最後の真実銘板

小羊姉妹とオオカミ赤ん坊(副題:最後の真実):後編

 さて、深夜の小羊の会議で自分のことが取り沙汰されているとは、オオカミ少年はまったく知りませんでした。彼は深い眠りに落ちており、その夢の中で、血みどろの肉をたらふく食べていたのですから。その肉がだれのものであったのかは、あえて申しますまい。きっと、不道徳だと眉をひそめる人がいるに違いないでしょうから。
 でも一つだけお教えしましょう。その肉の元の持ち主の頭文字はPでした。
 翌朝目覚めると、オオカミ少年は夢のなかで見たことを、頭のなかでゆっくりと反芻してみました。それから壁にかけられていた鏡に向くと、自分の顔をそれに映しだしてみました。
 最初に鏡に映ったのは、ずらりと並んだ歯です。鏡もその鋭い歯にふれて傷つかないようにと、おそるおそる映しているぐらいです。オオカミの特徴たるその歯は、他の生き物の肉を引き裂くためのものです。けっしてオートミールやパンをかじるためのものではありません。それはカミソリのように鋭く、とても頼もしげで強そうに見えました。この立派な歯に比べたら、母さん小羊たちの歯の弱弱しいことはどうでしょう。
 そのつぎに素敵なのは、だらんと垂れたピンク色の長い舌です。この素晴らしい舌が、倒した獲物から流れ出る血を一滴もこぼすことなく舐めとってしまうのです。オオカミ少年は現実と夢の両方で味わった血の味を思い出し舌なめずりをしました。その舌なめずりはそれはそれは邪悪に見えました。どんなにうぬぼれの強い悪魔でも、自己陶酔を忘れて思わずほれぼれとして見とれてしまうほどの邪悪なものでした。
 ああ、それにこの素敵な瞳ときたらどうでしょう。獲物の一挙手一挙動を見逃さない、オオカミならではの殺意に満ちた素晴らしくも残虐な瞳です。まさにこれこそが生きているという証しです。地面ばかり見ている母さん小羊たちに比べたら、なんと美しい瞳の輝きなのでしょう。
 ぴんと立った形良い三角形の耳、森のなかを風のように走るために作られたかのような手足、何ものもその追跡を振り切ることのできない鼻、数え上げればきりがありません。
 まさにオオカミたる自分こそは、それよりもはるかに劣った小羊たちの上に君臨するべき存在であることに、少年ははじめて気がついたのです。そしてそれを周囲に知らしめるためには、残りの無傷の母さん小羊たちに自分の刻印、そう、オオカミたる自分の歯形の跡をつけるしかないと、少年は結論づけたのです。
 もはや育ててもらった恩も、注いでもらった愛情も、一緒に生きるものへの情も、すべて消え去ってしまいました。これらはすべて自分と同等の者に対して抱くものであり、しょせんは食料でしかない羊に対して、偉大なるオオカミが持つべきものではないと、そう少年は思ったのです。


 つぎの標的に選ばれたのは四番めの小羊でした。そう、あなたの予想通りに。
 彼女が襲われたのは、森へコケモモの実を摘みに行った帰りのことでした。いきなり薮の中からオオカミ少年が飛び出すと、四番めの母さん小羊の尻尾に噛みついたのです。
 その傷が軽いものであったなんて、わたしはけっして申しません。実際には深いふかい重傷だったのです。
 かわいそうに。四番めの母さん小羊の尻尾は千切れてしまいましたし、もう少し家に帰りつくのが遅ければ、もしかしたらその怪我で死んでしまっていたかも知れません。
 一度でも、遠慮というものが失われれば、それのもたらす結果は誰にも耐えがたいものとなるのです。
 しばらくの間は、母さん小羊たちは、四番めの小羊の怪我の世話で大忙しでした。そのために、傷が膿んだ結果から来る高熱がひき、ようやく四番めの小羊の怪我が癒えはじめるまで、オオカミ少年がずっと家に帰っていなかったことに、誰も気づかなかったのです。
 四番めの小羊は、自分の尻尾を噛みちぎった犯人を見てはいなかったのですが、誰がその犯人であるのかはどの小羊も知っていました。
 何といっても、歯形の跡は隠せないからです。七番めから四番めの小羊たちについた歯形は、どれも同じ形、同じ大きさだったのです。
 もっともそんなことをしなくても、四番めの小羊のおしりについた歯形の横に、たどたどしい字で犯人のサインが入っていたのですから、すべては明白でした。

