた加藤兵庫之介という男である。弟子にせねば死ぬことが分かっていたので、師匠は見捨てることができなかったのである。
 おそらくはその事が弟子になることを諦めていた佐内の心を突き動かしたのであろう。このようなことになるなら兵庫之介など放っておけばよかったと師匠は深く後悔した。
 佐内は黄金長者の最も信頼厚い用心棒である。かっては大藩に勤めていた武士であったが、藩主のお家騒動に巻き込まれて放逐されたという過去がある。病弱の妻との長い間の極貧生活の後に黄金長者に拾われたのだ。
 それがもう五年も前の話となる。
 師匠とはそのとき以来の顔見知りである。

 ここで初めて佐内は頭を上げた。
「どうか。本間様。この佐内もお弟子に」
「ならぬ」ぶすりと師匠は言う。「其方は弟子には取らぬ」
「どうしてでしょうか。失礼ながら本間様はいつもお弟子の成り手がいないと嘆いていたではありませんか。一人よりは二人弟子がいた方がよいではありませぬか。この佐内、粉骨砕身して修行する心づもりです」
 ふう、と師匠はため息をついた。
「我が古縁流、主には向かぬ剣術よ」
「そのようなことはありませぬ。見事に習得してみせます」佐内は引かない。
「そういう問題ではないのだ。其方、長者殿に十年仕えれば仕官の口を世話して貰う約束と聞いておる。それが台無しになってよいのか?」
「剣の流派は仕官の妨げにはなりませぬ」
「古縁流は妨げになるのだ。あらゆる武家が我が流派を蛇蝎の如くに嫌う。ゆえに我が流派の門人と知られればそれだけで仕官の道は潰える」
 師匠は立ち上がった。この座敷にて師匠が出された茶に口をつけぬは初めてであった。
「お待ちください。本間様。どうか。それがしを弟子に」佐内が食い下がる。
「ならぬ」師匠の顔がどんどん険しくなる。
「本間様。どうかこの私めの顔を立てて」黄金長者が取りなした。
 長い付き合いの黄金長者にここまで言われると師匠も無碍にはできない。
 黄金長者は日本の裏に君臨する実力者だが、師匠はそれを気にしているのではない。
 黄金長者は表ではただの欲深商人を演じているが、その実は孤児の面倒を見る施設や無料の施療院、飢饉の地方への米の給付なども行っている人物である。つまりは師匠は黄金長者に敬意を抱いているのである。金には興味が無い師匠が黄金長者の用心棒をやっているのもそれが理由だ。
 むう、と師匠は腕を組んだ。しばらく考えてから師匠の腕組みが解け、冷えた茶の入った茶碗を掴むとがぶりと乱暴に飲んだ。
 それを見て、黄金長者の肩から力が抜けた。茶を飲んだということは、師匠が折れたということだ。
 師匠はこう言った。
「ならば我が流派の技を佐内殿に一つだけお見せしよう。それを見て、自分で工夫して同じことができるようになったならば、弟子入りの件を今一度考えてみようぞ」
 佐内は唇を噛んだ。恐らく師匠は佐内がそれをできないと見ている。これから見せられるのは、きっとそれほど困難な技なのだ。それから佐内は決意した。
「お願い申す」

 師匠は黄金長者に目を瞑れとは言わなかった。これより演ずるは技とも言えぬ技である。見ても殺す必要はない。ただし正しく捉えればその真髄は古縁流の奥義へと通ずる。
 ずるりと戦国大太刀の刀身を引き出す。長さ五尺、重量三貫目の大太刀だ。普通の人間ならばこの一振りで肩が抜ける。
「よく見よ。一度しか行わぬぞ」
 両手で大上段に構えたと思った次の瞬間、師匠は中腰になっていた。そのときにはすでに目にも止まらぬ速さで大太刀は振り下ろされた後だ。振り下ろした剣先はぴくりともしない。まさに静の中の動。動の中の静。
 恐ろしい違和感に佐内は気がついた。
 音がしない。
 刀は確かに振られたのに風切り音がしない。
「なぜ!」思わず声が出た。
「正しく風を切れば本来は音はせぬ。音がするのは風が切れていない証拠よ」
 師匠は大太刀を鞘に納めた。
「これが其方にできるか」
「できませぬ」佐内は唇を噛んだ。
「ならば話はこれまでだ」
 師匠は冷たく突き放した。



 黄金長者に雇われている用心棒たちはみな専用の家を与えられている。その敷地内にずらりと家が並んだ様は見方によっては長屋とも言えるが、一応はどれも庭付きの一軒家である。
 佐内の女房の小夜が奥の部屋で繕いものをしている。息子はこれも黄金長者が裏で支援している寺子屋に行っている。
 その庭で佐内はただひたすら真剣を振っていた。全身汗まみれである。
 どれほど素早く刀を振ろうが風切り音がする。強く振れば振るほど風切り音は鎮まるどころかもっと強くなる。
『正しく風を切れば音はしない』
 もしこれが誰かから聞いた話ならただの冗談だと思ったことだろう。だがその目で見てしまったのだ。疑いようが無い。
 今まで本間師匠が剣を振るところはほとんど見たことがない。ただその足さばき、体幹のゆるぎなさ、目の配りだけでもその腕は知れる。たまにごろつき相手に腕を奮うこともあったが、その時も刀は手にしていなかった。よくて棒切れか柳の小枝までだ。それで真剣を持った相手と真っ向から立ち会うのだから尋常ではない。
 それが頼み込んで一つだけ見せてもらえれば、奇跡としか思えぬこの技だ。名づけるなら音無しの剣とでも呼ぶべきか。

 佐内はすっかりと煮詰まってしまった。刀の稽古を止め、座敷の奥に向かって声をかける。
「小夜。小夜」
 いったい何事に呼ばれたのかと出てきた女房にせがむ。
「鼓を聞かせておくれ」
 理由は訊かずに、小夜は奥から鼓を取り出してきた。
 姿勢を正すと、落ち着いた所作で鼓を打ち始める。
 静寂を背景に、時を焼き付けるかのように冴え渡った鼓の音が鳴る。小夜の鼓打ちは名人の域にある。
 いつしか佐内は夢幻の境地へと引きずり込まれていった。

