もんも爺秘録帖銘板

化け猫

 わはは、わはは、わはわは、わはは。

 はい。はい。わしが、あんさんのお尋ねの高田の馬場のももん爺ですじゃ。
 いや。いや。これは口さがない者の付けたあだ名でしての。もちろん、わしの本名ではありませんわいなあ。
 ええ。ええ。それはもう昔からこの商売をやって、おまんまを食べさせてもらっておりますわい。

 はて、ところで、どこでわしの事を聞きなさった?
 いやまあ、こんな商売ですから、とくに広告を出しているわけでもなし、看板すら、ほれ、出てはおりますまい。飛びこみで客が来るわけもなし、不思議に思いましたでな。
 はあ、なるほど、飛騨の山茂さんの紹介ですかいな。はい、確かにその昔あの辺りで商売させてもらった事がありますわい。

 何?
 その時の話が聞きたい?
 ははあ、地方誌の昔話に載せる?

 そうですかあ。もうあれが昔話になりますか。わしはまるで昨日の事のように覚えておりますがのう。
 ええです。話してあげまひょう。ま、ま、そこにお掛けなさい。ちいと長い話になりますからのう。

 それはもう。恐い話でしたわい。大体の所は山茂さんから聞いていましょうがの。
 はて、聞いていない?
 聞くも何も、そもそも話の出来る状態じゃないですと?
 一体、何がありました?
 ははあ、あの山茂の三郎さんも惚けなすったか。それは可哀想に。このわしよりうんと若いですのにのう。
 え、違う?
 三郎さんは当の昔に死んで、その惚けたのは一太の方ですと。一太と言いますと山茂さんの所の末子でしたな。それがもう惚ける歳になったとは、いやはや時の経つのは早いものですなあ。ええ、わしの歳ですかいな。そうですな、確か三百まで数えたのは覚えておりますがの。
 何?
 人間がそんなに生きられるわけがないですと?
 なるほどそれはごもっとも。きっとわしが数え間違えたのでしょう。もしかしたら三百ではなくニ百かもしれん。わしもほれ、もう惚けが始っておりますからのう。
 わははは。するとあの事件を語れるのは、もうわしだけになってしまいましたか。わかりました。何もかも全部話してあげましょう。


 当時もやはりここで妖怪退治をやっておったわしのところに、その今は死んでしもうた山茂の三郎さんが尋ねて来ましてのう。なんでも山茂さんが里長をしている飛騨の山奥で化け猫が出たとの話でしたわ。
 今は昔の物語とはいいますが、その頃はそんな事件が良くありましての。今と違ってちょっと田舎に行けば、もうそこは山の中ですわい。そんな草深い奥地の里では、これがまた実に良く妖怪が出たものでしたわ。
 その中でも化け猫と来れば、大概の山に出るものでしてな。まあ、山のある所なら当然とも言えますがな。

 はあ、化け猫を知らない?
 見たことがない?

 そりゃまあ、今の時代の人なら見たことはないかもしれんが、聞いたこともないとはこれはまた悲しいことですのう。
 化け猫というのは、まあ、簡単に言うならば、神通力を持った猫のことですわな。今風に言うならば、ほれ、超能力というやつですわ。
 化け猫はその名の通りに、猫の姿をした妖怪ですわい。もっとも体は大きく、犬でも何でも平気で食い殺しよる。おまけに空を飛ぶし、変化も行う。変化というのは他のものに化けることですわい。たとえば人間に化ける。そうして他の人間に近づいて、こう、安心したところをぱくりとやる。

 ええ、何を驚いてなさる?

