オペレーション・アルゴ銘板

11)預言者ピーネウス

「ここはどこだ?」
 出鱈目としか思えない海図を睨んでいたイアソンが、島から帰って来た船員に訊いた。今までの経験から見知らぬ島には迂闊に近づくなとの教訓を学んだので、まず偵察隊を送るようにしたのだ。
「サリュミュだそうです」汗まみれの船員が答えた。
 頼むから風上には立ってくれるなよと思いはしても口にはせずに、イアソンと一等航海士は海図へと身をかがめた。
「サリュミュデーソス。ここですね」一等航海士が海図の一点を指さす。
「コルキスまでほぼ半分というところか」イアソンが頭を掻いた。
 イアソンは身綺麗を好むが、流石にアルゴ号の水が乏しくなっている状況で、風呂などという贅沢はできない。
「よし、決めた。変な様子もないし上陸するぞ」
 イアソンは命令を下した。最近では指示を出す様も恰好がつくようになっている。冒険が人を育てる良い例だ。
 島に上陸する目的は水や食料だけではない。実はアルゴ号が出立する前に、街の賢者たちから忠告を貰って来ていたのだ。サリュミュデーソスの地には盲目の予言者ピーネウスが住んでいるとのこと。この預言者がアルゴ探検隊の未来について重要な情報を与えてくれるだろう、と言われていたのだ。
 神々でさえ、預言者の預言から逃げることはできない。ましてや、人間のような非力な存在では尚更のこと。特に今のアルゴ探検隊には少しでも多くの手助けが必要であることは、イアソンにもよくわかっていた。アルゴ探検隊の前には黄金の羊毛を守るコルキスの地があり、アルゴ探検隊の後ろには彼らを皆殺しにしようと企むギリシア最大の英雄であるはずの執念深い大男が追いかけて来ている。冒険の要となるはずの半神半人の英雄はただの一人も乗ってはおらず、先行きは不安なことこの上ない。

 帆を畳み、無数の櫂が下ろされる。銅鑼が鳴り、汗だくの作業が始まる。なにぶんアルゴ号は巨船だ。港に接岸するだけでも大変な作業となる。本来はこの作業も力持ちの英雄たちが難なく片づけてくれる目論見だったのだが。実物の英雄というものを見ている今では、そんな甘いことを考えた設計者の頭を一つ殴ってやりたい気分であった。
 イオルコスの人々は、英雄というものは下積みの仕事をしないことを知らずに、アルゴ号を建設したのだ。

 一口に島と言っても大きいものから小さいものまで様々ではあるが、サリュミュデーソスの島はかなりの規模の島であった。その港の中にアルゴ号をすっぽりと収めると、すぐに島の役人が飛んで来た。
「入港料の徴収です」底意地の悪い笑みを浮かべて、役人が手を差し出す。「それと規定を越えて水を積む場合は、特別徴収となります」
「我々はイオルコスのアルゴ探検隊だぞ!」イアソンは思わず叫んでしまった。
「あなたがたが誰であろうと特別扱いはしません」と役人。
 航海長がそっとイアソンに目配せをした。
 どうやらついにアルゴ探検隊のことを知らない島についたのだ。やっと噂に先行できたのだから、ここで新たな噂をまき散らす必要はない。噂というものは光よりも音よりも速い。これはギリシアの賢人たちでさえ認める真実だ。だが、ポセイドン神に後押しされたアルゴ号はついに噂を追いぬくことができたようだ。流石に神を名乗るだけはあると、イアソンは変なところで感心した。
「当然だ。特別扱いはいらない。さっそく食糧と水を積み込みたい。それと宿の世話を頼みたい」
 役人が合図をすると港の世話役が頼まれたことを片づけ始めた。役人はお金だけを受け取ってから悠々と船を下りる。
 どこの世界でも、そしていつの時代でも、役人が自らの手を汚して働くことはないのだと、イアソンは思った。どうせなるなら、役人になるのが良い。英雄なんて疲れるだけだ。そう考えている自分に気づき、ひどく歳を取ったように感じてイアソンは憂鬱になった。
 色々な雑用を片付け、市場を見て回り、ついでに歓楽街に足を延ばし、それらがすべて片付いてから、ようやく預言者ピーネウスを探す作業に着手した。
 酒場でその名前を出して、そこにいた客全員が顔をしかめるのを見て、イアソンは嫌な予感を覚えた。
 トラブルの臭いがする。
 やがて詳細が知れて、イアソンは頭を抱えた。

 どうしてこうも、行く先々で問題が生じるんだ?

