業が渦巻く怪談銘板

業が渦巻く:子狐

 相談者の一人にチョウさんという人がいた。
 この人の職業は私娼窟。つまり組織に属さず自分一人で売春をやっている女の人に部屋を提供するのである。売春そのものにはタッチせず、部屋代がそのまま儲けとなる仕事であった。彼女が商売をしていたのは原爆スラムと呼ばれた場所で、川の上に張り出すように建てられた建物である。川は国が管理する誰の土地でもないのでこうすると土地代がかからない。そのため戦後からしばらくの間はこのような無茶な場所が存在したのである。
 戦後すぐから始めて昭和の終わり頃までその商売を続け、つい先日、寄る年波には勝てずにこの商売を止めた。
 ところがそれからが問題で、今は閉めた私娼窟に様々な怪異が起きるようになった。もちろんこの人も教団の会員なので教団の幹部に相談までしたのだが、結局何も解決せずに今に至る。人づてに良い人がいると聞き、母の下に相談に来たのだ。
 教団内部はやれ先祖供養だうん十万円、やれ伝法会だうん十万円と、金の話ばかりであったが、一部にはきわめて真面目に人々の苦悩を救おうと頑張る人々がいた。そういった人々は他と離れてグループを作り、仏教の勉強会などを独自で行っていた。母もその中の一人である。
 この手のグループは金集めを至上とする教団にとっては邪魔ものでしかなく、ためにひどく睨まれているので活動はごくごく密に行われていた。教団に相談しても金をタカリ取られるばかりで埒が明かない場合などに、よく渡りをつけて人が相談にきていたのを覚えている。

「それでね、何とかならないかとの話だったんだよ」
 母が聞いた話を、当時離れて暮らしていた私が電話で又聞きする。私の方が母よりオカルト知識が豊富なのだ。
 ふと思いついた。
「その商売やってるときに何か神様祭っていなかった?」
 聞いてみると、おキツネ様を祭っていた。この手の人が集まる商売をする者は、おキツネ様を祭ることが多い。おキツネ様には人寄せの力があるのだ。
 ああ、これはお礼参りだな、と思った。チョウさんはお礼参りをしていないのだ。

 お礼参りとは、現代ではヤクザが密告した人間などに報復することを言うが、語源は神様の力を借りた人間が、願いが叶ったときに神社にお礼に参拝することを示す。
 日本人はサンタクロースと神様の区別がついていない人が多いが、神様というものは慈善事業をしているわけではない。むしろ感覚的には高利貸しに近い。日頃から信心を要求し、色々なものを吸い上げる。その代わりいざという時にほんのわずかだけ助けてくれる。それが神様のやり口なのだ。
 これはキリスト教でも同じで、キリスト教では神と人間の契約という概念を使う。ヤーウェの神に命を捧げ、その代わりに天国での生活を得る。青空に虹がかかる限り神と人の契約は有効だ、というような言い方をする。
 神の世界にも慈善事業はない。何という世知辛い世界。しかし、厳しく取り立てを行わない神は、最後には力を失い消えることになるから仕方ない。逆に言うと、現代まで生き残っている神々はどれも計算高い。そろばん一つ弾けないで神様は勤まらないのである。

 チョウさんの問題もその口だ。今まで散々、おキツネ様に頼んで人寄せしてもらっておいて、その後は仕事辞めたから知りませんでは、おキツネ様も怒るのは当然である。ただし長い間の付き合いがあるから、いきなり命は取らずに、警告の意味で怪異を起こしているのだ。
 おキツネ様は群れなす神だが、その中心にいるのはダキニ天と呼ばれる恐ろしい存在だ。その本体は人を喰うキツネ、いわゆる九尾のキツネだ。日本では民間に深く根付いているので、基本的には人慣れしている。つまりその性格が丸くなっているのだが、怒らせると本性が出て来る。
 特にダキニ系のお狐さまは、現世で言うと任侠組織に相当する。頼めば力を貸してくれるが、怒ると平然と命を奪いにくる。
 もちろん、実際の所、一口におキツネ様とは言っても、稲荷明神から始まって、豊穣神ウカノミタマから、地域のオサキキツネに野狐まで、神格も神性も様々に異なる。すべて一括りにできるものではないが、怒らせればどの神様も危険の一言に収束する。
 解決策はただ一つ、おキツネ様が満足するまでお礼参りをすればよいということだ。別に無茶を言って来るわけではない。お世話になった所に油揚げを毎日備えて感謝の意を示せばよいのだ。それをおキツネ様がもう良いというまで続ければよい。まあ、大概そのもういいまでが数年から数十年かかるのが普通なのだが、長い間お世話になったお返しなのだから、文句を言える筋合いではない。