 そう、確かに化け猫は人を食いますわい。猫というものは元来が肉食獣。ましてや虎もかくやと思われるばかりに大きくなった化け猫にとっては、人などただの餌ですな。
 目はらんらんと輝き、尻尾の先は二つに割れる。牙は伸びるし、何よりもまず動きが速くなる。頭は人間のように賢く、人語だって解してしまう。こうなると、もう並みの手段では退治はできませんわな。
 まあ、話を戻しましょ。こういう化け猫退治の話は、当時は、わしのところによく来たものですわ。化け猫の当たり年と申しましょうか、あちらこちらの山の里から、引きも切らずに、次から次へと依頼人が訪ねてきたものでしたな。飛騨の山茂さんもそんな中の一人でした。
 さきほど、山のある所なら化け猫が出るのは当然と言いましたな。どうしてかと言いますとな、化け猫と言うのは、そんじょそこらの家猫が化けるものは実はほんのわずかでして、大方の化け猫の正体はと言うと、これが山猫化けなのですわい。
 そう、山猫。そもそも猫とは名がつくものの、山猫と言う奴はどちらかと言えば虎の部類ですなあ。土佐に闘犬がいますじゃろう。あれよりはもう一回りはでかいと思えば、大体あっておりますわい。
 ええ、ええ、はいはい。今じゃあ、どいつもこいつもみいんな死んでしもうて、日本のどの山にももう山猫はいませんわい。それがあの当時は実に沢山いましてのう。これが歳を取りよると、よう化ける。はい、よう化けますのじゃ。狸や狐は化ける化けると言いますが、実際にはそれほど化けるものじゃあ有りません。本当によう化けたのは山猫でしたわい。
 長く生きる、という事はそれだけで大変な事でしてのう。並の生き物なら三十年、樹木ならば千年、人ならば大方百年ほどで化けるようになります。生物が化ければ妖怪、樹木が化ければ樹精、人が化ければ鬼、そう呼ばれますわい。まあ、今の時代は食い物が良いので、百年生きたとしても人が化ける事は無くなりましたがのう。人生五十年と歌われた時代にその倍も生きれば、これはもう化けるのが当たり前と言えますわな。
 まあ、その頃は十年も生きれば、猫は化けましたな。それは山猫でも同じ。ただやはり、山猫の化けたやつの方が気性も荒いし神通力も強い。化け猫退治と一口には言うが、人間の退治屋の方が返り討ちに遭うということも多々ありましたな。
 わしはまあ幸いにもそんなこともなく生き延びて参りましたが。

 何、何、話を進めろですと。わかりましたわい。
 山茂さんの村に化け猫が出たというところまで話しましたな。
 で、まあ、さすがに山のマタギ衆は気が荒い。化け猫が出たからと言って、いちいち大騒ぎして里の外の人間を呼ぶのは、これはもう里の恥と言うもの。それぐらいならいっそ自分たちで退治してやろうと、里一番の腕自慢が一人で山に登りましてのう。
 ええ、ええ、そりゃあ、山でけものを狩って生きておるマタギというのは、どれも例外なく鉄砲の腕自慢ですわい。何せ、すぐ近くから突っ込んでくる熊の心臓を、冷汗一つかかずに一発で撃ち抜く猛者ぞろいですからのう。たかが猫の化けたのが一匹、万に一つも仕損じは無い、そう、思いましたのじゃろう。
 ところがそれが帰って来ない。ええ、いつまでたっても山から帰って来ませんのじゃ。
 これは山に入ったマタギの身に何かあったなと、仲間のマタギたちが何人か相談の末に、山に探しに入りこんでから、さあ、三日も経った頃じゃろうか。朝早くに起きた里長の家の下男が、家の前にマタギたちの生首が並んで置かれておるのを見つけましてな。その生首というのが、山に入る前に里向こうの神社でもらったお守りの札を口に咥えさせられた上に、両の目玉が奇麗にくり貫かれておりましてな。それはそれは凄まじい有り様だったそうな。それをまた止せば良いのに、里長の家の女子衆が恐い物見たさで覗いたからたまらない。全員で大騒ぎをした挙げ句に、だれもかれも高熱を出して寝付いてしもうたわけですから、これはもう騒ぎが収まるわけがありませんわい。
 まあそれでどっぷりと肝を冷やした里の衆がの、これはもうわしらの手には負えん、こうなっては本職を呼ぶしかない、とまあ、そういうわけで伝を求めて山茂さんが尋ね当てたのが、妖怪退治屋として名高いこのわしじゃったと、そういう訳ですわい。
 はい、はい。その惚けた方の山茂さんはその家の末子で、わしは山茂のボンと呼んでいましたわ。まだ小さな子供で、五分刈りにした頭で普段着を着て、ちょこちょこと走りまわっておりましたわな。
 山茂の三郎さんはその祖父にあたる人で、当時は里長を務めていましたな。細い体に似合わず野太い声を出したのを、今でもよう覚えております。わしのような余所者が珍しいのか、わしが里長の三郎さんと話をしておると、隣で山茂のボンが飼い猫のクロを抱きながら、そっと聞き耳を立てておったもんですじゃ。
 さて話を聞いたは良いが、問題はどうやって化け猫めを退治するかですわい。
 そもそも化け猫と言う奴は、本性が猫ですから存外にずる賢い。罠なんかを仕掛けても、まあ引っ掛かるような馬鹿なやつは、化け猫の中にはまず居りますまいな。しかも元々の気性が荒いだけに、下手に刺激して怒らせると、これはもう手に負えなくなりますわい。それよりもっとまずいのは逃げられることですわ。一度化け猫めに住処としておる山の中へと逃げこまれたら、もうこれは人間の手では探し出せるものではありませんわいのう。
 となると、後はどこぞに巧くおびき出して撃ち殺すしか手は無い。
 一方、化け猫の方でもマタギたちが自分を狙っておることは十分に承知しておりますからの。あの生首の事件で懲りんようなら、もう一度、自分の力を里人たちに見せておくのも悪くはないと、こう考えているのは間違いがありませんわい。そもそも生首を里長の家の前に並べるなどと芝居がかったことをするのは、自分の力を見せつけるためですからの。化け猫にとっては、ここで十分に里人を脅しておけば、後は人身御供でも何でも要求できることになりますわい。
 さあ、そうと考えれば、わしがマタギたちを連れて鳴り物入りで山に入れば、待っていましたとばかりに化け猫が襲って来るのは、これはもう間違いがないところですわい。