 預言者ピーネウスは有名な人物だ。その肉体の視力は世界を見る力を失っているが、その心の視力はあらゆる未来を予言することができた。
 ただし自分の未来を除いては。
 ピーネウスの預言は人々を助けた。飢饉から、戦争から、あらゆる災害から。その中には神々が人間を罰しようとして起こしたものも含まれていた。
 当然の結果として神々は怒り狂った。人間ごときが神々の行いを邪魔するとは、と。
 ピーネウスへの罰として、怪物ハルピュイアが遣わされた。
 ハルピュイアは、上半身は人間の女性、下半身は鳥の化け物だ。ギリシアの怪物の例に漏れず神々の血を引いている。姉妹には女神などもいるのだが、ハルピュイアは下品で醜悪な怪物で、困ったことに羽を使って空を飛ぶ。

「飛ぶのか」話を聞いていたイアソンが嘆息した。
「飛ぶんですよ」街中から噂話を聞きこんで来た航海長が相槌を打った。
「厄介だな」イアソンはもう一度嘆息した。
「厄介ですね」航海長も同意した。
 なにぶんアルゴ号は船だ。そう簡単に空は飛べない。つまり怪物を追いかけることはできない。

 ピーネウスが食事をしようとすると、ハルピュイアが飛んでくる。老人の食事を奪い、食い散らかし、その代わりに食卓に糞をしていく。

「下品だな」イアソンは眉間に皺をよせた。
「下品ですよね」航海長は自分の鼻をつまんでみせた。
「つまりあれか、ピーネウスに助けを求めるなら、その臭い鳥どもを何とかしないと駄目なのか」
「そういうことになりますね」
「空中から糞を投げつけて来るやつら相手に何ができる?」
「せめて罵ってやるぐらいはできまさあね」と、舵取り。

 しかし、まずは敵情視察だ。アルゴ号の主だったものたちを集めて、まずはその預言者ピーネウスに会いに行くことにした。もしかしたら、預言者は無茶を言わずにわずかな金貨だけでアルゴ探検隊を助けてくれるかも知れない。

「もちろん、駄目だとも」ピーネウスは一言の下に却下した。

「わしをこの苦境から救ってくれ。それと引き換えでなければ助けてやらん」
「そこを何とか。我々を哀れと思って」とイアソンはすがりついた。
「わしも哀れなんじゃ」ピーネウスは指摘した。「わしは長い間この力で人々を救って来た。だというに、ハルピュイアが現れたら誰もわしを助けてくれん」
 ピーネウスは見えぬ目をぴたりとイアソンに向けた。
「取引じゃ。お前さんはわしを助ける。そしたらわしはお前さんを助ける」
「それだけの力があるなら、どうすればいいのか教えてくれ」イアソンは尋ねた。
「わしの預言の力は自分に関わることには使えないのじゃ」
 ピーネウスが住んでいるこの館は丘の上の一等地に建っている。ピーネウス自体は裕福らしく、館の調度品には高級なものが揃っている。きっと預言の力を安売りはしなかったんだろうな、とイアソンは思った。預言の力は自分に直接使うことはできないにしろ、間接的には非常に役だっているようだ。
「とにかく、奴らを見せてやろう。それからどう手を打つのか、考えるがよい」
 ピーネウスが手を打つと、中庭にテーブルが用意され、豪勢な食事が並べられた。
「部屋の中でこっそりと食べればいいと思うじゃろ。ところがこれは神の下された罰なんじゃ。家の中に食卓を作ると、その場で食べ物は腐ってしまう。まだこの方がいくらかでも口に入るからいいんじゃ」
 盲目ながらもしっかりとした足取りでピーネウスが食卓に近づく。と、空から鋭い叫び声が降り注ぎ、数匹のハルピュイアたちが出現した。人間の女性の顔をしているが、声は怪物のものだ。手の変わりに生えている翼をたたむと急降下を行い、大音響とともに食卓のど真ん中に着地した。衝撃で飛び散った食べ物を鉤爪の生えた長い足で器用に掴むと、貪り食らう。
 呆れた顔でそれを見ていたイアソン一行の前で、ピーネウスが前に飛びだした。最初に指先に触れた食べ物を手で掴むとそのまま口に運ぶ。ハルピュイアの一匹がそれを見て激怒の叫びを発すると、ピーネウスを突き飛ばして食べ物を取り上げた。殆どの食べ物を食いつくすと、最後に糞をまき散らしながらハルピュイアたちは消え去った。
 アルゴナウタイたちが止めていた息を吐いた。
「いや、なんとも凄まじい」
 食べカスと悪臭を放つ糞の山を眺めながら、航海長が感想を漏らした。
「わかってくれるかの。お若いの」とピーネウス。「わしはもう何カ月もパン一つろくに食べておらん。このままではじきに死んでしまうだろう」
 ピーネウスはついでのように付け加えた。
「おっと、パンが駄目ならお菓子を食べればいい、なんて言うんじゃないぞ。それにはまだ早すぎる」
 何が早すぎるんだろうと頭の片隅で疑問には思ったが、しれよりも自分たちが陥ったトラブルの方が気になった。