 ふと目が覚めた。鼓を聞いていて余りの心地よさにうたた寝をしてしまったらしい。
 いかんいかん弛んでおる。自分を戒めながら佐内はまた刀を握った。何気なく小夜に尋ねてみる。
「小夜。鼓を打ってなおかつ音を立てぬということはできるか」
「簡単ですわ」
 小夜がにこりと笑う。美しく細い首が笑うにつれて微かに揺れる。小夜は打っていた鼓を傍におくとその横からもう一つの鼓を取り上げる。
 肩の上にその鼓を持ち上げると、ついと振り上げた手でポンと叩く真似をした。
 たしかに手は鼓を打ったのに、音はしなかった。
 佐内は愕然とした。
「いったいどうやって」
 小夜は鼓を差し出した。
「皮が破れているのです。古道具屋で見かけて可哀そうになって買ってまいりました」
 くすりと笑うと、小夜は佐内に頭を下げた。
「無駄遣い。申し訳ありません」
「いや、これは一本取られた」はははと笑うと佐内は答えた。「俺はそれを無駄遣いとは思わん。小夜の鼓はまさに天の与えたもうた才だからな」
 それから縁側にどっかと座り込むとつぶやいた。
「分からん」
「何がです?」
 佐内が自分の悩みを話すと、小夜は眉根を寄せた。
「刀を振っても風切り音がしない。確かに奇妙ですね」
「だろ。俺もこの目で見なければ信じられん」
「本間様は一度お見受けしたことがあります。わざわざここまで薬を届けに来てくれたことがあるんです。確かに只者ではありませんでしたわ」
 技の秘密を解けば弟子にしてもらえるかもしれないことは小夜には秘密だ。お家の取りつぶし以来長い間、小夜には迷惑をかけてきたのだ。これ以上の心労をかける必要はない。
 小夜は鼓だけではなく、茶の作法も絵画もその他の才能もどれも凄い。このようなところで浪人の妻に収まっていて良いものではない。
 この人を、何とかもう一度武家の社会に戻さねば。佐内はそう思った。


2)

 黄金長者には大勢の用心棒が雇われているが、全幅の信頼を置いているのはその内でわずかに四人だけである。この数には師匠は入っていない。師匠は元より別格だからだ。
 佐内はその四人の用心棒の内の一人である。
 彼らは大概の時間を黄金長者のお供などをして過ごしているが、たまに諸国巡りの輸送隊の護衛に駆り出されることがある。
 黄金長者は日ノ本のあらゆる流通に関わっているが、両替商もやっている。もちろん両替商はすべてご公儀の免許制であるため、黄金長者は表には出ずにいくつもの両替商を裏で動かしていた。
 その理由から荷駄に千両箱を積んで他藩まで運ぶ必要などが出てくることもある。そういうときが佐内たちの出番だ。何人かの用心棒を引き連れさりげなく荷駄の警護につくのだ。配下の用心棒たちが欲に負けたその時は、佐内一人で全員を相手にすることになる。
 危険この上ない仕事であった。

 そのときの行先は飛騨であった。江戸の大火に備えての大量の木材の買い付けであった。火が出てからの買い付けは誰でもできる。だが黄金長者は火が出る前に動く。かと言って黄金長者が放火などを示唆しているわけではない。ただ恐ろしく商売の勘が鋭く、金の動きには独特の臭覚を持っているのである。

 この買い付けは最初から狙われていたらしい。妙な雰囲気だなとは思っていたのだが、山道に入った途端に総勢二十名ほどの賊に襲われた。
 配下の者たちに指示しながら自らも刀を抜き放ち、手あたり次第に襲ってくる賊を切り伏せる。師匠を見習い、刀をやや肉厚のものに作り替えておいたのは良かった。出なければ何度もの打ち合いの末に刀が折れて、それで佐内の命も終わっていたであろう。
 周囲は飛び散った血や切断された指が散らばり恐ろしい有様となった。腹を裂かれた者に至っては傷口から飛び出た内臓を何とか元の場所に押し込もうとする始末。それもじきに動かなくなった。
 やがて大部分の賊が地に伏したころ、佐内は生き残った五人の盗賊たちに囲まれた。配下の用心棒たちはみな地面にうずくまっていて動けそうもない。刀の切り傷は必ず膿む。いま生きてはいても半分は助かるまいと思った。

「抜かるな!」
 賊の一人が叫ぶと、全員がじりじりと距離を詰めてくる。どの男もそれなりの腕だ。
 果たしていまの疲れ切った佐内にこの窮地を凌ぐことはできるのか?
 そこに天啓が降りてきた。佐内は荷台に飛び乗ると刀を振り、荷駄の綱を切った。傾いた荷台から千両箱を蹴り落とす。周囲に小判が散らばった。
「金だ!」
 そう叫びながら佐内は小判をまき散らした。
 五人の賊の心が揺れた。いずれも痩せ浪人なのだ。小判は見果てぬ夢。一枚の小判を得るために死ぬほどの苦労をしてきているのだ。この修羅場で小判に気を取られればまずいと知ってはいても、どうしても目がそちらに行く。
 そしてこれほどの腕の持ち主同士の戦いでは、その僅かな隙が致命的な結果へとつながる。
 相手の心の揺れた間隙をついて佐内は目の前の敵に跳び込んだ。盗賊が慌てて我が身に引き付けた刀の合間を縫って、刃を横に寝かせた突きがその胸に吸い込まれる。切っ先が肋骨の間を抜いて心臓を切り裂くと同時に、瞬時に刀を引き、横に跳んだ。そこにいた男の頭を刀の腹でぶっ叩き、振り向きざまに近づいていた男の頭蓋骨を真っ向から叩き割る。
 そのまま体を沈めた。頭上を渡る白刃。風切り音が耳のすぐ間近で聞こえた。
 それみろ、やっぱり風切り音がするじゃないか。そんなことを考えながら、地を刈り取ると切断された足首を抱えて男が転がる。
「足を狙うとは卑怯な!」最後に残った一人が叫ぶ。
「大勢で不意打ちしておいて卑怯呼ばわりとは笑止」佐内が返す。
 佐内はすっくと立ち上がると最後の一人に向きあった。
「化け物め」相手の男が憎々しげに言った。
「それがしなど、まだまだ。お前は本物の化け物を知らぬ」
 本間師匠の顔が頭に浮かんだ。
「ちいっ!」相手は叫ぶと突きかかってきた。
 突きの剣先が佐内の顔に迫る。反射的に後ろに体を逸らしそうになったが、それを無理に左に躱すと刀を合わせる。これは捨て身の突きだ。後ろに避けたら死ぬ。そう直感が告げた。
 その突きは引くことなくもう一度突き出されてきた。さらにもう一度、ぐいと伸びる。
 決死の者が見せる三段突き。手で行う突きの後に、地面を蹴ってさらに突く、そして最後に体を泳がせてさらに突く。これの対処を誤っていれば佐内は今頃は死んでいた。
 必殺の突きを躱されて相手の体が泳ぐ。攻撃に特化した三段突きは外れれば間違いなく死技となる。
 佐内の刀が真っすぐに落ち、相手の首を刎ね飛ばす。