 ここまでわしが言った所で、マタギたちの顔色が変わりましたわ。
 無理もありませんわい。山に登った腕自慢たちが皆殺しにされた様を見ておりますしのう。おまけに化け猫のやり口と来たら実に念が入っておる。わしのような老いぼれを果たして信じてよいものか、尻込みするのもこれはむしろ当然というものですわい。
 いつもは勇ましい犬どもも、近ごろでは山に向かって吠えるのさえ恐れる始末だそうで。おまけに獰猛で鳴らした犬の群れのボスが、無残にも引き裂かれた肉の塊で見つかってからは、山に連れ出そうとする人間に向かって、犬どもは必死で逆らうようになっておりましたからの。畜生といえど馬鹿ではない。自分たちが何に歯向かおうとしているのか、よおっくわかっておるのですな。
 そうかと言ってわし一人で山に入っても、仕事どころかこれはもう道に迷うばかりとなるのは言わずもがなですわな。なにぶんわしはこの通りの非力な体ですし、都会育ちゆえに山で修行した事など一遍もありませんからな。
 ええ、ええ、その通り。わしは妖怪退治の修行なんかしたことはありませんわい。そんな便利な修行があったら、誰がこんなに苦労しますかいな。まあ、生まれながらにそういう特別な力を持った連中もいますし、まあ中には修行の果てに大変な法力を身につける人間もいますな。でもそれは才能と言うもので、努力したからといって、そうそうできるものではないのですわい。
 まあ、わしはこの道で長い間食うておりますで、それなりに妖怪退治のコツというものを知っておりますわい。はは。妖怪退治に必要なのは法力でも技術でもありませんわいな。大事なのは化け物の上を行く、そうですなあ、狂気、言うたら変やの。まあ、遊び、言うたら正解じゃて。要は相手の予想を裏切るとんでもない行動で、妖怪に取って一番大事なツボを抑えるようにすればいいのですわい。
 さて、さて、わしはようやくのことに、渋るマタギたちを説得して、次の日に山に入るように、事を整えましたわい。

