歴史書銘板

パンジャンドラムの夏(後編)

5)初出撃

 パンジャンドラムの本当の投入実験は、ノルマンディ上陸作戦の二週間前に実行された。この実験で良い結果が出れば、残りのパンジャンドラムもろとも、そのままノルマンディへ投入しようという目論見であった。二週間という期間は、敵がパンジャンドラムへの対処策を編み出すには短すぎるが、味方が実戦で明らかになるパンジャンドラムの問題点を修正するには、十分な期間として決められたものだ。
 投入される先には、フランス沿岸地帯の小さな浜辺が選ばれた。当時、ドイツ軍はここに比較的に強固とも言える防御陣地を構築していた、というのが、この場所が選ばれた理由だった。

 夜を隠れ蓑にして、パンジャンドラムを運ぶために特別に改装された揚陸艦が送り込まれた。この揚陸艦はアメリカから供与された艦を改造したもので、一艦につきパンジャンドラム一機を搭載できる。これらの艦の甲板の上には、パンジャンドラムを打ち出すための巨大なカタパルトが設置されていた。これに加えて、護衛用の駆逐艦が数隻と、普通の上陸用舟艇が背後に控えていた。この船の中は工兵隊が一杯乗船していた。彼らの目的は上陸作戦に加わるのではなく、この作戦の終了後できる限りすみやかに使用したパンジャンドラムを回収、または破壊することであった。
 作戦は日の出とともに開始された。
 まず駆逐艦が海岸線に近づき威嚇射撃を加える。敵砲兵陣地に圧力を加えるためだ。ノルマンディ上陸作戦の戦艦による支援砲撃の役目を、今回は駆逐艦が肩代わりする形である。用意された四機のパンジャンドラムだけが、日の光が注さぬかのように黒々とした巨体を見せている。
 浜辺の上の防御陣地が混乱したところで、パンジャンドラム揚陸艇 -俺たちはこれを縮めてP揚陸艇と呼んでいた- が突進すると、船体の前面を成しているタラップを降ろした。
 今でもときどき思うのだが、あの海岸線の防御陣地に詰めていた兵士は、そのとき何を考えただろう?
 P揚陸艇の前が大きく開くと、そこにあるのは巨大な鋼鉄の車輪だ。全体に恐ろしげな刃が隙間無く生えている。
 そいつが化け物の咆哮を上げたと思うと、次の瞬間、全身から炎を吹き上げる地獄の車輪となって襲いかかって来たのだからさぞかし恐ろしかっただろう。
 一つの車輪に付けられたロケットモーターは七十五基。最初に点火するのはそのうち五基。噴射時間はわずかに三十秒。噴射開始から十秒経つと次の五基のロケットが点火する。動き出してから二十秒で巡航速度に達し、このときは全部で十五基のロケットが炎を吹き出すことになる。もし、パイロットがアクセルを吹かさなければ、の話だが。
 P揚陸艦が爆発カタパルトを作動させた。爆発カタパルトってのは、ショットガンや地雷なんかに使われている派手な爆風を作り出す火薬を、カタパルトの動力にするやつだ。
 爆発カタパルトはたった一度しか使用できないが、それでいいんだ。パンジャンドラムはP揚陸艇一隻につき一機しか搭載していないからな。それに一度、パンジャンドラムが火を吹き始めれば、ぐずぐずなんかしていられない。この悪魔の車輪が全力で回転するのに巻き込まれれば、ひ弱な揚陸艇なんか、あっと言う間にバラバラになってしまう。
 いや、パンジャンドラムが飛び出す瞬間は実に壮観だったな。俺はその操縦席にいて、ゲラゲラジュースのせいですでにへろへろだった。上も下もありゃしない。回転する車輪と、敵のトーチカ、それが世界の総てだったな。とにもかくにも俺は空中にあり、周囲は炎の渦巻だった。俺が近づいているのは、空中に浮かんだように見える砂地であり、その中にコンクリートで出来た小さなトーチカが幾つも並んでいた。どのトーチカにも重機関銃が装備されていたし、速射砲だってついていた。
 相手が歩兵や戦車なら、そういったものも役には立っただろうに。
 機関銃で倒すには、この悪魔の車輪は硬すぎる。大砲を当てるには、この悪魔の車輪は速過ぎる。
 やがて、偉大なる重力の働きで、俺のパンジャンドラムは着地し、それから地獄が出現した。
