日々これ怪異銘板

日々これ怪異 死神

 末期ガンによる母の死が確定したとき、一切の抵抗はムダと悟った。人間何をしても最後は死ぬ。ガンで死ななかったとしても、母はもう老人だ。どのみち長くは生きられはしない。
 老人の体は悲惨なものだ。メトセラ遺伝子を持たない限り、老化は全身の衰弱と絶え間ない炎症という形で現れる。痛くて辛い部分が日増しに増えていくようになる。
 だがそれでもできる限りの抵抗はする。医者には考えられる限りの医療行為をしてもらい、少しでも苦しみを減らせるようにアロマオイルを調合し素人治療を行う。死神が近寄れないように部屋中に独自仕様の結界を張り巡らせる。
 最後の行為だけ普通の人とは異なる部分だが、まあ物は試しである。どんな状況でも考察と実験と観察はきっと役に立つ。

 スティーブン・キングのホラー短編作品に死神の役割を負わされた人間の話がある。
 主人公は人の命を刈り取る役を背負わされ、ある日その刈り取るべき対象の中に自分の妻と子供たちを見つける。わざとそれらを見逃して家に帰ると、妻と子供たちは昏睡状態になっている。
 それが長く続き、ついに主人公は妻と子供を刈り取ることにする。そんな結末だった。

 同じことが起きた。
 母は普通に生きてはいるが、何も喋らなくなり、毎日を痛み止めの朦朧とした夢の中に埋没するようになった。水も飲まないので当の昔に死んでいないといけないはずなのに、死ななかった。往診に来た医者は腹水が思いのほかに溜まっていたのでしょうと説明した。
 結界を解く勇気はなかった。だがいつかは結界を解かねばならない。それもそう遠くないうちに。

 そんなある日、外出から戻りマンションのエレベータに乗ると、奇妙な寒気に襲われた。背中全体がぞくりと冷たい。そんな季節では無かったので、これはたちの悪い風邪でも引いたのかと思った。自分には寝たきり病人の看病という責任があるのだ。ここで風邪を引くのはまずい。
 すると奇妙なことに冷たさの感覚が縮んだ。それは背中全体から、どんどん小さくなると綺麗な円の形にまとまった。冷たい円が背中の中心、肩甲骨の下、心臓の裏側に張り付いている。手を回してもちょうど届かぬ辺りにだ。
 ああ、と思った。この冷気の塊は何かの怪異だ。背中のこの部分は自分ではどうやっても手を出せない場所、つまり人体の死角、いわば鬼門に当たる場所だ。
 冷たさの度合いから、それの強さが伺い知れる。形の正確さからいかに力を凝縮させているのかも判別できる。冷たさの縁がまったくぶれないのは相当高度な技術を持っている霊だということを示している。

 死神だ、と思った。
 部屋に結界が張ってあるので、こちらの背中に張り付いて、結界の隙間を抜けようとしている。
 しばし躊躇った後、ドアを開けて家に入った。

 延命処置はするなと母に言われている。ただ苦しまないようにだけしておくれと。
 医療的にも、オカルト的にも。だから延命法も行わなかった。
 それでも自分にできることをしようと結界を張ったのだが、それも許されないことと判ってはいた。

 どのみち、どれだけ強い結界を張ろうとも人の寿命は変えられない。多少は延ばすことができてもそこまでだ。人が死ぬのは生きているからで、生きているからには死から逃れることはできはしない。
 それに死神となると霊の中でもかなりの高位に当たる。その気になれば素人の張った結界など簡単に突破することができる。わざわざこんな回りくどい方法を使って来たのは、この家の主に敬意を払ってのことなのだ。

 礼には礼をもって返す。
 さあ、おはいりなさい。心の中で唱えながらドアを開ける。
 殺すなら、どうか優しく殺しておくれ。