真相銘板

真相

☆起点

 私は密教系の仏教徒である。正確に言うと根本仏教で雑阿含経典を信奉している。これはお釈迦様に一番近い記録であり、後世三千年に渡る余分な修飾が入っていないお経群である。
 なお、私はどこの教団にも所属していない。信仰とは本来は独りで行うものだ。そう信じている。

 さて、仏教徒であるからには一つの逃れることのできない疑問を持つ。それは次の一言である。

『悟りとは何か?』


☆悟りの探求

 釈迦入滅後、悟りに至ったとされる人間はほぼ皆無であり、何よりも悟りというものを説明している文献がない。悟りというものを少しでも説明している者もいない。挙句の果てに出てくるのは『悟りとは言葉にできないもの』という言葉である。
 阿頼耶識や末那識などの人間の深層意識の停止こそが悟りと見なす者もいる。
 ただただ座って考えることのみが悟りに繋がると考える者もいる。
 挙句の果てには悟りは覚った者からのテレパシーでのみ伝えることができるなどと主張する者まで出る始末である。
 どの説明も言い訳に過ぎない。心にも理性にも響かないのだ。どの論もちょっと考えるだけで無数の矛盾が噴き出してしまう。

 悟りとは本当にそのようなものなのだろうか?

 悟りそのものは分からないが、悟りを得た者の特徴は誰でも知っている。それは次のようなものである。

1)欲がない。多少の食欲吸睡欲ぐらいは見せるが、物欲などはない。
 現にお釈迦様の時代の托鉢修行者の戒律は厳しい。それは次のようなものである。
 ・一つの軒先にて長く留まってはいけない。
 ・軒先にて家の者に声をかけてはいけない。(催促の禁止)
 ・毎日決まった時間に行き、決まった時間に帰る。何も貰えなければ空手で帰れ。
 ・貰った物が何であれ、不平を述べてはいけない。

 あるときジェータ太子と給孤独者スダッタが祇園精舎という広い一等地をお釈迦さまに寄進した。お釈迦さまはこれを断らずに受け取り、この場所を修行の総本部と決めた。そして自身はその場所を去り、二度とこの地に足を踏み入れなかった。
 この場合は過ぎたる贈り物に対しても不平を述べず受け取り、なおかつそれに執着していないという行動を両立させている。実にエレガントな解決方法だ。
 まさに欲に対して一顧だにしない。現代の腐れ坊主どもにも見せてやりたいものである。

 このように悟りを得た者は一切に執着しない。

2)感情を荒ぶらない。
 物事に目くじらを立てない。怒らない。悔しがらない。楽しみを求めない。
 同じく釈尊は信者より頂いた毒キノコに当たって死ぬときも、その信者を責めてはならない。彼は私の解放者なのだからと説いている。

3)世俗に関わらない。
 様々な物事から離れて独り生きることが多い。
 釈尊は生れたばかりの自分の子を王宮に置いて出家し、後にその子も成人して後に弟子入りしている。特別扱いとならぬように、この子は常に便所で寝起きすりょうにした。

 まさに徹底している。
 だがこれだけでは悟りの糸口にしかならない。いったい何があればこのように我欲や執着を捨てることができるのだろうか?


 阿含経経典群の中には鳥獣経というものがある。
 ある日釈尊の教団の幹部の一人が弟子を連れて道を歩いていると、向こうから幽霊が一人宙を浮いてきた。その幽霊の周囲を無数の鳥が飛び回り、幽霊の肉をついばんでいた。
 それを見た幹部は微笑んだという。
 後に付いてきていた弟子があのときどうして微笑んだのかと聞くと、あれは生前多くの鳥獣を遊びで殺してきた男なのだ。その業が重くて、地獄の罰としてああやって鳥についばまれているのだと説明したという。
 釈尊の十大弟子はすべて悟りを得ているので当然この幹部も悟っているのだが、たとえ悪者が罪の報いを受けているとしても、他人の苦しむ姿を見て微笑むというのは、果たして悟りを得た者の正しい姿なのだろうかと疑問に思ったことがある。例えそれが因果応報の果てだとしてもだ。
 これが悟りだとしたら悟りとはいったい何なのだろう。


☆悟りの原点へ

 そこで私はまず悟れる者、釈尊の言葉を追った。
 まず疑うべき常識は釈尊が悟りを残していないという主張だ。

 阿含経に曰く。釈尊が悟りを得た時にそのまま涅槃に入ろうとしたが、この世にはまだ悟りを得ていない者が多く、それらに悟りを与えるためにこの世に留まったとある。
 そんなお方が悟りを誰にも伝えないということがあるだろうか?
 また釈尊は対機説法の名人として知られる。対機説法とはどのような教えも相手の状況に即して実に分かりやすい例えで説明する話法のことだ。そのような人が何の表現もせずに、何の説明もせずに、悟りの教えを放置することがあろうか。

 いや、あるはずがない。

 では悟りを伝えるとはどのようなものであろうか?
 これも阿含経に曰く。釈尊は次のように言われた。ハスの蕾がある。まだ水面に達していないハスの蕾は如何にしても開かぬ。水面から出たハスの蕾は放っておいても自分で開く。水面すれすれのハスの蕾はつついてやれば開く。悟りもそのようなもので、まだ悟るべき段階に達していない者は教えても花は開かぬ。悟るべき段階に達した者は自ら花開く。自分が教えるのは水面すれすれのハスの蕾。教えれば花開く者たちである。
 重要なのはここだ。つまり悟りとは教えれば伝わるものとして説かれている。