 空中でぐんぐんに回転していたパンジャンドラムは、最初に触れた砂地に大きな半円形の溝を掘り出した。それから車輪の周囲についている鋼鉄のヒレが大地に突き刺さり、その反動で弾けるように転がり始めた。
 最初に突っ込んだのは三重に施設された鉄条網だ。実を言えば、俺はこのとき、ひやひやしていた。パンジャンドラムの唯一の弱点がこの鉄条網だったからだ。車輪の周囲の刃に触れれば鋼鉄線と言えでも容易く切断される。だが下手に車軸に絡まると厄介なことになる。それも物凄く厄介なことにだ。
 俺のパンジャンドラムはその鋭い鋼鉄のヒレを使って、目にも止まらぬ高速回転で鉄条網を切り裂いていった。細かく切り刻まれた刺つきの針金が、操縦席の窓に幾つも当たって、小さな金属音を立てる中、俺は強引にパンジャンドラムを鉄条網の中へと追い込んで行った。
 鉄条網の一本がパンジャンドラムの車輪の主軸へと絡みついた。それは恐るべき勢いで車輪の刺の回りに巻き付くと、パンジャンドラムの回転にブレーキをかけた。車軸がきしみ、衝撃とともにパンジャンドラムがよろめいた。万事休すだ。一度でも車輪の回転が止まれば、パンジャンドラムは倒れて起き上がれなくなる。そうなれば俺はとんでもなく厄介な状況へと追い込まれることになる。
 俺が緊急脱出装置のボタンを叩き込もうとしたその瞬間に、パンジャンドラムの周囲に吹き出しているロケットの噴射炎の一つが、限界まで伸びていた鉄条網を焼き切った。それから、車軸の回りに巻き付いていた針金が緊張に耐え切れずにばらばらに千切れる。俺の乗ったパンジャンドラムは、まるで何事もなかったかのように、地獄の行進を再開した。
 鉄条網地帯からトーチカまでの三百フィートをわずかに五秒で駆け抜けると、パンジャンドラムは敵に襲いかかった。ようやく何が起きているのかを理解した敵が、発砲を開始したが、時すでに遅くパンジャンドラムの車輪は要塞のコンクリートの屋根の上をまっすぐに駆け抜けた。鋼鉄の爪がコンクリートを引っ掻いて火花を上げると、続いて装甲鉄板の巨大な刃がそこに食い込んだ。一秒に数百回転にも上る戯けた回転力は、言い換えれば、神が振るう恐怖の回転ノコギリだ。パンジャンドラムは歩みを緩めずに要塞の上を通り過ぎると、中にいた兵士もろともその要塞をまっぷたつに切断した。
 パンジャンドラムが要塞を二つに引き裂いた時点では、生き残った兵士も、あるいはいたかも知れなかった。だが、パンジャンドラムの動力源、車輪の周囲に装備されたロケットモーターの噴射炎は、彼らを見逃さなかった。超高温の水蒸気を大量に含んだ無色の炎は、要塞の傷口の中へと容赦なく吹き込み、そこにあった総てを蒸し焼きにした。
 そのとき俺が何を感じたかって?
 何も感じなかったさ。感じるひまなんてありゃしない。総てが終わるのに、一秒もかからなかったんだからな。ただ後で、完全密閉されているはずの操縦席の中に、微かに人の肉が焼ける匂いが漂っているように思えたものさ。
 次の五秒でパンジャンドラムは残りの砂浜を駆け抜けて、固い道路の上に出た。道路の敷石を穴だらけにしながら、俺はパンジャンドラムの向きを変えると、背後から残りの要塞へと襲いかかった。幸いと言ってよいことに、未だに操縦席は回転を始めていなかったので、俺は要塞を照準の中に捉えると、正確にその上を走り抜けた。
 引き裂かれた敵兵の肉片が宙に撒き散らされる。気のせいか、空が何かで赤く染まっている。
 地雷を踏んだ。対戦車用の地雷だったらしく派手な爆発が周囲を満たした。だが、それもパンジャンドラムに取ってはそよ風のようなものだ。鋼鉄の刃が数本折れて飛んだが、何の痛手でもない。
 俺はパンジャンドラムを操って、次々とトーチカや塹壕の上を転がり回った。地獄の車輪の周りについた刺に引き裂かれて、体を半分断ち切られた兵士が空中に投げ上げられながら絶叫し、ロケットの噴出炎を受けて誘爆した兵器がそれに彩りを添えた。炎に巻き込まれた機関銃の弾帯が、中国人が鳴らす爆竹のように火花を上げて弾け、続いて地雷が死のあくびを漏らす。すでに操縦席は回転を始めていて、俺の周囲はぐるぐると回る地獄のカーニバルだった。

