来るべきもの銘板

来るべきもの 出られない家

 タロットカードに関わる思い出はいくつもある。これが占いの本ならば体験談としてどのように当たったかをつらつらと書き綴るものだが、占理占機をきちんと踏まえれば誰でも九割は当たるものだから敢えて書かない。ここの読者が期待しているのは自慢話ではなく、別のものであるから。
 今まで占った中で興味深いものを挙げる。まずは家編。

 母の会社の同僚が家を買うことになった。掘り出し物だ。
 そう言えば、あんたの所の息子さん、占いができたよね。占ってくれないか?
 そう声を掛けられた。

 休日に来て貰って、ざっと占ってみた。結果は小アルカナの棒の四。「ゴール」を意味するカードである。
「この家がゴールである」
 そういう意味になる。実に期待させるような結果である。
 もう少し、追加の条件を追跡してみた。前提条件を変え、補助で出したカードの反応を見ると、少しだけ文言が変化した。
「この家はゴール。入ることはできても、出ることはできない」
 なるほどそういうことか。占った通りに相手に伝える。
「ほう、そんなに良い家ですか!」
 相手の目が輝いた。
「いや、文字通りの意味です。良い家とは言ってません。入ることはできるけど、出ることはできない家です」
 そう指摘した。

 カードはお告げを告げる。
 よく当たるお告げほど、手遅れになるまで解けないもしくは誤解される表現を出す。なぜならば来るべき未来を分かりやすく表現すると相談者はそれに反する行動を行うから。例えば未来の事故を予言するとそれを避けようと努力し、結果としてそのお告げは当たらなくなる。その逆に例えば受験に成功することを告げると安心して受験勉強の手を抜き、結果として受験に落ちてしまう。つまりは当たる占いとは当たるけど避けられなかったという形に自分を形成してしまう癖がある。
 占い師の本当の仕事は、占いの素人であるお客さんのために、見逃してはならない大事な部分を明確にすること。

 しばらく経ってから母から続報が入った。
「例の家を買うのは止めたそうだよ」
 欲しかったのは、新しい家を見つけるまでの間の住み替えとしての家だったらしい。良い物件を見つけたら、この家を売って必要なお金の補填に充てる。だからこそ、出られない家では困るのだ。
 念のため、その辺りに詳しい営業に話を聞いてみたそうだ。母が勤めているのは道路舗装の会社だから、その手の情報に詳しい人間は必ず居る。
 こう言われたそうだ。
「バカ! あの辺りは水道が通っておらんぞ」
 給水方式には天水を使っていると言う。雨水を一度貯水槽に貯め、付近に供給する方式だ。水道が通っていない所に住むにはこういうものを使うしかないが、日照りが続いたりすると、非常に厄介なことになる。洗濯一つするのでも、注意して水を使う必要がある。
「だから、買うはいいが、売れんぞ。あの辺りは一度入ったら死ぬまで住み続けるしかない」
 お礼の言葉をよく言っておいてくれと言われたそうだ。


 家にまつわる因縁で良く聞くのが、入ると死ぬ家である。そこまではいかなくても、入ると病気になる家というのは幾つか占った。そこに入ると、家族の中で一番年を取ったものが寝たきりになり、患った末に死ぬ。次は家族の中で次の年寄りが同じことになる。それを延々と繰り返す。
 こういった家は入る方も判るのか、なかなか入居者が出ない。本能的に避けるのだ。このことからも、霊感の無いと言われている人でも、根本的なところでは、みな霊能力者なのだと判る。たとえ霊が見えなくても、雰囲気が判れば十分なのだ。
 それでも悪い家に引き寄せられる人は因縁に引かれると表現するべきである。そう言った負の要素を持った家は、明るい昼の陽射しの中でもうす暗く感じるのだが、運命に引き寄せられている人はそれを感じなくなるものなのだ。

 だが、これとはまったく逆の家もある。明るいのだ。

 その家は、明るく、清潔で、広く、豪華で、まさに理想の家だった。小高い丘の頂上に立つ、立派で綺麗な築浅の格安物件。
 スマホの画面の中に写された部屋の数々は煌いていた。広く取られたサッシ窓から、明るいというより輝いているという表現がぴったりの惜しげもない陽射しが注がれている。
 相談者の家族すべてが乗り気の一言である。
 これは決着がついたな。そう思いながら占ってみる。本来、占う者には先入観は禁物であるが、これを見て反対する者はいない・・はずであった。
 カードの結果は次のようなものであった。

「ここは輝ける場所。神の座なり」

 駄目だ。がっくり来た。こんな場所に住めるものか。普通の人間が。
 小高い山の中を新たに開発し、その頂上に家を作った。本来そこは、神社か何かができるべき場所。神の座とはそういうこと。もしかしたらこの場所には小さな無人の祠ぐらいはあったのかも知れない。あるいは大きなご神木なんかが。
 家の中央には大部屋が設えてある。もしかしたらここでは何らかの小さな宗教の会が開かれていたのかも知れない。
 なるほど明るく見えるのも道理。幽霊が巣くった場所が暗く見えるのとは逆で、神が巣くった場所は明るく見えるのだ。

 だが、そのどちらも、普通の人間には命取りになる。

 暗い場所では命が枯渇して死に果てる。
 明るい場所では絶好調の中で干からびて死ぬ。
 明暗の違いこそあれ、人間というものは極端な場所では生きられない。
 金魚鉢を日向に置きっぱなしにするとどうなるか?
 煮えて死ぬのである。

「先生ならここに住みますか?」話を聞いた後に相談者に問われた。
「私なら住みますけどね」うかと答えてしまった。

 勘違いされたのかもしれない。神の力を浴びて枯れ果てないほど強いと言いたかったのではない。そんなことができるならば、お祓い屋でも何でもやって金にしている。私なら住むというのは、自分には女房子供もいないし、歳を取って生きている意味も無い、だからどこで死んでも誰も困らないからここに住む、という意味だ。
 死ぬこと前提で住むには良い場所ということだ。恐らくここで死ぬと、腐乱死体の代わりに綺麗なミイラが出来上がる。そんな場所だ。
 それとも死ぬなら明るい場所よりも、やはり暗闇の中こそが正しいのだろうか?
 結局、相談者は手を引いた。まだこの場所には借り手がついていないらしい。