 こうなっては、残りの母さん小羊たちも、事態の推移を手をこまねいて待っているわけにはいきません。
 とうとう三番めの母さん小羊は森に行き、苦労の末にオオカミ少年を探し当てました。
 薮のなかから、おしりだけを出して隠れていたオオカミ少年に対して、彼女は毅然とした態度で話しかけました。
「さあ、家にお帰りなさい。四番めの母さん羊に謝るのです。わたしも一緒に謝ってあげるから、怖れることなく家に帰るのです」
 それを聞いて、オオカミ少年は食べていた小鳥から顔を上げました。血だらけの口を三番めの母さん小羊に見せびらかすと、自信に溢れた口調でこう言いました。
「僕は誰も怖れてなんかいないぞ!
 まったく、いまいましいと言うのはその舌のことだ!」
 それから彼は、三番めの母さん小羊に飛びかかると、その口をこじ開けて舌を引きだし、食べてしまいました。
 ああ、何ということでしょう。あまりに残虐な光景に、森の梢の上で見ていたシネツグミが目をつぶってしまうほどでした。気の弱いヤマカガシにいたっては気を失ってしまうものもいたぐらいです。
 しかし幸運にも、三番めの羊は緊急蘇生法を知っていました。気丈にも彼女は、自分一人だけで、喉の奥に縮こまってしまった残りの舌をつまみ出しました。そうしておいてから、気管に詰まった血を吐き出すと、出血多量で死ぬ前になんとか家へと帰りついたのです。

 さあ、事態がここまでくると、小羊たちもうかうかとはしていられません。毎日のように家の周囲をパトロールし、オオカミ少年が薮のなかに潜んでいないかと調べるようになりました。
 しかしオオカミ少年も負けてはいません。いろいろと作戦を練りました。これから襲おうとしている当の獲物、母さん小羊に習った戦術理論を見事に応用しての作戦です。
 それは二番めの小羊が家のまわりを見回っていたときのことです。なんと驚いたことに、道の真ん中であのオオカミ少年が膝を抱えて泣いていたのです。他の小羊たちは止めましたが、二番めの母さん小羊はとても気が強く、神を深く信仰していたので、たったひとりでオオカミ少年に近づきました。そして優しい声でこういったのです。
「さあ、おうちにお帰りなさい。みんなに懺悔をして、これまでの行いを悔い改めるのです」
「その前に、僕は母さんに謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
 涙声でオオカミ少年は言いました。そのあわれでさみしげな様子に、二番めの母さん小羊の心は動かされました。この罪深き子を何としても救ってやらなくてはいけない。そんな優しい思いが、母さん小羊の心を満たしたのです。
「あのね・・・」いまにも消え入りゆく声で、オオカミ少年はいいました。
 その小さな声をよく聞き取ろうと母さん小羊が身をかがめたその瞬間です。オオカミ少年は飛びかかりざまに、母さん小羊の右耳を噛りとると、一目散に森のなかへと逃げてしまいました。

 その夜。母さん小羊たちは家の広間に集まり、家族会議を開きました。
 七番めの小羊が言いました。
「あの子はもううちの子じゃないわ」
 六番めの小羊が続けました。
「すっかりオオカミになってしまったわ」
 五番めの小羊がうつむいて言いました。
「でも、見捨てるのはちょっとひどいかもね」
 四番めの小羊はもうすっかり怪我から立ち直っていました。もっとも怪我をしたのが尻尾でしたから、椅子には座れず、立ったままの発言でした。
「最後の真実を教えるときが来たのかも知れないわね」
 今度も、この言葉を聞いて、小羊たち一同に困惑のさざ波が広がりました。
 三番めの小羊は舌を失っていたので、紙にその意見を書いて示して見せました。
「見捨てるわけにはいかないわ。彼が家族であることは変わらないのだから」
 二番めの小羊もその意見に賛同しました。
「その通りです。最後の真実を知れば、彼も変わることでしょう。そうしてまた、元の家族へと戻るのです」
 最後に、もっとも賢く、もっとも力強く、もっとも慈悲深い一番めの小羊が言いました。
「では多数決を取りましょう。彼に最後の真実を教えて、ふたたびわたしたちの家族に戻ってもらうことに、賛成のものは手を上げなさい」
 いっせいに六本の手があがりました。それを見て、一人だけ手を上げなかった一番めの母さん小羊は言いました。
「多数決の結果を認めます。ただし最後の真実を教えることについては、わたしが議長の権限でしばらく預かることにします」
 他の小羊たちには異議がありましたが、家族会議の議長である一番めの小羊にはかないません。この話はこれで打ち切られることになりました。