 ようやく、敵の大部分が片付いて、俺に味方の様子を見るだけの余裕ができた。まず最初に目についたのは、浜辺の中央で狂気のように回転しているパンジャンドラムだった。そのパンジャンドラムは不幸にも、車輪の主軸に砲弾の直撃を食らったらしかった。外れた車輪はと言えば、その近くに開いている大穴の中らしく、そこからは派手に砂と炎が跳ね上がっていた。倒れたパンジャンドラムはいわば巨大な回転ドリルだ。ロケットモータの燃料が尽きるまでに、どのぐらいの深さの穴ができるのかは、神のみぞ知ると言うところだ。
 パンジャンドラムの操縦席の中がどうなっているのかは、そこからは見えなかった。しかし地面についた操縦席を中心にして、残りの車輪がその周りに高速回転しているのだ。
 大きなひき肉を作る機械の中に飛び込んだハエ。とにかく俺が思ったのはそういうイメージだな。

 もう一つのパンジャンドラムは、俺の前を勢いよく走っていた。それが右に向けて走っていたのか、左に向けて走っていたのか、いまに至るまで俺には判断できていない。ゲラゲラジュースを飲むと、自分の右手も左手も判らなくなる。ついでに言えば、頭と尻の区別もつかなくなるし、前と後ろの区別もつかなくる。こんな状態でもしセックスでもしようものなら、たとえ相手が男でも妊娠させちまうだろうな。
 まあ、とにかく、そのパンジャンドラムは俺の目の前にいたのは間違いない。そうでなければ俺がそいつを見られるわけがないからな。そいつは最後のトーチカを破壊すると、戦車用の障害物をあっさりと踏み潰し、地雷を幾つか誘爆させながら、何事もなかったかのように走り続けていた。
 惨劇が起きたのは、そいつが再び鉄条網地帯へ飛び込んだときだ。
 俺が前にそこに飛び込んだときには、横に敷かれた鉄条網に対して直角に飛び込んだ。だがそのパンジャンドラムのパイロットは、鉄条網に沿う形で飛び込んだんだ。ワーズワース少佐に絶対にやるなと言われていた行動の一つだ。
 そいつがどうしてそんなことをしたのかは、俺は知らない。あるいはそいつにはゲラゲラジュースが効き過ぎていたのかも知れないな。とにかく、ワーズワース少佐が予言していたことがそいつの身に起った。つまり鉄条網がパンジャンドラムの刺に引っ掛かり、それから絡みついたんだ。前に俺がそれをやったときとは違い、今度のは数本いっぺんにだ。パンジャンドラムの軸に針金が巻き付き、とうとう片側の車輪が止まりかけるところまでいった。それからどうなったと思う?
 パンジャンドラムの回転力は車輪の周囲についたロケットモーターだ。針金がいかに巻き付こうと、その回転力には変わりはない。パンジャンドラムの車輪が完全に止まるかわりに、操縦席の方が車輪と一緒に回り始めた。俺には操縦者の悲鳴が聞こえたような気がしたよ。それと反吐を吐く音もだ。一瞬の間を置いて、パンジャンドラムの中央の操縦席がわずかに赤くなるのが見えた。いや、あれほどの速さで回転しているんだ。操縦席自体はまともに見えない。外から見るとそれは小刻みに振動する球でしかないんだ。
 あんたはヨーヨーって玩具を見たことがあるかね?
 縞模様に塗られたヨーヨーを回転させると、縞模様の色は混ざり合ってのっぺりとして見える。それと同じだ。恐らくは操縦席の中は血の海だろう。操縦者の頭は天井に張り付き、足は床に張り付く。それが結末だ。
 それから操縦者を失ったそのパンジャンドラムはデタラメな方向へと動き始めると、たったいま自分が破壊した砲台へと斜めに突っ込んだ。ねじくれ曲がった砲の先がパンジャンドラムの車輪へと突き刺さり、そこにあったロケットモータを突き破った。
 ロケットモータの爆発というものがあれほど凄まじいものだとは、俺は想像もしなかったよ。パンジャンドラムの巨大で頑丈な車輪が二つに裂けると、統制を失った残りのロケットモータが固定している金具をねじ切り、思い思いの方向へと飛び始めた。それは逆さになった流星のように昼の空を砂浜から青空へと目掛けて切り裂くと、復讐の天使の降臨のようにやがてまた砂浜の上に舞い降りた。ロケットモータは落下とともに爆発の断末魔を叫び、周辺にあるもの全てを吹き飛ばした。そのうち一つは沖で待っていた揚陸艇の近くに落ち、ちょっとばかり乗っている奴らをびっくりさせた。
 運が悪かったのだと言いたい。この爆弾の雨から必死で逃れようとしたもう一つのパンジャンドラムの近くで、飛び散ったロケットモータの最後の一つが爆発したのは。
 爆風がそのパンジャンドラムの軌道を歪め、避ける暇こそあれ、そいつは海に目掛けて勢いよく突っ込んでしまった。車輪の半分が海水に浸かりながらも、パンジャンドラムは止まることなく、海のただなかへと泳ぎ出して行った。もちろん、鋼鉄の車輪が水に浮くわけはない。やがて車輪の全体がすっぽりと海の中に潜り、そして破局が訪れた。
 ロケットモータの噴射炎の先っぽは超高温だ。それをまともに食らえば装甲鉄板でも瞬時に穴が開く。海水がそれに触れれば大量の水蒸気が生まれる。しかもそいつは超高温だ。水蒸気は、何と言ったっけ、そう、酸素と水素に分解し、再びそいつに火がつくことになる。これを水蒸気爆発というのだとは後で教わった。
 パンジャンドラムが沈んだ辺りの海面に大爆発が起きた。とっても大きな、青と赤の混ざったきれいな火の球だ。続いて大音響が、完全防音のはずの操縦席の中にまで届いて来た。後で聞いた話では、この爆発音は遥か遠くのイングランドの沿岸にまで聞こえたって話だな。とにもかくにも、揚陸艇に乗りこんでいた連中の半分が、鼓膜が破れて気絶したってことだから、その爆発がどんなもんだったか判って貰えると思う。
 ワーズワース少佐だけは別だ。やっこさんは駆逐艦の上から全てを見守っていたんだが、ご丁寧にその耳には栓を詰め込んでいたんだからな。
 全ては奴の予想通りってわけだ。

