日々これ怪異銘板

日々これ怪異 啓蟄

「最近うるさくてかなわんのです」
 サトさんが電話の向こうで言った。

 サトさんはいわゆる見える人である。それも相当強い方で色々見えるし聞こえるのだが、そのことは本当に信用した相手にしか言わない。
 自分でもいろいろ見えるのは心の病ではないかと恐れている所がある。だが、見たものがいろいろと符合してしまうので、周囲が青ざめることがある。
 彼は肝臓ガンであった。4Bに進行してからすでに十年生きている。普通なら余命一か月がそれである。彼はあらゆる医学の常識を覆しながら生きている。
 半分死の世界に足を踏み入れているというのがその能力の強烈さの原因なのかもしれない。

 長い間芸能関係で生きて来た人だが、肝臓ガンで死が確定したとき、京都の実家に帰って小料理屋を開いて残りの時間を過ごすことに決めた。
 ところが京都と言う土地柄の特殊性のためか、帰った実家で様々な怪異を見るようになった。

 ある時、電話の向こうで言ったのはこうだ。
「天井に張り付いた形で、顔が中年のおじさんで体が亀の化け物が出るんです。でも声は少女の声で、こう言うんです。『あたし本当は中学生の女の子なの。交通事故にあって死んだらこうなっていたの』」
 ああ、とそれを聞きながら思った。きっとそれはどこか近くに、陰陽道で使用される式神の道具があるんだ。その道具に手近にいた女子中学生の浮遊霊を押し込んだから、そういうものが出来上がったな。実は式神の作成方法の一つがそういうものなのだ。
 さすが京都、変な邪法には事欠かない。そしてそういう術を使う邪法師もたくさんいるのだろう。

 妙な所で感心してしまった。

 どのみち、こちらには関わりなきことなので、手は出さないし、手は出せない。暴力団が関わる事件に一般人が手を出せないのと同じことだ。
 たった一つしかない命を賭けるのは、自分の家族を狙われたときだけでよい。

 他にも、人間の体に犬の頭のついたものが向うの部屋のふすまの影から見ていたりなど、彼の報告は怖いことテンコ盛りだが、これらもできる限り関わらないようにする。
 是非とも一度こちらに来て、半分ぐらい持って帰ってくれ、と言われているが、丁寧にお断りしている。

 私はお祓い師じゃないんだけどね。困ったものだ。
 お祓いなんかやってたら命がいくつあっても足りん。


 そんなサトさんが電話で愚痴っている。この人の携帯電話には常に強烈なノイズがばりばりに入る。
「本当、うるさくて叶わんのです」

 夜になると、黒い人影が窓ガラスに映る。そして窓の外からジージーという音が聞こえ始めるというのだ。続いて、頭の中に声がするようになる。
 俺たちのボスになってくれ。声はそう繰り返す。
「ボス?」一瞬話についていけなくなった。
「ボスです」
 妖しい者たちのボスになってくれとは、どういうことだろう?
「窓開けてうるさいと怒鳴っていいものですかね?」
「止めておきなさい。そういうのは聞こえない振りが一番」
 締め切った部屋はそれだけで弱いが一種の結界だ。窓を開ければ、当然、やつらは入って来る。返事をするのもダメだ。道が広がってしまう。
 押し黙り無視することが大事なこともある。

 しばらく経つと、また電話が掛かって来た。
「近頃はもうひどいんです」
 春が近くなってから、窓に映る人影が増えたらしい。声も大きくなるし、人数も増えるわで、うるさくて寝られないそうだ。病気の体には相当堪えるらしい。
 春になると増えるって、と絶句した。確かに季節では啓蟄だ。啓蟄とは、冬の間眠っていた虫が目覚めて土中より這い出るという意味だけど、まさか幽霊も増えるとは思わなかった。
「窓開けて怒鳴っていいですかね?」
「止めておきなさい。無視するのが一番」
 何となくデジャブだ。

 またしばらく経って、サトさんから電話が掛かって来た。開口一番。
「話し合ってみました」
 あらら。ついに開けちゃったのね。
「わかって貰えました。もう出ないって」
 へええ。
「ゴキブリでした」
 とんでもないことを言い出した。

 声と影の主は隣家を根城とするゴキブリたちだったらしい。
 はああ、と呆れた。見える人だとは知っていたが、虫の声まで聞こえるほどのレベルだとは思いもしなかった。

「ボスも何もうちは飲食店業だから、毎月ダスキンの害虫駆除が来るし、お前ら死ぬぞって言ったら諦めました」

 それを聞きながら、ゴキブリが知性を持つメカニズムを考える。昆虫が持つ梯子状神経組織は少ない神経線維で意外に効率が良い運動機能を実現している。
 だが、害虫駆除という概念を処理するには足りないのではないか?
 ゴキブリに人間をボスとするという概念が処理できるのだろうか?
 いや、最近では昆虫の見せる意識に関する研究が報告されていたな。もしかしたら可能なのだろうか?
 それともやはり憑依現象なのだろうか?
 あるいはこれらは、ゴキブリの形態を持った何か別のものなのか?
 京都という場所は特殊で、極めて妖怪が生まれやすい土地柄なのだろうか?
 集合型知性という可能性も残る。声が聞こえる前に流れる音は何らかの音域コミュニケーション機能の存在を示唆しているのか?
 人類が今までに発見した生物は地球上に生息していると推測される生物の十万分の一
にも達していない。何かまだ高度な知性を保持できるような生物が未発見のままということもあり得る。

 何にせよ、我が家に持ち帰らなくてよかった。
 私はゴキブリが大嫌いである。