 ええ、ええ。いえ、そんな。
 このわしに鉄砲など使えるわきゃあない。泥棒を捕らえてから縄を綯うとは、正にこのことですわい。慌てて、マタギたちに鉄砲の撃ち方を教わりましてな。あのときはわしも若くて、そりゃあえらい無茶をやったもんじゃて。ええ、ええ、里一番のマタギはすでに殺されておりましたがの、残されたマタギたちでも、鉄砲の腕はそりゃあまた、もの凄いものでしたわい。
 使っておった鉄砲は村田銃いいましてのう。当時流行り始めた新式の鉄砲ですわい。こう後ろの方に突き出た棒を引いて、弾を込めるという作りでしてな、徳川の御世に使われていた鉄砲よりはずいぶんと進歩したものでしたのう。もちろんそれでも、一度に撃てるのはたった一発だけ。一度撃ってはまた弾を込めなおすのは変わりませんな。
 まあ、しかしそれでもマタギたちに取っては命より大切な鉄砲でしてな、この鉄砲一つで山に棲む獣のことごとくを仕留めていましたな。
 そういえば、マタギたちが見せてくれた技の一つに、トチ撃ちと言う技がありましたな。机の端にトチの実を一つ置いて、これを離れた土間の上から片膝ついて撃つということをするのじゃ。するとこう、マタギが引金を引くと、机の上からトチの実がころりんと落ちますのじゃ。
 ええ、ええ。まあ、そりゃあ今の世でも、トチの実を撃ち落とすぐらいは、できる者はおりますじゃろ。けれども、弾の込めていない鉄砲でそんな芸当が出来る人は、いったいどれだけいますかの?
 わははははは。驚いていなさるな?
 その当時はそんな人がごろごろしていましたわい。で、そんなマタギたちにわしは鉄砲を習いましたじゃ。

 わはは、わはは、わは、わは、わはは。

 ええ、ちっとも上達なんぞしませんでしたわい。弾の込め方習うて二、三発撃ったら、わしはやめましたわい。狙っておるのとは全然違う方へ、弾が飛びましたでなあ。
 そんなわしを見てマタギたちはなあ、さんざん笑って鉄砲を撃って見せましたわい。それはそれは、百発百中とはこのことでございましてな。あれほど脅えていたマタギたちも自分たちの腕を見せておる内に、最後には自信を取り戻したほどですわい。化け猫がなんだ、来るなら来て見ろと気勢を上げて、酒をがぶ飲みしておりましたわ。死んだ者たちはよっぽど運が悪かったのだと、思い始めておったようじゃな。
 もちろん、それらは運が悪かったわけじゃあ有りませんわい。わしにはそれがようわかっておりました。マタギたちが鉄砲を撃つのを見ながら、ああ、これはいかん、これでは化け猫は倒せんわいと、わしは心密かにそう思ったもんですわい。
 ええ、ええ、まだわしは惚けてはおりませんわい。山茂のボンは惚けたとしても、わしはまだまだですわい。

 まあ、聞きなされ。次の日にな、早起きをして支度を済ませたわしは、眠い目をこすりこすり、山に登りましたわい。
 山に長居するつもりは、そもありませんでしたからのう、存外に軽装で登ったのじゃが、奥へ奥へと入っても、どういうわけか化け猫のバの字も見えん。しまった、これはひょっとすると何日か山で寝起きせねばならないかと舌打ちをしながら、オヘソ山とマタギたちが呼んでいる岩山の中腹に差し掛かった所で荒い息ついて休んでいますとな、向こうに見える山の背後から黒い雲が湧きあがったと思ったら、これがぐんぐんと近づいて来る。微かに生臭い強風がぶわっと吹いて来たと思ったら、雲の中にこれはもう見間違えようのない猫の目だけが、二つぎらぎらと光っておりましての。こうしてようやく化け猫との御対面となったわけじゃ。