「とまあこれが賊に襲われた顛末です」
 出先の山村の寺で歓待を受けながら佐内は言った。生き残った他の者たちは木材の売主である大山主の家で供応を受けている。佐内一人だけ数村離れたこの寺を訪れたのには理由がある。
 ここの住職は佐内のかっての剣の師匠なのだ。ある日剣の道場を畳んでふらりと旅に出て、便りがあったと思えばここの住職に収まっていたという曰くがある。
 黄金長者もそれを知っており、悩みに悩んでいる佐内のために丁度良い機会と考えたのだろう。
「ほう、それはきっと用心棒どもの中に内通者がおるな」
 住職は指摘した。
「そう睨んでおります。というより睨んでおりました。その男は賊の襲撃の際に殺され申した。恐らく賊たちは最初から分け前など渡すつもりはなかったのでしょう。生かしておいては後を辿られ、黄金長者様に始末されましょうから、内通した者の口封じは不思議はないでしょう」
「何とも業なことよのう」
 甕から酒を汲みながら住職は言った。元よりこの剣の師匠は大酒飲みなのである。その甕には大きな文字で『般若湯』と書かれている。何ともとぼけた住職だ。
「それよりも何か尋ねたいことがあってここに来たのであろう」
 住職はずばりと佐内の胸の内を見抜いた。
「お師匠様には敵いませんな」
 頭を掻き掻き佐内は音無しの剣について説明した。ただしそれを実際に見たとは言わなかった。馬鹿にされていると思われるのはまずい。
「かようなこと可能でしょうか?」
「難しくはないぞ。ワシにもできる」しらりと住職は言った。
「なんと!」佐内は驚愕した。
「ほれ、見せて進ぜよう」
 住職は手を伸ばすと手近にあったキセルを取り出した。それを上段に振りかざし、ゆっくりと降ろす。
「音が聞こえたかの?」
「聞こえませぬ。しかしそれはずるい」
「何がずるい?」
「それほどゆっくり振れば当然音はしませぬ」
「いつものことながら、佐内は考えが足らぬの」
「そうでしょうか」
 住職はぐい飲みでぐびりと酒を飲む。
「なぜゆっくりと振れば音がせぬ?」
「それはゆっくりだからです」
「だから考えが足らぬという。その理由をよく考えてみよ」
「分かりませぬ」
「佐内はまだ考えておらぬ。即答するのがその証拠じゃ。わしが尋ねてからまだ十も数えてはおらぬぞ」
 佐内は押し黙った。確かにその通りなのだ。考え事は苦手だ。
 住職は立ち上がった。
「ついておいで、もう一つ教えてあげよう」
 二人は寺の裏の竹やぶへと向かった。
 竹やぶの中の少し開けた場所に出る。そこは無数の竹の切り株と踏み荒らされたむき出しの地面が広がっている。
 このお師匠さまは仏門に入った今でもここで剣の修練を積んでいる。そう直感した。
「あそこに生えている一本の竹が見えるな。佐内。あれを切ってみよ」
「容易いこと」
 佐内は一歩前に出ると、刀の鯉口を切った。腰をわずかに落とし、静かな気合とともに抜刀した瞬間にまた鞘に戻した。
 竹が途中から切断された。少しだけ竹の上側がずれたが、そのままそこに留まる。佐内の抜き打ちは恐ろしい切れ味だった。
「よし。では目を瞑りなさい」
 佐内が目を瞑るとともに住職はその手を取り竹やぶへと導いた。
「今お前の前には竹が三本生えている。目を瞑ったままそれを今のように切ってみなさい」
 訳が分からぬまま、佐内は再び抜刀した。ここらと当たりをつけた場所に三回切りつけ、刀を引いた。確かに三回分の手ごたえがあった。
「もう目を開けていいぞ」
 住職が言った。佐内は目を開け、半ば切断された竹の跡を見た。一本は完全には切れずに、途中から折れて片側にぶら下がっている。
「汚い切り口だ」住職が評した。
「見えぬのだから当たり前です」佐内が文句を言った。
「その通りだ。見えぬものは切れぬ。さて、佐内よ。おぬしには風が見えるか?」
「風は目には見えません」と佐内が返す。
「ならば」と住職は満足そうに言った。「おぬしには風はうまく切れまい。なにしろ風が見えていないのだから。見えぬものはうまく切れぬが道理」
 あ、と佐内はのけぞった。
「風が見えねばうまくは切れぬ。ゆえにおぬしの刀は風を切っているのではなく、刀をただ振り回しているだけにすぎぬ。されば音無しの剣になどなるはずもない」
「しかし」佐内は食い下がった。「それならばお師匠様は風を切れますか」
 答える代わりに住職は佐内の刀を取り上げると目を瞑り、竹やぶに飛び込んだ。着地の瞬間に抜刀し、また納める。納刀時の鍔鳴りが高く響いた。
 その周囲で竹が数本綺麗に切断されて倒れる。
「ワシでもそこまでは無理だな。その御仁、化け物だぞ」
 住職は佐内に刀を返すと、寺へと戻った。
 いま住職が竹やぶを切るとき、果たして風切り音がしたかどうか。佐内はしかと確かめられなかった。