 魔術の類は行うのは簡単だ。街金でお金を借りるほどに簡単だ。問題は支払いが必ずあるということ。しかし街金よりはまだマシなはずだ。そもそも油揚げでも饅頭でも、そう高いものではない。神に対する誠意さえあればできるはずだ。

 ただし、ここに至っては話はそう単純ではない。

 今述べたようなやり方が通用するのは、怒る前のおキツネ様に対してであり、すでにこのおキツネ様は少しだけど怒っている。
 ここで重要なのは、生きている人間にやるように、神様にも接することである。本来ならば、神様に対しては人間よりも深い礼儀を見せねばならないのだが、現代人にはその感覚が欠落しているのだからしかたない。
 相手が怒っているのならば、平身低頭謝り倒すか、あるいは間に仲裁してくれる目上の人を入れるのがよい。相手がかなり怒っている場合は、謝りに神社に参った時点で、お前ちょっと命置いてけ、になりかねない。
 この場合は、相手のおキツネ様より霊格の高い神様を間に入れるのが良いと判断した。一口におキツネ様と言っても、社長会長クラスから平社員まで色んな階層がある。相手のクラスが判断つかないし、調べている間に時が経つのが一番まずい。
「ええっと、広島で霊格の高い神様ってどこだっけ?」
 調べるべえ、と腰を上げかけた。
「シラさんはどうかね」と母。
 ああ、それはいい。

 シラ神社は広島の三角州の上に突き出た岩礁をご神体にした神様である。かっては海の上にあったそうだが、都市の開発につれ、陸地に社が出来ることになった。やや小ぶりだが由緒正しい神社である。少なくとも、おキツネ様が渡来するよりも前から居た石神様である。
 さらにつけ加えるならば、このご神体である岩は広島という三角州全体が載る岩盤の頂点が突き出たものである。いわば地中の大山脈が神の本体であり、見た目は地味ながら、中国地方では最強の石神と言っても過言ではない存在なのだ。
 仲裁役にはちょっと大物すぎるかもな。そうは思った。

 しかしここで大事なのはシラ神様が石神ということだ。
 今回の発端はチョウさんがすべて悪い。さんざん神様を利用しておいて何のお礼もしていないのだから、本来言い訳ができるような状況ではない。神様が怒るのは当然である。その怒りを、またもや人間側の都合でしばし収めてもらおうというのだ。
 横車を押すとはこの事だ。

 神様だからと言って、人間の願いを必ず聞いてくれるわけではない。いや、お願いなんか聞いてくれないのが普通だ。
 想像してみよう。ある日見知らぬ人が訪ねて来て、ご近所にお住まいのヤクザに絡まれて困っております、私の代わりにそのヤクザを諫めてください、と言われたとする。あなたはこれを引き受けますか?
 引き受けるわけがない。何の係累もない他人の図々しい頼みなど、聞く時間さえ勿体ない。
 神様も同じだ。信者でもない、信仰深くもない、善人でもない見知らぬ人間の身勝手な頼みなど、聞いてくれるわけがない。ましてや、今回悪いのは完全に人間側だ。
 まともな神様ならこんな頼みは聞かない。理が通らないからだ。少なくとも、恩讐を感じる生物ならば。
 蛇神は聞いてくれないだろう。狐神も。生物を基礎として神格化した神様は、元の生物の性質を多少なりとも引き継ぐ。だからこそ生き物をシンボルとして持つ神様は、こういった自分に一方的に損になるような頼みは引き受けない。
 だが石神は違う。思考も存在の基礎も異なる神様だから、もしやこのような虫のよい頼みも引き受けてくれるかもしれない。
 そう考えたのだ。
 日本はかって蛇神全盛期の時期があったと聞く。だが蛇神は当然ながらイケニエを要求する。それは彼らの感性に沿った行動であり当たり前の取引だったのだが、人間側はこれに耐えられなかった。そして石神の時代が来た。石を釘にして要石となし、蛇神の頭と尻尾に打ち込む。そうして蛇神を封じていった。後世、この蛇神の伝説はナマズへとすり替わる。
 もちろん、石神は石神で、それ自体の思考があり、それ自体の損得で動く。もしかしたら石神と取引をした人間は気づかずに何か大事なものを失っているのかもしれない。
 それでも頼らざるを得ない。
 霊能力を持つ人間でも神霊には対抗できない。ましてや普通の人間は怪奇現象には手を打つすべがないのだから。