 さあ、事態はどんどん進展し、とっても悪いほうへと向かっています。この悲劇のそもそもの原因をたどれば、オオカミの赤ちゃんを森に捨てた不埒者どもにあるのですが、その結果はまったく別の小羊たちの上に降りかかっています。
 オオカミを羊が育てようとすることこそ、愚かな振る舞いなのだと指摘するむきもあるのかも知れません。それでも母さん小羊たちの行為を責めることのできる者が果たしているでしょうか?
 それは愚かな行為であったのかも知れませんが、それ以上に気高い慈悲あふれた行いでもあったのですから。
 こうして最後の真実という名の矢は弓につがれ、放たれるのを待つばかりとなりました。この恐るべき矢はそれを知ったものを打ちのめし絶望させる働きがあるのです。ですがこの矢を放つ運命にあるのは、一番めの母さん小羊ではなく、じつはオオカミ少年その人なのでした。


 小羊たちの家族会議からさらに一週間の日にちが経ちました。その日は一見穏やかな日になるように見えましたが、朝からいきなり嵐がはじまったのです。
 その通り。オオカミ少年がうちに帰ってきたのです。
 二番めから七番めの母さん小羊たちが見守るなか、オオカミ少年は怯える様子も見せずに堂々と、家の奥で待つ一番めの母さん小羊の前へと進みました。
 森の中での厳しい生活で、オオカミ少年は以前とはまったく別の存在へと、変わってしまっていました。筋肉はたくましくなり、顎もがっしりとしまっています。体からは余分な贅肉が落ち、目はぎらぎらと飢えと貪欲さに輝いています。もはやこうなれば彼をオオカミ少年と呼ぶわけにはいきません。
 歩く姿も堂に入ったものです。左右をじろりと睨みながら大股で歩きます。その一歩一歩ごとに、大地が揺れるかのような錯覚を覚えます。そうしてついに彼は、椅子に座って待っている一番めの母さん小羊の前へと立ったのです。
 一番めのもっとも賢く、もっとも勇敢で、もっとも威厳のある母さん小羊は、ただその瞳で目の前に立ちはだかったオオカミを見つめたのです。ああ、それはまるで魂の奥底までを貫きとおすかのような視線でした。普通の心を持つ者ならば、この視線を受けて思わず膝をつき許しを請うことでしょう。
 しかし、そのオオカミは恐れるふうもなく言いました。多くの命を食らってきた者だけが持つ、傲岸不遜とでも言うべき態度で。
「おれは帰って来たぜ。お前たちの上に君臨するためにな」
「わたしたちの肉を食らい、血をすするためですか。骨をかじりながら、その死体の上にあぐらをかくつもりなのですか?」
 一番めの母さん小羊が毅然とした声で問い返しました。
「それはお前さんたち次第だな。おれの機嫌が悪くなればそうするかも知れん」
 オオカミは悪びれる様子もなく言いました。
「わたしたちは家族だと思っていたのに」
 最後に残ったかすかな希望をこめて、一番めの母さん小羊は言いました。
「羊とオオカミが?
 ちぇっ。どこでそんなたわごとを覚えてきたんだい」
 オオカミはそう答えると、一番めの母さん小羊の体を、手といわず足といわず散々に噛みました。そして座っていた椅子から彼女を引きずり下ろすと、家の外へと放り出しました。
 それからその椅子にどっかりと座りこむと、自分が王であると周囲に宣言したのです。


 その夜、オオカミ王が眠りについた後で、ベッドの上で痛みにうめき声を上げながら、一番めの母さん小羊は周囲に集まった小羊たちに言いわたしました。最後の真実を教えるべき時が来たのだと。