 旅から戻って来ても佐内は悩み続けていた。
 妻の小夜が花を生け、繕い物をし、鼓を打つ間もひたすらに刀を振る。
 風などどうやって見ればよいのか。頭の中はそれでいっぱいだ。相手は透明なのだ。透明なものをどうやって見る。
 相も変わらず風切り音がする。この音がしている間は、本間師匠への弟子入りは叶わないのだ。
「鼓の音が変わったな」
 汗を拭きながら佐内は妻に声をかけた。
 小夜は鼓を差し出した。
「あの破れ鼓の皮を張り替えたのです」
「気に入ったのか?」
「気に入りました」
「そうか」
 佐内は縁側に座り込んだ。
「なあ、小夜」
「何です? あなた」
「風を見るにはどうすればよいのだろう」
「あら簡単ですわ」
 その答えに佐内はのけぞった。どうしてこの妻はいつも答えを知っているのだろう?
「風が見えるのか!」
「砂を振りまいてみなさい。風に攫われる様が見えますから」
 ふふっと笑ってから小夜は立ち上がった。
「お茶でも入れますわ」

 砂。砂。砂。そうか、そんなに簡単なことなのか。
 佐内は庭の砂を救い上げると零してみた。細かな砂は風に乗り、風の軌跡を見せた。
 むん。佐内は一息にその風を切った。
 砂の流れが切断される。
 そこまで来てようやく佐内は自分の愚かさに気がついた。ただ刀を振るだけではいかぬ。よく考えて学ばねばならないのだ。風を見る、その一つでさえよく考えねば成せぬ。
 お前は考えが足らぬとの住職の言葉がようやく意味を成した。

 風ば見えた。ではもう一つの教え。音を立てぬ振りの方だ。
 ゆっくりと振れば当然音はせぬ。だがそれではダメなのだ。剣は神速を持って善しとする。動きの鈍い剣など持たぬ方がまだマシというもの。それは剣のお師匠様も知っているはず。
 なのになぜあのようなことを言った?
 自分はいったい何を見過ごしているのか。
 佐内の苦悩がまた始まった。

 結局のところ佐内が行き着いたのは線香だった。
 線香を立ててその煙を見るのである。
 団扇でそれを扇ぐと煙は大いに乱れる。団扇の縁で煙をゆっくりと横切ると煙の乱れはわずかだ。
 そこで合点が入った。刃の向きの乱れが風を乱し、風の乱れが音となる。
 線香の煙を刀の刃で斬る。何度も試している内に、あることに気が付いた。刃を真っすぐに振り下ろしているつもりでも、持ち手の位置によって刃の向きに細かいブレが加わる。
 ゆっくりと。ゆっくりと。刀を振った。
 嫌というほどそれを繰り返してその理由を突き止めた。
 一振りの間に刀を支える筋肉は次々に移り変わる。手の握り一つ取っても力の入れ方は変わる。手首も肘も肩も関節というものはわずかに回転する。そのすべてが合わさって刃の向きのブレとなる。
 では本間師匠はあの素早い一振りの内にそれらすべてを統合して体を動かしているのか。刃に微塵の乱れなく振っているのか。
 鍛え抜かれた力で目にも止まらぬ速さで刀を振りぬく。その見た目の豪壮さの裏側に潜むのがこれほどの繊細さであろうとは想像もしなかった。
 佐内は震えた。
 剣の道とはそこまで奥深いものなのか。
 なるほど自分は刀を振っているだけだったのだと改めて感じた。風を切っているのではなく、ただ鉄の棒を振り回しているだけ。
 これで弟子にしてくれなどおこがましい。自分に剣の才があるなどと如何に自惚れていたことか。

 刀をゆっくりと大きく振る。細心の注意を込めて。刃に一切のぶれを作らないように、一つ一つの筋肉を意識して、協調した動きを練り上げていく。それを何度も繰り返す内に少しづつ速くしていく。
 何日か一心不乱に修練する内に、刀の風切り音が小さくなっていくのが分かった。それと同時に、剣速が今までになく上がっていくのが分かった。無駄な筋肉の動きが消え、刃が織りなすただその一つの線に力が集中していく。
 やがてその内に空気が硬いと感じるようになってきた。刃が速くなればなるほど柔らかなはずの空気が硬くなる。そしてそれに連れてまた風切り音がするようになってきた。
 今度の音は刃のぶれから生まれているのではないと直感した。空気そのものが切断に抵抗して悲鳴を上げているのだ。
 まだまだ先に何かがある。音無しの剣はその先を越えた所にあるのだ。この道はいったいどこまで続くのか。
 佐内はいつまでも刀を振っていた。
 背後で小夜の鼓が重々しく時を刻む。


3)

 ある日、黄金長者の用を片付けて帰ると、妻の小夜が床に倒れていた。
 小夜は体が弱い。黄金長者に雇われてからは大きな苦労をさせることは無くなったが、それでもよく体調を崩す。薬の世話が無くてはまともに生きることはできぬ体であった。
 倒れた小夜を抱き上げると、その手からあの鼓が落ちた。
「倒れるまで鼓を打つ奴がいるか」
 小さくつぶやきながら小夜を奥座敷に運ぶ。布団に寝かせ、額の汗を拭くと初めてその顔の青白さに気づく。
「どうしたことだ。これはいつもの病ではない」
 慌てて佐内は立ち上がった。じきに帰ってくるだろう息子宛てに文をしたため、黄金長者がやっている施療院に向かう。



 思いの他、遅くなってしまった。症状を説明して薬を貰い、後で医者に来てもらうように手配をした。これが意外に時間を食ったのだ。
 夕焼けの赤が目に焼き付く。
 家に帰りつくと、息子はまだ寺子屋から帰ってきていなかった。恐らくは寺子屋の友達と道草でも食っているのであろうと当たりをつけ、奥座敷に通る。
 薄暗い部屋の中に布団に寝たままの小夜が見えた。