 取るべき手段はいくつかある。
 このままピーネウスを放置して旅を続けるのが一番簡単だ。だが、預言者に会えと預言されている以上、それを無視すると何か恐ろしいことが起こるのではないかと、漠然とした思いながらイアソンは気付いていた。神々でさえ、預言は無視できない。ギリシアとはそういう世界だ。
 そう考えると、ピーネウスを拷問してアルゴ号の冒険に関する預言を引きだす、とか、ピーネウスをアルゴ探検隊に強制徴発して旅を続ける、などの選択肢も消えることになる。
 ピーネウスがびくりと体を震わせて脅えた顔でイアソンの方を向いたので、考えを読まれたのかとイアソンも脅えた。それでこの老人の持つ力は本物なのだと納得がいった。それだからこそ、神々もこうした罰を与えているのだ。きっとこの罰は神々の怒りから来ているのではなく、神々の嫉妬と恐れから来ているのだと、正しくイアソンは理解した。
 運命の女神たちしか持ちえぬ能力を、人なる身で持つことの恐ろしさが結晶したものが、あのハルピュイアという鳥と女性の融合した化け物なのだ。
 そしてこの哀れな老人に同情を禁じ得ない自分にもイアソンは気付いていた。この結末はある意味自業自得であることも知っていたし、今は鳥女たちの糞で無残な有様となってしまっているこの豪華な館だって、本来は預言者の傲慢さと強欲さを示しているのだが、それでもやはり少しばかりは助けてやっても良いのではないかとも思うのだった。

「どうせ来るなら、ボフォース対空機関砲でも持って来てくれればいいのに」
 ピーネウスは嘆息した。
「ボフォース? 対空機関砲? そりゃいってえ何ですかい」舵取りが思わず尋ねた。
「いや、いい。言っても判らんし、無いものねだりじゃ。後二千年ほど経ったら教えてやろう」
 ピーネウスは手を振った。
「今日はこれで終りじゃ。期待しておるぞ。明日は何とかしておくれ」

 一行はアルゴ号に戻ると、またもや船の一室に閉じこもり相談を始めた。

「ありゃあ凄い鳥だなあ」舵取りが真っ先に口を開いた。
「鳥じゃない。怪物だ。凄いのは当たり前だ」と航海長。
「足の一撃であの重そうなテーブルをひっくり返したぞ。あれで蹴られたら人間なんて一撃で死ぬ」イアソンが指摘した。「どこの神の眷族なんだ? 誰か知らないか」
「聞いて来た」甲板頭が手を挙げた。「ありゃあ虹の女神イーリスの姉妹だそうだ」
「虹!」全員が叫んだ。
「あの化け物が虹の女神の親族だと」信じられない思いでイアソンがつぶやいた。
「神々の親戚関係ってのはわからんものだな」航海長が頭を掻いた。
「何にしろ、神の眷族ならば、殺すわけにはいかん。傷つけるのも駄目だ。風の神の眷族だとすれば特にだ。アルゴ号は帆と風で動く船なんだぞ。風の神を怒らせでもしたら、これから先の長い航海をオールだけで進む羽目になる」
 またもやギリシアの神々の政治的な問題だ。イアソンは頭を抱えた。こんなに毎日頭を悩ませていてば、自慢の髪もすべて抜け落ちてしまう。
「殺してもいいんなら、矢で射れば片が付くんですがね」
「いや、そんなに単純な話じゃないんだ。少なくとも頭の部分が人間の形をしているということは人間並みに頭が良いということだ。危険と見たら空からは降りて来んぞ。高いところから糞を投げるか、場合によっては岩を落として来るかもしれん」
 航海長が指摘した。
 そんなことになれば、地面の上を逃げ回るしかないアルゴ号の冒険者たちは全滅必至となってしまう。空を飛べるということはそれほどの利点がある、と今更ながらにイアソンは気がついた。今までハルピュイアの醜悪な行動に目を取られていたが、敵対する怪物という観点から見れば、特にその知性が非常に厄介な代物だと言える。
 もしかしたらこの怪物は、ヘラクレスよりも賢いのかも知れないと、イアソンは思い当たった。ピーネウスだって馬鹿じゃない。それにその特殊な能力からしても、今までにも色々と手を打って来たはずだ。その中には金さえもらえれば神々と敵対することになっても構わないという連中もいたはずだ。それなのに、今に至るもピーネウスの苦難は解消していない。最後には、ただひたすらアルゴ号が英雄たちを引き連れて到着するのを待つだけとなってしまったわけだ。

 ハルピュイアは生け捕りにするしかない。深夜になってようやく、意見がまとまった。

 でも、どうやって?