 幸い、シラ神社の神主さんを知っている人が見つかり、話がついた。
 当時シラ神社の神主をしていた人は本業が高校の教師であった。この手の小さな神社では専任の宮司を養うことができるほどの収入がないため、本業は他に持ち、半ばボランティアで神主をしているケースが多々ある。最強の石神さまでも別に人間にモテたいとは思っていなければ小さな社で満足してしまう。この辺りが生物とは異なる思考を持つ石神の所以である。
 だが神主は兼業とは言え、決して片手間ではない。むしろ神主の方が本業で、あくまで糊口をしのぐために別の職業をやっているという方が正しいのかもしれない。都会の真ん中にある大きな人気の神社の多くが、神気一つ感じさせない俗物神社と化してしまっているのとは異なり、小規模の神社で荒れ果てていない所はまだ神が御坐します所としての資格を失ってはいない。日本という場所にはこのような由来古き神道が密かに息づき、神様の真の居場所を守っているのである。
 神主さんはまだ若い人であったが良くできた人で、事情を聞くと快く引き受けてくれた。
「私は毎朝四時に神社に来ておりますので、支度のできる朝の六時に来てくださいますか?」
 毎日、一日も欠かさずその時間に来て神社の清掃を行い、神様への供物を整え、相談者の相手をして、それから高校に行って生徒を教えるのだ。話を聞くだけで頭が下がる思いとなる。何年も何十年も後継者が見つかるまで、雨の日も風の日も、台風の日でさえも、一日としてこのお勤めを休むことはできない。まさに修行者の鑑である。もちろん、後継者など簡単には見つからないので、死ぬまで続く苦行となる。
 近年、私は霊の存在を信じません、などとテレビで豪語する神主などが大きな顔をしているが、神霊としての神を否定する神主がいる神社に神が降臨することはない。それに比べてこの神主さんはまさに正しい道を歩いている。やはりシラ神社は凄いな、と思った。

「というわけで明日行ってくるわ」と電話の向こうで母が言う。
「話が収まりそうでよかった」と私。
「でもいいね? チョウさんによく言っといてよ。今度神様とする約束は絶対に破れないからね。破ったら命落とすよ。神様との約束は二度も破れないからね」

 これは人間に例えてみれば判ると思う。偉い人に仲裁に入って事を収めてもらっておいて、また裏切ったら、顔を潰した相手は二人に増える上に、もう二度と誰も仲裁に入らなくなる。救う手段が無くなってしまうのだ。