 そしてそれ以外のものも。

 それは小さな老人に見えた。小夜の胸の上に膝を抱えて座っている。
 佐内の頭に血が上った。
「おのれ、何やつ」
 剣が鞘走った。一切の遠慮なく、殺意を含んだ刃が宙を裂く。
 その小さな老人は刃よりも速く転がって逃げ、刀は空を切った。
 その老人の顔がこちらに向かうと、両目があるはずの位置に何もないのが分かった。鼻と口、そして大きな耳だけの老人だ。妖怪というのはこういうものかと合点がいった。
「邪魔をするな」
 それは甲高い声で言った。
「おいはこいつが気に入った。連れていく」
「おのれ、妖怪め」
 それには答えずに目無しの老人はにたりと笑った。
 邪悪な笑みであった。
 もはや躊躇する必要はない。佐内は次の一撃を放った。
 袈裟懸けの一陣、疾風の刃。
 それよりも早く目無し老人は畳の上を転がって避ける。
「目もないのによく避ける」
 佐内は歯噛みした。
「目など何になる。おいにはこの耳がある」
 目無し老人はその大きな耳をぱたぱたと動かしてみせた。
 その耳目掛けて佐内は突きを放つ。目無し老人はそれを素早く避けてみせる。
 こやつ。速い。何故にこれほどまでに速い。佐内の額から汗が一滴落ちた。それに応えるかのように眠っている小夜がうめき声をあげた。苦しそうだ。この妖怪が何かをしているのだと佐内は気づいた。恐らくは小夜の命を吸っている。
 連れていくだと。あの世にか。怒りが佐内の体をさらに満たす。そのようなことさせるものか。
 だがこちらの攻撃は通じない。すべて避けられてしまう。
 目も無いのにどうやって?
 耳だ。刀の風切り音を聞いているのだ。
 ならば。佐内は覚悟した。刀を小さく上段に構える。屋内で刀を扱う秘訣だ。
 いまこそ必要なのは音無しの剣。
 できるできないではない。

 やるのだ。

 佐内は集中した。全身の筋肉、全身の血、全身の気。すべての神経を隅々まで感じ取る。骨のきしみ、筋肉の呻き、心臓が早鐘を鳴らす。
 すうと息を吸う。力の息吹。吸い込んだ気が胸の中に溜まり、押し込められ、そして吐き出される。またすうと息を吸う。止めて吐く。また吸う。止めて、吐く。
 凍り付いた時の中で、佐内の中の何かが今がその時と告げた。
 佐内の全身の筋肉が今まで何十万回も行った動きをなぞり、滑らかに刀に力を伝えていく。世界は稲妻の閃きの中で、ゆっくりと進んだ。佐内には刃の軌跡が見えた。刃に絡む風の動きが見えた。
 刃が空を切る。それは一切の緩みもなく、決められた軌道を進む。
 刃に触れた空気が硬かった。それが佐内には感じ取れた。空気とはこれほど硬いものだったのか。それは刃を押しとどめ、圧縮され、音を産み出そうとしていた。
 硬い空気を切るために、佐内は無意識に、わずかに刃を引いた。
 するりと空気の壁の中を刃が進んだ。
 そうか。と佐内に理解が訪れた。

 風を切るのだ。

 いかに柔らかかろうとも風もやはり切るものなのだ。刀で物を切るときは刃を引く。そうして初めて物は切れる。
 風もまた同じ。
 前に立ちはだかる空気を硬い手ごたえと共に、だが確実に揺ぎ無く佐内は切っていく。
 固まった空気は二つに切断され、音を産み出すことなく霧散ずる。
 耳を澄まして待ち構える妖怪の頭上にまるで赤子の頭を撫でるかのように刃がそっと落ちると、その体を容赦なく真っ二つに切り裂いた。
 神速の斬撃。音無しの剣。佐内の中で、張り詰めていた何かが解けた。
 いきなり周囲の暗闇が薄れ、正しい黄昏の明るさに戻る。小夜のうめき声が止まる。
「で、できた!」
 佐内が思わず漏らした。途轍もなく嬉しかった。
「音無しの剣。ついに届いたぞ」

 佐内は行燈に火を入れる。
 布団に寝ている小夜が見えた。顔に赤みが戻っている。その横の畳の上に、真っ二つに切り裂かれた古鼓が一つ転がっている。
「これか」
 破れ鼓を取り上げた。灯りの下でまじまじと見ると鼓の周囲の花形の部分に染みの跡がある。
「血の跡か。この古鼓、人の血を吸って付喪神に化けたな」



 息子が道草を終えて帰ってくると、庭で父が焚火をしていた。帰りが遅くなったと怒られるかと思ったが、父は奇妙に優しい目で息子を見ると家に入れと示した。
 焚火の中に鼓らしきものの形が見えた。

 佐内は立ち上る焚火の煙の上に刀を振り上げた。
 ゆっくりと刃を下し、煙を切る。もう一度。そしてもう一度。
 風は目には見えない。だが刀を通じて自分は風に触れている。ならば刀の声を聴けばそれがすなわち風を見ることに通ずる。
 住職は竹やぶの中で目を瞑って剣を振るった。竹に触れた瞬間に刀を通じて竹を見て、斬りぬいてみせたのだ。
 それを見ても師匠が何をしていたのか気づかなかった自分は、何と不分明であったことか。

 荒業の中に潜む繊細さ。そして繊細さが作り上げる更なる一段上にある剣さばき。
 剣の理を突き詰めたもの。この世の理の頂点にあるもの。

 この一振りを実現するためにいったいどれほどの集中力と鍛錬を必要とするのか。
 正しく風を斬れば、音はせぬ。これぞ音無しの剣なり。

 佐内は刀を振り続けた。周囲に切り裂かれた無数の風の死骸を残しながら。


4)