 敵上陸の連絡を受けた敵の爆撃隊が飛んで来る前に、危うくも俺たちはそこを脱出することができた。俺のパンジャンドラムは無事だったが、結局はこれも回収を諦めて爆破することになった。揚陸艇に乗っていた兵士のうちで、満足に動けるものが少なかったからだ。
 知っているか?
 人間ってのは両方の鼓膜が破れた直後は、ろくに立ち上がることもできなくなるってことを。
 まあ、一度でも全力回転したパンジャンドラムは信頼性がなくなる。あまりにもロケットモータの力が強いために、回転軸そのものが微妙に歪んでしまうためらしい。だからワーズワースはこの損失を痛いとは思わなかった。
 それどころか、やつは、パンジャンドラムから転げ降りてきた俺を抱きしめてこう言いやがったんだ。
「やったぞ! 実験は大成功だ! たった四機のパンジャンドラムで、堅固な防御陣地が完全に壊滅だ」

 死んで行ったパイロットたちへの、慰めの言葉は無しだ。

 ああ、俺はいまでもワーズワース少佐を憎んでいるよ。それでも尊敬だけはしていた。あそこまで狂った男はちょっと他にはいなかったからな。


6)パンジャンドラムの夏

 それが起きたのはノルマンディ上陸作戦まで、あと二日に迫った日のことだった。このころ、俺たちは上陸作戦に使うパンジャンドラム四十機の整備に追われ、大忙しだった。俺を含むパイロット連中は、これら機体の整備に加えて、上陸作戦の詳細についても頭に叩きこむことが必要であった。しかしそれでも整備兵たちが味わった忙しさに比べれば、何ほどのこともなかったと言えたな。その時点で彼らはもう一週間も徹夜で働いていたんだから。
 パンジャンドラムの欠点である鉄条網に対する弱さは、車軸の周囲に針金切断用のねじり刃をつけることで解決した。こいつは螺旋状に伸びた小さくて鋭いカッターで、車軸の周辺に巻き付くものを何でも捉えて、噛み切ってしまう仕組みだった。それと同時に車軸に偶然命中する砲弾に対する防護板の役目も果たしていた。
 ワーズワース少佐は確かに技術的な天才であったし、こういった機材をすぐに揃えられる程あちらこちらに顔の効く実力者でもあった。この作戦が終了した時点で二階級を駆け登り、大佐になるのだという噂も、いとしめやかに流されていたほどだ。
 まあそういうわけで、約束の期日までにパンジャンドラムの改造と整備は片が付きそうだったし、ゲラゲラジュースもたっぷりと用意できていた。パンジャンドラムの揚陸艇への積みこみはその日の夜に行われる予定で、この揚陸艇のパンジャンドラム・カタパルト搭載型への改造も、どこかの港で突貫工事で行われているはずだった。
 俺たちパイロットは荷物をまとめると、その夜の移動まで仮眠を取ることになった。仮眠といっても、ここ数日特訓につぐ特訓だったので、ろくに寝ていないのが祟り、横になるとすぐに俺は泥沼を思わせる深い眠りへと落ちていった。
 ちょっとばかり、これから起きることに不安を抱いていたせいかも知れないのだが、俺は地獄に堕ちて、悪魔どもに周囲を取り囲まれるという悪夢を見た。
 そのわめきたてる悪魔どもは俺を捕まえて、拷問台へと引きずっていった。断言してもいいが、その悪魔の中の一匹はワーズワース少佐の顔をしていた。その拷問台ってのがまたふるっている。丸い円盤で、周囲と言わず、上と言わず、鋭い刺が生えている。俺はその上に載せられて、初めてそれがどこかで見た覚えのある形だと思いついた。
 そうだとも、パンジャンドラムだ。刺付きの拷問台はいきなり回転を始め、全身を鋭くて長い刺に刺し貫かれた俺は絶叫した。