 いやいや、なかなか、化け猫としては大したものじゃった。これほど神通力を備えた化け猫を見るのは久しぶりと言うところか。黒雲を呼ぶ化け猫は数居るにしても、黒雲と化す化け猫は珍しい。これだけ強い化け猫となると、これはもうわしの手に負えるものかどうか。マタギたちには言わなんだが、実を言えば、わしの足も震えておりましたな。
 はい、はい、それはもう。妖怪退治屋などという商売はやっておりましても、いざ命のやり取りの場にでれば、恐いものは恐い。それを感じなくなったら、むしろ危ないと言うものでしょう。
 まあ、向こうがその気ならば、何もできぬままその場で皆殺しにされておったじゃろう。しかしまあ、猫族の習性としては、まずは獲物をいたぶるところから始る。そこがわしの付け目でしたわい。
 光る猫の目に射すくめられて、しばし茫然と立ちすくんでいたマタギたちもな、流石は山で鍛えられた剛の者たち。背に抱えていた銃を構えたと思ったら、今の今まで震えていた足もぴたりと止まりましてな。黒雲の中に光る目玉に向けて、ずどんずどんと撃ち始めましたわ。
 弾は一発づつしか込められんが、村田銃というのは良い鉄砲でしてのう。これをマタギたちは、ええ、そう、なんて言いましたかのう。そうそう、機関銃と言いますか。あれの様に撃ちますのじゃ。
 ええ、何?
 信じられない。それはそうやろ。あのとき見ていたわしでさえ、目を疑ったほどですからのう。口にくわえた弾を目にも止まらぬ速さで、次から次へと込めますのじゃ。どどどん。一つながりの音がしたら、それでもう十発近い弾をまとめて撃っていますのじゃ。
 それでですな、弾の雨の中にいる化け猫の方はと言うと、これが全くの無傷なのですわい。
 何?
 どうして無傷なのかと?