 再び黄金長者の座敷。
 佐内が畳に頭を擦り付けている。
「よくぞ、音無しの剣を習得した」
 師匠が述べた。
「だが弟子にするわけにはいかぬ」
「どうしてでしょうか。本間様」
 しばらく沈黙した後に師匠は口を開いた。
「我が古縁流は鎌倉時代に創始されて以来五百年を経過しておる。戦国時代を通じて最強の剣術であったが、今では誰も知ることはない。何故だか分かるかな。佐内殿」
「分かりませぬ」即答した。佐内は謎かけが苦手だ。
「我が流派の技は今の時代から見ると卑怯なのだ。ゆえに我が流派を習った者は決して仕官は望めぬ。むしろ我が流派の使い手となればその将来は閉ざされてしまう」
「でも最強なのでしょう」
「最強なのだ」
「では私をお弟子に。全身全霊を込めて習いまする」
 古縁流の最初の技とすら言えぬ音無しの剣。ただそれを習熟しただけでも、自分の剣術が二段も三段も進んだことが分かるのだ。もしそのすべてを習ったらそのとき自分はどのような存在になっているのだろう。その想像に体が震えた。
 それは剣士ならば決して諦めきれぬ境地であった。
「習えば少なくとも其方の将来は失われる。佐内よ。女房と息子はどうするつもりだ」
 佐内は声に詰まった。
「弟子にする代わりに女房と子を殺せと言われたらどうする。おぬしは殺すのか?」
 佐内は黙っている。
「できまい。また、それで良いのだ。古縁流の伝承者は最後はすべて殺されて終わる。例外はわずかだ。儂の師匠も戦いの果てに死んでおる。儂もまたそうなるであろう」
「しかし」佐内は言った。だがその後にどのような言葉を繋げるべきかが思い浮かばなかった。
「呪われておるのだよ。我が流派は」
 師匠は立ち上がった。
「ついてきなさい」



 一刻ほど歩いた。着いた先は人気のない林であった。街道からは遠く離れているし、元から見捨てられた地なので百姓家もない。
「其方の努力に免じ、特別に誰にも見せたことのない我が流派の技を見せる。決して誰にも伝えてはならぬ。教えてはならぬ。漏らせばそのときは其方が死ぬときと思え」
 厳しく言い放つと、師匠は戦国大太刀を鞘からずるりと引き抜いた。鞘はその場に捨て置く。

「佐内よ。聞け。剣の強さとはいかに刀を素早く振るかに尽きる。そのために大事なのは筋肉よ。強い力で振られる刀は避けるもならず受けるもならず、必ずや相手を死へと送り届ける。ゆえに古縁流は秘伝の薬活を用い力と速さを作り上げる」
 師匠は二貫目もある戦国大太刀を目にも止まらぬ速さで振り回した。まったくの無音で。
「朝から晩まで飽きることない修行。その苦痛を薬草を噛んで紛らわし、その疲労をまた別の薬草を噛んで紛らわす。十年も弛まず刀を振り続け、力を磨くのが本意」
 その手の中でぴたりと大太刀が宙に停止した。その重い切っ先、微動だにせず。それを支えるのは片手だけで薪を易々と握りつぶす握力だ。
「続いて技の領分に入る。我が流派には腕に応じて四つの皆伝がある。初の皆伝は忍術を組み入れてある」
 師匠は大太刀を地面に叩きつけ、そのまま摺り上げた。
 土砂が吹き上がり、眼前の松の幹を打つ。ちょうど人間の顔面がある位置だ。その土砂を追うように刃が走り、幹を斜めに切り裂いた。
「紅蓮飛沫。相手の目を潰し、切り裂く」
 次の瞬間、ひょうと手裏剣が飛んだ。木の幹にそれが突き刺さる瞬間にすでに師匠は切り込んでいた。引き裂かれた大木がどうと倒れる。
「断命。手裏剣と剣の合わせ技。二つの攻撃が一つの瞬間に合わさる。この単純な理に敵う者なし」
 次に剣を上段に構える。そのとき何の予備動作もなく手裏剣が飛ぶ。もし釣られてこちらも上段に構えていれば、自分の腕に隠れたその瞬間に飛んでくる手裏剣は避けられなかっただろう。佐内はそう思った。
 師匠は手を一振りした。四本の手裏剣が同時に飛んだと見えたが、木に刺さったのは六本の手裏剣だった。少なくとも二本が飛ぶところは佐内の目には見えなかった。
 しかも見えた四本はすべて飛ぶ速さが異なる。これを剣で叩き落すのは至難の業だ。

 剣と手裏剣を合わせて使う。ただそれだけで現存する如何なる剣術もこれに勝つことはできぬ。
 しかもこれは大勢と同時に戦うときも有効だ。いや、大勢になればなるほど、味方の体の影に隠れて飛んでくる手裏剣は防ぎがたい。
 まさに古縁流は最強の剣術、いや武術であった。
 だが、と佐内は理解した。今の世の侍がこの剣術を認めるかと言えばそれは無い。決して無い。飛び道具とは卑怯なり、の一言ですべてが終わってしまう。
 このような剣術を使えばそれでも武士かとあざ笑われてしまう。
 今の腑抜け武士の時代では。

「続いて弐の皆伝。弐の皆伝は力の技なり。薬活により作られた体がこれを可能とする。佐内殿を弟子にできぬのもそれも理由の一つだ。成長を終えた体にこの薬活を使えば、ただ死に至るのみ」
 師匠は天高く跳んだ。人間が空を飛ぶなどして良いのだろうかと思わせるぐらい高く跳んだ。そして飛び降りざま大太刀を振り下ろした。
 木が粉々に吹き飛んだ。その強烈な衝撃で地面も揺れる。
「技の名は滝流し。跳躍し、相手の頭上より襲う。刀で受ければ刀は折れ、受けねば首が折れる。相手が避ける先へと跳ぶので決して避けることはできぬ」
 避ける先へ跳ぶとはどういうことだ。佐内は舌を巻いた。つまりは相手の心理と動きを深く読んでいるのか。単純に見えるが実現は難しいの一言に尽きる。そういう技だ。
 師匠は手首を中心にして刀を回転させる。それを受けた木が粉みじんに切り刻まれる。剣風が吹き付け渦を巻いた。周囲の地面に長く伸びた螺旋の跡が残る。
「螺旋斬撃、独り独楽。相手の刀を巻き込み弾き飛ばす」
 いやいやいやいや。弾き飛ばすも何もこんな技に巻き込まれたら人体など欠片も残らないぞ。佐内の腹はずんと冷たくなった。もはやこの辺りは人間の技の領域を軽く越えている。
 次の技は静かだった。
「突き技水面」
 言うなり寝かせた刃で人間の心臓の位置を突く。突いたと見えた瞬間、元の位置に戻っていた。それが稲妻の速さで繰り返される。突きとは思えないほど体勢が崩れない。静かな技だがそれを可能にしているのは恐るべき太腿の力だと佐内は見て取った。見えぬほどの速さで前後に跳んでいるのだ。それが証拠に足元の砂がはじけ飛んでいる。
 今度も大木の真ん中が繰りぬかれて倒れる。