 オオカミ王は、三日ほど家に滞在しました。いまや奴隷となった小羊たちが用意した小鳥の丸焼きなどを、退屈そうな表情で平らげていましたが、やがて新鮮な血が味わいたくなったのでしょう。ふたたび森へと出かけていきました。
 オオカミ王を怒らせないように奴隷小羊たちは気をつかっていたので、それ以上の犠牲者は出ませんでした。
 しかしこの状態も長くは続かないことを、奴隷小羊たちはよく知っていました。やがてはなんだかだと難癖をつけて、オオカミ王は奴隷小羊たちの誰かを食べてしまうことでしょう。
 最後の真実を教えることを急がねばなりません。それさえ知れば、オオカミ王の心のトゲも少しはやわらぐはずなのです。
 奴隷小羊たちはさっそくその用意へと取りかかりました。

 血と肉で腹を一杯にしたオオカミが家に帰ってみると、奴隷小羊たちが忙しそうに立ち働いていました。

「それはなんだ?」オオカミ王は尋ねました。
「洗濯物を干すためのロープを作っているのですよ」
 長い長いロープを編んでいた、七番めの小羊は答えました。

「それはなんだ?」オオカミ王は尋ねました。
「ロープを結ぶための物干し台を作っているのですよ」
 長い棒に、とがった釘を打ちこんでいた、六番めの小羊は答えました。

「それはなんだ?」オオカミ王は尋ねました。
「今夜の夕食です。お肉たっぷりのスープですよ」
 ぐつぐつと強火で鍋を煮こんでいた、五番めの小羊は答えました。

「それはなんだ?」オオカミ王は尋ねました。
「今度のお祭りのときに被る仮面ですよ」
 木と葉っぱを組み合わせて仮面を作っていた、四番めの小羊は答えました。

「それはなんだ?」オオカミ王は尋ねました。
 小さな鍋で薬草を煮こんでいたのは三番めの小羊です。彼女は舌をオオカミ王に食べられていましたので喋れません。そこで、手真似でそれが傷薬であることを示しました。

「それはなんだ?」オオカミ王は尋ねました。
「服を繕うのに使う、針と糸を作っているです」
 糸つむぎを回していた、二番めの小羊は答えました。

「それはなんだ?」オオカミ王は尋ねました。
「冬が寒くないように毛布を作っているのよ」
 自分たちの毛を使って毛布を編んでいた、一番めの、そしてもっとも賢く、もっとも強く、もっとも意志の強い傷だらけの小羊は答えました。

 オオカミ王は周囲を見回すと、自分の奴隷たちが自分のために忙しく働いているのを見て、深い満足のため息をつきました。これもみな、強い者が弱い者の上に君臨するという、オオカミとしての権利を要求したお陰であるとも、自分を納得させました。その通り、オオカミならば当然にして、羊の上に立つものなのです。
 羊の母さんの下で、小さくなって水汲みをしているなんて、オオカミのやることではありません。当たり前でしょう?
 それからオオカミ王は、五番めの母さん小羊が作っていたお肉入りのスープを一息で飲み干すと、中に入っていたたっぷりの睡眠薬の働きで、ぐっすりと夢をも見ない深く暗い眠りへと落ちて行ったのです。

 オオカミ少年がたった一つだけ学ぶことのなかった知識『最後の真実』を、その身を持って知るために。


 ああ、この話を読んでいる皆さん。今ならまだ間に合うのです。ここで本を閉じて、何も読まなかったことにすれば良いのです。そうすればあなたの生涯は、安らかなままで終わることでしょう。最後の真実なんか、知らないほうが良いのです。
 でもきっとあなたは読んでしまうでしょう。そして知ってしまうのです。最後の真実を。
 だからどうか覚えておいて欲しいのです。わたしがこうして最後の警告をしたってことを。