 そうじゃ、そこですわい、問題は。
 ええ、いやいや。違いますわい。
 マタギたちに幻を見せておるわけでは無く、化け猫は実際にそこにいますのじゃ。で、こう、銃を構えたマタギたちをじいっと見ましてな、ああ、このマタギは弾を撃つなと思うと、弾が飛んで来る前にさっと避けておりますのじゃわい。
 そう、そう、さきほどトチ撃ちの話をしましたわいのう。あのトチの実が何で落ちるか、わかりますかいの?
 その通り。近頃、流行りの言葉で言えば「気」なのですわい。
 撃ってやれ、そう思うた瞬間に、撃ち手の「気」がすうっと空中を、弾より先に飛ぶのですわい。そりゃあ、普通の人の目ではこの「気」は見えませんわい。だけどトチの実はそれに触れて落ちる。ましてや化け猫ともなれば、たとえ成り立ての若い化け猫でも、空飛ぶ「気」ぐらいは見ることができるものですわな。そうして見えた後はその弾筋を避けるだけでよい。如何にマタギたちが腕自慢でも、もうこれは弾が当たる道理などあるわけが無いですわいなあ。
 わはははは。とうとうマタギたちは、わしの目の前で、持って来た弾を全部撃ち尽くしてしまいましたわな。
 万策尽きたマタギの中には、懐から最後の弾を取り出した者もおりましたな。
 これはマタギがお守りとして、いつも胸にぶら下げているものですわい。いのちだま、と言いましてな。鉄砲の弾は普通は鉛でできておりますがな、命弾は鉄でできております。弾の表面にそれはそれは有り難い梵字が刻んであって、猟師がいよいよ最後と思ったときには、これを撃つと難を逃れると言われておるものですわ。そして、これを撃ってしもうたら、もう山には二度と足を踏みいれてはならん。そういう誓いの籠った弾ですわい。
 これをな、慎重な手つきで銃に込めると、いまだ空中に湧きあがり続ける黒雲の中に光る二つの大きな目玉のど真ん中へと目掛けて、必死の形相のマタギが撃つと、わははは、これがやっぱり外れますのじゃ。
 日頃ろくに信心もせぬ者が困った時の神頼みなどしても、効く道理がありませんわい。坊主は良く言いますわな。ありがたいお経を一つ唱えればすべての悩みが解決すると。まあ、一度でも化け猫と正面切って向かい合ってみれば、とてもとても、そんなものではどうにもならないと骨身に染みて感じますわいのう。
 そうして弾も撃ち尽くしてしもうたマタギたちが、わしの方を頼みの綱とばかりに見つめますのが、これがもう足の裏を撫でるぐらいにくすぐったくてのう。
 さあ、そこからがこのわしの出番ですじゃい。ここまでなら素人衆でもできる。ここからが妖怪退治屋の腕の見せ所ですわい。
 はい、わしの手にはいささか重すぎる村田銃をな、こう構えて、ずどんと一発。
 わはははは。
 やっぱり当たりませんでしたわい。わしも信心などはとんとやらぬ方でしてな。
 わははは。
 それからお供役のマタギに担がせた袋の中の弾を、次から次へと込めさせましてな。見当もつけずに撃ちました、撃ちました。はい。終いには肩が痛くなるやら腰が痛くるやら。それでも中々とは当たらぬものですが、化け猫のやつもわしの盲撃ちには参りましたでしょうなあ。何せ、まあ、考えて見なされ、わしの心気を凝らした弾筋と、実際に飛んで来る弾筋は違います。こうなると弾を避けたつもりでも、避けたことにはなりませんわい。
 でもまあさすがに、こやつも一筋縄ではいかない化け猫でしたな。
 わしの撃っている弾が尽きたら、もう恐いものは無い。そうなったら、まずマタギたちを皆殺しにして、それからわしをゆっくりといたぶろう。そう考えたのか、感心にも逃げずにわしの弾を律義に避けておりましたわい。
 こうなると困るのはわしですわいなあ。撃つのを止めて逃げたとしても、空を飛べる化け猫にはすぐにも追いつかれる。かと言って、このままこうして撃ち続けていれば、沢山持って来たはずの弾も、やがては尽きてしまう。おまけにこれだけ撃っていると、元来は不器用なわしも段々に狙った所に弾が飛ぶようになってきましてな。いや、流石に、あのときばかりは肝を冷やしましたわい。
 そうこうしている内に、流した冷や汗が文字通りに、冷えに冷えてきましてなあ。見ての通りのひ弱な老体ゆえ寒さには滅法弱い。思わず大きなくしゃみを一つした拍子に、ずどんと一発、勝手に飛び出た弾が見事に当たりましたとも。化け猫に。
 山中の木という木の枝葉を散らしてしまうような大きな叫び声が、暗雲渦巻く空一杯に響き渡りましてなあ。
 わはは、わはは、わはわは、わはは。
 はい、あのときは、わしもマタギたちも飛び上がらんばかりに喜びましたわい。さて、問題の化け猫はと見ると、形勢悪しと見たのか、たちまちの内に黒雲と共に一目算に消え去りましたわい。
 そりゃあ、その逃げ足はとても人の足で追えるような速さではありませんわい。何ぶんにも相手は神通力で空飛ぶ化け物。後を追おうにも、このか弱い二本の足で追えるものではないですわいなあ。
 それにまあ弾も残り少ないし、これでは化け猫どころか熊に出会っても心細い有り様。そこでしぶしぶとわしらは里へと戻りましたわい。それでも帰り道のマタギたちは大はしゃぎで、もう鬼の首でもとったような喜びようでしたわい。それに比べてわしはと言えば、道中ずっと渋柿を食ったような顔でしたわい。

 妖怪退治はこれからが本番と知っておりましたでのう。
 弾が当たったとは言え、恐らくは軽い傷を負わせた程度。傷を受けた最初の驚きから覚めれば、化け猫めにしてみれば恐れよりは怒りが先に立つというもの。そうなれば、もう是も非もない。間違いなく、これから先はわし一人を狙って来ることがわかっておりましたわい。
 それも恐らくは今日というこの日の内に。
 日が暮れる前に里に帰りつけねば、暗い山中で化け猫とやり合うことになる。今度は遊びも何もなし。真っ向からの正面勝負。それがわしの心配しておったことですわい。

