オペレーション・アルゴ銘板

6)最初の島

 アルゴ号は波高き大海原に出た。実を言えば、今までの寄港地はどれも普段から往来のある場所であり、その意味では、ここからが本当の探検行となる。一応海図らしきものはあるが、その実、誰も確かめたことのない想像と憶測で描かれた海図である。
 マストの上から不安と期待の眼差しを前方に注ぎ、風任せの二週間の末に、ようやく島らしきものを見つけたときのアルゴナウタイたちの喜びの声は止めようがなかった。
 しかしまさかここが目的地コルキスのはずもない。アルゴ号は島の風下の港へと滑りこんだ。
 アルゴ号の巨体をあきれ顔で見ている島人の顔は、まだそこがギリシアの地であることを示していた。
「こりゃぶったまげた。あんたたちどこから来たね」
 言葉もギリシアのものであることを知り、少しばかりイアソンはがっかりした。
 船の周りに群がって来た島の男たちよりも、それに混ざった女たちの綺麗な姿の方がイアソンは気になった。残念ながら、今のアルゴ船の中には女性は乗りこんでいない。それもあって、船員の間にはある種の殺気とでも言うべきものが充満しかけていた。
 あれよあれよと言う間に噂を聞きつけた女たちが、アルゴ号の周りに集まると黄色い歓声を上げ始めた。中には上陸を始めたアルゴ号の船員の首に抱きつく者まででる始末。
「どうだい、うちの島の女たちは。酷い臭いだろう」島の男が説明した。
「女たちが悪いんじゃねえんだ。実はとある神さまを怒らせてしまってね。島中の女たちが悪臭を放つようにと呪いをかけたんだ。神官の話では自然に呪いが解けるまで待つしかないんだとさ」
 その言葉通りに眼下に集まった女たちの群れから、男たちが鼻を押さえて逃げ出すのが見えた。
「うう、なんてひでえ臭いだ。魚が腐った臭いのほうがまだマシってもんだ。まあそういうわけでこれといった歓待もできないが、好きに過ごしてくれ」島の男が一言置いて逃げ出した。
 イアソンと傍にいた航海長は顔を見合わせた。
「臭いか?」イアソンが聞いた。
「いや、全然」航海長は否定した。「というより、何だか凄く良い匂いがするんですが。女性の香りというか」
「まさに誘惑と魅力を煮詰めて香水にしたような香りだなあ」イアソンがうっとりとした顔でつぶやいた。
「しかし、今の男の話では、女たちには呪いが掛っていて酷い臭いがすると言っていましたよねえ」
「私には何となくその理由が判るような気がします」
 近くで聞き耳を立てていた船首像が言った。イアソンと航海長が驚きを顔に表せて振り向くのを見て、船首像は満足気に頷いた。
「つまり神の呪いというやつは、この島の女たちに掛けられているのでは無いのですよ」
「そうか」イアソンが自分の額を手で叩いた。「呪いは島の男たちに掛けられているんだ。島の女たちを臭く感じるように」
「だけどそうなると困ったことになりますぜ。イアソンの旦那」航海長が額に皺を寄せた。
「みんなイオルコスを出て以来、一切女っ気無しの生活だ。おっと! そこの女神さまだけは別ですが。そこに来て、こんな良い匂いを嗅がされたんじゃあ、大人しくしていろってのが無理な話だ」
 女神像がコホンと一つ咳払いをした。
「実を言えば、この船の中に、夜中にわたくしめの乳房を触りに来る不届き者がいました」
「そいつは良くないことだ」とイアソン。「でもどうして過去形なんだ?」
「その者は二度と馬鹿な真似をしないからです」
 女神像が笑うと口の中にずらりと並ぶ真っ白な牙が見えた。
「わたしを彫りあげてくれたアルゴス様は自衛の手段も持たせてくれたのです」
 航海長とイアソンは女神像の牙から目を背けた。お互いに相手の腕に女神の歯型がついていないか、そっと確かめる。
「まあ、そういうわけで、旦那。こりゃ明日には島中の男たちがここに押し寄せますぜ。自分の女房や恋人を寝取られたって。
 誓ってもいいぜ。旦那。
 血の雨が降る。
 寝取られ亭主の怒りってのはそりゃあもう激しいもんで」
「それは俺もよく知っている」
 イオルコスではプレイボーイで有名なイアソンは上の空で答えた。その目は島の女たちを鋭く物色している。
「乗組員に上陸を禁止したらどうなる?」
「反乱がおきるでしょうね」
 イアソンの問いに対して即座に航海長が答えた。
「止してくれ。冒険より女遊びの方が大事なのか」
「うまくいくかどうか判らない冒険より、目の前の女遊びの方がもちろん大事でさあ」航海長はニヤリとした。「それに今この島の女たちは入れ食いの状態なんですぜ」
 イアソンの喉がぐびりとなった。もちろん、彼にもこの機会を逃す気は無い。
「防ぎようの無いトラブルに俺たちは巻き込まれたということか」イアソンが嘆息した。
 これだから男たちは、とばかりに諦めたように首を振りながら女神像が提案した。
「身近な問題としてこれを考えてみましょう」
 女神像は僅かに上半身をイアソンの方に向ける。もちろん女神像の腰から下はアルゴ号の肋材と一体化しているので、動かせない。
「イアソン。もしもの話として、あなたが今夜、夫を持つ女の人の寝室に忍びこむとします。女の夫は強面で喧嘩っ早い大男です。もちろん、それでもあなたは夜這いを止める気はない」
 女神像は両手を腰に当てた。
「さあ、どうします?」
「やることだけやって後は逃げる」イアソンは答えた。
「そうか! トラブルが起きるのを防ぐことができないなら、大事なのは後始末をどうするかということか」
 イアソンの頭の靄が晴れた。
「船の全員を甲板に集めろ。今すぐにだ」

 その日、アルゴ号の船員は全員で休みなく働いた。破れた帆の修理をし、島中から食糧を買い集め、重い水の樽を苦労して船に運び込んだ。故国でもこれほどの素早さで働いたことはないだろう。時間は日没までしかなかった。
 すべての準備が終わり、日が落ちかかると、アルゴ号の船上から乗組員の姿が一切消えた。
 ネズミ捕り役の少年だけを残して、アルゴナウタイの全員が船から降りてこっそり島へと上陸したのだ。島の酒場は満杯となり、通りをこの見知らぬ異邦人たちが我がもの顔に闊歩した。夜の闇が深まると共に、時間に追われるかのように一人また一人と、似合いの相手を見つけて姿を消した。
 島の男たちは安心しきっていた。自分の島の女たちは鼻の曲がりそうな悪臭の女たちだと信じて。
 自分たちの鼻が自分たちを裏切っているなんて、彼らは想像すらしていなかった。