 今にして思えば、わざわざそのようなセリフをつけたのは、これから先に起こることが薄々予想できたからかも知れない。


 しばらく経ってから、また母から電話がかかってきた。
「チョウさんがやらかしたよ」

 シラ神社に間に入って貰って、チョウさんの周辺の怪異は収まった。
 配下で世話を続けてくれる神主の頼みをシラ神さまはあっさりと受け入れてくれたのだ。何の見返りも求めずに。
 その代わりに毎朝六時に起きて神社に挨拶に行くという行を課せられた。お礼参りだ。これをもう良いという霊示があるまで続けなくてはいけない。
 チョウさんはすぐにこれが億劫になった。元々が夜型の人間だし、きちんと筋を通す人間でもなかった。
 何とかもっと楽なことで済ませられないかと画策した。例えば神社のお賽銭箱に十円玉を放り込んでそれですべてを終わりにするとかだ。
 答えは簡単そうに見えた。それでいいんだよ、と太鼓判を押してくれる人を見つければいい。お花畑の脳みそはそう考えた。
 そうして周囲に今回の顛末を話しだした。それが教団の幹部の耳に入り、こう言われた。
「せっかく仏とのご縁ができて悪いモノとの縁が切れたのに、それを繋ぐとは何事か! ただちに止めい!」
 実に愚かな発言である。背景に何があるのかを調べもしないし考えもしない。
 縁が切れたも何も、切れていないから今まで怪異に遭って来たのだ。いったい何を言っているのやら。
 お礼参りもしない人間相手に、神様が貸しを取り立てるのを止めるわけもない。仏様だからこそ筋を違えるようなことはさせないものだ。
 だが、何でも易きに流れる人間はその道理が判らない。あれほど釘を刺しておいたにも関わらず、チョウさんはお礼参りを即座に止めた。
 喉元過ぎれば熱さを忘れるとは良く言ったものだ。チョウさんがここに至るまで、わずかに一週間。
 二度目の裏切りである。それも神様二柱。加えて、神主一人、人間一人をまとめて裏切った。


「それはまずい。ぐずぐずしている暇はない」
 私は顔色を変えた。電話で母に指示を出す。
 すぐに母一人でシラ神社に参り、神主さんに訳を話して、母だけでも謝りを入れろ。とんでも無い人を紹介してすみません、と。話の判る神様なら、それで何とか母だけは罰を食らうことからは逃れることができるだろう。
 何、いざとなれば私の命を差し出して、母の身代わりになればいいんだ。
 そう考えた。
 チョウさんのことは露とも考えなかった。こちらははもう助からない。それも自業自得というもの。


 さらに時間が経過して、また母から電話がかかって来た。
「この間、道場に行ってお勤めしてたんだよ」
 道場に設えられた祭壇を掃除し、並べられた供物を綺麗なものに変える。
 道場が綺麗になると、お線香を焚き、勤行を差し上げる。経本を開き読み上げる。
 背後で道場の扉が開き誰かが入って来る足音がした。その足音に続き、小さな足音が密やかに続く。最初の足音は大人の人間のもの。続く足音は子犬のもの。肉球と爪が床に当たる音でわかる。
 これには流石の母も腹を立てた。神聖な道場に犬を連れ込むとは、非常識にもほどがある。
 だが次の瞬間、ぞっとした。
 一匹や二匹ではきかない数の子犬の足音がドアを開けてどっと入って来たからだ。あまりの異常事態に母は後ろを振り返った。

 そこにはチョウさんがただ一人、所在無さげに立っている。周囲には子犬なんか影も形もない。

「ぞっとしたから、目を合わさないようにしてさっさと帰って来たんだけどねえ」と母は話を締めくくった。
 ああ。何が起きたか判った気がする。
「キツネの子供って子犬と見分けがつかないそうだね」

 子犬の足音じゃなくて子ギツネの足音。相手が目に見えない存在だから、なおさら区別がつけにくい。つまるところ、激怒したおキツネ様は、配下のお使いキツネたちをつけて、強制取り立てさせることにしたのだ。
 その先は母には言わなかった。

 なぜ子ギツネなのか?
 チョウさんを子ギツネたちのエサにするつもりなのだ。それも少しづつ。エサと言っても肉体を喰うわけではなく、霊体を喰うのだ。喰われた方は健康を害し、手足が謎の麻痺を起こし、最後は心臓麻痺で死ぬ。
 母に言えば、気の毒がって何とかしようとするだろう。そうなれば邪魔をされたおキツネ様の怒りの矛先がこちらに向きかねない。

 ここは何も言うまい。
 手を貸した。警告もした。わずか一週間の早起きに音をあげて、やるなと言っておいた神様との約束を破った。
 その結果、死ぬとしてもそれは自業自得以外の何物でもない。これで助かるわけもない。助ける道理もない。
 勇気を持って見捨てよう。

 それ以降チョウさんは道場に来なくなったし、どうなったかは不明である。