 さて、深夜になり、オオカミ王が目を覚ましてみると、授業の準備はすっかりと整っていました。
 オオカミ王の周囲を小羊たちが取り巻いています。どれもみな、六番めの小羊が作ったトゲつきの棍棒を手にしています。オオカミ王は飛び起きようとしましたが、なんとその体は、七番めの小羊が作ったロープでぐるぐる巻きにされていました。それはそれは丈夫なロープです。オオカミ王がどれだけ力をこめても、びくともしません。
「なんだこれは!」オオカミ王が叫びました。
「おれはお前たちの王様だぞ。こんなことをしてただで済むとでも思っているのか!」
「今はもうあなたは王様ではありません。今のあなたは囚人です」
 一番めの、そしてもっとも賢く、もっとも強く、もっとも冷酷な母さん小羊が宣言しました。
「おれが囚人だと!」
 囚人オオカミは叫びました。本人がそれをどう否定しようとしても、オオカミ王はすでに囚人以外の何者でもありませんでした。それから囚人オオカミは首を伸ばして、自分を縛るロープを噛みちぎろうとしました。
 トゲつき棍棒が振り降ろされ、囚人オオカミの頭をはげしくぶん殴りました。血と悲鳴が漏れ、今まで受けたことのない強烈な痛みに、囚人オオカミは涙を流しました。
「二度と今のようなことをしてはいけません」
 たったいま囚人オオカミを殴りつけた七番めの母さん小羊が冷たい声で言いました。
「おれを殴ったのは貴様か。見ていろこのロープさえ解けたら…」
 囚人オオカミの言葉が途切れ、悲鳴に変わりました。ふたたびトゲつき棍棒が振り降ろされたためです。
「二度と今のような言葉を使ってはいけません」
 わが身にあまるほど重い棍棒を、苦労して引き戻しながら六番めの母さん小羊が諭しました。
「おれをどうしようというのだ」
 頭の傷と、それよりもさらに痛む傷ついたプライドをかばいながら、囚人オオカミは尋ねました。
「あなたに最後の真実を知って欲しいのです。そして元の家族へと戻って欲しいのです。あたしの可愛いオオカミ赤ちゃん」
 にっこりと笑うと、五番めの母さん小羊は棍棒を振りました。それは最後の真実を学んでいる最中の囚人オオカミの膝に見事に命中し、その骨を砕いてしまいました。
「殺しては駄目よ。大事な家族なんだから」
 そう言ったのは、四番めの母さん小羊です。その手に持たれたハサミが、これから何が行われるのかを物語っていました。囚人オオカミは必死で自分の尻尾を隠そうとしましたが、それも無駄な行いでした。
 耳を覆いたくなるような悲鳴が部屋一杯に轟きました。でもそれはまだマシなほうだと言えるでしょう。四番目の母さん小羊は鋭利な刃物ではなくオオカミのぎざぎざの歯で尻尾を食いちぎられたのですから。
 三番めの母さん小羊は舌がないので、四番めの母さん小羊が行った行為に対して、何のコメントもつけることはできませんでした。その代わりと言っては何ですが、自分で作った傷薬を囚人オオカミの傷口へとたっぷりと遠慮なく摺りこみました。
 治療の効果をあげるために、塩とトウガラシがふんだんに使われていることは、いまさら言うまでもありません。
 あまりの苦痛に、声も出せずに縛られたままで床の上を転げ回っている囚人オオカミの頭を、三番めの母さん小羊は優しく抱き上げました。それから指で空中に字をつづると、自分の授業がまだ終わっていないこと、それどころかその端緒にさえまだついていないことを示しました。
 まるで恋人にするかのような優しい手つきで、囚人オオカミの口を大きく開いて固定具をはめると、三番めの母さん小羊は歯科医から借りて来たペンチを取り出しました。そして、最後の真実の授業を再開したのです。
 三番めの母さん小羊の長い長い授業が終わると、次は二番めの母さん小羊の番です。
「許して。許して。母さんたち」
 囚人オオカミは息も絶え絶えに言いました。歯がすべてなくなっていたので、その言葉も聞き取り難いものにはなっていましたが。
 もっともその若さゆえか囚人オオカミの心臓は強く脈打ち、そうそう簡単には死にそうにもありません。もちろん母さん小羊たちも、自分たちの大事な家族を殺すつもりなんか毛頭ありませんでした。
「もちろん赦しますとも。あたしの可愛い坊や」
 失った右耳の跡を囚人オオカミの目の前に差し出して、二番めの母さん小羊が言いました。彼女は手にもった鋭い針の穴に糸を通そうと、しばらくのあいだ苦労していました。それから、ふと思いついたようにつけ加えました。
「でもそれは、あなたが最後の真実を学んだ後ということになるわね」
 囚人オオカミはその一瞬、オオカミ王に戻って吠えました。母さん小羊たちを罵り、脅し、元に戻ったときに、どういう目に合わせるつもりなのかを、それはそれは汚い言葉を使って表現して見せたのです。
「この子が最後の真実を学び終えるのには、長い時間がかかりそうね」
 一番めの、そしてもっとも賢く、もっとも強く、もっとも愛情深い母さん小羊が、ため息とともに言いました。