「参の皆伝はあらゆるものが触れるだけで切れる境地に達してから学ぶことになる」
 師匠が歩みを進めた。
 当たり前のように言うが、触れるだけで切れるとはどういう境地だ。佐内はのけぞった。音無しの剣の他にまだ何か秘訣があるのか。あるのだろう。あるに違いない。
 そんな佐内の考えには気づかぬかのように師匠は次の技を出した。
 片手に持った大太刀を頭上で水平に振り回す。恐ろしく柔らかな手首だ。それ以前にこの使い方なら刀を途中で持ち換えているはずなのだが、その瞬間が見えない。どれも極めて自然で、極めて流暢で、そして極めて馬鹿げた動きだ。
 今度の木は輪切りにされた。瞬きする間に、薄く輪切りにされた円盤が周囲に転がる。その度に師匠の前に立つ木の丈がどんどん短くなっていく。
「これが炎弧。そしてこれが」
 そのまま大上段に上げた剣を切り株に振り下ろす。切り株が轟音と共に爆散した。
「打撃技たる打鼓天」
 息つく暇もなしに、師匠はすうと右に進んで刀を水平に振った。
 横一列の木々が数本まとめて切断される。だが刀の軌道は揺るぎもしない。切っているならば刃の動きは鈍るはずなのに。
「これが大勢をまとめて斬るススキ刈り」

「そして終着点である終の皆伝。この皆伝は幽玄の技なり」
 師匠は剣を突き出した。一切の抵抗なく大木の中に鍔の位置まで刀が埋まる。そして突いたときと同様に静かに引き抜いた。後にはたったいま刀が埋まっていた位置に細い切れ目が残るだけだ。
「突き技、滴抜」
 次の技は荒かった。師匠の周囲を光の霞が覆う。それが刀身に乱舞する光の反射だと気づき空恐ろしくなった。刀の届く範囲の木が粉みじんに切り裂かれる。
「乱撃、春霞」

 師匠は一歩引いた。精神を集中しているように見えた。
 龍が天に向かうかのように、大上段に刀が登る。その切っ先が天を指してふらりと揺れた。
 振り下ろされた先にあったのは木ではない。大岩だ。
 次の瞬間、大岩は分断されて片側がすべり落ちた。切り口がまるで磨いたかのように滑らかだ。
「あらゆるものを切り裂く終の秘剣、迷い星」

 師匠はふうと息を吐いた。あまりの緊迫感に息を止めていた佐内もつい釣られて息を吐く。
「これが古縁流だ。佐内よ。周囲を見てごらん」
 言われなくても分かる。林の中は切り裂かれた木に岩が散乱した瓦礫の山だ。薪を集めるのが目的なら願ったりの状況だろう。
「決して何も生み出さない。ただ斬るためだけの技よ。古縁流は人の世にあってよい技ではない。そもそもがこれは人を斬るための技ではないのだ」
 やれやれと師匠は手近の岩の上に腰を下ろす。
「佐内よ。この剣術を覚えてなんといたす。これは武士の剣ではない。そして人の剣でさえない」
「しかれども剣の道の先に進めます」
「そこには何もないぞ。この儂が保証する」
「そんなことは」
「無いと申すか」
 師匠は手に持った刀を地面に突き立てた。
「この刃を越えた先にある剣の道は、神に遭えばこれを討ち、鬼に遭えばこれを切り、師に遭わばこれを切り捨て、友に遭えばこれを首にする。
 空を横切る白刃の下にて我が命を懸けて踊り狂い死に狂うのが剣の定めというもの。斬りあった末に最後に残るのはいつもただ一人。己以外は何者の存在も許さぬ孤独の道よ」
「ではなぜ本間様は古縁流を継いだのです?」佐内は指摘した。「やはり剣の道があるのでしょう」
「そのようなものではない」師匠は佐内の言葉を断ち切った。
「儂の恩師又造師匠は怨敵を倒すための剣を求めておった。その硬い首を斬り落とすことのできる剣を。そして又造師匠の道の前に偶々現れた剣が儂だったのだ。儂は古縁流を選んではおらぬ。古縁流が儂を選んだのだ。そのときの儂は空っぽで、満たされることを待っているただの器だった。
 分かるか? 佐内殿。
 儂は選ぶことは許されなかった。選ぶべきことを知る前に、この孤高の道の頂に立ってしまったのだ。そして一度ここに立てば、死に果てるまでこの戦国大太刀と共に踊り狂うしかない。もはや逃れる道はなかったのだ。
 だが其方には選ぶことができる自由がある。
 さあ佐内殿。これが古縁流のすべてだ。
 今ここで、其方の道を選ぶが良い」
 二人は押し黙った。
「妻子を捨てるか、古縁流を諦めるかだ。二つに一つ。妥協はない」師匠は促した。
 それでも佐内は無言だ。
「いま決めよ。未練を残すな。さあ如何に」師匠が畳みかける。

 小夜を、坊を捨てる。佐内はそう言いかけた。その瞬間、脳裏に小夜の姿が浮かんだ。
 小夜は本来佐内程度の家柄に来てよいような身分ではない。馬鹿領主の騒ぎに巻き込まれて悪い噂が立ち、どうしようもなく佐内の手の中に堕ちてきた珠のような存在だ。
 お家が取りつぶされた後、仕官を求めて諸国を廻った。その自分に、弱い体に鞭打ちながらどこまでもついてきてくれた小夜の姿を佐内は思い出した。上級武士の生活からその日ぐらしの貧乏生活に落ち、最後には病を得た。黄金長者に拾ってもらわなければ二人とも当の昔に惨めに死んでいただろう。
 それをまた繰り返すのか。佐内は剣の道に入り、妻と息子は再び露頭へと迷う。

 それができるのか?
 そこまでする価値が剣にはあるのか?
 剣と小夜と坊。剣の道は一つ星、独り星の道。小夜と坊の死体の上に立って得る孤高の星。それが欲しいのか。この俺は。