 ええ、ええ。そうですわい。人間に傷つけられた化け物の大半は、傷つけた人間を真っ先に狙ってきますわい。
 復讐ですと?
 いやいや、それだけではありませんわい。あんさんには、はあ、想像もつかんでしょうが、化け物と言いますのはの、存外に合理的なやつらなのですわい。餌など他に行けば楽に手に入るのに、手強いとわかった相手をわざわざ襲うには、襲うだけの理由がありますのじゃ。
 何故だかわからない?
 ええ、それじゃあ、逆にこちらからお尋ねしますがの、毒蛇に噛まれたらどないしますか、あんた。
 え、医者に行くですと?
 では、医者もいない所でムカデに噛まれたら?
 ほほう、痛い痛いと転げ回るですと?
 まいったな。アホやな、あんた。
 そない怒るものではないものですわい。知らないなら教えてあげましょ。毒蛇に噛まれたら、その噛んだ蛇を捕まえて生き肝を食らえば良い。ムカデに噛まれたら、そのムカデを捕まえて油に漬け、これを傷口へと塗れば良いのですじゃ。
 この世の理と言うものは、そもそもの事を起した者に事を収めさせるのが、もっとも良いものでしてな。怪我をした化け物は、怪我をさせた奴を捕まえてその生き肝を喰うたら、これはもう、たちまち治るものなのや。覚えておきなされ。

 ええと、ええと、どこまで話したかいのう。そうそう、里へ帰ったとこじゃ。
 なんとか日が暮れる前に里へ帰り着いたわしは、マタギたちの話を聞いて喜びに浮かれ騒ぐ里の衆に命じて、里中の猫を集めさせましたのじゃ。
 化け物はわしらの山行きを知っておったし、以前のマタギの生首の一件を考えてみれば、これはもう間違いなく、化け猫はこの里の中におる、そうわしは睨んでおった。
 とすれば、化け猫ならば猫に紛れるのが一番じゃわい。化け猫というものは人に化けることもできはするが、猫に化けるのが実はもっとも安全じゃ。迂濶にもいつもの癖が出て、ぺろりと出した舌で腕を舐めそれで自分の顔を洗ったとしても、これを若い女子がやれば目立つものじゃが、猫ならばだれも不思議には思わないものですからのう。
 そこでわしは猫を抱いて三々五々集まって来た里の衆に、それぞれが持ちよった猫を改めさせましたじゃ。変化はできても、傷はそうそう簡単には治らない。治すためには、傷をつけた張本人であるわしの生き肝が必要じゃ。怪我のある猫がおれば、それが化け猫に違いない。そう考えたわけですわい。
 みながみな、真剣な顔で猫を検めましたところで、アカと呼ばれている猫が足に怪我しとるのがわかりましたじゃ。
 それを知ると、アカの飼い主と言う若い娘さんは、今にも泣き出しそうな顔をしましてのう。アカは違う、アカは違うと、胸に抱きしめたその姿を可哀想には思いましたが、もうこうなればどうしようもない。
 一度変化が解ければ、この場におる全員を殺せるほどの化け猫ですからのう。こちらとしても気が気ではない。いつその正体を表すか、それが恐くてたまらない。
 里長から借りたナタに刻んだのは化け猫封じの呪文ですじゃ。何、それより効き目があるのは、呪文を描くのに使った墨の中に混ぜたマチンの毒ですわい。山蔦から取れるこの毒は、今の時代の言葉で言えばストリキニーネと言う猛毒でしての。これで首を落とせば、いかに生命力の強い化け猫でも、まず生き返る事はできませんわい。
 さあこれからがわしの仕事とばかりに、わしは里人の内でも屈強な者たちに命ずると、全員でアカを抑えこませましたじゃ。傍らから見れば滑稽な絵ですわい。大の大人が数人がかりで額に脂汗を流しながら、小さな猫を抑えこむのですから。それでも、もし変化を解く暇を与えたら、今度抑えこまれるのはわしらの方ですわい。命は奪われ、肉は食われ、家は焼き払われましょうぞ。
 名はなんと言いましたかのう。その飼い主の娘さんはアカを助けようとして、わしが振り上げたナタの前に飛び出しましてのう。終いには里の娘衆が抱きかかえるようにして、今度はその娘さんを抑えこみましてな。こうしてようやく全ての片をつけるときが来ましたのじゃ。
 目の前にいるのは憎き化け猫めのアカ。手にしたのは呪文を刻んだナタ。
 皆が見つめる前でわしはそのナタを大きく振りかぶると、渾身の力を込めてそれを振り降ろしましたのじゃ。
 アカを切ると見せかけて、振り降ろしたそのナタを、わしの横で自分の顔をのんびりと洗っておった里長の所の飼い猫クロの首筋へと叩きつけましたのじゃ。
 いや、もう、クロの首がぽーんと空を飛びましてな、それが空中で真っ赤な目をぎらぎらと光らせる巨大な山猫の頭へと変じると、土間の向こうの壁にどんと当たって、もうそれだけですわ。
 体の方はと言うと、こちらも牛を思わせる巨大な首無しの山猫の体へと変じましてな、切り落とされた首のところから、これほどの量がどこに納まっていたのかと思われるほどの真っ赤な血がどうどうと流れ出ましてな。土間中がまさに血の海という有り様でしたわい。
 恐らくは殺したマタギたちから吸い取り集めた生き血を、己が体の中にたっぷりと貯えておったのでしょう。
 里の衆の狂気に近い騒ぎの中で、どさくさ紛れに自分の猫を助け出したあの娘さんと、可愛がっておったクロの死に様を見て茫然としている山茂のボンだけが、逆に目立っておりましたなあ。
 その後は里の衆に命じて、別々に焼いたクロの頭と体の灰を川に流すと、これで全ては一件落着と、まあ、こういうわけでしたわい。