 そうして俺は叫びながら目を覚ました。目の前には見覚えのある悪魔が立っており、そいつは俺を睨んでから口を開いた。
「どうした。恐い夢でも見ていたのか?
 起きろ! 緊急にやらなくてはいけない仕事ができた」
 悪魔じゃない。本物のワーズワース少佐だ。いや、ワーズワース少佐ではあったが、本物の悪魔でもあった。俺は彼の正体をついに悟ったと知った。
 しかし彼の正体を知ったからといって、彼が恐くなくなったとは言えない。ワーズワース少佐に下手に逆らったりすれば、ゲラゲラジュースなしでパンジャンドラムに座らされかねない。俺は夢の触感を振り捨てて跳び起きると、彼の前で直立不動の姿勢を取った。
「敵のスパイが基地内に侵入した」ワーズワース少佐は厳しい声で言った。
「施設の写真を撮り、基地内の無線機を使ってどこかと連絡をとった。最後にそいつは、基地の車を盗んで逃げ出した。ただちにそいつを追いかけろ。捕獲するのが望ましいが、無理なら殺せ。いいか、確実に殺すんだ。さもないと取り返しのつかないことになる」
 ワーズワース少佐は俺についてこいという身振りをすると、宿舎から急ぎ足で飛び出した。俺もその後を慌てて追った。凄かったな。あれほど怒っていた少佐は初めてだった。それが自分の聖域を土足で乱されたためなのか、それとも単に焦っていたためなのかは、俺は知らない。
 俺が連れていかれた先はパンジャンドラムの格納庫だ。
「少佐殿。一つ質問があります」
「何だ。手早く言ってみろ」ワーズワース少佐は振り向きもしないで答えたよ。
「どうしてパンジャンドラムではなくて、基地の車で追わないのでありますか?」
 俺はそう尋ねた。
「そいつ。男だか女だかは知らんが、そいつは基地中の車に細工をしていったのだ。幸い、パンジャンドラムには整備員が徹夜で張り付いていたお蔭で細工はできなかった」
 ワーズワース少佐は、準備したパンジャンドラムに俺を突っ込むと、俺の体に固定ベルトを閉めながら言った。
「悪いがゲラゲラジュースはなしだ。今回の任務は万が一にも失敗するわけにはいかないからな」
 俺は少佐のこの非人道的な決定に抗議しようとした。
 ゲラゲラジュースなしで、パンジャンドラムに乗るだって!
 冗談じゃない。どうせならいっそ死ねと言ってくれ。するとワーズワース少佐の野郎が、俺の首のストラップを力任せに締め上げたので、俺は息を詰まらせた。
「その代わりといっては何だが、ロケットの全力は出さなくてはいい。港までの移動用に用意した配分器を使う。緑のボタンだ。順次燃焼方式で、出力はたったの十分の一だ。燃焼時間は当然十倍になるが、あんまりのんびりやるんじゃないぞ。何としてもこのスパイだけは殺せ」
 いつのまにか、逮捕命令が殺害命令に変わってしまっている。
 俺は配分器を動かしてからロケットモーターの点火ボタンを叩き込むと、パンジャンドラムを前進させた。十分の一の出力でもパンジャンドラムはやはり恐ろしい地獄の車輪だ。俺の乗ったパンジャンドラムは地面を蹴って飛び出すと、あっと言う間に巡航速度に達して基地から飛び出した。俺の背後でパンジャンドラムの刺に掘り返された道路が、ずたずたに引き裂かれる。
 このままパンジャンドラムの向きを変えてワーズワース少佐を轢き殺すことも考えたが、止めておいた。もし彼がそれでも死ななかったらと思うと怖くなったからだ。
 相手を悪魔かも知れないと思うよりも、本当に悪魔だと知る方が恐ろしい。
 真実を知れば、きっともう見逃してはもらえなくなる。