 ようやく佐内の覚悟が決まった。
「分かりました。それがし、妻子は捨てられませぬ」
 うむ、と師匠は頷いた。

 そのとき、一人の若い男が空き地に飛び込んでくると師匠の前に伏して頭を地に擦り付けた。驚いたことにこの男、戦国大太刀を背負っている。
「お願いです」男は言った。
「そなた。何者」
「拙者、草野三郎と申します。三十俵二人扶持の草野家の嫡男にございます」
「そなたに一つ問う」師匠が厳しい声で言った。
「いつより、見ておった?」
「最初から最後まで見ておりました」
 顔を上げずに三郎は答えた。佐内の目の前で師匠の顔に殺気が満ちる。いかん、と思った。この若者、自分が死の淵にあることに気づいてはおらぬ。
 古縁流の技を見た部外者は例外なく死なねばならぬ。それが掟だ。佐内は特別に許された。だがこの若者はそんな許しは得ていない。
 師匠の動きには予備動作というものが一切ない。何の兆候もなく、次の一瞬にはこの草野という若者の首が落ちていても不思議ではない。佐内は緊張した。
「本間様」と佐内が止めに入る
「ぬしは黙れ」師匠が一言絞り出した。
「お願いです」
 頭上で繰り広げられる死刑宣告と助命嘆願には全く気付かず三郎が言った。
「どうかこの私をお弟子にしてください」
 時が止まった。
「なんと!」師匠と佐内が同時に叫んだ。
「これほどの剣の技を目にしたのは人生で初めてです。是非ともこの私めを弟子に」
「儂は弟子はもう取らぬ」
「そこを何とか。何でもします」三郎が食い下がった。
「本間様。これは良い機会では。お弟子は多い方がようございます」
 佐内が割って入った。思わぬ飛び入りだが、この男が師匠の弟子になれば死なずに済む。
「ええい、佐内。ぬしは黙っておれ」いらいらと師匠が言った。
「三郎と言ったな。そなたは何のために我が流派を習いたがる。正直に申せ」
 強くなって出世したいか、それとも強くなって周りを見返したいか。嘘はならぬ。師匠は集中した。相手の呼吸、脈拍、声の大小、正しく聴けば本心かどうかはすぐに分かる。
 しばらく躊躇った後に三郎は答えた。
「それがし、空っぽなり」
「空とな?」
「空なのです。それがしには何もありませぬ。吹けば飛ぶような下級武士の嫡男というだけ。これより先の人生に希望などありませぬ。剣の腕があるわけでもなく、頭が格別良いわけではない。夢があるわけでもなく、好きなことがあるわけでもないのです。それが苦しくて苦しくて、このように家宝の大太刀を持ち出してさ迷い歩いておったのです」
「家宝か」
「我が家にたった一つ伝わる家宝です。これを扱えるほどの武士になれと父には厳しく言われましたが、自分にはそれが良く分からないのです」
「弟子にはできぬ。我が流派を学べばそれだけで武士の世界からは爪はじきとなる」
「構いませぬ」三郎は揺るがない。
「元より戦というものが無いこの時代、下っ端の武士がどうあがこうが、身分は揺るぎもいたしません。今さら爪はじきなど恐れるものではございません」
「我が流派は呪われておるのだ。最後は必ず殺されることになる」
 三郎は体を起こし、正座した。
「彷徨い歩いていたというのは言葉の綾。それがし、死ぬためにここに参りました」
「死とな」
「死です。人というものは希望無くしては生きられぬものゆえ。ただ見える場所で死ぬわけにはいきませんでした。そうすれば父母を苦しめることになるでしょう。だが家宝の太刀を持っての出奔ともなれば、きっとどこかで生きているとの希望が父母には持てます」
 この告白に周囲はしんと静かになった。
「本間様」またもや佐内が割って入った。
「黙っておれ」と師匠はにべもない。
「いいえ、黙りませぬ」佐内は居住まいを正した。
「本間様。あなたほどのお方が、この者が見ているのに何故気づきませんでした」
 今度は師匠が黙った。
「あり得ないことです」と佐内。
「あり得ないことだの」と師匠。腑に落ちぬという顔だ。
 隠形に長けた修験者でも師匠の目と耳から気配を逃すことは叶わない。それをこの何の技も持たぬ若者は無意識にやってのけたのだ。
「あり得ないことです。ですのでそれがしはこう考えます。きっとこの若者は本間様とご縁があるのではないかと」
「何、えにしがあると申すのか」師匠が目を剥いた。
「それがしにはそう思えます」佐内は師匠の目をまっすぐに見つめ返す。
 口先だけの言葉でこの人をどうこうできるわけがない。説得できるとすればそれは本心からの言葉のみ。
「縁があればこそここに導かれたのです。そも本間様がこれらの技を他人に見せることなど絶えて無きこと。それが開帳されたその時に、この若者は居合わせました。これを縁と言わずして何と申します」
「うむ」
 師匠は一瞬考えたが三郎に手を伸ばした。
「その家宝の大太刀、見せてみよ」
 三郎の差し出した大太刀を鞘から引き抜く。重さも長さも師匠の大太刀と遜色がない。その刃紋と拵えを睨むと、師匠ははっとした。
「中子を抜くぞ」
 一言宣言すると、返事を待たずに柄を解き始めた。手早く鍔を外し、巻糸を解き、中子を抜き出すと柄を解体する。刀身の手元に刻まれている銘を確かめて目を剥いた。
「開祖さま」思わず漏らしてしまった。「なるほど、えにし、か」
 それ以上は何も言わずに柄を元のように戻すと、大太刀を三郎に返した。
「いいだろう。其方を弟子としよう。ただし今見た技のことは誰にも言ってはならぬ。我が流派の名も誰にも言ってはならぬ。言えばすなわち命を失うこととなる」
「承知いたしました。しかしそも、それがしは流派の名を知りませぬ」
「そうであったな。我が流派の名は古縁流。鎌倉の世より伝わる最強の剣術よ」


 草野三郎これより古縁流の弟子として厳しい修行に挑むことになる。因果の輪はこうして回り始めた。