 何?
 一体、何が起ったかわからない?
 アカは化け猫じゃ無かったのか、ですと?

 はいはい、その通りですわい。アカの傷はな、クロの爪で付けられたものですわい。自分の身代りに化け猫と思わせるためにな。
 クロの体を確かめると、右の前足のやや裏側に傷がありましてな、これにはクロが自分でうまく詰め物をして血止めしておりましたわい。化け猫と言うものはずる賢いものじゃと、最初に言いましたじゃろ。
 では、どうやってクロの策略を見抜いたかと言いますとな、わしが撃ちました弾には、マタタビの煮詰めたものをたっぷりと塗りこんでおりましたのじゃよ。これが化け猫退治の秘伝の妙薬と言うわけでしてな、並のマタタビなど足元にも及ばん程の効果がこれにはありますのじゃ。
 わしの化け猫退治はこれが初めてというわけではありませんからのう。
 クロがしきりに顔を洗っておったのも、この薬に酔っておったせいでしてな。こうなれば、一目見ればどれが化け猫なのかはわかる。わざわざ傷を検めるために猫を集めろと里の衆に言うたは、クロを油断させて隙を作るための、いわば方便と言うやつですわい。
 わはははは。
 それにな、ここだけの話。里の衆に抑えられたアカが、しきりにわしの横におったクロの方を見ておりましたからのう。わしの足に傷をつけたはこいつじゃ、こいつこそ問題の化け猫じゃと、しきりとわしに目で合図をしておった。他の里人はいざ知らず。わしにはそれがよおっくわかりましたからのう。
 おお、あのアカも、生きておれば化け猫になる素質は十分じゃった。
 ええ、ええ、何? 何?
 そりゃあ、ほうっておいた。アカの始末まで頼まれたわけでも無し。それにまだ化けてもおらんものを、どうして殺生せねばならんのか。生きる権利があるは人も化け物も同じですわい。

 何?
 何ですと?

 そうじゃそうじゃ。アカは尻尾の長い白猫でしてのう。それがアカと呼ばれましたのは、白い背中の真ん中に一房、赤と言うよりは茶色い毛が三角に生えていましたからじゃ。喧嘩でもしたせいか右の耳は無惨にちぎられておってのう。余り見目良い猫とは言えませんでしたわい。
 おお、おお、どうなされた。血相変えて。飼い主の娘の名前ですと?
 はて、何と言いましたか、ええと、そうそう、確か、里の女子衆がタエと呼んでおったような。はあ、どうなされました。手が震えておるようですが。
 はあ、長生きしよる祖母のまた祖母が、はあ、タエさんとな?
 近頃どこか様子がおかしい。はあ。可愛がっておった老猫がいなくなってから。
 何かに驚いた拍子に背中を丸めて飛び上がる?
 腰が曲がって動けぬはずなのに?
 ははあ、なるほど。ついにやりましたか。
 はい、はい、また何かありましたらおいでなさい。化け猫退治でも何でも引き受けましょう。わしは今でもここで商売続けとりますでなあ。

 わははわはは。わはわは。わはは。