 俺は前面ライトのスイッチを入れた。強烈な光が夜の闇を切り裂くと、俺は前方に見慣れた山道が続いているのを捉えた。悔しいがワーズワース少佐は正しい。ゲラゲラジュースなんか飲んでいたら、この山道は突っ走れない。俺は操縦席が回転を始めませんようにと、神に祈りを捧げると、山道の中でパンジャンドラムを突進させた。
 基地に通じる道は一本限りだ。パンジャンドラムのパーツを運ぶために、山の中に立派な道路が敷かれている。今日は空が曇っており月も見えないようだから、スパイは人家が見える辺りまで、車で飛ばすつもりだろう。空さえ晴れていたら飛行機が出せる。そうなれば山道のど真ん中でスパイは蜂の巣になるだろう。
 いや、違う。俺は気づいた。
 飛行機の音が聞こえれば、スパイは車を止めて夜の森の中へと紛れ込む。そうなればもう簡単には見つけ出せない。ということはパンジャンドラムでも同じことだ。ロケットの轟音は遠くからでも聞き取れる。だから向こうが音を聞いて隠れようと思う前に、一気にパンジャンドラムで踏み潰すしかない。いま必要なのは強襲。
 そのときの俺は血に飢えた怪物だった。
 十分間も走行しただろうか。出力を絞っているので、普段のパンジャンドラムよりも長く動ける。いつもよりも穏やかな走行とは言え、揺れるパンジャンドラムの中は乗り心地が悪い。本来これはゲラゲラジュース無しで乗るような代物ではないのだ。そうかと言って、ここで一度でも回転を止めようものならば、パンジャンドラムは横倒しになって身動きも取れない羽目になる。そもそも燃料が完全に尽きるまでは止まるような構造にはなっていない。
 俺は我慢を自分に言い聞かせると、目の前の暗闇の中を睨んだ。
 そのときだ。暗闇の中にさらに濃くて暗いシルエットをぼんやりと浮かび上がらせている山の稜線の向こうに、ちらりと小さな明かりが走るのを、俺は見てとった。
 どうやらやっと追い付いたらしい。スパイは二つか三つ先のカーブの向こうにいる。隠れるよりも、車の速度を利して逃げ延びられると考えているらしい。
 そうは行かせるものか。
 俺は前々から考えていた通りに、パンジャンドラムを道から外し、山の崖へと突っ込ませた。
 パンジャンドラムは巨大な花火のついた大きな車輪だ。転ばない限りは動くし、動くのに整備された道路は必要とはしない。元々がバリケードを強行突破するための兵器なのだ。
 俺が考えたのは山を隠れ蓑にして頂上まで一気に駆け上がり、そこからまっすぐにスパイの車の上を駆け抜けるという手だ。車輪の周囲についている逆刺のついた鋼鉄の大牙を使って、パンジャンドラムは垂直な壁だってなんなく登ることができる。これぐらいの傾斜は屁でもない。俺はまっすぐに頂上を目指した。パンジャンドラムの周囲で回転する刃が、木々を引き裂き、岩を砕いた。切り裂かれる木の悲鳴が俺を満たし、舞い踊る木の葉で何も見えなくなった。闇の中にライトの光芒と螺旋の噴射炎を撒き散らしながら、鋼鉄の車輪が破壊の軌跡を描く。
 大きな木にパンジャンドラムが正面から衝突し、俺はその衝撃に悲鳴を上げた。パンジャンドラムはその大木の幹に鋭い刺を突き刺し這い登り、その恐るべき重量で大木を二つに引き裂きながら、再び地上に降り立つと、まるで何事もなかったかのように前進を続けた。
 山火事までは計算に入れなかった俺は迂闊だった。ロケットモーターの噴射をもろに受けて森が燃え上がった。背後に炎の轍を残してパンジャンドラムはついに山を登り切り、そして切り立った崖を一気に転げ降りた。
 目の隅に捉えた車のライト目掛けて、俺は必死でこの悪魔の暴れ馬、地獄の車輪、燃え上がる炎の拷問台、無敵のパンジャンドラムを操った。
 その重量のもたらす落下の加速をあますことなく飲み尽くして、パンジャンドラムは突進した。俺の前を行くジープがどんどん大きくなり、俺はその中に、背後を見て悲鳴を上げている二つの人影を見た。
 ライトの中に浮き上がった内、一人は見知らぬ男だった。必死に前方を見つめ、車を運転している。その横で恐怖を顔に浮かべてこちらを見ている女は・・。
「エマ!」俺は叫んだ。
 俺が止める間もなく、パンジャンドラムは二人が乗る車の上に襲いかかった。彼女が男の腕を引っ張って、車から飛び降りようとするのが俺には見えた。
 だが遅すぎた。パンジャンドラムの鋼鉄の回転刃が二人の上を薙ぎ払い、続いて恐るべき重さの車輪が、車の上を通過した。
 卵の殻を踏み潰す感触そっくりだった。
 俺は悲鳴を上げてパンジャンドラムの軌道を捻じ曲げようとしたが、すでに手遅れなのは判っていた。パンジャンドラムはバランスを失い、横倒しになりながらも再び森の中に飛び込み、巨人の扱う回転ノコギリへと変貌した。百本近い木を切断した後で燃料が尽きて、倒木に乗り上げるようにして止まった。
 俺はパンジャンドラムの操縦席から転げ落ちると、たったいま、自分が通ったところ、道路の上に刻まれた地獄の車輪のわだちの跡へとよろめきながらも駆けつけた。そこには高速回転するノコギリが残した無残な爪痕と、砕かれ引き裂かれた車の残骸が散らばるばかりだった。