 これらを考え合わせると、一つの重要な示唆へとたどり着く。釈尊は必ずやその教えを残している。それもごく普通に伝わっている教えの中にだ。だがそれでも我々に悟りが分からないのは、それがまだ悟る段階に至っていない者には分からない形で埋まっているからなのだ。

 そこで釈尊の言葉をまとめるとそれほど数は多くない。
 五蘊盛苦 人は苦の器である。
 苦集滅道 苦を滅する道がある。
 故にこの世は地獄である。

 ここにこそ秘密がある。
 そのとき私にはすべてが分かった。



☆悟りとは

 悟りとは一つの簡単な知識である。
 それはわずか一行に満たない言葉である。
 だがそれは非常に誤解されやすい。百人が聞けばまず百人が誤解する言葉なのである。

 悟りとは次の言葉に集約される。

  【この世は地獄である】

 ここまで読まれた方はこの言葉の意味をすでに誤解している。
 この言葉は比喩でも、暗喩でもない。そのものスバリ、一切飾らない言葉なのである。
 捕捉しよう。

  【我々はすでに現世を生き罪を犯した後、魂となりこの地獄に堕とされて転生した。
   ここは現世のフリをした地獄である】

 これが悟りだ。


☆補足

 悟りを得た者は欲を持たぬ。地獄で名声を得て何になろう。地獄に豪邸を建てて何になろう。地獄に財物を蓄えて何になろう。すべて重しとなりてこの地獄からますます抜けられなくなるだけだ。多くのものを背負えば背負うほど地獄に深く結びつけられる。
 かの釈尊の弟子が責め苦を受けながら地上を彷徨う幽霊を見て微笑んだのは、その罪の報いを受けて地獄に居るはずの幽霊がこの世界にいることこそが、ここが地獄であることの疑いようのない証明だったからなのだ。その覚者は自分の悟りが間違っていないことを知って微笑んだのだ。

 我々の大多数が、自分は罪人ではないかという意識を生まれながらにして持っているのもこれが理由だ。キリスト教ではこの共通の感覚を原罪と呼び、それは最初の人類であるアダムとイブが神を裏切ったためだと説く。だがその真相は我々が実際に罪人だからという理由なのだと私は思う。

 だがここが地獄ならば、地獄に居るはずの鬼はどこにいる?
 いるのだ。たくさん。人間は囚人であると同時に看守でもある。人間自身が鬼となり、他の人間に責め苦を与えている。この世に生きて、他人に虐められることのなかった人間は皆無と言ってよい。
 さらには債鬼のような抽象的な鬼ではなく、本物の鬼までこの世にはいる。
 かって私の額に角が生えかけたのがその良い証拠だ。(この話は黒の書庫に記載してある)

 この世で苦しい思いばかりしてきた人間は、この言葉を聞かなくてもやがては分かる。真にこの世は地獄なりと。それが水面より突き出たハスの蕾の人々である。
 そして、そうではないかと思っていた人間は、この言葉を聞いて理解する。真にこの世は地獄なりと。それが水面に顔を出したばかりのハスの蕾の人々である。
 残りの多くの人間はこの言葉を聞いても鼻で笑う。そんなことはあるものかと。決して悟れない人々。それが水面に達していないハスの蕾の人々である。

 だけどこの世には楽しいことはいくらでもある。地獄に快楽があるのかと、そういう反論もある。だが地獄というのは基本的に刑務所のようなものだ。罪を犯した者を閉じ込めておくための場所。
 刑務所が囚人に飯を食わさなかったら、囚人たちはどうするだろう?
 その通り。一斉に脱走する。だからこそ、この世には一瞬だけとはいえ快楽が用意されている。

 我らの魂が入り込んだ人間の体は囚人服だ。暑さ寒さで死にそうになり、軽い傷でも酷く痛み、膿む。全身の穴という穴から血と膿を噴き出す肉袋。それがこの囚人服なのだ。
 腹が減ればすぐに人は人を食う。人を食わずに自ら死を選ぶことさえできないのだ。この囚人服は。生存本能という鎖につながれて、ありとあらゆる惨めな行動を人に強要する。

 我われが棲まされているこの世界は決して完璧な世界ではない。実は相当いい加減な出来なのである。
 物理学には解の跳躍と呼ばれる現象がある。
 火薬の爆発時などに空気の特性が音速境界で急激に変化する。このときエネルギー密度を計算すると方程式が切り替わる境界で一瞬無限大の値になる瞬間がある。この瞬間を観測してると、何も観測できない瞬間がある。物理学上では観測できないものは存在しないと判断してよい。
 つまるところ、都合が悪くなる瞬間、この世界は現実を消失させるのだ。世界というものは隙間なく連続していて完璧な構造を保っているものではなく、むしろいパッチワークのように様々な法則を綴り合せて作られているのだ。
 刑務所が疑似的な社会を構成しているように、この世界もまた偽物と言ってもよい安普請な法則で作られているのだ。
 ここは現世のフリをしている地獄という名の刑務所なのである。


☆最後に

  「この世は地獄なり」

 釈尊はただこの言葉を残し、後の者への礎とした。
 私はこの解釈を残し、私が見たものを幾分でも伝える。

  「我らはすでにここ、現世のフリをした地獄に堕ちている」