大正~昭和怪談銘板

第一話 蜘蛛の巣池にて

 今は亡き仁藤牧師は昭和初期に和歌山県に生きた人物である。医師を志してドイツに留学し、プロテスタントの牧師になって帰って来たという変わった経歴の持ち主である。

 その生涯はまさに信仰の人と言うべきものであった。


 こんなエピソードがある。

 抗生物質ペニシリンが開発されるまでは結核という病気は、若者が必ず通る死の試練であった。特に栄養状態が悪いときの結核の死亡率は恐ろしく高い。そのため第二次世界大戦中の日本では、一度結核が流行り始めると、周囲のものは病気が移ることを恐れ看病すらせずに放りだすことも多かった。
 そんな時代、女工たちが勤めていた工場での話。一人のうら若き女工が結核を発症した。古びた寮の一角に彼女は放置され、医者を呼ぶことはおろか食事すら届けられることなく死を待つだけとなった。
 その話を聞いた仁藤牧師は、寮の食堂にずかずかと入り込むと大鍋の底に残ったご飯粒をこそげ落としてお握りを作り、誰も寄り付かなくなった部屋に飛び込むとただ一人これを看病し、その死を看取った。
 その後しばらくはもしやと感染の疑いを恐れて、家族に移さないようにと一人隔離生活を送ることになった。

 さらにはこんなエピソードもある。
 日本軍主導で戦没者合同慰霊祭が行われた。寺社仏閣神社すべてにこれに参加せよとの声がかかった。仁藤牧師は呼ばれてもいないのにこれに飛び込み参加した。戦没者の中にはキリスト教の信者もいたはずであるという主張のもとに。
 これは大した行いではないように思う向きもあるかもしれないが、そうではない。
 第二次世界大戦中はカソリック・プロテスタントを問わず、キリスト教の司祭は敵国のスパイとして扱われていた。事実も捜査も何もない。キリスト教関係者は最初からスパイと断定されていたのである。そのため目立つ派閥から順に特高警察による逮捕と有罪宣告が行われていた。派閥の財産はすべて没収され、関係者はすべて収監されるのである。
 目立てば一番に狙われる。その点では現代のいじめの構図とまったく一緒であった。その中での暴挙である。
 案の定、この飛び入り参加から遠からずして仁藤牧師は特高警察に逮捕され、反逆罪で取り調べを受けることになった。取り調べに当たったのは先に行われた大本教弾圧で活躍した検事が当てられた。この取り調べの際に、仁藤牧師は丸ごと総て暗記していた聖書の語句を心の拠り所としてこの謂れの無い嫌疑と戦い、ついには無罪を勝ち取ることになった。当の検事はこれこそ真の信仰者であると太鼓判を押し、無罪として放免したのである。
 当時としてはこれは非常に稀有な事例であった。虚報の塊である大本営発表がそのまま通る時代なのである。国の言葉は絶対の権威を持っていた中での、これは小さな勝利であった。
 その責を取らされ、飛ぶ鳥を落とす勢いであった当の担当検事は僻地の任へと左遷されることになった。この検事もまた、己の正義を貫く傑物であった。


 まさに信仰の人。これはそんな仁藤牧師が遭遇した怪奇談である。


 その頃の仁藤牧師は週に一度、山奥にある村を訪れることを責務としていた。目的はそこで行うキリスト教の説話会である。
 日本という国の古い宗教組織は、戦争時の檀家制度が普及した時点から布教ということをしなくなっている。檀家制度とは、各宗派が檀家と呼ばれる決まった信徒を持つ制度であり、すべての国民はいずれかの宗派に属し檀家となることを要請された。これは国家の統制のための国民管理の一種である。
 檀家制度は各宗派に取ってもお互いの顧客を奪われなくなるという利点がある反面、宗教派閥間の教義のしのぎあいが行われなくなるという欠点もある。つまり、信仰の多様性やダイナミズムが奪われてしまうのである。だが、檀家制度の対象外となる新興宗教やマイナーな宗教ではそうもいかない。信者の獲得こそは第一義であった。
 特に、信者の絶対数が少ない日本のキリスト教においては切実な話である。何かと理由をつけて人を集め、キリスト教の説話を聞かせる。日本の宗教ではなかなか見られなくなった風景がそこにはあった。
 もちろんそのためには出張説話会もする。村々の大きな家を借りて説法を聞かせに行く。そこがどれだけ僻地であろうとも二本の脚に任せて訪れる。

 山奥の村の方も、仁藤牧師の訪れを心待ちにしていたと聞く。寺も神社も無い小さな村だ。娯楽と言えるものは一切無く、訪れる者すらも滅多にいない山村である。当時はテレビはまだ発明されてはおらず、ラジオも山奥では電波が届かない。そのような状況であるので、珍しいことは大歓迎である。
 仁藤牧師の説話会はいつも大盛況であった。

