歴史書銘板

将軍

(筆者注:たまにこんな夢を見る。見てしまったからには文章に起こさないといつまでも放してくれない)



 眼下に見下ろすその村は今や将軍と呼ばれるようになった男の故郷であった。
 焼き討ちの煙、悲鳴、そして連れ去られる妻の涙に歪んだ顔。全てはここから始まったのだ。あの事件の日以来、再び住むものも無く、荒れ果てた村の残骸のみが残っている。戦火は休まることなく続き、人々の怨みの声は天に満ちていた。あれ以来、男はずっと妻の行方を追っていた。二十年という歳月の間、一度もここには戻らなかった。

 軍勢をそこにとどめたまま、男は馬を駆り廃墟と化した村へと近づいて行った。

 崩れた石垣、骨組みだけになり高く伸びた夏草の中に埋もれている柱は、いつもこうるさく噂話をしていた張ばあさんの家のものだ。その向こうの家は栄の家。自分が忘れ去っていたはずの故郷の家々をまだ覚えているのに、内心驚きを覚えながら歩を進める。
 村の中の通り道にも今は草が繁り、あちらこちらに出来ている水溜りが馬の足を取る。通りの一番端にあるのは、かっての自分の家だ。他の家が無惨な残骸だけなのに、自分の家は驚くほど保存が良かった。それでも石垣は崩れ、屋根のかなりの部分は腐り果ててはいたが。強烈な感傷に因われて、半ば朽ちた玄関へと足を踏み入れる。奥の間はまだ辛うじて腰を下ろせるぐらいには残っていた。

どれほどの間そこに座っていたろうか。気が付くと傍らに妻がいた。
透き通る姿の中に二十年前の美しいままの妻が見えた。

「なんということだ、ここにいたのか。わしは中国全土を探したのだぞ」
「そしてここだけは探さなかったのですね」
「うむ、ここだけは戻る気がしなかったのだ」
「あの後、すぐに男達の目を盗んでここに戻ったのです」
「待っていてくれたのか。このわしを」
「探し続けていると思いましたから。きっと」
「苦労をかけたようだな」
「貴方ほどではありません」
「二十年、よくぞ、わしを待っていてくれた」
「二十年、よく、私を探してくれました」
「ようやく、会えたな」
「ようやく、会えましたね」

 ・・しばらくの間は感無量の沈黙が続く。
 生きた者同士ならば、二人でお互いを抱き合って慰めただろうに。
 将軍は手を伸ばさなかった。この儚げな妻の姿が、触れてしまえばたちまちにして消え去ってしまうように思えたのだ。

「なぜ、ここだけ探す気になれなかったのだろう?」
「天命がおありになったのですよ。私を探すより大事なお仕事が、天によりあなたに課せられていたのでしょう。幽明界の住人となった今の私にはそれがようく判ります」
「ここでわしの旅を終えてよいのか。お前とともにいよう」
「貴方にはまだしなければならない事があり、行かなければならない地がお有りでしょうに。私はここで貴方に会えたことで十分です。」
「留まるわけにはいかんのか」
「今の世の戦火を治め、再び静かに暮らせる世を作らない限り、私達はまた引き裂かれることになりましょう。今は駄目です。また、いつか。別の地でお会いしましょう」

 今度はどれほどの間、座っていたのだろう。門の辺りで誰何する声で気がついた。妻の姿はいつの間にか消えていた。

 声は呼んでいた、将軍と。
 そうだ、わしは将軍だ。果たさねばならない義務があり、指揮せねばならない軍団がある。己の足下を見る余裕もなく、果たせぬ夢を追って最初の一歩を踏み出した地へ戻って来た。だが、まだ道は続く。生きている者には時は終ることがない。
 もはや、この地には戻っては来ない。戻って来たとしても妻はもういない。

 だが、それでも・・。
 将軍はいましばらく意志を決め兼ねるようにその場にたたずんでいた。

 都までの道のりはまだまだ果てしないように思えた。