 エマが単にスパイの人質として拉致されたのか、それとも最初からスパイとして潜りこんでいたのか、俺には最後まで判らなかったよ。俺としては人質にされたのだと思いたい。でも最後の瞬間に彼女が取った行動は、それを否定しているようにも思えるんだ。
 俺は茫然とした面持ちで、再びパンジャンドラムのところに戻った。そうして燃える木々の明かりに照らされるパンジャンドラムを見て、もう一度悲鳴を上げた。
 エマが宙に浮いて、俺を睨んでいた。正確に言うと、エマの首だけだ。パンジャンドラムの刺に貫かれて、奇跡的に頭だけが原形を留めていた。
 エマの血にまみれた顔は、ただ俺を、そして俺の向こうにあるはずの悪魔の姿を見つめていた。

 パンジャンドラムは地獄の車輪。悪魔の選んだ贈り物。暗闇の中から這い出して来た拷問台。俺にはようやくそれが真相なのだと判った。これは人間が作ってはならない兵器なのだ。

 ずるりと、エマの首が自分の血で滑った。エマの首は、鋼鉄の刺から抜けると俺の前に落ちて来た。俺は反射的に手を出して落ちて来るエマの首を受け止め、それからその首を横に放り出して、激しく嘔吐した。
 どれくらいの間、そこに座り込んでいたのか。
 帰らねばという思いが、俺の中に生じて、ようやく俺は立ち上がった。