 オオカミ王は、自分がもっとも強いと思っていたので、最後の真実が存在することを認めようとはしませんでした。
 囚人オオカミは、自分がいつの日にか釈放されて、ふたたび元のオオカミ王に戻れると信じていたために、最後の真実をなかなか学ぼうとはしませんでした。
 でもオオカミ少年は利発で賢く、学ぶということに前向きな姿勢だったので、やがては最後の真実を知り、それを認めるようになりました。

 もっとも、そうなるまでには長い長い時間がかかったのですが。

 それでも七匹の母さん小羊たちは、どれも愛情深く忍耐心があったので、この難しくて微妙な授業をめでたく最後までやり遂げることができました。
 すべては可愛い我が子のためなのです。
 いったい誰がその手間を惜しむというのでしょう?

 今ではオオカミ少年はどこにもいません。その家に住んでいるのは、七匹の優しい母さん小羊たちと、礼儀正しくおとなしい少年羊だけです。

 え?

 この子のことを知りませんか?
 そうですね。毛皮の色はちょっとばかり普通の羊とは違います。まるで七匹の母さん小羊たちの毛を、一つづつ分けてもらったかのような色合いで、見方によっては羊の毛で織った毛布のようにも思えます。ときどき、その毛皮がほつれて、その下から別の毛が見えるような気もしますが、もちろん、何かの見まちがいでしょう。その証拠に、次の日にはそのほつれは綺麗いに繕われているのですから。
 顔もよくよく見れば、木と葉っぱで作った羊の仮面のようにも見えます。もちろん、これも気のせいでしょう。試しにその仮面を引っ張ってみればわかります。けっして外れようとはしないのですから、これは元からついている顔にちがいありません。でなければよっぽど強力な接着剤を使ったかです。そう、肉を溶かしてそのままくっついてしまうような、そんな接着剤です。
 ときおりその仮面の下に見える口は、もちろん羊のものです。けっしてオオカミのように耳まで長く裂けているわけではありません。耳から口に向けて、なにかを針と糸で縫ったように見える痕は、きっと泥んこ遊びでついた汚れがそう見えるのでしょう。もちろん、オオカミが持つような鋭い歯は、その中にはもうありません。
 羊なのですから当然でしょう?
 歯がすべて抜かれているように見えるとしても、それは偶然の成せるわざとでもいうべきものです。

 そうです。ここにいるのはとてもおとなしい少年羊なのです。

 その少年羊がおとなしいのには理由があります。
 だけどそれは彼の両手両足の関節が、二度と治らないように見事に砕かれしまっているせいではありません。また、母さん小羊たちがつねにその背後に隠すようにしてトゲつきの棍棒を持っているからでもありません。

 あなたが自分の好奇心で身を焼いてしまわないうちに、答えをお教えいたしましょう。
 それは少年羊が、最後の真実を知ってしまったからなのです。その真実こそが、少年をオオカミから羊に変え、その身のうちに巣食った誤った権力意識を追い払った原因なのです。
 そう、少年はついに最後の真実を学んでしまったのです。

 あなたと同様に。

 オオカミであった自分だけが持っていると信じこんでいた残虐性。自分だけが揮えると思っていた他人を虐げる力。人の痛みに鈍感であり、その苦しみを無視することによって出現する地獄の光景を、にやにや笑って楽しめる、その冷たい心。
 オオカミが生まれながらに持っているはずの特権。その名は暴力。
 だけどそれは、おとなしい一般大衆であるはずの穏やかで平和で優しさに満ちていた小羊たちの中にも眠っているものなのです。暴力とは決して特別なものでも珍しいものでもなく、むしろあらゆる人々がその心の中に密かに抱えている、ごくごく普遍的なものでした。

 最後の真実、それは次の一文で表されます。

「人は誰でも残酷になれる」