 だが、これが実は楽な話ではない。まだ車も珍しい時代、村との往復は自分の二本の脚に頼るしかない。朝早くに家である貧乏教会を出て山道を歩き、昼遅くに村に辿り着いて説話会を開く。そうすると、帰りはすでに深夜である。
 街灯一つ無い夜の山道を、頼りない提灯の灯り一つをお供にして、とぼとぼと歩いて帰るのである。夜の山道は、想像を絶するほど暗く、寂しい。さらに言えば、舗装さえされていない道路はまっすぐ歩くのさえままならぬ。途中の山には獣もいるし、もっと恐ろしいものもいる。
 さすがに村長は、自分の家に泊まり明日の朝に道が明るくなってから帰るがよい、と勧めてはくれるが、いやそれでは家の者が何かあったのではないかと心配する、なに、自分にはエスさま(イエスキリストの呼び名)がついて守ってくださるから、と半ば強引に帰途についた。
 このあたり、仁藤牧師は頑固であった。

 村へ至る山道の途中には、地元ではクモの巣池と呼ばれる、大きな沼があった。

 クモの巣池はあくまで地元のみで使われる通称であり、実際には公式にこの地名がついている池は現在の日本には見当たらない。だが実は日本全国に地元でのみそう呼ばれる同名の池があるとも聞く。
 こういった池は、「池」と名はつくが実態は「沼」だ。それも大きな窪みが一つあるのではなく、陸地と沼が複雑に絡み合って形成される一種の迷路である。上空から見た様相がクモの巣に似ていることが命名の語源とも言われるが、これには実はもう一つの説がある。
 すなわち、一度入り込むと道に迷い、迷って出られず焦って歩き回るうちに沼にはまる。一度沼にはまり込むと、沼一面に繁殖している藻が全身に絡みつき、相当な水練の者でも何もできずに溺れ死ぬ。大きなクモの巣のように人を絡めとり大勢の水死人が出る。ゆえにクモの巣池の名前をつけ、人が近寄らぬように警告するのだと。

 仁藤牧師が歩いているこのクモの巣池もその例に漏れず、大勢の水死者を出している場所であった。
 深夜だれもいない暗闇の山道を、ゆらゆらと揺れる提灯の灯りだけで歩く。人間なら誰でも、寂しくて、恐ろしくて、堪らない。仁藤牧師もそれは例外ではないらしく大声で賛美歌を歌いながら夜道を急ぐ。
 仁藤牧師は信仰との二人連れ。常に傍らには神が居る。

 さて、クモの巣池の中心には大きな石碑が立っている。これはここで溺れ死んだ者への供養に建てられた慰霊碑である。石碑の中心には大きく「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれている。山奥の誰も来ない道の真ん中にこのようなものを建てざるを得ないほど、大勢がここで溺れ死んでいる。
 ここまでくれば道のりは後半分。道を踏む足にも元気が出ようと言うもの。

 そのときだ。何かが提灯の明かりの届かぬ周囲の暗闇のどこかから呼びかけてきた。

「お~い。仁藤」
 たしかに、名前を呼ばれた。
 その途端、体が動かなくなった。
「お~い。仁藤」
 また呼ばれた。すると動かなくなったはずの体がまるごと、ずずっと背後に引かれた。

 クモの巣池で人が溺れ死ぬ理由がはっきりした。それは道に迷ったわけでもなければ、池に落ちてパニックになったからでもない。今このとき、背中の向うで仁藤牧師の名前を呼んでいる亡霊たちに引きずりこまれていたのだ。

 信仰が試されるとき。
 人間が試されるとき。
 生死の境目で人というものの本質が明らかになるとき。

 仁藤牧師は聖書の文句を声高らかに唱えた。すると背後に引きずられていた体が止まる。
 だが、止まるだけだ。自由にはならない。

「お~い。仁藤」
 亡霊がまたもや名前を呼ぶ。体が後ろに引きずられる。聖書の文句を唱える。引きずられた体が元の位置に戻る。
 命とそして恐らくは魂が賭けられた独りぼっちの綱引きが、深夜の沼に繰り返された。
 朝日が昇り、その最初の一矢が石碑に降り注ぐと、亡霊の声は消え、仁藤牧師の体は自由になった。


 夜に帰って来る予定の父が帰ってこなかったことに心配していた家族はこの話を聞き、もう二度とあの村には行くなと仁藤牧師を諫めた。それに対する仁藤牧師の返事は決まっていた。これは神がわしに与えたもうた試練じゃと、仁藤牧師は次の週も、また次の週も懲りずにその村へと出かけ、帰り際には同じ光景が何度も何度も繰り返されたと聞く。


 真の信仰の徒の心は決して折れることはない。