 そして見たのだ。

 最初は流れ星かと思った。薄曇りの夜空の中を、夜が開ける前に己の存在を証明しようとするかのように、駆け抜ける流れ星。やがて遠くから爆発の音が響いて来て、俺はそれが何であるのかを知った。そうだとも、そいつはドイツの科学者が作り上げた超音速の爆弾ロケット。その名もV2。
 夜明け前の空を彩るのは無数の流星、夜を司る死の天使の群れであった。それは赤い尾を引いて山の向こうに落ちると、続いて巨大な火球が空へ登っていくのが見えた。俺のパンジャンドラムが引き起こした山火事をも圧する勢いで、すべてを焼き尽くす火炎が広がる。
 スパイが何を無線機で話したのか俺は悟った。パンジャンドラムの基地の位置だ。ありったけのV2がその報告に対して投入されたのだ。そしていま、基地はこの破壊の真っ只中にあった。
 俺はパンジャンドラムの操縦席の中に這いずり込み、朝が来るのをじっと待った。

 空を埋め尽くしていた流星の数が減り、やがて完全に跡絶えたころ、朝日が昇った。
 俺は朝日の中を基地へと向かった。周囲ではまだ森がくすぶり、さきほどまでの爆撃の激しさを物語っていた。ようやく見慣れた丘までたどり着くとそこを回り込み、そして俺は自分が基地の残骸の上にいることに気が付いた。周囲を埋めているのは、ねじれた鋼鉄の塊に、砕けたコンクリートの山。ときどき、どこかで爆発があり、パンジャンドラムから外れたロケットモーターが空に打ち上がるのが見えた。それはまるで自分の親戚であるV2ロケットの真似をしているかのように、俺には思えた。
 俺は残骸の上を歩き回り、生きている者がいないかと探し求めたが、無駄だった。ドイツ軍はスパイの報告を聞き、数週間前に自分たちの海岸防御陣地を襲ったのが、いったい何だったのかを知ったのだ。上陸作戦の目標がどこか判らない以上、上陸に使われる最強兵器を予め潰しておくしか手はない。そう判断したのだろう。そう考えたからこそ、これだけ大量のV2ロケットを、ロンドンではなくこの場所に落とすことにしたのだ。
 俺は生存者がどこにもいないことを確認すると、文明社会への長い長い旅へと出発した。
 パンジャンドラムに関する総てがこれで消滅したと俺には判っていた。
 組み立てシステムはこの基地がすべて受け持っていたし、外部には発注できないような特殊な部品もここで作っていた。この悪魔の拷問台の生みの親のワーズワース少佐も爆撃で死んでいるとすれば、再びパンジャンドラムが日の目をみることはない。ゲラゲラジュースの在庫も製法も失われたわけだし、第一、いまから再開発していたのでは、上陸作戦には間に合わない。オーバーロード作戦はすでに発動しているのだ。

 勘違いしないで欲しいのだが、俺はナチスが嫌いだし、ナチスがやったことも大嫌いだ。だがそれでも、奴らがパンジャンドラム計画を闇の中へと追い返したことは、たった一つの正しいことだと思っている。基地で死んだ同僚たちのことはそれは残念に思っている。だがそれでも、俺のこの思いは変わらない。
 パンジャンドラムこそは地獄の車輪、炎の拷問台。それは切り裂く暴虐であり、転げ回る憎悪であった。

 後はもうそれほど話すことはない。
 俺は街まで歩き助けを求めると、やがて原隊へと復帰することになった。原隊に復帰して最初にやったことは、ゴメスの腹にパンチを叩き込むことだったが、やつはそれ以上に大きなパンチを俺に叩き込み返してきた。まあ、いい、これでおあいこということにしておいてやろう。ゴメスはゲロを吐いたが、俺は吐かなかったからだ。どうやらパンジャンドラムは思いのほかに、俺の胃袋を鍛えてくれていたらしい。
 総ての計画は闇の中に消え去り、本物のパンジャンドラムの記録は抹消された。ナチスドイツに得点をやることは無いという上からの判断だろう。いまでは、おとりに使われた偽物のパンジャンドラムの映像だけが、第二次世界大戦の道化役の記録として残されている。


 いまここで俺が話したことは別に秘密でも何でもない。ただ誰も、俺に尋ねようとしなかっただけさ。確たる証拠も無いし、信じるかどうかは、まあ、あんた次第だな。